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ようこそ! おおよそは麗しき女神たちの館!!

ノケモノは仲良し

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♪ 

鉄ではなしに皮でもない。なにもそれを縛れない。 

ただ一つ。ただ一つ。 

その姿は鎖といえず、その声は縄とも言えず。 

ただひとつ。ただひとつ。 

それに微笑むものの名は。 

それによりそうものの名は。 

♪ 





・ノケモノは仲良し・










 部屋の時計は、昼の二時二分を指していた。 

 自室の姿見で確認した所、目元の赤みも腫れも殆ど残っていない。 

 泣き疲れてまどろんだそのすぐ後に、ソフィレーナは顔に対する処置をとっていた。手際よくタオルを冷やし、寝室に添え付けの冷蔵庫から氷を取り出すとなれた手つきで目元を冷やす。 

 彼女にとって、泣いた後の顔を元に戻す事など良くあること。決して自身では泣き虫とは思っていないものの、処置の仕方を取りなれている程には頻度があった。目元の細胞も覚えてしまったか、赤みや腫れは比較的早く元に戻る。 

 ソフィレーナは今、駄々をこねる倦怠感に鞭打って、寝室から続きの自室に活動場所を変えていた。 

 自室の東側の壁一面を覆う、十二の祝いで貰った父のお下がりである本棚には、菌糸の研究書や図鑑などがずらりと並んでいる。下一段だけは趣味の童話等に取られていたが、その並びはおおよそ女性らしい可愛らしさがない、と、この部屋に遊びに来る姉や、時に兄、友人にすらも指摘され、呆れられるが、ソフィレーナは今のところ本棚の割合を変える気はない。 

 その、お気に入りの空間から、論文雑誌を取り出し、未読の論文を読む。初めは少しのつもりで立ち読みしていた筈が、三ページ程進んだところで椅子を持ち出し、更に一ページ進んだ後には机についた。もう一ページ進むまでもなく、ペンを取りだし疑問点を書き始め、今はそれも終わり、疑問点を纏めて小さなメモ帳に書き写している所。 

 この小さなメモ帳に書きこんだ項目を時間のあるときに調べる事が、彼女の国立図書館における日課だった。 







 夢中で作業に没頭していたソフィレーナは、ふ、と。集中の途切れる音を聞き、充実感に背伸びをする。 

 ついで、机の置き時計の示す時刻に、軽く息をついた。 



(そろそろ、昼食が運ばれてくる時刻だわ。) 



 そっと、少し皺の寄った淡い青色のセミロングドレスの上からおなかに手を当て、それほど空腹を感じない事に苦笑を零す。しかし、不摂生常習犯の総館長に、食事を! と訴える助手の立場にあるソフィレーナは、食べねば、と、論文を読むのに使っていた机の一番下の引出から、小ぶりな陶器の花瓶を取り出し、それを持って寝室へ引き返す。 

 食事を持ってきてくれた使用人に、だらしのない格好を見せるわけにはいかない。 少し乱れてしまっていた髪やドレスをまた見目良く整え、髪飾り以外はすっかり姿を整え終わると、持ってきていた花瓶を洗い、水を注ぎ、自室のほぼ中央にある、奇麗にテーブルクロスのかけられた中型の白い丸テーブル真ん中に置いた。 



 何も活けられていない花瓶を見つめるソフィレーナの視線は、柔らかい。 



 春の宴は、正午きっかりに開始され、十七時に終わるのが通例ではあるが、それは主催が一応のお開きの言葉をかけるだけというのも通例であった。 

 個々の解散時間は明確には決められておらず、驚くほど早く引くものもいるにはいるが、大体は、人の移動は十八時近くになる。その為、ソフィレーナはこの日の正午から夕刻過ぎまでをあまり快く思っていない。現に、小学、大学とも、寮で過ごすか、帰るのは常に十九時を回った頃。就職してからもそれは変わらない。 



 ただ、春の宴の正午から十八時までの、その時間の全てが嫌いという訳でもないのだ。 



 春の宴のさなか、ソフィレーナが実家に居る時は、必ずその場に活けられる事になる一重咲きのロームエッダの姿を幻視して、ソフィレーナは言い得ないくすぐったさに、そっと微笑んだ。 



 一人につき一本。家族五人分で五本届けられる、一重咲きのロームエッダの花束。 



 春の宴の日、物心つく前から連綿と続けられているこの昼食の差し入れと、宴が終わった後の夕餉から就寝までは、彼女の大好きな時間。 

 作りたてのものも、楽しげに話す人の声や音楽を耳にただ一人で食べるのならば味など分からない。 

 分からなかった。本当に。 彼女は六歳の頃、一度だけ、宴の最中厨房に潜り込んで招待客に振舞われる筈の出来立ての焼き菓子を盗み、部屋に帰ってから齧りついたことがある。 

 けれどただ温かいだけで、漏れ聞こえてくる音楽や楽し気な笑い声に、味など瞬く間に消えてしまい、ただただ惨めになって悲しくて、余計に自分がみすぼらしく思えて、ついには一人で泣くのをじっと堪える事になった。自分で招いた結果だというのに。 

 そんな日に届けられた昼食には、いつものように昼食とデザートがふんだんに盛られた幾枚もの皿の中、ソフィレーナが盗んだ焼き菓子もあった。使用人がいつもと同じことをいう。ご家族の皆様から、姫様へ昼食のお届けです。いつもと同じ本数のロームエッダの五本の花束。使用人が花瓶に生けてくれたそれは、ロームエッダの、一重咲き。 

 一重咲きのロームエッダは、ソフィレーナも含めたダリル家の事に使うと、彼女はきちんと知っている。 

 筈だった。 

『・・・・・・』 

 初めて、いつも運ばれてくる料理やデザート、スープ等の品数の多さに目が留まった。冷めかけているものと温かいものが混じっている事にも。 



(ロームエッダのお花を見ながら食べた”春のうたげ”の日のお昼ごはんは、あったかい料理も、ちょっとさめてる料理も、いつもとってもおいしい。) 

(さみしく、なくなる。) 



 そのほんとう、を。どこかでは分かっていたのだろうか。 

 音のない、声が囁いている。 



(私たちのソフィレーナ。) 

(心は、いつもあなたの傍に。)  



 幼い彼女は、そこでやっと気付くことが出来た。嬉しさと、心の底から体中に湧いて出た温かな温かな、熱に、とうとう、顔をぐしゃぐしゃにしながら。 

 ソフィレーナにとっては、今でも尚、春の宴の昼食の時間はとても愛おしい時間。 

 白い丸テーブルの椅子に腰掛け、彼女は頬杖をついて部屋の両開きの扉がノックされる音を待った。どれほど遅れても絶対に違えられる事のない習慣は、こうして待つ時間さえも彼女に楽しさを与える。 





 と、待ちかねた音が、ずいぶん気弱に耳朶を掠った。もう一度。 

 おっかなびっくり聞こえるノックの音に、彼女は首を傾げ、入り立ての使用人だろうか、と。少し不審に思いつつも、それなりに防音の施された部屋の中では無駄と分かっても尚、ひときわ大きく返事を返す。少々急ぎ足でドアへと向かい。 

「ありがとう。今あけますね」 

 内鍵を開くと両開きの扉を片方引き開ける。届けてくれた事への感謝を述べつつ、目の前の、温かな食事の乗った給仕棚と、紺色のタキシードを着た運搬者を見、上げ。 

「ッ!!! 

