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第六話 風吹けば君 ~scarlet cross~

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 週明け。
 うちのクラスの話題は、辺見の彼氏についてのそれで持ちきりだった。
 ただでさえ騒がしい教室が、今日は群を抜いて姦しい。
 情報化社会とはよく言ったもので、辺見があの日の写真をSNSに投稿したら、次の登校日には、すぐさまこの有様だ。
 かっこいい、イケメン、美形、素敵、うらやましい、クール、でもちょっとかわいいかも、他校の人? 年上? いいなー、等々……。そんなような声が、辺見を取り囲む集団からわらわら聞こえてくる。
 彼女はその応対で、てんやわんといったところ。
 それを見て、黒羽はあまりの反響に自席で頭を抱えている。
 もちろん、あの写真はだいぶ加工してからアップされているし、そもそもが相当に素材に手を加えての男装なので、あれが黒羽だと気付ける人間はいないだろうが、クラス中の女子から自分の男装姿をああも褒めちぎられるというのは、なかなかどうして複雑な気持ちなのだろう。
 しかし、なにはともあれ、作戦は成功した。
 ここまで辺見の彼氏の存在が周知され、しかもそれが超絶なイケメンとなれば、さすがの相田も諦めざるを得ないだろう。
 俺はこれでようやく先生のおっぱいが手に入ると確信し、次の授業が始まるまで、一人寂しく寝たふりを決め込むことにした。
 しかし――。


「だーめ☆」
「なぜですかアァッッ!!!」
 第二生徒指導室に、ご褒美を拒絶された俺の魂の叫びが響き渡る。
 けれども、対面する三鷹先生はそれを完全に無視して、溜息をついた。
「いやー、やってくれたねー、勝利ぃ? 紫蘭?」
 義憤に震える俺とおとぼけ顔の四鬼条を呆れたような顔で見渡して、先生は言う。
「まさかセンセーも、そんな形で解決しちゃうとは思ってなかったわー」
 バッドルート行きの選択肢ばかり選んできたような負け組の二人に事件解決を任せているのだから、先生の想定通りのシナリオにならなかったのはある意味自明の理だったような気もするのだが……。
「でもね、それじゃあさー。緋凪の問題を解決しただけでー、健人の問題は解決できてないんだよねー」
 先生は、なんだかよくわからない言葉で俺を叱咤する。
「だから、この問題はまだ終わってないよ。それに、センセー言ったよね? わかりあおうとしなって。勝利はまだ、それをしてないでしょ? これはゲームでも戦争でもないの。敵を遠ざけたら、はいオシマイ――じゃー、ないんだよ?」
 その四日後。俺は先生のその言葉の意味を理解させられた。



「たすけて……!」
 俺は、俺のことが大嫌いなはずの、俺の大嫌いな女の子から呼び出しを受けて人気のない空き教室に入った途端、そんなことを、当の彼女から涙目で懇願された。
 はいはいまたウソ告ですかー、なんて、叩こうとしていた軽口がさっと引っ込んでいく。
「どうして、俺なんだよ」
「あんたにしかこんなこと頼めないの! わかれよ、ばか!」
 彼女が、顔も見たくないであろうこも俺にそこまで言うということは、つまり。
「じゃあ、また、相田関係のことなのか?」
「……うん。きょうの放課後、話があるって言われちゃった」
「まじかよ……」
 俺は、どんよりと肩が重くなっていくのを感じ取りながら、浮かんでくる無数の疑問に、押しつぶされそうになる。
「でも、今更だが、どうして相田じゃだめなんだ? 逆に、そこまであんな上玉に好かれてるんなら、お前だって嬉しいだろ」
「そんなわけないじゃん! 付き合うとか、ゼッタイありえないから!」
「なんでだよ? なぜそこまで相田を嫌う?」
「べつに、きらいなんじゃないし。ただ、無理なだけ」
「それはお前がフッても付き合っても、男鹿の機嫌を損ねるからか?」
 これは割と有名な噂らしいし、クラスを観察する内に俺も気付いたことだが、男鹿アイカは、相田健人に、惚れている。辺見が相田に好意を向けられたくない最大の理由は、恐らくそこにあるのだろう。
