3 / 3
第三話 父の幻影
しおりを挟む
宿場の片隅で、踏み固められた土の上に、小さな焚き火が爆ぜている。
すすけた小鍋の中で煮えるのは、ただの塩粥だ。三郎が木匙でそれをかき回し、器に盛って弁慶に差し出した。
「ほら、食いな。あんた、さっきから仏頂面が過ぎるぜ」
弁慶は無言でそれを受け取った。熱い粥を啜るたび、喉の奥が焼けるような不快感が込み上げる。
隣で気楽に粥を啜る男、三郎。あの大橋での神聖な儀式を、その汚れた手とはしたない言葉で汚した元盗賊。自分はまだ許されていない「牛若」という名を、この男は呼吸するように口にする。
「……三郎と言ったか。貴様、なぜあの御方に付き従っている」
弁慶の低い問いに、三郎は「へへっ」と軽く笑った。
「なぜって、そりゃ、盗賊の俺が退治されてしまったということもあるが……源氏の御曹司を奥州まで送り届けるなんて大仕事、面白そうじゃねえか」
「源氏……の御曹司だと?」
弁慶の手が、止まった。
天界の稚児。そう呼び、神格化していた少年の背負う「血」の正体は、滅びの美をまとっていた。
弁慶の中で、主への敬畏がさらなる深みへと沈んでいく。同時に、その尊い肌に当然のように触れていた三郎への不快感が、暗く胸を浸した。
「……左様。あれこそが、平治の乱で滅び去った源氏の残された希望。そして、危うい夢の担い手ですぞ」
暗がりから、低い声が響いた。吉次だった。焚き火のそばに腰を下ろすと、疲れた老人のような顔で炎を見つめる。
「……吉次殿。一つ、問いたい」
弁慶は震える声を押し殺し、吉次を射抜くように見つめた。
「一行が目指している奥州の秀衡殿というのは、牛若さまの血縁者であられるか」
「いえ、さようなものではございませぬ。奥州の藤原氏は、源氏のご恩から生まれた勢力ではありますが、その程度のものにございます」
吉次の淡々とした言葉が、夜の静寂に響く。弁慶は眉をひそめた。源氏の生き残った御曹司が、なぜ遠い奥州へ向かわねばならないのか。
「……赤子の時に父を討ち取られ、幼くして母と引き離されたあの方は、鞍馬の寺で、ただの一人も己を愛する者を知らずに育ちました。私はその拠り所なき心に、ひとつの灯を点したのでございます」
吉次は、静かに言葉を続けた。
「遠い奥州の秀衡さまが、父のような気持ちであなたを待っている……。そうわたくしが囁きかけた時のことでした。何も知らされていなかった牛若さまに、それまで私が平家への復讐や、実父の敵討ちを説いた時には見せなかった、妙に幼い光が、あの方の瞳に宿ったのです。……あれは、武士の野心などではありますまい」
吉次が自嘲気味に口角を歪める。
「私は、あの御方に『見も知らぬ老人を父と思わせる』という残酷な夢を見せてしまったかもしれません。時折、その報いが恐ろしく感じております」
吉次の独白を、弁慶は噛みしめるように聞いた。
自分が命を捧げると決めた、危うい存在の奥底にある、まだ言葉にもならぬ幼い渇きが感じられた。
その時、宿の奥の間から、ふらりと人影が現れた。牛若だった。
「吉次、今秀衡殿という言葉が聞こえたぞ」
その声を聞いた瞬間、弁慶は息を呑んだ。そこに立っていたのは、昼間までの凛とした主君ではなかった。寝乱れた髪のまま、遠く奥州の空を夢想しているかのような、頼りなげな瞳だ。
「吉次。秀衡どのは、本当に私を待っていてくださるのだろうか」
牛若は、弁慶や三郎の存在など眼中にないかのように、吉次に問いかけた。その瞳に宿った輝きは、あまりにも美しく、触れれば壊れてしまいそうなほどに危うい。
弁慶の胸の内で、静かな衝撃が走った。
この御方は、家来の忠誠など見てはいない。ただ自分を迎え入れてくれる「場所」だけを追い、現実から一歩浮き上がっているかのようだ。
自分は、この御方が求める「何か」にはなれないのだろうか。どれほど血を流そうと、この距離を埋めることは叶わないのか。
弁慶は、冷えた地面に置いた長刀を、静かに、だが力強く握りしめた。主が求めるものが自分に向けられないのであれば、せめてこの身を、誰にも侵せぬ強固な「盾」とし、この危うい少年を、俗世のあらゆる毒から守り抜かねばならぬ。
それは忠義という言葉だけでは括れぬ、暗く重い密かな誓いだった。
すすけた小鍋の中で煮えるのは、ただの塩粥だ。三郎が木匙でそれをかき回し、器に盛って弁慶に差し出した。
「ほら、食いな。あんた、さっきから仏頂面が過ぎるぜ」
弁慶は無言でそれを受け取った。熱い粥を啜るたび、喉の奥が焼けるような不快感が込み上げる。