ドクター?! ッなん!?!!!??」 

 考え、己の認識と、彼の認識にズレがあった可能性に行き当たった。己の周りでは、王臣から外された皇家の末姫が国王の関わる行事に出られない、という認識は常識。だから助手はその認識が総館長にとっても常識だと考えた。宴への招待状を見せられた日、君も行くの? と尋ねた総館長は、彼女が宴に出られない事を知って聞いていると。つまりそれは、実家への帰郷の有無を聞いたのだと。 

 深刻な顔で考えるソフィレーナに、ソフィーレンス君、と声が掛かる。 

「君は、ずっとここに?」 

 しゃがんだ体勢で、捨てられた老犬のように頼りなげに見上げてくるケルッツアの顔は、彼女のあの時の認識が間違っていたのだと雄弁に語っていた。 

 彼女はやっと、招待状を見せられた日に問われた事が、宴への参加の有無だったのだと。 

「ぁ……」 

 そう理解すると、途端、ソフィレーナは申し訳なくてどうしようもなくなる。思いこみで答えた己の浅はかさに、その時の自分を半ば呪いつつ、見上げてくるケルッツアにぺこりと頭を下げた。 

「ごめんなさい。お伝えし忘れてました。 

 一応、この宴は外交関係の催しなので、国王が関わっていて……私は、参加できない決まりなんです。 

 だから、宴が始まる前に部屋に行き、宴の間は部屋から出るのも極力避けるように言い付かっているんです。 

 言葉が足りず、本当に、申し訳」 

 そう困り顔で、今にも泣きそうな顔を俯かせ伝えた彼女の目の前、総館長が静かに立ち上がる。ソフィレーナは、一瞬彼の機嫌を危惧したが、彼女からすれば予想外、明るい声が降ってきた。 

「そうなんだ? じゃあ、ごはんは部屋の中で食べるんだね。 

 お邪魔したいな、いいかな?」 

 何の含みもない、どころか恐らく笑っているだろう声に、ソフィレーナはケルッツアを見上げる、前、給仕棚に載る料理の量が、いつもと比べてもかなり多い事に気がついた。心なし、給仕棚のサイズも一回り大きいような。 



「・・・私と、一緒にご飯食べる為に、運んできて下さったの?」 



 問う声は、発言者にも分かるほど浮かれがにじむ。一気に湧き上がる気恥ずかしさと温かさ、喜びに、ソフィレーナは思わず、心のままに微笑んだ。 



 ふわり、と。本日も確かに出会った、そして正午前までには確かに横手にあった、ほっとするような、それでいて心のどこかが張るような、柔らかな薫りを感じ、ケルッツアは、花がほころんだ、と思う。 

 あるいは、いつかの空の美しさを。

 明けたのか、暮れたのか。それすら曖昧だけれども。 

 ダリル家の直系の者の虹彩は特徴的だ、という事は、今日一日だけで、この国のやんごとない事に疎く暮らしていたケルッツアにも良く分かった。その上で、今、己の目の前にいる女性の眸が一番――――いと、彼は、彼だけの確信を得た。 



(メルりっつ )



 不意と思い出しかけ、既にもう流れ過ぎてしまった大切な何か。尊大な想い。切願。濃紺と緋の色が混じる深い紫の眸に柔らかにけぶる栗色が融けてとろけるような様に瞬時に強く動いた衝動が、瞬きで、おぼろにぼやけた。 

 栗色の長い睫毛に彩られた美しい眸が、まなじりを緩めて、一対、彼の目の前にある。 

 ほんのりと紅潮した頬も、優しげな眉の線も。薄く微笑みに開かれた花びらのような淡いくちびるも。見目も感触も柔らかな栗色の髪はいつもにも増して丁寧に櫛削られているか、心なし更に艶やかで、見慣れている筈の女性の小ぶりなかんばせは、ダリル邸のエントランスホールの片隅、呼び止められて目に飛び込んできた当初の感動そのままに、今度は落胆も少なく、いつになく輝いて見えた。 

 ケルッツアは改めて、ソフィレーナの格好を見る。 

 薄い青色の絹の光沢に似た生地のドレスは、彼女の肘の少し先までをはらはらと美しく覆い、腕の白さと細さ、柔らかな曲線が目に眩しい。 普段はそれほど見慣れない首筋の白さやみずみずしい肌のきめは輝くよう。首元を飾る繊細な造りの銀鎖の先は、鎖骨より少し下、胸元を覆う布地に隠されて見えないが、それがまた、一つの意匠のように感じられた。両の肩口からほぼ水平に切り取られた襟のない胸元は、形状も形も総じて柔らかでいて上品な美しい形を作り、胸下、恐らく肋骨のくぼみの辺りの高さで胴を一周するように止められた後、緩やかに流され、繊細な重なりを作って上品な光沢と共に膝の下の辺りで細かな波と打ち寄せていた。ヒールのある布靴もドレスと同じ材質のようで柔らかそう。 

 今は髪飾りこそないものの、薄い青色の柔らかな形状のセミロングドレスで着飾ったソフィレーナの姿は、ドレスと同色の布靴もあいまって、まさに花。 

 ケルッツアは自身の様々な変化に、ちょっと目を見開くと、すぐに、にこにこと続ける。 

「うん。元々君と一緒に食べようと思ってたから、見つかってよかった。 

 ご迷惑だろうけど、僕おなかすいててさ」 

 酷く、掠れに掠れた、どう考えても照れた声で鳴る腹をさするケルッツアに、ソフィレーナは。 

「・・・ずっと?」 

 ぽつりと言葉をこぼし、こぼれた音に気づくと、慌てて発言をかき消す。ゆるゆると緩んでゆく頬を何とか押さえつけ、迷惑じゃないです、と静かにかぶりを振って前髪を乱し目元の色づきを隠し、はにかみに全ての感情を押し込めた。体中が、温かな何かでいっぱいになり、瞬時、苦しいとさえ思う。 



(ずっと、私を捜していてくれたの? ) 



 まなじりににじむ涙を知らないふり。ソフィレーナは、胸から広がり背を全身を瞬く間に包み込んだ温かさに、滲むこそばゆさと緊張を堪えて、明るく声を上げる。 

「あの、なら、せっかくですから厨房でお茶入れてきますね? 先に部屋に入って待っててくださ」 

 彼女がそう言い終わるか終わらないか。ケルッツアはソフィレーナの目の前でまたしゃがみ込んだ。給仕棚のテーブルクロスをめくり、ポットを一瓶取り出す。彼女を見上げ、その栗色の長い睫に縁取られた一対の、一等美しい紫水晶の濃さに下の方から淡く栗色のけぶる特徴的な虹彩が瞬く様を認めた後。 

「ミルクと砂糖もあるみたい」 

 もう一度瞬きをしたソフィレーナが、テーブルクロスに隠れた給仕棚の下段をのぞきこむと、テーブルクロスの白に透ける明るい暗がりに、籐のバスケットが三つ置かれている。その中の一つ、蓋のないそれには、取り皿と、茶器と思わしき物体、カップ、茶葉の缶までご丁寧に揃えて入れてあった。 

 ソフィレーナは、ケルッツアを見。 

「揃ってますね…?」 

 首をかしげて聞けば、にっこりと、うれしそうな声が返ってきた。 

「君のお母さんやお姉さんたちが、持たせてくれたんだ」 

 にこにこするケルッツアの前で、ソフィレーナはどんな顔をして良いかわからない。 

 入っている品目の抜け目のなさで予想したこととはいえ、肯定されると堪らなく気恥ずかしい。 

 彼女は己の家族を、あの見目麗しき姫君達を思い起こした。母に姫と言う称号はおかしいだろうが、ソフィレーナはマリアーナの笑った顔を思い出すときはいつも、その顔にどんなに年齢による皺が寄っていても、姫、という言葉を当て嵌めたくなる。 

 今更ながら湧き上がる、お客様に使用人の真似事をさせるなんて! という抗議と、家族に抱きついてしまいたいほどの感謝が、彼女の中で同時にせめぎあい、ちょっとした葛藤になった。嬉しいような、恥ずかしいような、情けないような切ないような。 

 料理も飲み物も揃っている上、茶器と茶葉と茶請けらしき包みまで揃っている。彼女に残された選択はひとつだけ。 

 どこかでは、ほんの僅か苛立ちさえ混ざった、複雑な、確かに温かな心地を塊のまま飲み下し、じゃあ、と。 

 ソフィレーナは宙に視線を逃がした。 

「……大した、所じゃありませんけど……」 



 ちらり、と上目遣いに彼を見、明らかに照れたように前髪を乱した後、部屋の扉を大きく内側に開いたソフィレーナに。 

「おじゃまします。」 

 ケルッツアは、心から安堵した。 

 

