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よく利用している駅の目の前なのに、こんな所に喫茶店があるとは知らなかった。
父は窓際のテーブルに1人腰掛け、沈んだ顔でメニューの冊子を手で弄んでいる。入ってきた私に気付くと、いつかと同じように目を閉じて、小さく頷いた。
「学校はどうだった?」
「........普通」
十何年ぶりかの会話は、こんな感じだった。父が無言でメニューを広げ、2人でそれを見た。注文が決まったら、お互いに目を合わせて小さく頷き合った。我ながら、何故これで通じているのかは分からない。
注文した飲み物がお互いの前に置かれ、私はホイップクリームが山のように盛られたホットコーヒーのマグカップを引き寄せた。「この前、一緒に居た女は何?恋人?」それだけ聞いて、ホイップクリームの山の頂点を唇で挟んだ。
「ああ、彼女と結婚しようと思ってる」
父の言葉には何の迷いもなく、私は耳を疑った。「彼女は........君より10歳年上の子で、とてもいい子だよ。きっと君も気に入る」ああ驚いた、彼は私の名前も忘れて居るのかもしれない。少し考えてから、「君」だってさ。
「お母さんはどうなるの?」
「................」
私の問いに彼は言葉を無くし、開きかけていた口を閉じた。どこか哀れむような眼差しで、こちらの顔をじっと見詰めてくる。その表情が更に私の怒りを掻き立てた。それなのに、頭に来てるのに、涙が滲んでくる。
私はこの男を怒鳴り散らしたいのに。散々罵って、殴ってやりたいのに、体が動かない。動けない。全身が激しく震え、動かそうにも動かせないのだ。
「お母さんのことは、もう終わらせよう」
「................」
「忘れるんだ」
「忘れるって........」
「君も、そろそろ前に進まなきゃいけない。
高校生だ。勉強をして、いい大学に入るために、気をしっかりと持って頑張ろう」
「........気持ち悪い」
力のない、弱々しい声が出た。それを聞いた父の顔色が変わる。静かな怒りを湛えた目で私を見ているが、何も言えない様子だった。それはそうだ。彼は不倫して、母や私を裏切っている。それなのに私に説教をしようとした。何様のつもりだ?
震えが少し収まるまで無言でコーヒーを飲み、半分ほど残して席を立った。
喫茶店を出て外の空気に包まれると、急に涙が噴き出した。ずっと我慢していたのだ。家族が壊れる。いや、壊れていた。何とか繋ぎ合わせて、何とか一緒に居られた家族が、父の裏切りのせいで離れ離れになる。
私は絶対に母について行く。父の側になんか行かない。父には若い女が居るから1人じゃないし、結婚するのなら子供も作るだろう。名前も思い出せずに「君」なんて呼ばなくていいように、立派な名前を付けてやればいい。私が居なくなると、いよいよ母はひとりぼっちになる。そんなのはだめだ。母には私が必要なのだ。
道行く人達が不思議そうに見てくるが、今は気にしている場合ではなかった。
母にこのことを話そう。そして、一緒に弁護士を探して、祖父母にも洗いざらい話そう。父の会社にも言いふらしてやる。父への愛情はそれなりにあった。だからこそ、余計に腹が立って仕方がなかった。
駅前から離れ、小走りで家路を急ぐ。頬を次々と涙が零れていく。悲しいのと、腹立たしいのと、怖いのと、たくさんの何かが私の中で渦巻いていた。こんなに心が乱れたのは初めてだ。体が粉々に砕けてしまうのではないかと、心配になるほどだ。
「ただいま!お母さん、大変!お父さん........が........」
「これは何」
玄関のドアを開けると、母が仁王立ちで私を迎えた。無表情で、真っ黒な目をしている。それなのに、母が今激怒している事が理解できた。灼熱の炎のように攻撃的な空気が、一気に私の身を凍りつかせる。
「これは何」再度繰り返す。後ずさりしたい気持ちをなんとか押さえつけ、家の中に一歩踏み込んだ。後ろ手でドアを閉める。母の怒りを鎮めるのも急務だが、とにかく父が帰宅する前に全てを報告しなければならない。
「これは、何」
一段と低くなった母の声に、体温が急激に奪われる。そして何故か足に冷たいような、熱いような、よく分からない感覚が生まれた。一体なんの話をしているのだろうか。何度か瞬きをして、母の目をまっすぐに見つめる。母の瞳は微動だにしない。
ふと母の足元に何かが落ちているのに気付いた。ハードカバーの日記。ーーーー「彼女」だ。
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