老剣士の三百歩〜余命一年から始める冒険者稼業〜

けんぽう。

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第5話 一分の防人

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麦畑の縁を、風が右から左へ撫でていく。小川の石橋を渡れば、道は緩やかに起伏しながらフェルンホルムの森へ続いていた。クレインとルカは肩を並べ、同じ影を道に落として歩く。

ルカは立ち止まらずに地図を畳み、帯の間に挟んだ。
「……あと三キロ。十回休憩しても、昼には着くね」

前を向いたまま、クレインが鼻歌を洩らす。
「帰るは西風道は土——」

「今の歌、なに?」
ルカが首だけで訊く。

「昔の行軍歌じゃ。三番がようできとる」

ルカは手帳を開き、記憶の棚を捲る。
「“王立史叢”に載ってないよ。戦後の標準歌集だと、二番まで」

クレインは肩をすくめた。
「三番は、土の味がするからの」

ちょうどそのとき、荷車が彼らを追い抜いた。御者のおばさんが歌を二番だけを辿り、三番の手前で途切れる。車輪のガタガタが歌を押し流していった。

ルカが小さく笑う。
「ね。やっぱり二番まで」

「本に載らんから、無かったことにはならん。魂は覚えとる」

「でも歴史は記録が第一だよ」ルカは半笑いのまま言う。「じいちゃんの“撤退戦の英雄譚”、教科書にはない。つまり、じいちゃんの話は……」

クレインは足を止めない。
「脚色かもしれんし、そうでもないかもしれん。退く話は、書きにくい」

道端で、倒れた樽に若い農夫が取りついていた。額の汗を拭う暇もなく、力任せに持ち上げようとしていた。クレインは言葉もなく石を一つ蹴り寄せ、梃子の支点を据え直した。木の棒を差し込み、体重を乗せると、樽はため息のようにころりと返った。

「助かりました!」
農夫が頭を下げる。

クレインは口の端を上げた。
「剣も樽も、力より“理合い”よ」

ふと、路傍の道標に目が止まる。銘板の一角が丁寧に削られていて、そこだけ石肌が新しい。
ルカは指先でその平面をなぞった。
「……前の文字、消してある?」

クレインは空を見上げた。
「風が強かったんじゃろうて」

ルカはため息をひとつ落とす。
「風で消えるなら、僕は書き留めたい。……でも“英雄”は載ってない」

クレインは軽く咳払いをして、照れを紛らわせるように帽子もない頭を撫でた。
「載っとらん“良いこと”もある。誰かが楽に眠れる」

小さな間が置かれ、ルカは自然と歩幅を合わせた。

「じゃあ僕は、“歩いた跡”だけ拾ってく」

「拾うなら、つま先で。踵から踏むと、音でばれる」

言い終えた途端、クレインの膝がぱきん、と小気味よく鳴った。

ルカが眉を上げる。
「音でバレた」

クレインは苦笑し、両手を広げて見せる。
「老骨の仕様じゃ」

二人の笑いが、麦の穂のざわめきに溶けた。やがて道はゆるやかに盛り上がり、峠の向こうにフェルンホルムの森が濃さを増す。青みを帯びた緑の塊は、日差しの角度で時折きらりと光り、そこへ向かう影を静かに飲み込んでいった。


村の外れ、麦が尽きて荒れた土が見え始める場所に、荷馬と道具箱が待っていた。荒い鼻息が鐙金を曇らせ、木の箱には鑿(のみ)や槌、石灰袋がぎっしり詰まっている。
若い男が手拭いで額をこすり、こちらへ頭を下げた。