 クリーム色の絨毯が敷かれたその部屋は、そこかしこに本棚が置かれていた。内容は大まか菌糸類の図鑑や研究本等に傾いているが、僅かにその他の分野も見受けられるか。総じて専門書と呼ばれるお堅い書物だった。この部屋の来訪者の凡そが、ここはちょっとしたダリル家の書斎で、ソフィレーナの自室が別にあるのだと勝手に思う程の量。 

 部屋の配置的には、年季の入った立派な焦げ茶の一続きの本棚が東の壁を占め、その前に空間を取って両開きの扉にはかからない位置に、中型の本棚が背合わせに。東の壁の隣、北の壁には、作業用だろうアンティーク調の立派な机があり、柔らかそうな背もたれのある椅子が添えられていた。机の横、北の壁に沿うように又本棚があり、壁と同色、今は閉まっている片開きのドアから少しだけ空間を開けて、窓辺まで又、本棚。方角にして西向きの大きな窓を飾る濃いクリーム色に金糸の刺繍が施された上品なカーテンが左右均等に見目麗しくまとめられ、レースもガラス戸も開けられて風景が良く見通せるようになっている。 

 そして残った壁際、両開きの扉のある南の壁の窓側一面も、本棚が覆うのだ。 

 とはいえ、所々を飾るぬいぐるみやら、小物やら。良く見れば東の立派な一続きの本棚の一番下の段だけは、カラフルで可愛らしい童話の名前が並んでもいる。本と本棚以外は全体的に淡い色で統一されてもいる。なので、そちらの細かな要素に目を止め、とても女性らしい部屋と取る者も、居ないではない。 

 一名。 

 つまり、その奇特な感性の持ち主であるケルッツアは、とても柔らかで居心地の良い雰囲気の部屋だと、まるで目の前のソフィレーナのような場所だと捉えた。 





 東の壁を占める本棚の横、作業用の机に置かれた小さな振り子を持つ丸い輪郭の木製小型置時計は、誰に顧みられずとも十六時十五分近くに針を進めている。

 一時間程前に給仕棚に乗っていた料理や飲み物の数々は、いくら食べるものが二人とはいえ果てるともしれないと思われたが、今は跡形もない。食器は丁寧に積まれ、給仕棚に乗って片づけられる時を待っており、食事の匂いを逃すべく開け放たれた窓には、かぐわしい紅茶の香が漂い流れていた。 

 ソフィレーナの自室の中央、テーブルクロスのかけられた中型の白い丸テーブルに向かい合って。 

 ふう、とひとつ息をつき、ソフィレーナは、彼と己とで頂いた料理の数々を物語る、空の食器に目をやった。よほどおなかが空いていたのか、ケルッツアは運んできた料理の六割を食べ尽くし、ソフィレーナもまた、普段よりずっと多い量である四割を胃に収めている。 

 総館長はといえば。今は膨れた腹に眠気を覚えたか、大きくあくびを一つ。ついで大きく伸びまでしたので、彼の助手は、可笑しさに、つい、密かに笑い声を零す。 

 水の滴るような、弦楽器の高音部をぽろぽろと鳴らしたような、密かな音。 

 その音に一層腑抜け、ケルッツアは、向かいで笑うソフィレーナに、照れたように笑い返した。 

 食べ過ぎの感がある量はしかし、二人の顔を苦痛に染めない。 二人の耳には、少々苦しそうに満足げな息の音と、途切れては消えることのない、談笑の声や、ワルツの音が漏れ聞こえている。 



 ソフィレーナは、向かいのケルッツアに目を向けた。 

 今日は春の宴の日だった。彼女にとっては、実家に帰っても、家族の心と一緒に、一人で昼食を食べる日でもあった。 

 視線の先、彼は、至極満足げに目を閉じている。 



(おしゃべりしながら食べた昼食は、はじめてだわ。) 



 空の皿に情景をたどることはできないが、彼女の頭の中に、いつもよりもっとおいしい、と思えた料理の、味や匂いが鮮明に蘇った。 

 向かいで食べ、笑い、飲んでいる人物の様子や、交わした他愛のない話も。 



(いつもより、ずっとずっと、美味しかったわ。) 



 目頭と鼻の奥に刺すような熱を覚えて、ソフィレーナは唇をふるわせ、その感覚を口から逃した。熱を帯びた息は湿ってはいたが、幸いにも、それ以上涙腺からの危険信号は関知されない。 

 ただ、喜びだけが、喜びが高じて切なさだけが、彼女の内に蟠っている。 

 熱の発生源が、言葉を返してくれる誰かと一緒の昼食、という状態あるのか、その相手に起因するのか。 

 ソフィレーナにはわからなかった。どちらにより多くの比があるのかもまた、わかりかねる。 

 どちらとも、嬉しい。 

 春の宴の日には、家族揃って遅い夕餉をとるのが常。この頃は私生活で忙しいティアレーヌやクラウェンドも会す夕食で出される料理は、昼食よりも何倍も美味しく感じられる。それが、普段共にしない家族との夕食によるのか、会話を返してくれる相手のない昼食の後だからなのかもまた、わからないように。 

 ただ、そのときの、どことなく唇の緩むような嬉しさと比べると、今覚える温度の方が格段熱を持っていると、そう感じてしまう事が、ソフィレーナには現金のように思えて恥ずかしかった。 

 それでも、苦しいほどの嬉しさは蟠る。 



(手に負えない。) 



 彼女は眉を顰め、苦しい息を治めるように自身で煎れた紅茶の香を吸い込むと、口を付けて、まろい甘みに綻んだ。和らいだ苦痛と残る嬉しさ、一定の、緊張感にも似た鼓動の音は、ある種、心地よくさえある。その音を飼いならすよう、うっとりと目を閉じ、ゆるゆると開けば、向かいでくつろいでいた総館長が、ちょうど西にあつらえられた窓の外を見ている姿が目に映った。 

 椅子の背にぎしりと寄りかかり、紅茶を片手に。 

 灰色の髪を全て後ろへなでつけている為にむき出しにされた褐色の顔、額の形の良さと、ひしゃげた高い鼻の精悍な横顔は、目元の三白眼の涼しさに今は甘い優しさを乗せている。 

 紺色のタキシードを着込んだその姿は、正午近く、初めて目にした時と同様の感慨を彼女に抱かせた。口髭がない所為か、顔や手に年齢の皺がありながらも。 



(すてき、だわ……。) 



 若い頃のこのひとは、きっとこんな風だったんだろうな、いまや写真でしか辿れない過去のケルッツアと一緒にいるようで、ソフィレーナはただでさえ昼食中嬉しくて高鳴っていた鼓動が、更に更に高くなったのを感じ、そっと、前髪を緩く乱して目元を隠す。 

 知る事が出来ない時代の彼を見ているような疑似体験。それは、彼女に密かな喜びをもたらし、恍惚と高揚を引き起こす。目の前の総館長の様子は、彼女が今まで見てきたどの彼よりも、髪型のせいか、服の所為だろうか。 



(かっこいい。……けど、) 

(ちょっと、気恥ずかしい。) 



 何を恥ずかしがる必要があるのか自身でもわからないまま、ソフィレーナは前髪の影、更に目を反らした。俯き、唇を噤み。時折、ちら、と彼をみては俯く。自分が不審者になった心地は更なる羞恥と混乱を呼び起こしたが、彼女は暫く、その行動を止められない。目を閉じ、落ち着こうとしてもいつの間にかケルッツアを捉えている。見とれている事に気づき、目を逸らし、閉じて。その繰り返し。 

