老剣士の三百歩〜余命一年から始める冒険者稼業〜

けんぽう。

文字の大きさ
20 / 22

第20話 眠りと目覚めのあいだで

しおりを挟む

セラフィエルへ向かう馬車は、出だしからうるさかった。板バネが鳴るたびに声も跳ねる。

「だからワシは馬車は好かん!聞かせてやろう、戦時中の行軍の話を!」
「その話、何百回も聞いたよ!日に四十キロ行軍、でしょ!」
「うむ、あの頃は——」
「じいちゃんの足じゃセラフィエル間に合わないの!冬で閉山しちゃうの!これも何度も言ったよね!?」
「……そうじゃったかのう。なら、仕方ない!」
「このやりとりも三回目だよ」

しかし、その騒がしさは長く続かなかった。

最初に変わったのは食だった。
「じいちゃん、ほとんど食べてないじゃん」
「……あぁ、もう腹がいっぱいじゃ」
手は箸を持つが、箸は茶碗を越えない。馬車の揺れは同じなのに、匙の音だけが減った。

次に、起きている時間が短くなった。
「じいちゃん、ご飯食べないの?せめてスープだけでも」
「身体がだるくてのう。……後で食うわい」
言葉の終わりが布団の中へ落ちていく。午前の丘も、午後の峠も、眠りの境目が曖昧になる。

やがて、意識を保つのが難しくなっていった。
「じいちゃん!起きて!じいちゃん!!」
「……ルカか?ここは療院か?」
「馬上の療院だよ。……一緒にセラフィエル行くんでしょ?もうすぐだよ」
「そうか、そうじゃったのう……かっかっか……」

車窓の外では、旧国境の稜線が日に日に白くなる。風は針のように細く、夜明け前は息が白い糸になって揺れた。ルカは背嚢の脇に手帳を開き、短く記す。
〈脈拍90、体温37.5——三日継続〉
書いた指先が一瞬止まり、またページをめくる。馬車は雪の気配を鼻先に受けながら、きしみ声で進んでいく。

揺れる座席で、クレインは時々目を開ける。開けた目は必ず、前を向いている。峠の向こう、慰霊碑の方角。ルカは毛布を直し、手綱の音を合図に、また小さく拍を刻んだ。


セラフィエルの麓は、空の端をそのまま地上へ引き延ばしたようだった。幾重にも連なる稜は神々しく高く、上(かみ)のほうは早くも雪で薄く白んでいる。風が鳴るたび、雪化粧の面(おもて)がわずかにきらめいた。

「この山脈が……セラフィエル」
ルカは小さく息を呑み、馬車の幌へ振り返る。毛布に沈むクレインは、胸の上下だけがはっきりし、呼吸は荒い。ときおり、痰が絡むように低くゴロゴロと鳴った。
「じいちゃん、着いたよ」
恐る恐る声をかけると、クレインはゆっくりと瞼を上げた。
「……水を」

数日ぶりに戻った意識に、ルカは目を見張る。革袋の水を少しずつ口へ運ぶ。
「ゆっくり飲んでね」
口縁を離し、クレインは短く頷いた。
「行くかのう」

鎧は音を立てないように着けられる。胸当ての紐、籠手の留め、鞘の重み。ひとつずつ確かめる所作は、病み上がりの人間のそれではなかった。立ち上がる姿にも、どこか現実離れした静けさがある。
「無茶だ!」
ルカが思わず声を荒げる。
「数日、意識なかったんだよ!僕がどんな思いでこの数日間——」
クレインは不自然なほど穏やかな声で遮る。
「大丈夫じゃ。理由はわからんが、不思議と軽い」

彼は草地に出て、足を二、三度だけ跳ねさせた。続いて、型に入る。
剣先は大きく振られない。肩も腰も、無駄を捨てた回転だけがある。水が小石を撫でていくように、重心が前へ後ろへ移り、足の裏が土を押す。切先は空を裂かず、ただ空気の層を“通す”。拍は静かだが、一拍ごとに場の温度が変わる。激烈という言葉から遠い、澄んだ流れ——小川が日差しを映しながら曲がり角を受けていく、そのたわみ方に似ている。
「……本当に、大丈夫なんだよね?」
ルカの確認は、祈りに近かった。
クレインは、ただ頷く。

そこへ、雪焼けの地元の男が声をかけてくる。背には古い雪崩避けの板。
「登るのかい?もう来週には締めるところだったよ。山越えなら諦めな」
「問題ない。中腹までじゃ」
「……ああ、慰霊碑あたりの調査か何かか。今の時期、行くには金級ライセンスがいるよ」

クレインは懐から革入れを抜き、金級の冒険者証を示した。男の目がわずかに見開く。
「おっと、そいつは失礼」
ギルド章に通行許可の印が押され、赤い蝋が山風の中で冷えていく。
「この季節は雪崩がある。気をつけてな」

印の乾きを待つ間、ルカはもう一度、祖父の横顔を盗み見た。痩せた輪郭に、奇妙な静けさが宿っている。真剣であればあるほど、どこか可笑しくなる彼の顔——今は、その可笑しみすら澄み切って、山の空気のなかで輪郭だけが少し薄くなって見えた。風がひゅう、と通り、雪の匂いと、遠い岩の匂いが交じる。
「行こうかのう」
クレインが言い、ルカは頷いた。二人の影は、中腹へ向かう細い踏み跡へ重なり、雪化粧の稜線へ向けて、静かに歩みを始めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】うだつが上がらない底辺冒険者だったオッサンは命を燃やして強くなる