「王都ギルドの方?自分、テオっていいます。師匠の代わりで……その、山の銅像、剥落がひどくて」

ルカが道具箱に目をやりながら、手帳を開く。
「像は誰の?功績とか年号とか、銘は?」

テオは肩をすくめ、申し訳なさそうに笑った。
「“無名の護り手”ってだけです。昔の戦の人らしいっす。詳しくは……師匠も多くは語らないんで」

クレインは小さく鼻を鳴らした。
「無名、か。……行くかのう」

短い合図で、荷の紐が締め直される。テオは手際よく道具箱を馬の背へ移し、ルカは地図を胸元に収める。クレインは剣を肩に担ぎ、足首を一度だけ回した。

山道の入口は、雑木の影が濃く沈み、ひんやりとした気配を漂わせている。鳥の声が遠くで跳ね、小川の流れが細く応える。

崩れかけた細道に、谷風が斜めから吹き上がる。

「ここ、たまにグレイウルフが出るって……」
テオの声は風に削られ、頼りない。

谷風が岩を擦れて鳴った。
その上を、遠く薄く——狼のような遠吠えがひとすじ走る。耳にかからぬほどの細さだが、二度、三度と反復し、山肌のどこかで反響が返った。

クレインの足が半歩だけ速くなる。
「……急ぐぞ」
声は低いが、命令の拍がある。

「い、今の、聞こえました?」とテオ。喉が自分の声に驚いている。
ルカは地図を握り直し、紙の端をギュッと折る。「気のせい、だといいけど……」

風が向きを変え、草いきれの奥から生き物の匂いが混ざった。
石橋を渡り切る瞬間、足裏にかすかな振動。草海の一角が、波のように反対方向へ窪む。

「来るぞ」
クレインの声が、今度は短い。歩幅を合わせる余裕は切り捨て、細道の勾配を稼ぐ。

しかし道は崩れかけ、片側は切れ谷、片側は岩壁。逃げ場は風だけにある。
低い唸りが増え、灰色の影が草を割った。ひとつ、またひとつ。形は細く、目だけがよく光る。

「グ、グレイウルフ……!」テオの声がひっくり返る。
ルカは喉を鳴らし、詠唱の第一語が舌に貼りついて出てこない。

影は扇のように広がり、細道の前後を塞いだ。
扇の正面に四、左の藪に三、右の影に二。計九。
岩と谷に背を押しつけられる形で、三人は一歩も退けない。
風が抜け、草が同じ方向へ倒れる。その中心で、灰色の群れが低く姿勢を落とした——囲まれた。

「来る……!どうしよう、魔法!?詠唱を早く!?」
ルカの言葉は半ば悲鳴だった。

「ルカ!」クレインの声が風を断つ。「深呼吸して周りを見るんじゃ。——上の岩場へ。あの高みだ、正面一列!」

三人は斜面を小走りに移動し、幅二間ほどの平らに陣取った。背には岩、前は狭い下り。風が正面から抜ける。
クレインは短く指示を畳む。
「ルカ、詠唱を始めい。風と音の衝撃波じゃ。六十秒、ワシが守り切る」

ルカは頷き、低い連声で言葉を紡ぐ。
「……風位を束ね、空気を撓め、我が声に応えし蒼穹の精霊よ──」


クレインは足元から扁平な石を選り、手の中で重みを測った。
グレイウルフの群れが扇状に広がり、岩場の下で低く唸る。

一投。石は岩肌に当たって跳ね、鼻先にち、と弾いた。
二投。谷側の石へ角度をつけ、尻にこつん。
三投。斜めの面を渡り歩くように弾み、耳の後ろをかすめる。

痛みと驚きが群れを崩す。前列は出られず、後列が詰まる。狭所で獣の呼吸が渋滞した。
「“いち”で投げ、“に”で跳ね、“さん”で届く。——ほれ、詰まった」
クレインの声は低く、一定だ。

「残り三十秒……!」
ルカの詠唱陣が拍ごとに光点を刻む。その明滅が残り秒を教えた。

一頭が焦れて跳んだ。クレインは石を真下へ弾ませ、返りで顎下をち、と撃つ。獣は着地を外し、手前で伏せた。

右の二頭、目が据わった。クレインがマント広げ身体を大きく見せ威嚇する。

「……空気、束ね、震わせ、音を刃に——残り二十秒!」
ルカの声が速く、滑らかになる。

群れの背後で一頭が回り込みを試みた。
クレインは投石で間を止め、抜かずの太刀で鼻先を払う。混乱はさらに深まり、獣は舵を乱していく。

「良い子じゃ。——そのまま踊れ」

獣たちの混乱が頂点に達した時、ルカの詠唱が最終段に入った。

「風脈、結界、鼓膜を震わす——震盪波(ソニック・サージ)!」

「今じゃ、正面三歩!放て!」
クレインの合図と同時に、ルカは両掌を突き出す。
見えない衝波が轟音を背負って扇状に走り、群れの耳を打った。獣は耳を伏せ、体勢を崩す。足場の悪い坂が牙を剥き、灰色の影は雪崩のように後退する。

最後尾へ、クレインが一投。石は岩で二度跳ね、逃げ足の尻を軽く叩く。獣はさらに速度を上げ、森影に溶けた。

静寂。風だけが草を渡った。

「……一分、長かった」
ルカは肩で息をする。

クレインは剣で地をカツ、と叩いた。
「長く“感じた”だけじゃ。拍を刻めば、一分は守れる」

テオが胸を撫で下ろす。
「みんな無事だ……」

クレインは短く頷いた。
「上出来じゃ。——ルカ、進軍するときは周りをよく見て進め。地形、風向き、遮蔽物、すべて味方にできるようにな」

「うん……」
ルカは取り乱した自分を戒めるように頷き、祖父の声を胸に収めた。
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