 そんな状態を、彼女の矜持が許すはずはない。彼女自身、いい加減割り切ろうと話題を提供する前に。 

 ひとりごとのような、声がする。 



「ここからの景色は、きれいだねぇ」 

 その、掠れた響きに、先ほどの葛藤で少し疲れた顔を向ければ、にっこりとした微笑に出迎えられた。 

 向けられる、顔が、声が、雰囲気が。いつも以上に優しく、甘みを帯びているような気がするのは気のせいか。 

 声の掠れは彼が照れた時に出る癖のようなものだと、彼女は知っている。 

 ケルッツアは、ソフィレーナを、穏やかな黒瞳で見ている。 

 その黒に、吸い込まれそうな錯覚を覚えた彼女は、ぐらりと傾ぐ体の芯に気づき、彼の言う、きれいだ、といった対象に思考を巡らせた。この部屋からの眺望。学校へ入る前は毎日眺め、そして今も広がる自室からの光景にそれ程の美しさを感じない彼女は、その感情に大幅の動揺をうまく覆い隠し、苦笑したような、お世辞ととったような顔を作る。 

「ありがとうございます。 

 でもここより、正面玄関のバルコニーの方がずっときれいですよ?」 

 事実、ダリル皇家邸宅の正面玄関バルコニーからの風景は、王都を完全に一望できる王城に次いで美しいと評判だった。邸宅から長い渡り廊下を経た先の春の宴パーティー会場から抜け出し、その美しさを堪能している招待客も、一人、二人ではないとか。 

 景色の見え方全てを計算され尽くして設計されている空間を示したソフィレーナに、ケルッツアは、首を横に振る。じ、と。彼女の特徴的な、濃い紫に下の方から栗色が香る、砂漠の夕空に似た虹彩を、その真ん中で大きくなる瞳を魅入り。  

「でも、ここからの方が、きれいだよ」 

 にっこりと視界を潰すと、掠れの酷い声でそう告げた。 

 掠れ、聞き取りづらい音、それだけの照れを含んだ声は、確かな自信に満ちている。 

 ソフィレーナの心臓が、一つ、跳ねた。 

 今まで断続的に届いていた会場の声が、いつの間にか遠い。きれいだ、といわれたのは窓の景色、そう解っていても。 



(そんな目で、声で、言われると。) 

  

 そんな心理を自意識過剰と無理やり切って落とし、更にもう一段上昇した体温と心拍数から逃げるよう、彼女は窓の外に視線を求めた。 五月晴れの青に、さめざめとした鋭角で切り取られた遠くの山々が見えている。正面玄関バルコニーからは確かに王都を眺望できるはずだが、ここからでは角度的には問題なくとも、木々の覆いに阻まれて望むべくもなかった。代わり映えのない自室からの風景。王都への視野を所々覆う木々ですら、線対象に、美しく見えるよう設計され尽くしたバルコニーからの眺めと比べると、一つ、二つ、味の抜けた、残念な景色。 

 それでも。 

 逃げるように視線を一方向へ向けていた彼女は、次第、ぼんやりとその景色を見、同じくそちらを見ているケルッツアを見てから、もう一度、同じ光景に目を向ける。 



 視界の色がいつもより鮮明であるような、気がした。 



 午後四時、いまだ染みる様な青空に、白い雲が解けるように流れている。窓からの風は涼しく心地よい。木々のざわめきが、青々と茂る森の匂いが、遠く空を切り取る山々の稜線が、くっきりと浮かび上がり、彼女の目に涼しく映る。 

 その景色は、それだけで美しいもののように見えた。 



 足りない光景が、それでも尚美しく、かけがえのないものであるかのように見える。 その心情は、宴の日の、誰かとの昼食に端を発しているものだろうか。 

 一定の早さで脈を打つ頸動脈の音が煩い。 

 その血流に支えられた脳の中、浮遊感に似た緊張感の、どこかに現実を置き忘れてきたような心地に押され、彼女はちらり、ともう一度ケルッツアを見る。 

 彼女の視線の先、彼の灰色の三白眼は老いて尚澄み渡っていた。今は黒瞳が大きくなった状態で、外の景色を眼球に映し続けている。まとう雰囲気には、やわい憂鬱がとけ込んでいるよう。 

 なにが重大な事を考えている風にも見えるその横顔は、ソフィレーナに、えも言われぬ興奮と、幸福だと思える切なさを呼び起こした。彼が料理を運んで来た時と同じ、否、それ以上の、呼吸さえ止まってしまいそうな、涙さえこぼれてしまいそうな。 

 なぜ、そう思うのか。彼女自身戸惑いを覚える。ただ、同じ景色をみているだけだ。自分の部屋の景色を、大好きな、信仰も傾倒も尊敬も憧憬や、或いはちょっとした憎々しささえない交ぜにひっくるめて総じて最後、そうとしか思えない相手と、一緒に見ている、だけ。 



(それだけなのに。) 



 椅子に腰掛けているはずの、足先の感覚がなかった。絨毯にその淡い青色の布靴の底をつけても、雲の上のように現実感がない。椅子に腰掛けるお尻さえ、いつもにもまして感覚は曖昧。 

 その全てが、陶酔と至福に支えられている。 



(言葉で。) 



 彼女は思う。 

 言葉でこの空間を打ち破りたい。いつものように笑って、他愛のない話をして。 

 彼女は、いつもの、と称した彼との時間を懐かしく思った。この頃は自信を取り戻した総館長にドキドキする事も少なくない、少しだけ、刺激のある、平穏な日常。 

 けれどこうも思う。このまま、彼と同じ光景を見る、見続けていたい。時など止まってしまえばいい。ずっとずっとこうして。 



(このひとのそばに、ずっと)



「僕ねぇ……」 

 だから、彼の掠れたその言葉に、ソフィレーナは確かに救われ、一方で、わずかに落胆した。 

 複雑な心境の彼女を、ちらり、と見てから。 

 ケルッツアは、ささやくように続ける。 

「この国の景色……あんまり、好きじゃないんだ。 

 ……・・・・・・けど、 



 ――――きれいだねぇ」 



 その音に、心拍数が又一つ、あがる。 

 きれい、と言われるたびに彼女は言い知れぬ羞恥と歓喜を覚えた。まるでその言葉はわたしに。幾度か重なる心象を錯覚と言い聞かせ、怒鳴り聞かせ、ソフィレーナは、外面的にはひとつ、軽く、息を吐く。 

 なんでもない事のようにケルッツアを見た。ソフィレーナの視線の先、ケルッツアは本当にかけがえのないものを見る目で、彼女の部屋からの風景を見ていた。その視線に名を与えるならば、いとおしい、という言葉がよく似合うような。 



(やっぱり、この景色が綺麗だと思ってるだけ。) 



 諦観と自身に対する嘲りが同時に彼女を苛み、顔の歪みそうな自嘲を呼び起こす。彼女は己の愚かさを自覚、バカだ、と強く罵った。何馬鹿な事想ってんだろ。景色がきれいなだけ。それだけ。と、同時に、疑問も生まれる。なぜそこまでの目で、ここからの光景を見ているのか。 

 僅かな嫉妬混ざり、彼女が思考を巡らせる前。 

 ケルッツアが振り向いた。 

 その眸は。 



 今度こそ。ソフィレーナは息を呑む。 



 窓の外を見ていた、その眸のままのケルッツアに振り向かれたソフィレーナは、その余りの優しさに、艶に、含まれる蜜にその名をした毒に、毒としか思えないほど深い何かに、とっさの事、声を失った。 赤々と燃えているだろう顔を前髪に隠すことさえ忘れ、その三白眼を魅入る。 

 灰色の虹彩は、今や真ん中の瞳にその殆どを覆われ、漆黒に染まっていた。それは、彼が興味を惹かれたものに良くする目。 



(自信に満ちた、学者の目。) 



 それだけで、ソフィレーナは数瞬、言葉さえ忘れた。思考のありかも忘れ、手足の動かし方さえ解らなくなった。その目は、あの論文を、あの、ノートの切れ端を生み出した目。そう思えば思うほど、高鳴る鼓動に押され、唇から、音ともつかない息が零れる。 



