ギフテッド

路地裏乃猫

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2章

37話 叫び

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「それで、キュレーターになることを勧めたのか」

 嗤笑交じりに呟くと、男は手元で弄んでいたワイングラスをテーブルにそっと置く。

 窓越しに広がるのは鬱蒼と茂る上野の森。昼間は夏の陽光に鮮やかな緑を晒していた森は、今は、薄桃色の空を背景に一塊のシルエットと化している。

 都美術館二階にあるレストラン『ミューズ』は、彼のお気に入りであり、また、凪が協会に怪しまれることなく彼に会うことのできる数少ないポイントの一つでもあった。ここなら、どれだけ長時間滞在しても、「展覧会で新しいギフテッドを探していた」とオペレーターに報告を入れさえすれば一応の言い訳が立つ。おまけに今日は金曜日。夜間展示で開館時間が延長される日で、それに合わせてレストランの営業時間も延ばされる。

 その窓際にあるテーブルで、凪は、かれこれ三か月ぶりに会うあの人と向き合っていた。

「……はい。どのみち、あの子は渡良瀬さんのためには描かない。あなたの計画には、もはや不要な存在です」

 すると彼――渡良瀬は、窓に向けていた顔をこちらに振り向ける。

 細い手足に似合うよう誂えたかのような、肉のそげた細い顎、細い鼻筋。切れ長の、美しさと険しさを兼ね備えた眉目。口元は常に笑んでいるのに、総じて柔和な印象が少ないのは、主にこの峻険な眼差しのせいだ。彼と出会ったのはもう二十年近く前になるが、あの頃に比べてどれだけ皺と白髪が増えても、この眼差しの鋭さだけは当時と変わらない。

「それを決めるのは、凪、お前じゃない」

 グラスの代わりにナイフを手に取り、プレートのサーモンムニエルに切っ先を入れながら渡良瀬は答える。一方の凪は、運ばれたケーキセットにはどうしても手をつける気になれない。

「では、あなただとでも?」

「いいや。彼だ」

「えっ?」

「いずれ彼は、あの狭い鳥籠での傷の舐め合いでは飽き足らなくなる。キュレーターになり、改めて外の世界を見て回る。すると、こんなにも多くの紛い物で溢れているのかと失望するだろう。そして……こうも思う。自分の示す美の方が、こんな紛い物よりもはるかに優れている。なぜ、それを世に表わすことが許されないのか、と」

「あ……あの子は違います! 確かに……外のアートに失望することもあるでしょう。でも、だからといって人命を害そうとは思わないはずです。あの子は……泣いていたんです。こんな力さえなければ、と……自分のギフトが持つ罪の重さを、あの子は知っていた……」

 くく、と、喉の鳴る音がする。見ると、渡良瀬が可笑しそうに口を歪めている。

「何が……おかしいんです」

 すると渡良瀬は、咀嚼したものをワインで軽く喉に流し込み、答える。

「では、そもそもなぜ彼は〝死〟のギフトを獲得したのだ? 例えば、凪、お前が〝権威〟のギフトを獲得したのはなぜだ。ただ奪われるだけの世界で、無力なお前が安全を勝ち取るためだった。そうだろう?」

「――っ」

 その言葉に凪は、渡良瀬が言いたいことを理解する。が、理解はできても心が追いつかない。そもそも……いきなりそんな話を持ち出すなんて、卑怯だ。

「や、めてください。そんな話、今は関係ない」

「いいや、あるとも。……そう、だからお前は〝権威〟のギフトを勝ち取った。〝怒り〟でも〝想い出〟でも〝酩酊〟でもなく、なぜ〝権威〟だったのか。お前がそれを欲したからだ。そしてお前は、望みどおり力を手に入れた。他者を跪かせる力を。さもなければお前は、あの地獄の中で永遠にのたうち回る羽目になっていただろう。玩具として尊厳を奪われる地獄で――」