「そうに決まってんじゃん。さすがにそれくらいは、あんたでもわかんだね。そしたら、うちはもうあのクラスじゃやってけないもん……」
「たしかにうちのクラスのボス的な存在である男鹿に嫌われれば、そうなる可能性はないとも言えないが……」
「ないともいえないとかじゃないの! そうなるの! なんでわかんないかな……」
「けどさ、仮にそうなったとしても、相田は男子側の頂点だ。そいつと付き合っているという後ろ盾があれば、それくらいのマイナス、なんとかなるんじゃないか?」
「クラス中の女子を敵に回しても? どうして? どうしてクラスに誰にも友達がいなくなるってマイナスが、たった一人の人気者と付き合えるってだけで打ち消せるの? ねえ、あんたのいうこと、ゼンゼンわかんない。うちにとってはそんなこと、なんにもうれしくもないのに」
 誰かにとっては幸福と思えるものも、ほかの誰かにとっては不幸でああったりする。人間というのは、常に手に入らないものを幸せだと感じるように出来ている。俺達は、どこまでいってもそういう哀れないきものなのだろうか。
「相田の周りの男子は味方になってくれるんじゃないか?」
「自分が付き合える可能性のないメスに、男は興味なんて持たない。そもそも、うちはヘテロの友達なんて欲しくないしね」
「じゃあ、今の俺はなんなんだよ……」
 てか、こいつ今なんかさらっとすごいこと言ってなかった?
「あんたは友達でもなんでもないでしょ? あんたはただ、サーヤに自分を売り込むためにうちを利用しているだけ。利害が一致してるってだけだから。なんかまた勘違いしてるんなら殺すぞ? くそハイシャ」
「てめえに勘違いなんか二度とするわけねえだろが。思い上がんな無個性ブス」
 俺達は、いつものようにガン付けあった。
 辺見は今日も、異性に対してしてはいけないような顔を俺に向けてくださっている。
「そうそう。あんたはそうやって汚いこと吠えてんのがお似合いだっつーの。しね」
「お前が相田にもそうやって啖呵切ってくれたら楽なんだけどなあ」
「んなことできたら苦労してねーんだよ! ばーか!」
「それがこれから助けてもらう人間の態度かよ……」
「じゃあ、なに? あんたは今からうちが媚び媚びの声を出したら、喜んでなびくわけ?」
「ないな」
 そういうのを聞くと秒で一年の頃のトラウマが蘇ってきちゃうから勘弁。
「じゃあ余計なこと言ってんなし。不快」
 そしてそう言ってそのまま床に唾を吐きそうな辺見のガラの悪さに、むしろ安心感を覚えている自分がいることに気付き、我ながらやべえなと自己嫌悪が止まらない。
 話を戻そう。
「てかさ、そんな告白一つでお前のこと嫌うような奴との関係、維持する意味ある?」
 すると彼女は、少し恥じらうように。
「うちはさ、それでもこのままアイカと一緒にいたいの。それだけ」
「このことがバレたら、お前をいじめるかもしれないような奴なのに?」
「そう。悪い?」
 その目は、とても。澄んでいた。
「いや、お前ってもっと、打算で友達付き合いしてると思ってたから」
「ほとんどはそうだよ。でも、アイカはただ……。わがままだし、高飛車だし、自分勝手で性格も悪いけど……、でもね、一緒にいたいの」
「……へえ、お前にもそういうの、あるんだな」
 あまりにも純真に男鹿との未来を願う彼女の姿は、間違いなく乙女だった。
 俺は少し、拍子抜けしてしまったくらいだ。
 小説を読んでいて、悪役が実は善人だったということが明かされた時のような気分。
「なに、その感想。きもい」
「ちょっと好きだなって思ったらこれだよ」
 けれど、俺はそういう展開、そんなに嫌いじゃない。
「は? え、なに、またあんたうちに惚れたの? やめてくんない? ほんと迷惑だから! 吊り橋効果とかそういうの全部迷信だかんな???」
「ちげえよ、別にお前に告ったわけじゃねえよ! お前にもただそういう部分があんだなって思っただけだろが!」
 そもそもいつ俺とお前は吊り橋渡るようなドキドキ体験を共有したんだよ。意味分かんねよ。毎日がカルナヴァルなの?