「ソフィレーナさん」 

 声がした。彼女の名を形づくる声がした。 

 このひとに呼ばれている、と彼女は。 

 言葉を。 

 唇が動く前。 

「髪飾りははずしちゃったの?」 

 ケルッツアは、ちょん、と小首を傾げている。 

 その音には、掠れも熱も艶も蜜も含まれていない。 



 ソフィレーナは我に返った。痛いほどの胸元を知らぬふり、上っていた息も押さえつけ、ゆるり、と頭を動かし前髪を乱し、色づいた目元を栗色の髪で覆い隠す。 

 震える唇から、努めて平静な声を。 

「…ええ。あれ生花だから、無為に傷めるの可哀想かとおもいまして」 

 俯いた顔を矜持で持ち上げ、前髪の隙間からは苦い笑みを作り零してまでみせた。 

 彼女が狭めた視界の中、ケルッツアは、ふうん、と語尾を上げて答えた後、あたりを見渡し、中型の白い丸テーブル中央に置かれた花瓶の花を、一本抜き取った。あ、と彼女が声を出す前、その茎を適当な長さに折り。 

「こんな感じ、かな」 

 ちらりとソフィレーナを見ると、立ち上がり白い丸テーブルを回りこんでくる。 



「ッ! ドクター!?」 

「じっとして。」 



 彼の意図に気づいたソフィレーナは、座っていた椅子の上大きく身じろぎし、立ち上がって逃げかけた。が、軽く肩をつかまれ、その逃亡を阻止される。 

 掴まれた肩が、淡い青色のサテンの上からでも熱い。 

 怯えるように見上げるソフィレーナに顔を近づけ、ケルッツアは、子供っぽい仕草で彼女を軽くにらんだ。 じっとしてって言ったのに。大柄な体躯をばっちり屈めて、そんな事をのたまうその目は、相変わらず、漆黒に染まったまま。 



(そんな目を、されたら。) 



 ソフィレーナは内心臍を噛んだ。このごろ目にする、ケルッツアの、この、眸。吸い込まれそうな漆黒に見つめられると、ソフィレーナは逆らえない。賢者の論文。酷いスランプの時に書かれた、結論のない論の凄さ。 



(満ち溢れる、自信。) 



 それらがない交ぜになって彼女に襲い掛かり、逆らおうと言う気を取り除いてしまう。今回も同じ事で、助手は、総館長に従わざるを得なかった。 

 大人しく椅子に戻ったソフィレーナに、ケルッツアは大変機嫌のいい、ご満悦そうな顔をした。ふふ、と笑うと、その、栗色の髪のこめかみのあたりに、そっと。 



 真っ白な、ロームエッダの花を挿しこむ。 



 びくり、と肩と言わず上半身を跳ねさせた彼女に不思議そうな顔を向け、その正面に回り込むと、その顔が頬が、彼の愛する熟れたトマトのように赤い事に驚いた。 

 すぐに、うずうずと喜びを隠しきれない子供のように口角を持ち上げ、楽しげに、子供がおもちゃを見るような期待で首を傾げる。 



(このひとの顔が、近い。) 



 ソフィレーナは、間近に感じられるケルッツアの気配に、反射瞑ってしまった目を開けることができないでいた。心臓は壊れそうなほどの早鐘を打ち、頚動脈からの音は耳朶に煩い。 

 頬といわず体中の熱は、帯びる熱が高じて感覚が解らないほど。 

  

(ダリルの娘が、ロームエッダを髪に挿す。) 

(このひとが、息のかかるほど近くに、顔を寄せている。) 



「な、何の、お遊びです、かっ?…!」 

 平静を保とうとした声はひっくり返り、素っ頓狂な音になった。その事にしくじりを覚えるだけの余裕が、今の彼女にはない。それだけ、彼のしでかした事は、本来多分な暗喩を含んだ行動に他ならなかった。もし、意中の男性にこんな事をされたら、女性は喜び、泣き出してしまうだろう。 

 けれど、総館長はおそらく意味を知らない。だからこれは、暗喩とは関係ない。ソフィレーナは、必死に自身に言い聞かせた。その横で、無邪気故の、彼の業を責める声を諌められずにいる。 

 内は混乱を極め、ぐるぐると、彼女の中で暗喩が巡る。 

 男は、自分の家の象徴花を、乙女の髪に飾らせてはいけない。飾ってもいけない。 

 ダリルの娘の髪に、ロームエッダの花を挿してはいけない。冗談でもいけない。 



(その行為の指す意味は。) 



 狂ってしまいそうなほどの幸福と、意味を知らないだろうという絶望と、なんて罪作りかという怨嗟とそれでも感じてしまう嬉しさや喜びが、ぐちゃぐちゃに声を上げて感情の出口を求めている。嬉しい悲しい酷い憎たらしい最低最悪。 



(でも、うれしいの。) 



 ふ、と。それまでごくごく近く、のぞき込み観察するかのようだった気配が遠ざかった。 

 それで、彼女の中にそっと平静が吹き込む。 

 未だ注がれる視線の温度に自身も心拍数を戻せないものの、こうまで興奮状態が続けばいい加減なれるか。 ソフィレーナは、それとしられぬように視線を逸らしぎみ、瞼を持ち上げた。見慣れた部屋の光景を視界にいれ、逡巡の後、頭一つと半ぐらいの距離で、にこにこと、いまだ腰を屈めた姿勢のままこちらを見ているケルッツアを、見た。 

 同時と近い瞬間。 

「ああ、白の方が似合うね。 

 朝の髪飾りも似合ってたから、代わりになれば、と思ったんだ。」 

 ケルッツアは、声の掠れなく天真爛漫、一点の曇りも含みもない笑みで、それこそ子供のように喜んでいた。 



(ほら、しらなかった。) 



 ソフィレーナは、己の中でわめき散らす喜びや、あるいは遅れて出てきた焦り、何と特定できない感情に事実を浴びせかける。 それでも心拍数はおかしいほど上昇した数値で保たれ、平常に戻るには時間がかかりそう。 



(何より、ダリルの娘に白の方が似合う、なんて。) 



 嬉しさに傾いていた戸惑いが親愛抜きの恨めしさに塗りつぶされそうな心の内をやっとの事でおさめ、彼女は話題を変えようと。 





「きれいだ」 





 声がした。 

 酷く真摯な、混じりけのないほど真剣な声が、その場に生まれた。 

 ソフィレーナの視界の中、ケルッツアは、深遠のような漆黒の中に、彼女だけを映しこんでいる。その言葉が、己だけに向かっているのだと。彼女は、歓喜も狂喜も、怨嗟も情念もなにもなく。ただ、あっけに取られたまま。 

 じっと見つめてくる黒に囚われる。 

 三白眼の灰色は、先ほどにも増して塗りつぶされた黒一色。 



 囚われたと知って初めて、彼女は、狂喜と同時恐怖すら覚えた。ドクター、と。発したはずの声は息交じり、不明瞭にその場に響く。彼女自身、その発言に何の色を含ませたかったのか、拒絶か甘受か、それすらわからない。 

 いいしれぬ恐怖さえ覚えるような視線は、甘ったるい熱と蜜をもはらんで彼女を逃さない。 

 呼吸さえ、上手く働かない。涙腺も緩み熱がにじんでくる。 



 ゆるり、と。近づいてきた褐色の指先にも、縫い止められたように、反応が。 



 真摯さを、僅か、慎重さに変えた褐色の指先が、彼女に近づいてくる。 



 それは、赤く燃える頬に触れ。 

 そのまま、美しく光を弾く栗色の横髪に触れた。 



(指先が。) 



 その、老いてしわがれた、指の腹に弾力のある指先が。 

 そっと、ふれるか触れないかの力加減で、前髪に流れる。額を隠す艶髪をなぞり、ゆるりと忍び込むと、やわく横へと払った。額に空気が触れる感覚がこそばゆい。 

 そこに。 



(ねつ。) 



 静かに、残りの栗色を退けて、額の柔肌に褐色の指先が乗せられる。 

 上から下へとなぞる、その感触。 

 ソフィレーナは背の辺りの痺れを鮮明に感じ取った。 

 その行為は、酷く直情的でいて、神聖。 





(まるで。) 





「きれいだ・・・」 



 褐色の唇が、もう一度同じ言葉を形作る。 

 されるがまま、ソフィレーナは金縛りにあったかのように動けない。その言葉に鼓動を、体温を反応させ、呼吸を詰めてゆくだけ。ひゅ、と鳴った喉笛を人事のように聞き、真っ直ぐな視線から逃れる事は出来ず。閉じることもできない視界の中、これだけ好き勝手しているはずの相手の顔は、どこか苦しげに、切なげに歪められていた。 

 きれいだ、と。ケルッツアは囁く。 

 一層とまなじりを細め、褐色の顔は憧憬のような色を浮かべて彼女を見ていた。 

 掠れた、心地の良い声が、また。 



「きれい、だ……ッ」 



 その顔は相変わらず、苦悶と憧憬に彩られたまま。 

 何を、耐えているのか? 髪に花まで挿して、こんな事までしておいて、何を耐えることがあるというのか。 

 余りの不可解さに彼女は揺れた。その揺れが、ソフィレーナを縫い止めていた糸を切る。 

 周りの音が蘇って初めて、彼女は、感覚が遠ざかっていた事を知る。どくどくと流れ巡る血流の音。破裂しそうな血管によって、偏頭痛さえ引き起こしそうな側頭部。手足は相変わらず痺れ、感覚のあった頃を既に忘れ始めていた。視覚の上では自由に動く指が、足が、ソフィレーナには不思議でならない。 



(一体なんだったの。き、きれいだって、わたしが!?) 



