愛の償い

伏織

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しばらくして、階段を登る音が鼓膜を震わせた。
そのまま足音は私の部屋の前まで来ると、扉を開けた。


「何してんだよ」


大声を上げて泣いてる私の肩を、父の汚らわしい手が掴んで起こす。いつの間にか帰宅していたようで、急いで部屋に来たのか床に彼のカバンが投げ出されている。呆れたような、心配しているような口調で呼びかけると、父はボサボサになった私の髪の毛を指でかきあげた。


「お、お母さんが」

「またか........」


うんざりしたようにため息をつく父のすぐ背後に、母が立っている。何も映らない静かな目で、私のことを見つめている。


「お母さんが暴れたの」

「いい加減にしてくれ」

「私がいつもお母さんに殴られてるのに、どうしてそんなことばかり言うの?
なんでいつもお母さんのこと無視するの? 不倫してるくせに、なんでお母さんと........」

「いい加減にしろよ!」


父の怒鳴り声と共に、初めて味わうような鋭い衝撃を右の頬に食らった。その勢いで、私は再び床に倒れた。「いい加減にしろよ」父が絞り出すような声で繰り返す。
顔を上げると、目に涙を浮かべてこちらを見下ろす父と目が合った。眉根を寄せて、何とも悲痛な表情を浮かべている。


「お前は一体なんの話しをしているんだよ
お母さんはもう死んでるんだぞ」





「........え?」

「死んだろうが。お前がまだ小さい時に、お前の目の前で頭をぶつけて」


赤黒く燃え盛っていた頭の中が、急に静かになった。呼吸の仕方も忘れ、ただ口をぽかんと開けて父の顔を見ることしかできない。父は唇を震わせ、双眸から大粒の涙をボロボロと零しながら、悲しみと困惑の入り交じった顔で私を見返している。


「それからずっとお前はおかしかったのに、今まで何もしてやれなくてごめんな........」

「なに........どういうこと」

「お母さんが死んだ瞬間を見て、お前は気が狂ったのかもしれないな。家の中でよく1人で暴れて自分を傷付けて、お母さんに殴られてるなんて言い出すようになったんだよ」


父の言うことが分からなかった。何を言っているのか、全くわからない。母が死んでる?私の目の前で死んだ?そんなはずはない。
現に今、母は父の背後に立って私を見ているのだ。父は家の中でずっと母を無視しているが、........父には母が見えてない、ということか。つまりこれは、私の幻覚なのか。


再び回転しだした脳みそが、冷静に状況を理解する。それはもう、不自然なくらいに。意志を持った操り人形が手足の糸を切るように、今まで地に足が付いてなかった精神の輪郭がクッキリと浮かび上がる。

それなのに、母の姿は今までどおりハッキリと見えている。これは幻覚だ。奇妙なくらいに理解出来た。幽霊?まさか。
私は今まで、母に虐待されていたのではない。ずっと自分自身を傷付けてきただけなのだ。


「なんで........」

「混乱するのは分かる。俺もしっかり相手出来なくてごめんな........本当にごめんな........」


いや、おそらく父は私の言葉を履き違えてる。しかし訂正する余裕も無かった。
私は「なんで」、今まで何年も己の精神を蝕んでいたものから、急に解放されて全ての現実を把握できたのだろう。それが不思議なのだ。

客観的に考えてみよう、母親が目の前で死んだショックで日常的に幻覚を見て、1人で暴れる少女だ。どう考えても精神的に病気だろう。そんな病んだ人間が、こんなに急に正気に戻るのか?
待て、まだ母親の幻覚は見えている。


ハッとして顔を上げると、冷たい眼差しで私を見下ろす母と目が合った。そして右手にあの日記を抱えたまま、音もなく背を向けて部屋を出ていった。


「待って........」


急激に干上がった舌が上顎に張り付く。砂漠に居るかのように喉の奥が熱く燃え上がっている。老人のような声が己の唇から溢れていく。

父親の腕を押しのけ、母を追いかけようと何とか立ち上がる。それを拒否するかのように、玄関のドアがとてつもない大きな音を立てて閉まり、部屋の窓が微かに揺れた。その音に反応して、父親が怪訝な顔をした。私だけがずっと見てきた「母」の行動が、現実に父親にも影響を与えたのは初めてだ。


「なんだ?」不思議そうな父親の声を無視して、私は部屋から飛び出した。階段を駆け下り、靴も履かずに外に飛び出す。






薄暗くなり始めた空が不安を煽る。藍色を帯び始めた夕空が、真綿のように私の心に入り込んでくる。内側から体を食べ尽くし、残った魂は徒らに放り出す。そうして取り残された私の無念は、永遠に苦しみ続けることだろう。


靴下のままで飛び出したから、地面の凹凸が痛い。しかも走ってる。余計足が痛い。
それでも走らずにはいられないのは、何故だろう?

あの母は、この世に存在していないはずの幻覚。それとも幽霊か。
もう追いかけたところで、生き返らないのに、今更何やってるんだろう。



母がどこに向かったのか、考えずとも分かっている。
見慣れた道を走り、私はかつてあの日記を見つけた神社に辿り着いた。



「................」


神社へと続く階段を見上げ、思わず唾を飲み込んだ。
なんだこれは。見上げた先が黒く、どす黒く澱んでいるように見える。煙のようなものが頂上を包み込み、こちらからでは全く見えない。


ここに母が居る。
右手が唇に伸び、無意識に皮を剥いた。皮が剥けた痛みでハッと我に返るが、既に唇から血が流れ始めていた。軽く滲む程度なら今まで何度もあったが、顎まで垂れるほど出血したのは初めてだ。服の袖で血を拭うと、私は階段の先をキッと睨みつけながら、一段一段、ゆっくりと上って行った。

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