「断られてから否定するとかほんとハイシャだなあんた。相変わらずきもい。そろそろ死んだら?」
「少なくともお前と相田の問題を解決するまでは生きててやるよ。感謝しろ」
「恩着せがましすぎるんですけど。ハイシャのくせに」
 そうして吐き出された悪態は、どこか勢いがなかった。
 すると、彼女はなぜか、頬を赤らめて。
「でも、まあ。ありがと……。それと、土曜日も」
 そんなことをもじもじ言い出した。オレンジ色の髪が揺れる。
 じれったい目がこっちを見ていた。。
 本来ならたぶん、胸のときめきとかそういうのを感じてもおかしくないだけのかわいさやいじらしさが、そこにはあったのだろう。
 だが、もう俺とお前は、そういう次元からはとっくにいなくなってしまっている。
 だから、そう、つまり、あれだ。今のお前は……。
 端的に言って――薄気味が悪い。
 俺は鳥肌を撫でながら、言った。
「え、なんか今、底冷えのする幻聴が聞こえたんだけど。こっわ。ねえ、今のあれ、お前も聞いてた?」
 であれば当然彼女から返ってくるのは。
「死ね! 殺す! ハイシャほんときもい! ばか! 死ねっ!!!」
 罵倒。罵詈雑号。ただそれだけ。それだけだ。
 二人の間には、それしか存在していない。
 けれど。
 やっぱり、彼女と俺との距離は、これくらいでちょうどいい。



 風が吹いている。
 夏至が近づきつつある五月の空。この時間でも、天はまだ青い。
 俺は一人屋上に立って、果てしない水平線を眺めていた。あるいは雲の流れを。
 やがて、キィィィと音がして、待ち人はやってきた。
 彼は俺を見つけると、その爽やかな顔のまま。
「こんなところで何してるんだ、灰佐?」
 相田健人は、今日も変わらず好青年だった。
「お前を待ってたんだよ、相田」
「なんで俺がここに来ると知ってるんだ? それは今日、緋凪にしか……」
「とぼけたことぬかしてんじゃねえよ。お前だってそれくらいわかってんだろ? その辺見に、代わりに断ってくれって頼まれたからだよ」
 俺は、いきなりに告げる。彼にとっては、絶望の事実を。
 しかし、そんな悪いニュースを、自分を馬鹿にするような口調で言われたとしても、相田の物腰は、まだ柔らかい。
「へえ、なるほど。緋凪と仲の悪い灰佐が、緋凪にそんなこと頼まれたっていうのか?」
「俺がここにいて、あいつがここにいないのが、何よりの証拠だ」
「ふーん、そうか。じゃあ君は、俺の告白を邪魔しに来たってわけなのかな」
「馬鹿か、お前は? そうじゃねえよ。そもそもお前がどんな方法で辺見にアプローチしようが、それはあいつの迷惑にしかならない――という現実を教えに来てやっただけだ」
「どうしてそれを、緋凪じゃなく君が言いに来るんだ?」
 わざと挑発しているのにまるで誘いに乗らない相田に苛立ちながら、俺は彼を煽り続ける。
「だからさっき言っただろうが。考えてからものを喋れイケメン。一回言っただけじゃわからないお前のためにわかりやすく言い直してやるとな、お前と二人きりで話してるところを誰かに見られるのが嫌なんだよ、辺見は」
「なるほどね。アイカか?」
「そうだ。男鹿に好かれてるお前が辺見に近づくのは、辺見にとってはいい迷惑なんだよ」
「はっ、だからここんとこ俺は緋凪に避けられてたわけか。合点がいったよ」
「自覚があったんなら止めとけよ。気持ち悪いな」
 想い人に避けられてると告げられてまで、悠然とへらへらしている相田が不気味だった。