隣で気楽に粥を啜る男、三郎。あの大橋での神聖な儀式を、その汚れた手とはしたない言葉で汚した元盗賊。自分はまだ許されていない「牛若」という名を、この男は呼吸するように口にする。
「……三郎と言ったか。貴様、なぜあの御方に付き従っている」
弁慶の低い問いに、三郎は「へへっ」と軽く笑った。
「なぜって、そりゃ、盗賊の俺が退治されてしまったということもあるが……源氏の御曹司を奥州まで送り届けるなんて大仕事、面白そうじゃねえか」
「源氏……の御曹司だと?」
弁慶の手が、止まった。
天界の稚児。そう呼び、神格化していた少年の背負う「血」の正体は、滅びの美をまとっていた。
弁慶の中で、主への敬畏がさらなる深みへと沈んでいく。同時に、その尊い肌に当然のように触れていた三郎への不快感が、暗く胸を浸した。
「……左様。あれこそが、平治の乱で滅び去った源氏の残された希望。そして、危うい夢の担い手ですぞ」
暗がりから、低い声が響いた。吉次だった。焚き火のそばに腰を下ろすと、疲れた老人のような顔で炎を見つめる。
「……吉次殿。一つ、問いたい」
弁慶は震える声を押し殺し、吉次を射抜くように見つめた。
「一行が目指している奥州の秀衡殿というのは、牛若さまの血縁者であられるか」
「いえ、さようなものではございませぬ。奥州の藤原氏は、源氏のご恩から生まれた勢力ではありますが、その程度のものにございます」
吉次の淡々とした言葉が、夜の静寂に響く。弁慶は眉をひそめた。源氏の生き残った御曹司が、なぜ遠い奥州へ向かわねばならないのか。
「……赤子の時に父を討ち取られ、幼くして母と引き離されたあの方は、鞍馬の寺で、ただの一人も己を愛する者を知らずに育ちました。私はその拠り所なき心に、ひとつの灯を点したのでございます」
吉次は、静かに言葉を続けた。
「遠い奥州の秀衡さまが、父のような気持ちであなたを待っている……。そうわたくしが囁きかけた時のことでした。何も知らされていなかった牛若さまに、それまで私が平家への復讐や、実父の敵討ちを説いた時には見せなかった、妙に幼い光が、あの方の瞳に宿ったのです。……あれは、武士の野心などではありますまい」
吉次が自嘲気味に口角を歪める。
「私は、あの御方に『見も知らぬ老人を父と思わせる』という残酷な夢を見せてしまったかもしれません。時折、その報いが恐ろしく感じております」
吉次の独白を、弁慶は噛みしめるように聞いた。
自分が命を捧げると決めた、危うい存在の奥底にある、まだ言葉にもならぬ幼い渇きが感じられた。
その時、宿の奥の間から、ふらりと人影が現れた。牛若だった。
「吉次、今秀衡殿という言葉が聞こえたぞ」
その声を聞いた瞬間、弁慶は息を呑んだ。そこに立っていたのは、昼間までの凛とした主君ではなかった。寝乱れた髪のまま、遠く奥州の空を夢想しているかのような、頼りなげな瞳だ。
「吉次。秀衡どのは、本当に私を待っていてくださるのだろうか」
牛若は、弁慶や三郎の存在など眼中にないかのように、吉次に問いかけた。その瞳に宿った輝きは、あまりにも美しく、触れれば壊れてしまいそうなほどに危うい。
弁慶の胸の内で、静かな衝撃が走った。
この御方は、家来の忠誠など見てはいない。ただ自分を迎え入れてくれる「場所」だけを追い、現実から一歩浮き上がっているかのようだ。
自分は、この御方が求める「何か」にはなれないのだろうか。どれほど血を流そうと、この距離を埋めることは叶わないのか。
弁慶は、冷えた地面に置いた長刀を、静かに、だが力強く握りしめた。主が求めるものが自分に向けられないのであれば、せめてこの身を、誰にも侵せぬ強固な「盾」とし、この危うい少年を、俗世のあらゆる毒から守り抜かねばならぬ。
それは忠義という言葉だけでは括れぬ、暗く重い密かな誓いだった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
王太子妃に興味はないのに
藤田菜
ファンタジー
眉目秀麗で芸術的才能もある第一王子に比べ、内気で冴えない第二王子に嫁いだアイリス。周囲にはその立場を憐れまれ、第一王子妃には冷たく当たられる。しかし誰に何と言われようとも、アイリスには関係ない。アイリスのすべきことはただ一つ、第二王子を支えることだけ。
その結果誰もが羨む王太子妃という立場になろうとも、彼女は何も変わらない。王太子妃に興味はないのだ。アイリスが興味があるものは、ただ一つだけ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる