逃げた修道女は魔の森で

千代乃

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シェリルは小食ではないが、それでも器に盛られたスープの量は多かった。パンも大きかった。
「シェリル殿、いくつか聞いてもよろしいですか」
なかなか器を空けないシェリルに、ウェルガーはしびれを切らして尋ねてきた。シェリルは顔を上げた。心理的にはなんとかなっても、物理的に胃袋がいっぱいになり、まだかなり残っているスープとパンを途方に暮れた思いで見つめていた。
「はい、何でしょうか」
シェリルはスープとパンを脇において居住まいをただした。
「まずは、シェリル殿についてお聞きしてもよろしいですか。お名前と、失礼ながら生い立ちなどを」
(なんでまた、そんなことを……)
そう思いながらも、聞かれたら答えるしかない。シェリルは口を開いた。
「私はシェリル……」
しかし、その次が出てこなかった。
(苗字は?たしか、父親の出身地方名で名乗っていたはず……思い出せない)
茫然として、視線を彷徨わせた。何年も名乗ることはなかったとはいえ、自分の苗字だ。そうそう忘れるはずもないのに。
「思いだせないですか」
静かに問われて、シェリルはウェルガーの目を見る。自分の視線がゆらゆら定まらないのを感じていた。しかし、肯定はしたくなかった。肯定など……忘れているということを認めたくなかった。
「では、ご家族についてお聞きしてもよろしいですか」
それに答えようとして顔を歪めた。家族のことを考えるだけで、胸が苦しく、つらくなる。それでも絞り出すように答えた。
「父と母……と、弟が一人……いました」
「ご家族のお名前は」
「な、名前……?」
「思い出せませんか」

三本の炎を上げる柱が目に浮かんだ。胸が痛い、苦しい。息が……できない。シェリルは胸を押さえて体を丸めた。
(いきなり何よ、これ?……これって……、例の契約違反で死ぬってやつ?まだ一日離れたわけじゃないのに……)
「呪いだね~」
レイスの能天気な声が降ってくる。こいつ、人が苦しんでいるのに……こんなときまで、なんて腹立たしい男なんだろう。
「苦しんでいるが大丈夫か、死なないだろうな」
ジュークが釘をさすように聞くと、
「大丈夫、大丈夫~。こんなことで死なれたら、元も子もないからさ、せいぜい気絶する程度だって~」
とまた能天気に答えている。
「でも、いちいち気絶されるのも面倒だね~」
そう言った後、レイスはシェリルの背中に手を当て、何事かをつぶやいた。手を当てられたところに、熱さを感じると同時に胸を締め付けるような痛みは薄れていった。楽にはなったが、走った後のように息切れしており、落ち着くまでに時間がかかった。

(呪い・・・?呪いって何?何の話よ・・・)
シェリルは耳に入った言葉を反芻した。自分の名前、家族の記憶、自分の過去。思い出せなくなった自分の顔。記憶が薄れていることは自覚しつつも、意識しないようにしていた自分。そして、脳裏に焼き付いている三本の柱の炎。そんなものが次々と走馬灯のように脳裏をよぎっていく。
(思い出せなくなるのは仕方ないことだと思っていた。自分が生きていくために、必要なことなのだと思っていた。でも、それは私の意志ではなかったということ…?)
シェリルは浮かんでは消える記憶たちをかき集め、それらが指し示すものを知る必要があると思った。自分は、やはり何某かの術の渦中にあるのだ。それは、全身緑の男を見てしまうだけのものではない、もっとシェリルの本質に関わる何か。もしかしたら、すでにシェリルの「本質」をすでに奪っているかもしれない何か。

ぐらり、とシェリルはめまいを覚えた。
地面がなくなり、そのまま体ごと奈落に落ちていく感覚だった。

その体は柔らかく受け止められた。

シェリルの体を抱きかかえてジュークはレイスを睨んだ。

「俺を睨まないでくれる?悪いのはこの娘に術を施したやつらなんだし。・・・収穫もあったんだから」

レイスは肩をすくめて、ジュークの腕の中で気を失っているシェリルから目を逸らせた。
ジュークは不満を言おうとしたが、レイスの顔を見て言葉を飲み込んだ。不満を言う代わりに、

「その収穫とは?」

と促した。

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