「気のせいだろうと思ってたんだ。それと、正直言ってどうすべきなのかよくわからなかった。いままでそんな風にされたこと、なかったからね」
「かー、イケメンは言うことが違いますねえー。なにそれ、自慢?」
 今のは割とガチでヒリついた。相田に嫌味なところが一切ないのが、なおさら。
「別にそういうんじゃないさ。気を悪くしたならごめんな」
「あっそ。で、辺見のことは諦めてくれたのかな、相田クン?」
「正確に言えば、俺はもう諦めてる」
 相田はそう言うと、前髪をかきあげた。
「はあ?」
「あの子が俺を好きにならないということは理解してる。でも、それを緋凪の口から聞いて納得したかった」
「ただの自己満足じゃねえか。自分のオナニーに人まき込むなタコ」
 俺がそう言うと、なぜか相田は少し、ほんの少しだけ、拗ねるかの様に。
「灰佐は緋凪にちゃんと振ってもらえたから、そんなことが言えるんだろうな。本人から直接無理だと言われてもいないのに、この気持ちに収まりなんてつかないよ」
「知るか。あいつはお前に会うのさえ嫌なんだよ。察しろ、雑魚」
「勝手に緋凪の気持ちを語るなよ。君なんかに、緋凪の何がわかるんだ?」
 君なんかときたか。そうだ。美辞麗句なんていらねえよ。もっと汚い言葉でしゃべれ。
「お前こそ辺見の何を知ってんだ? 教室で笑顔振りまいてるだけがあいつじゃねえぞ?」
「それくらい知ってるさ。緋凪が陰で灰佐をいじめてたことだって知ってる」
「そうかよ。そんなやつの何がいいんだ? もっといいやつがクラスにはいるだろが」
 黒羽に四鬼条、それに、うちのクラスは問題児こそ多いが、顔のいいやつなら一杯いる。
 しかし、相田は首を横に振った。
「いないよ。そんな人は、どこにも。あれほど必死になって人と関わっている子なんて、どこにもいない」
「それがお前が辺見に惚れた理由か? 理解に苦しむな」
「君にはわからないだろうね。面食いの灰佐には」
「わかりたくもねえよ。あいつの精神性に惚れたなんて、頭おかしいだろ。完全に」
「そうだ。たしかに緋凪の心は醜いよ。それでも、懸命に取り繕って、いつも頑張って生きてるんだ。自分を殺してまで。そんな子を生かしてやりたいと思うのは、おかしなことか? 自分の手で支えてやりたいと、思っちゃいけないか?」
「随分と上から目線の同情だな。貴族様みたいだ」
「そう思うのは、灰佐が卑屈なだけだろ」
「俺は正論とか道徳とかが大嫌いなんだ。悪かったな」
 それはいつだって、俺を守ってはくれなかった。俺は守っていたのに。
「その割には緋凪を助けてあげてるじゃないか」
 俺が辺見を? ちゃんちゃらおかしい。お門違いもいいとこだ。
「お前を破局に追い込んでんだよ」
「君は嫌われ者になるのが趣味なのか?」
「んなわけねーだろが。喧嘩売ってんのかお前?」
 誰も好き好んで学園の嫌われ者になんてならない。結果そうなってしまっただけだ。
 いや、悲しすぎるだろ。俺。
 BOTTIは、哀しすぎる……。哀れなBOTTIに魂の救済を……。
「ふっ。そうか。じゃあ結局はこれも、誰かの為なんだな」
 相田は俺の言葉尻を上げ繕っていい気になったのか、軽く笑った。
 その余裕が、気に食わない。
「俺の為だ。少なくとも、辺見の為では決してない。勘違いすんなよ?」
「なら、偽の彼氏をでっち上げたのも、そうなのか? それも、灰佐の為か?」
「……現実逃避するのは止めろよ。辺見は彼氏持ちだ。諦めろ。往生際が悪いぞ」
 はったりなのかもしれないが、突然の追求に、一瞬息を飲んでしまった。
「今ので大体察したよ。まあ、そういうことにしておこうか。緋凪の、為にね」