「やめてくださいッッ!」

 テーブルを拳で叩き、強引に会話を終わらせる。迷惑そうな視線がいくつも背中を刺したが、そんなことは今の凪にはどうでもよかった。

 ああ、思い出してしまう。

 子供の頃は、意味そのものが理解できなかった。ただ不快で、怖くて、何より苦痛に満ちた行為。成長し、その意味を知るにつれ凪は、自分をそんなことに使った大人だけでなく、何も知らないまま蹂躙された自分にも怒りを向けた。なぜ拒まなかった。なぜ抗わなかった。なぜ大人しく従った。……わかっている。そう、弱かったからだ。だから奪われ、そして汚された。

 ふう、と凪は一つ溜息をつく。目の前のケーキを睨みつけ、手早く口に押し込むと、それをコーヒーで胃袋に流し込み、冷静になれ、と自分に言い聞かせる。

「お……仰りたいことは、わかりました。ええ、あの子が望んだと、そういうことでしょう」

 ――ギフトとは、アーティストの深層の願いが具現化したものである。

 所長時代、渡良瀬はギフテッドに関する多くの論文や手記を書き残している。それらは当然、凪の頭の中に余さず叩き込まれていた。

 その中に、ギフトとアーティストとの関係について触れた記述もあった。なぜ、ギフテッドによって違うギフトが授けられるのか。なぜ、そのギフテッドにそのギフトが授けられたのか。渡良瀬の仮説は、そうした現象に対する仮説の一つだ。

 あくまで仮説の一つなので、イコール真実とは限らない。ただ、少なくとも凪に限ればそれは確かに的を射ている。あの頃、凪は欲しかった。凪から奪おうとする大人たちにこうべを垂れさせる力が。だから……海江田も、そうした力を欲していたと考えた方が、確かに、辻褄は合う。

 その上で、なお、己の力に傷つき涙するあの子を、凪は護りたいのだ。

「それでもあの子は、人であり続けることを選んだ。それまでの人生から切り離され、肉親に拒絶されてもなお……残念ながら、その痛みに共感することは僕にはできません。でも……これだけはわかります。あの子は、最後には必ず自分の信念を選び取る。深層の欲望ではなく。……僕は、あの子のそんな脆さと矛盾、そして強さを美しいと思った。だから、」

「なるほど。要は惚れたわけか」

「は? ……惚れた?」

「恋だよ」

 そしてまた、渡良瀬はくく、と喉を鳴らす。

「恋って……からかわないでください。僕はただ、」

「別におかしな話じゃないだろう。男が女が、という低俗な話じゃない。お前は、出会ってしまったのだ。お前にとって最上のアートにな。そう……私が光代に出会ってしまったように」

 今度は、渡良瀬はひどく遠い目をする。空はいよいよ光を失い、黒い梢の合間にぽつりぽつりと光る街灯が物悲しい。

「私は今、少なからず喜びを覚えている。かつて、世界そのものに失望したお前が、今は私と同じく何かに恋焦がれ、全てを捨ててでもそれを守ろうとしている。……そう、我々にとって恋とはそういうものだ。ただ、同時に皮肉だとも思っている。お前のその恋は、私にとって、邪魔な何かでしかない」

「どうあっても、あの子を利用するつもりですか」

「ああ。それが嫌なら――」

 振り返ると、渡良瀬はゆるりと笑む。その先に続くはずの言葉に、凪はぎゅっと身構える。むしろ、ここで彼が口にしないはずのない言葉。悲願を。

 果たして、渡良瀬は続けた。

「――協会の倉庫に封印される光代のコレクションを、私に返還するよう高階に話をつけることだ。それが叶えば、少なくとも我々は今後一切、海江田漣とそのコレクションのデータに手を出すことはしない。約束しよう」