 遅れて思考が蘇り、堪らない歓喜と戸惑いとが同時に襲う。彼女にとって、彼の言動は本来嬉しいもの。 

 けれど。 



(あ、あんな目で、そんな事言われたら……ッ! ) 

(どうしていいか判りません! )



 嬉しさよりも、今は混乱が勝っていた。未だ激しい鼓動に疲れさえ覚えながら、ソフィレーナは、ケルッツアをにらみつけていた。 

 さん、ざんに振り回されている気がする、と。最後のあがきとばかり。 

「……反則だわ」 

 彼女の、ちょうど額の真ん中あたりに指を乗せていたケルッツアは、その手をどけ、不思議そうに首を傾げる。 

 あいかわらず、蜜と熱ははらんだまま。 



(だから…ッ! そんな目で私を見ないで下さいってば! ) 



 これ以上心臓が高鳴ったら、死んでしまいそうなんです。ソフィレーナは本能的な生命の危機に怯え、素早く残りの前髪のヴェールを払うと、怒ったような表情で彼を睨みつけた。 

「なんか……ちょっと。 

 お酒でも出されました?」 

 むっとした声は高く、僅かに湿り気を帯びて意図を体言できていない。 

 潤んだ瞳と痛いほど色づく頬とに凄まれ、ケルッツアは、ううん、と答え返す。 

 それでも、ソフィレーナには、彼はお酒を飲んでおかしくなっている、という答えが必要だった。なぜそんなことを聞くの、掠れた声に、答えが解ってそうな灰色の漆黒に、ぷい、とそっぽを向き。 

「・・・・・・・なんか、変だから、よ」 

 声は拗ねた様に響いた。 

 ソフィレーナは、正直、頬を膨らませてベッドにでも逃げ出したかった。逃げて、丸まって、身体のうちにぐるぐると疼きまわる動揺を、慣らしてしまいたかった。 

 そうかな? と殆ど聞き取れない程掠れた音、耳の赤さが丸分かりのまま、それでも子供のように見つめてくるケルッツアに、そうよ、と返し、ソフィレーナはこの、一連の、テンションのおかしい総館長の事に、今度こそ区切りをつけようと息をつく。そうだ、アルコールだ。会場で振る舞われた飲み物にお酒があったから、酔っているから変なのだわ。だから、花を挿してくれた行動に意味なんてない。綺麗だなんて地迷いごと。あの苦しそうな顔も。照れてる声も全部、ぜんぶお酒の所為。 

 そう整理をつけ。 



「ソフィー」 



 響いた音に、思考も行動も停止する。 

「っ!」 

 またどくどくと主張をはじめる鼓動も恨めしげに振り向くと、これまた無邪気な笑顔に出迎えられた。 

 ケルッツアは、ソフィレーナの動揺を目の当たりにして尚、やはり掠れた声で悪気もなさそうに。 

「ふふ。呼んでみたかったんだ。知恵。哲学。 

 良い名前だね」 

 などと笑う。 

 その言葉に、ソフィレーナは。 



(まだ言うんですかこの口は!!! ) 



 正直、怒鳴り散らしたかった。哲学、知恵。大層な由来の名前は、偏屈、詭弁、そういった意味でからかわれ、褒められた事など家族以外では片手で数えるほどしかない。 



(それを。) 



 掠れる声は照れている証拠。 

 瞬時またトマトに逆戻りした顔で目を向き、もうこれ以上私の心を引っ掻き回すな!!! 今度こそ、ぐちゃぐちゃな心の内に瞬時生まれた怒りをぶちまけようと彼女は。 

 と。 

 閃いた。 



「あなたは?」 

(このひとの名前にも由来があるのかしら? )  



 怒りからどんな経路でそう閃いてしまったか、ともかく、そう閃いた途端、ソフィレーナは俄然その事を知りたくなる。ついさっきまで感じていた怒りはそっちのけ、小首を傾げ、純粋な好奇を乗せてケルッツアに顔を近づけていた。 

 褐色から朱色に染まった耳朶で、きょと、とした目の前の顔に、言葉が足りなかったと言い直し。 

「……私の名前の由来は、あなたのおっしゃるとおりです。 

 だから、あなたのお名前の由来は、何ですか?」 

 高く可愛らしい声には、自覚なく、明るい浮かれが覗いている。問う、ダリルの直系に特徴的な、一等濃い紫に下の方から栗色の香る眸は、無自覚に煌き、光を反射していた。 

 熱の名が、知識欲よりも好奇心の方に傾いていると彼女に自覚はあった。はしたないだろうかとも思わないでもなかった。けれどさんざん好きなことをされた側として、このぐらいは許されてしかるべき、という心理で、ソフィレーナは傾げていた首を反対へと傾げ直す。 

 第一、相手ばかり己の名の由来を知っているのは、何ともずるい。総館長はこの国の言葉を知っているから助手の名の由来もわかるのであって、その知識は決してずるくない、と、頭の片隅で諫める声もするにはするが、今の彼女にとって、そんなことは知ったことではない。彼の故郷の言葉、ムータ語を学べば自ずと知ることができる。そうは思うものの、それではつまらなかった。 



(このひとに直接、教えて欲しい。) 



 そんな彼女のエゴを知ってか知らず、ケルッツアは、急に乗り出し、間近に迫ったソフィレーナに形勢逆転、耳朶の痒さを強める。反射的に今までかがめたままだった姿勢も棒立ちに、ちょっとうつむき、頭を僅かに掻いた。閉じていた口を開き、声も息もなく。もう一度口を開き、息を吸い込むと、沈黙。 

 星だよ、という声は、先ほどにも増して掠れている。 

「星・・・なんだ。 

 北に一点、あまり動かないのがあるだろう? 

 あれをね、流民の言葉で、け……ケル、という」 

 位置的に彼の真下、椅子に座って見上げてくる薔薇色の唇が、ケル、と、小さく動いた。 

 ケルッツアは、どうしようもない衝動を気力で何とか押さえつけ、困った顔で、更に両耳を赤々と燃やし、続ける。 

「つ、ッツアは……ルツアでそ、っ、…その、に…似る、みたいな、意味。 

 た、…大層な名前なんだ」 

 そう言って冷や汗にも似た心地と共に苦笑で閉じたケルッツアは、がたん、という乱暴な音を聞いた。 

 思わずびくりと目を見開けば、目前目下、椅子から立ち上がったソフィレーナの、みるまに彩られてゆく笑みに迎え入れられる。 

「凄いわ! ドクターにぴったりの名前です! 