 さすがカースト首位の人間は、話術に長けてやがる。人と話す機会の少ない俺なんかとは大違いだ。
 自然体なのにどこか優位に立っている彼のそのあり方に、嫌悪しか湧かない。
「お前、意外とやな奴だな。元々嫌いだったのに更に嫌いになったわ」
「そうか。それで? 緋凪に頼まれたお仕事はもう終わったか?」
「あとはお前がもう二度と辺見に告るなんて馬鹿げたことをしないと約束してくれればそれで終わりだ」
「それは約束できないな」
「いや、そこはきっぱり諦めろよ。ストーカーでにもなる気か、王子様?」
「だって、そうだろ。アイカが俺のことを嫌いになってからなら、俺が緋凪に告白したって、何の問題もない」
 お前が女に嫌われるなんてことあるのか? あの辺見だって、付き合うのが嫌なだけで、嫌いだとは一言も言っていなかったのに。
「ああ、そういうこと? お前もまあもの好きというか、一途というか。ようやるわ。軽く引くんだけど。ま、仮にそうなったとしても、どうせ無理だと思うけどな」
「緋凪はやっぱり、俺と付き合うのは無理だと言っていたのかい?」
「ご存知ならぱっぱと諦めてくれませんかね?」
 お前さえそうしてくれれば、俺はこんな面倒なことしなくて済むんだから。
「出来るならそうしてるよ、初めてなんだ。こんなのは。女の子にあんな素っ気ない態度を取られたのはさ」
 俺なんて素っ気ない態度とかじゃなくて無視しかされないんだよなあ。態度すらないからね。無よ? 好きの反対。
 だというにコイツは……。
 あー、こいつの話聞いてると僻みとか嫉妬で頭やっちまいそうだわ。
「はいはいもうお前のイケメン自慢はわかったから。つーか愛想悪くされると惚れるとかマゾかよお前。気色悪いな」
「いや、違うな。愛想が悪いわけじゃあないんだ。ただ、なんというかその……」
「うんうん、辺見はかわいいね。それはわかったから、もう辺見に友達以上の何かを求めたりしないと早く誓ってくれ」
 俺がそう言うと、彼は、
「それを緋凪が望んでいるなら、俺はそれで構わない。ただ……」
 諦めを、口にした。
 けれど、その口で。
「……どうしてその立場に、俺が立てなかったんだろうな。俺はさ、灰佐、君が羨ましくて仕方がない。俺は別に、彼女と付き合えなくったってよかったんだ。ただ、そうして君のように彼女を支えてやりたかった。ただそれだけだったんだ」
 あの、クラス一のイケメンの相田が、俺を、羨望の目で睨んでいた。あの爽やかな笑顔を、崩して。
「お前みたいなやつが、俺を、羨む? はあ? お前それ、マジで言ってんの?」
 意味がわからない。どんなブラックジョークだ。
「本気だよ。今更冗談をいう理由もない。俺は君がただ、羨ましい」
「好きな女に振られて、やけになってるんじゃねえのか?」
「ははっ、そうかもしれないな。こんな気持ちは初めてだよ。こんなにやるせなくて、どうしようもない気分は」
 この年になって初失恋ですか。そらすごい。てっきりみんな小学生の頃にそういうのは済ませてるもんだと思ってたよ。
「初めて、か。そんな奴に羨ましがられるなんて、ムカついてしょうがねえな。なんの皮肉だよそりゃ。俺はここ一年で少なくとも五十は振られてるってのに」
「でも、この間、緋凪に告白されて、振ったのはほかならぬ君だろ」
「あんなウソ告……」
 俺が言い返そうとすると、相田は初めて声を荒げた。
「嘘だっていいじゃないか! あの時緋凪は、君がうんと言えば君と付き合っていたはずだ!」
「は? お前マジで頭大丈夫? 初の失恋はそんなにつらかったでちゅかー?」