 やはり、と凪は奥歯を噛む。本当の目的はそこか。

「……む……無理です。僕はともかく、高階さんが応じるわけがない。今のあなたは、国際指名手配を受けるテロリストだ。そんな人間に不破さんのコレクションを渡せば――」

「ならば、海江田漣を貰い受ける。もしくはデータを。手段を選ぶつもりはない。我々の手元には、それができるだけの力が揃いつつある」

「……っ、」

 ブラフ、ではないだろう。実際、つい先月にも北海道でギフテッドを先取されている。アイヌ文化にインスピレーションを得た油彩画を得意とするアーティストで、彼女のギフトは〝痛み〟。目にした者の全身に強い痛みを与えるもので、〝死〟ほどの脅威ではないが、奪われれば文字通り痛いギフトだった。

「思い出せ。お前の目的は何だ。海江田をキュレーターとして働かせ、楽にすることだろう。一方の私は、光代のコレクションを彼女の手から取り戻したい。思い悩む必要などないはずだ。そもそもお前とて、一時は私に賛意を示してくれただろう。光代のアートは、私の手元にこそあるべきだ、と」

「それは、っ……む、昔の、話です。今のあなたに協力などできない。あれから、あなたはどれだけの人を傷つけましたか。アートによって――何です?」

 そう、話の半ばで問い返したのは、渡良瀬が可笑しそうに口の端を歪めたからだった。

「いや……なに、恋とは偉大なものだな、と思ってね」

「どういう意味です」

「ああ、少なくとも昔のお前は、他人がどれだけ傷つこうがまるで興味を示さなかった。無理もない。そもそもお前自身が、かつて、他者の無関心によって多くを奪われたのだからな。……そんなお前が、今は血眼で彼の心を守ろうとしている」

 ――俺は、嶋野さんを信じたい。

 ああ、思い出す。思いしてしまう。あの夜、まっすぐな目と言葉で告げられた言葉。あれほど信じるなと忠告したにもかかわらず、それでもあの子は、凪を信じると言い切った。こんな、人を愛したことすらなかった人間を。

 今も、正直に言えば他人などどうだっていい。仮に今、協会の顔見知りが命を落としたところで、田柄麻美の時と同様、涙の一つも見せることはできないだろう。それでも、無意味に誰かの命を奪いたくないと願うのは、間違いなく、あの子の影響だ。

 奪われると、あの子が泣くから。凪ではなくあの子が悲しむから。

「だが、お前がいくら彼に想いを寄せようが、私が目的を諦める理由にはならない。お前は、選ばなくてはならない。海江田漣か、光代か」

「……断る、という選択肢は」

「ない」

 だろうな、と凪は手元のコーヒーに目を落とす。だとすると、感情はともかく理性の上では、すでに答えは出てしまっている。不破光代のギフトは、海江田のそれと同じ〝死〟。ただ、問題はコレクションの鑑賞レベルだ。海江田のそれがせいぜい5程度であるのに対し、不破のそれは――鑑賞レベルX。観測不可能。というのも、凪と同等の審美眼5+を持つキュレーターでさえ、不破のアートを目にした後で必ず命を落としているのだ。

 そんなものを、この人に――すでに全世界でアートテロを繰り返す男に渡せば、もう誰も、彼を止めることはできないだろう。

「く……りかえす、ようですが、たとえあの子を手に入れても、描きませんよ、あの子は」

「それは、彼ではなく光代のコレクションを取る、という意味かね。だとすれば、まぁ、懸命な判断ではある」

 最後のムニエルの一切れをゆっくりと口に運ぶと、渡良瀬はナプキンで口元を軽く拭い、残りのワインを一気に呷る。長話は終わりだ、ということだろう。案の定、ほどなく渡良瀬は伝票を手に席を立つ。

 そんな渡良瀬の背中に、凪は小さく呟く。

「……
 
 そう、たとえあの子を、することになっても。――その結果、凪を素朴に信じるあの子を永久に失うことになっても。
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