邪代夜叉(ヤシロヤシャ)
ファンタジー
まだ遅くない。 オッサンにだって、未来がある。 底辺から這い上がる冒険譚?! 辺鄙の小さな村に生まれた少年トーマは、幼い頃にゴブリン退治で村に訪れていた冒険者に憧れ、いつか自らも偉大な冒険者となることを誓い、十五歳で村を飛び出した。 しかし現実は厳しかった。 十数年の時は流れてオッサンとなり、その間、大きな成果を残せず“とんまのトーマ”と不名誉なあだ名を陰で囁かれ、やがて採取や配達といった雑用依頼ばかりこなす、うだつの上がらない底辺冒険者生活を続けていた。 そんなある日、荷車の護衛の依頼を受けたトーマは――

出来損ない貴族の三男は、謎スキル【サブスク】で世界最強へと成り上がる〜今日も僕は、無能を演じながら能力を徴収する〜

シマセイ
ファンタジー
実力至上主義の貴族家に転生したものの、何の才能も持たない三男のルキウスは、「出来損ない」として優秀な兄たちから虐げられる日々を送っていた。 起死回生を願った五歳の「スキルの儀」で彼が授かったのは、【サブスクリプション】という誰も聞いたことのない謎のスキル。 その結果、彼の立場はさらに悪化。完全な「クズ」の烙印を押され、家族から存在しない者として扱われるようになってしまう。 絶望の淵で彼に寄り添うのは、心優しき専属メイドただ一人。 役立たずと蔑まれたこの謎のスキルが、やがて少年の運命を、そして世界を静かに揺るがしていくことを、まだ誰も知らない。

『辺境伯一家の領地繁栄記』スキル育成記~最強双子、成長中~

鈴白理人
ファンタジー
ラザナキア王国の国民は【スキルツリー】という女神の加護を持つ。 そんな国の北に住むアクアオッジ辺境伯一家も例外ではなく、父は【掴みスキル】母は【育成スキル】の持ち主。 母のスキルのせいか、一家の子供たちは生まれたころから、派生スキルがポコポコ枝分かれし、スキルレベルもぐんぐん上がっていった。 双子で生まれた末っ子、兄のウィルフレッドの【精霊スキル】、妹のメリルの【魔法スキル】も例外なくレベルアップし、十五歳となった今、学園入学の秒読み段階を迎えていた── 前作→『辺境伯一家の領地繁栄記』序章:【動物スキル?】を持った辺境伯長男の場合

『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』

夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」 教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。 ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。 王命による“形式結婚”。 夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。 だから、はい、離婚。勝手に。 白い結婚だったので、勝手に離婚しました。 何か問題あります?

アルフレッドは平穏に過ごしたい 〜追放されたけど謎のスキル【合成】で生き抜く〜

芍薬甘草湯
ファンタジー
アルフレッドは貴族の令息であったが天から与えられたスキルと家風の違いで追放される。平民となり冒険者となったが、生活するために竜騎士隊でアルバイトをすることに。 ふとした事でスキルが発動。  使えないスキルではない事に気付いたアルフレッドは様々なものを合成しながら密かに活躍していく。 ⭐︎注意⭐︎ 女性が多く出てくるため、ハーレム要素がほんの少しあります。特に苦手な方はご遠慮ください。

ラストアタック!〜御者のオッサン、棚ぼたで最強になる〜

KeyBow
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞奨励賞受賞 ディノッゾ、36歳。職業、馬車の御者。 諸国を旅するのを生き甲斐としながらも、その実態は、酒と女が好きで、いつかは楽して暮らしたいと願う、どこにでもいる平凡なオッサンだ。 そんな男が、ある日、傲慢なSランクパーティーが挑むドラゴンの討伐に、くじ引きによって理不尽な捨て駒として巻き込まれる。 捨て駒として先行させられたディノッゾの馬車。竜との遭遇地点として聞かされていた場所より、遥か手前でそれは起こった。天を覆う巨大な影―――ドラゴンの襲撃。馬車は木っ端微塵に砕け散り、ディノッゾは、同乗していたメイドの少女リリアと共に、死の淵へと叩き落された―――はずだった。 腕には、守るべきメイドの少女。 眼下には、Sランクパーティーさえも圧倒する、伝説のドラゴン。 ―――それは、ただの不運な落下のはずだった。 崩れ落ちる崖から転落する際、杖代わりにしていただけの槍が、本当に、ただ偶然にも、ドラゴンのたった一つの弱点である『逆鱗』を貫いた。 その、あまりにも幸運な事故こそが、竜の命を絶つ『最後の一撃(ラストアタック)』となったことを、彼はまだ知らない。 死の淵から生還した彼が手に入れたのは、神の如き規格外の力と、彼を「師」と慕う、新たな仲間たちだった。 だが、その力の代償は、あまりにも大きい。 彼が何よりも愛していた“酒と女と気楽な旅”―― つまり平和で自堕落な生活そのものだった。 これは、英雄になるつもりのなかった「ただのオッサン」が、 守るべき者たちのため、そして亡き友との誓いのために、 いつしか、世界を救う伝説へと祭り上げられていく物語。 ―――その勘違いと優しさが、やがて世界を揺るがす。

タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。

渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。 しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。 「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」 ※※※ 虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。 ※重複投稿作品※ 表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。

【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活

シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!

処理中です...