 まさにそのとおりだもの!!!」 

 ソフィレーナは、ケルッツアの話を聞いている内、どんどんと感動を覚えていった。彼の語る名前の由来通り、北に輝く北極星のように、彼の内で決めてしまったことは頑として動かない。 

 揺らぐことのない、常に正しいものを知っているかのようなひと。方角を定め、確かめる時に使われる星に似た、まさにその通りの人物が目の前にいる。 

 そう思った途端、彼女ははしたなくも勢いよく椅子から立ち上がっていた。倒れた椅子の悲鳴も遠く、まじまじと、耳朶を真っ赤にして驚き固まっているらしいケルッツアを見上げて、魅入る。 

 いとおしかった。 

 ありあまる喜びにまなじりをゆるめ、まるで自分のことのように、素敵だと体中をうち震わせていた。 

 感動を届けた人物が黙りこくってしまったことに気付かず、己の中の感慨をどう処理したものか、興奮の余韻に浸るよう、目を閉じ。 



 頭を撫でられる、その感触に見開く。 



 鼓動が、高く重く早く、痛く、鐘を打ち始める。 

 彼女の眸の揺れ等お構いなく、ケルッツアは、ソフィレーナのその、美しく艶のある栗色の髪に褐色の手を沈ませ、撫で辿った。 

 ソフィレーナの内、好奇心で打ち消されていた感情が、また、鎌首をもたげる。 

「どくたー?」 

 響く声は多分な戸惑いと、哀しみにも似た静けさで彩られた。 

 ソフィレーナの頭を、髪を、緩慢に撫でながらも、ケルッツアは掠れた声で。 

「……きみが、あんまりなことを、いうから・・・」 

 なぜこんな事をするのですか、相手の意図を汲んだ返答は、言い訳めいて空気に消えていく。 

「ほんとうに、たまらない。」 

 絞り落とすような声で、彼は彼女の髪に指を絡め続ける。 

 ソフィレーナのうちに、椅子もそっちのけで見上げた先の、困った、泣きそうにも見えた顔が蘇った。 

 その衝撃が、ケルッツアの声の掠れと言う事実を、彼女の中から拭い去る。 

 ソフィレーナは、泣きたくなった。 

 自分はなにかいってはいけないことを言ってしまったのだ。ゆるりと撫で辿られる頭も髪も、彼女に苦痛を与えることもなく、ガラス細工を扱うように丁寧に、優しく動いている。 

 だからこそ、ソフィレーナは酷い戸惑いの中にいた。前に一度、頭を撫でるのは、子供扱いしているからではない、と、助手は、総館長に言われたことがある。 

 けれどこの行為は、それこそ、子供に施すような優しさで満ちている。人は、相手に行動を望むとき、己の望む行動を相手にすることがあるという。 

 だから、なら。 

 ソフィレーナの内、理解が落ちた。 



(傷つけたのだわ。) 



 髪を、頭を子供のように撫でて欲しいのは、このひとの方だ、と。それだけ酷い事を口にしてしまったのだと、潤む視界や鼻の奥の痛みを伴う湿り気の煩わしさに、ソフィレーナは眉をひそめる。泣いて傷ついたと主張しなければ、伺うことすらできないのか。震える声を耐え、言葉を絞り出した。 

「わたし、お気にさわることを?」 

 涙声で、今や完全にうつむいてしまった彼女に、途端、髪を撫でる仕草が止まった。そのことに、ソフィレーナは確信を。 

 一拍早く、ケルッツアが答える。 

「いいや。 

 ……真逆の、ことを。」 

 そう言ってまた、ゆるゆると彼女の髪を撫で辿り始めた。 

 いいや、という否定。そして、気に障ることと、真逆のこと。ケルッツアの言葉に、ソフィレーナの脳がゆるりゆると回りだす。気に障ると真逆のこと。なら、傷つけたのでは、ないのかしら。沈んでいた心が僅かに浮上し。 

 真逆の事、なら。 

 彼女の心臓が、また、早鐘を打ち始める。 



(うれ、しい? ) 



 ソフィレーナは、そう思い至った段にきてやっと、髪を撫で辿る感触に艶の色が含まれていると気づいた。絡めとられるような色彩は、彼女の背に言いしれぬ痺れをもたらす。高鳴る鼓動と、えもいわれぬ浮遊感。 



(この行為が、この人の喜びを表しているなら。) 



 うつむいたまま、目を閉じる。先ほどは煩いと思っていた鼓動の音も、不思議と心地よく、遠くに聞こえていた。視界の闇を、髪に置かれる褐色の手の感触で、色で、形で潰し、包まれる温かさに、うっとりと、頬を緩める。 

 浮ついた心に、唇が。 

「もっと・・・」 

 息に混じって生まれた音は、とろけるような恍惚で出来ている。 

 しかし、その声は余りに小さく、彼らの耳を不確かにしか掠っていかない。 



 ケルッツアは、逡巡。 

 彼女の髪を撫で、逡巡。 

 その動作を止めると、そっと手を引っ込めた。 

 夢見心地、首を傾げて見上げてきたソフィレーナの、少し乱れた前髪から覗く特徴的な、一等濃い色の紫に、下方から淡く栗色の煙る虹彩に、虹彩に彩られた漆黒の瞳に、斜め下手をすがめ睨むとまんじりともせず、両手を胴の後ろへ隠す。 

「……いやだった、かな。 

 いやなら止める。 

 ………………――――もう、しない。」 

 斜め下手をすがめ睨み、何かを決意するようにそう言い切る。 

 ケルッツアの反応に、ソフィレーナは目を丸くし、咄嗟、いやじゃないです、と声を発しようとして、その発言の余りの恥ずかしさに言葉を飲み込む。 



(家族でもないのに、頭撫でられるのいやじゃないなんて。) 



 それでも、感情はこぼれる。本当に、いやじゃない。 



(いやなどころか。) 



 彼女は、いやじゃないんです、そっと心の中でつぶやき、彼の、斜め下手の絨毯を睨み付け止まっている顔を懇願で見上げた。 

「困るわ」 

 言葉を唇に乗せれば、視線は向けられないまま、悲しげに灰色の目が揺れる。 

 彼女は、その眸の淋しさも揺れた。素直に答えたくない、そんな意地を張ったがために与えてしまった誤解を悔やみ、それでも、やはり、唇を動かした所で、息が空気に混ざるだけ。素直な言葉はでず。 



「こんなの、子供扱いみた」 

「子供扱いじゃないッ」 



 子供扱いみたいなのにいやだと思えないんです、苦肉の策でそう結ぼうとしたソフィレーナの声は、存外強いケルッツアの主張にかき消された。 

 彼は、両眉を激しくしかめ、僅かに怒った、否、意固地になったような顔をしていた。かと思えば、眉を八の字にし、困った声で更に続ける。 

「子供扱いじゃないんだ。 

 なら、いい? …僕は、触っていたい。」 

 かがめた姿勢を更に乗り出し、彼女に覆いかぶさるようにして尋ねる。赤々としたトマトの様な顔で目を見開くソフィレーナに、また、今度は少しだけ素早く褐色の手を伸ばした。栗色の髪にしずませ、くしゃ、と、優しくも有無をいわせぬ動きでかき乱す。 

 乱れた栗色の髪を、ゆっくりと辿り、整えてゆく。指先にやわく絡みつく艶髪は美しく光を反射し、絹の光沢と手触りで、褐色の肌の上を流れていく。 

 左の、こめかみの辺りに挿した花が落ちそうになっている。 

 それをもう一度挿し直せば、薄い青色の布に包まれたやわい肩が跳ねた。 

 それでも、ソフィレーナからは、拒絶の色も、仕草もなく。 

「…………」 

 数瞬、手を止め。その事を確認したケルッツアは。 

 又、丁寧に、彼女の髪を梳きはじめる。 



(ここち、いい……。) 