 俺は、あまりにわけのわからないことを言う相田に一瞬ガチ切れしてしまいそうになるのを必死で抑えた。それで出てくるのがこの煽りなのは、ご愛嬌。
「頭がおかしいのは君の方だ。あの緋凪の告白を断ったんだから。あの時から、緋凪は、たぶんだけど俺に好かれてるのを嫌がっていた。だから、灰佐、君なんかに告白したんだ。彼氏が出来れば俺も緋凪を諦めるだろうという思いからね」
「いや、それはねえだろ。たとえそれでお前との関係の如何で男鹿から嫌われずに済んだとしても、俺なんかと付き合っているとなれば男鹿から白い目で見られる。本末転倒じゃねえか」
「ところが、そうはならないのさ。あれはアイカがあくまで冗談で言ったことを、敢えて緋凪が本気にしたフリをしてやったウソ告だからね。アイカは本気でそんなことをさせるつもりはなかったと思うが、ある日冗談で二人がそんなことを言い合ってるのを、俺は聞いてしまった。あれはそれを好都合とみて、したたかな緋凪が実行した、歴とした計画だ」
 まあ辺見なら、それくらいやってもおかしくはないが……。
「仮にそうだったとして、そこまで気付いてんなら諦めろよ。何度も言うが、しつこすぎるぞ、お前」
「違うよ。今のは今日ここに君がいたからわかったことだ。君が緋凪に信頼されていると。だから、緋凪を呼び出した時点では気付いていなかったわけで……いや、そんな言い訳はよそう」
「じゃあ、今はもう、あいつのことは諦めたってことでいいんだな?」
「ああ。さっきも言っただろ、もう俺は諦めてるって」
 相田は、ぎこちない笑顔で笑った。
 それを見た俺は、もう我慢できなかった。
「そうか。なら、もう一ついいか」
「なんだ、奇遇だな。俺もちょっと灰佐に言いたいことがある」
 二人は同時に息を吐いた。
「てめえ一発殴らせろスカシ野郎」「一発、殴ってもいいか?」
 ――やっぱり、そうなるよな。
 俺はイラついているはずなのに頬が緩むのを感じて、おかしくなってさらに口角を上げた。
「気が合うな、イケメン」
「敗者と合うような気なんて願い下げだよ」
 相田は、爽やかでもぎこちなくでもなく、ただ。不敵に、笑った。
 それは立派な、一人の人間としての生きた表情。
「本性をあらわしたなァ、相田。……その顔が見たかった」
「俺は君の顔なんて見たくもなかった、永遠にな」
 彼は、端正なな顔を歪めて。
「いくぞ?」
 こちらへ足を踏み出す。
「後で泣き言言うなよ?」
 そうして、俺達二人は、拳と拳を突き合わせた。
 おそらくはこんなことがなければ一生交わることのなかった二人が、辺見緋凪という少女を媒介として、こうも熱く交錯する。別に、彼女を取り合っているわけでもないのに。
「その顔で! その境遇で! 俺に! 羨ましいとか! 冗談も! いい加減にしろ!!」
「緋凪と付き合えたのに、それを棒に振った畜生を羨ましがって何が悪い!」
「そんなのはてめえの妄想だっつってんだろが!!!」
「じゃあ、どうして、オマエが! ここにいる!!!」
「んなこと!!! 知るかよ!!!」
「クソッ! クソクソクソクソクソクソクソクソクソッッッ!!!!!」
 殴り合う。ただ殴り合う。
 その先には何もないと知りながら。
 だからこそ譲れずに。
 身体のあちこちが赤くなって、空さえも赤く染まって。
 彼女のことで、すべてが変わっていく。
 そして、二人は――。


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