 髪を撫でられながら、ソフィレーナはそう思った。 

 鼓動は一定の速さで体内を巡っている。いつもよりは格段に早く、甘く、痺れるような音程で命を、想いを運び、巡らせていた。頭の芯が、みるまにふやけ、解けてしまいそう。 

 褐色の手の感触に、与えられるくすぐったさに、その甘さに。 

 まなじりが緩む。体の力が抜ける。 

 ソフィレーナは。 



「私も」 



 夢見心地、うっとりと、なすがまま、されるがまま。気づけば存外、響く声でそう零していた。 

 自身の声に目を開き、そっと、ケルッツアを見上げる。手は止めず、窺うようにのぞき込んでくる彼に、自覚なく、不抜けた笑みで縋った。 

「わたしも、あなたの髪、触りたいです。 

 ・・・だめ?」 

 健康的な白さを紅紅と染めて、微か震える指先に懇願の色を乗せ、灰色の髪に手を。 

 受けて、ケルッツアに喜色がにじむ。 

 が。 

「整髪料でべたべたしてるんだった。 

 ……汚れてしまうから、今はだめだ」 

 その色は一瞬で、あとは締まらない苦笑だけが残る。 

 己の要求をはねられた事に、ソフィレーナは、そんなの気にしません、と、雲の上にいるような気持ちでむっと言い返した。やや強引に、指先を灰色の髪に。 

 指が髪に届く前、彼の空いている手が白い手を捕まえ、きゅ、と。しわがれて尚弾力のある手のひらで握り込んでしまった。 

 その温度も力加減も心地よい分、一拍も二拍も熱を、鼓動を上昇させながら、ソフィレーナは口惜しそうにケルッツアを見るばかり。 

「あなたばかり、ずるいわ。」 

 彼女の抗議には、ごめん、と素直な謝罪が返される。 

 謝罪と共に。 

「…今度。 

 今度、なでておくれ。」 

 その、声の掠れだけで、彼女の不満は吹き飛んだ。 

 ソフィレーナは、ぱ、と。花が咲いたように満面に喜色を浮かべ、打って変わってひときわ大きくうなずくと、ふふふ、と楽しげに、水の滴るような、弦楽器の高音部をぽろぽろと弾いたような笑い声をこぼした。 

 彼女がうなずいた拍子に、彼の手は栗色の髪から離れた。指先に指の腹に、指に手のひらに手の甲にと残る心地の良い感触に、名残惜しげ、褐色の手が空虚に動く。 

 そんな感慨を後ろに隠し、ケルッツアは。 

 一つ深呼吸した後、分別をわきまえた大人の顔になった。 

「ありがとう。もうやめる。 

 ……髪を乱してしまってごめんね?」 

 その顔を合図に、ソフィレーナも、僅かの寂しさは知らぬふり、優秀といわれる助手の顔になる。物足りなさと、圧倒的な安堵をぽっかりあいた心の穴に押し込め、今までの事が何でもないことのように、愛想笑いさえ浮かべて応えた。 

「大丈夫です。それより、お帰りの時間は宜しいのですか?」 

 窓から望む空は、その青さの中に、僅か、黄色味がかった白さを溶かし込みはじめていた。未だ日没には時間がありながらも、黄昏の気配はそこかしこ、音もなく近づいている。 

 ケルッツアは、今気づいたとばかり、焦ってタキシードの内ポケットを探った。彼お気に入りの、大学卒業記念品、ユニヴァーシティー・ディム・ゲールセッテの学花、テュフィレが彫り込まれた銀の懐中時計を確認すれば。 

「…もう五時になったのか……。 

 じゃあ、お暇しよう。 

 君は」 

 国立図書館総館長の顔で問いかけるケルッツアに、ソフィレーナも助手然と答える。 

「今晩はここに泊まって、明日寮へ戻ります。 

 ……お見送りしたいから、ちょっと待っててくださいね」 

 と、彼女の準備に取りかかろうと、部屋の北側についている小さなドアへと向かっていく。 

 ケルッツアは、きょとんとした。 

 春の宴の間は、彼女は極力出歩いてはいけないのではなかったか? つい二時間前明かされた、この日彼女に課せられる事に、彼は、己の見送りが例外に当たるのか、焦って問いかけたが。 

 ソフィレーナは振り向くと、ちょっとだけ舌を出す。 

「裏口からなら平気です。 

 近道知ってるから、バス停までご一緒しますよ。」 

 その言葉が、ばれなければ大丈夫、と聞こえる彼の脳は実に正常だった。それはまずいのでは? 見送りが嬉しい反面、ケルッツアは、ソフィレーナの立場も大いに気になる。もし、自分のせいで彼女が叱られることがあれば。 

「本当に、大丈夫かね?」 

 心配は相手にどうとられたか。ソフィレーナは、口元に指先を当ててちょっと考えると、私のエゴです、と困ったような顔をした。 

「お見送りが、一緒にご飯食べてくれたお礼だと思ってるんです。 

 ……じゃあ、着替えてきますからちょっとだけ待ってて」 

 そういうと、返答も聞かずに北の壁のドアへと消えてゆく。 

 ケルッツアは。 

 とりあえず、立ちっぱなしだったことに気づき、彼女の座っていた椅子を起こすと腰掛けた。未だ微かに温度が残るそれに眦を細め、体重を預けると、背伸びをしてから目を閉じる。 

『お見送りが、一緒にご飯だべてくれたお礼だと』 

 数瞬前の、彼女の声に。 

 たまらない、という酷く掠れた独白は、空気に響かず消えていった。  







 それから暫くの後、総館長は、質素な服に着替えた助手に案内されるまま、山の上にあるダリル邸宅をぐるりと囲む森を抜け、現在、近くのバス停、待合所の椅子に腰掛けていた。 

 当初すぐに帰るつもりだったソフィレーナも、名残惜しさ、道中で始まった他愛もない会話を続ける、という名目で、彼の横にちょこんと座っている。 

 春の宴では終焉の挨拶は掛けられたのだろうが、まだ本当に人が動き始めるまでには時間のある時間帯、待合所の中にも外にも、他に客人は居なかった。 

 彼らは、互いに、何を話したかはおぼろな記憶、離れがたく時間を共有している。 

 しかし、後五分程でバスが来る。 

 いい加減帰らなくては、と。ソフィレーナは、後ろ髪惹かれる思いを断ち切り、ひとつ息をついたあとベンチから腰を。 

 上げかけた時だった。 

 右の手首に、緩く熱が生まれた。 

 ソフィレーナがそちらを振り向くと、ケルッツアが、そっと、その白い右手首を褐色の手のひらに納め、彼女を見ている。 

 彼女が逡巡、その手を外そうとする前に。 

「……あのね。 

 今度、ちょっとした旅行に付き合ってくれないかな……」 

 彼はそう問いかけた。小首を傾げ見る、灰色の目、否、目元は。 

 ソフィレーナは、高鳴る鼓動と同時、深い絶望に眸を揺らし、意識の外、少し硬い笑みで小首を傾げ返す。 

「旅行? ……日帰りで、ですか?」 

 澄んだ声には、どことない哀しみが滲んでいた。 

 ケルッツアは、いつの間に下ろしたか、灰色の前髪に目元を隠した顔のまま、こくん、と頷くと。 

「ちょっと、遠い場所。 

 ……でも、君と一緒に行きたい場所…。 

 そんなに危険な場所じゃないと思うんだけど……だめかな」 

 褐色の耳朶を赤々と染め、酷く掠れた声で、哀願に似た様相になる。 

 哀願。そうだ哀願だ、と。 

 ソフィレーナは思う。ダリルの末姫の外出には、家族とそれ以外の定められた者の許可証が必要になる。日帰りで行ける距離ならば、或いは、家族の略処理で構わない、こともあるが。 



(私は、行きたいです。) 



 そんな想いを、正しく哀願をこめて。 

 ソフィレーナは、己の手首に縋るように置かれた褐色の手の甲に、そっと、左の手を乗せた。意識してにっこり。憂いのない笑みを作り。 

「もちろん、よろこんで。  

 でも、認可が降りたら…ね?」 

 ケルッツアは、見つめる先の寂しそうな眸を見。 

 いいかけた言葉は、遠くから聞こえてきた重い音に掻き消された。 





 ソフィレーナは実家へと戻り、ケルッツアは今、バスに揺られながら窓の外を見ている。未だ明るく青い空はしかし、西の方から、徐々に暮れ始めの様相を呈していた。地上はまだ昼のさなか、光る新緑がバスの窓を流れてゆく。 

 その、むせ返るような緑を眼球に映し。 

 旅行の事を切り出した際に見た、にっこりとした哀しみは、彼の脳裏に焼きついて離れない。 



 三白眼の虹彩は、漆黒に染まっていた。
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