老剣士の三百歩〜余命一年から始める冒険者稼業〜

けんぽう。

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第21話 セラフィエル四合目、白狼王

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四合目。目的地まで、あとわずか。
空気が変わった。鼻腔の奥がきしみ、肌に細い刃のようなヒリつきが走る。雪面の上、白い影が音もなく形を結ぶ——白狼王フェンリル。伝説と呼ばれる、ここの主だ。

「こんな時に!」
クレインが低く吐く。
「じいちゃん、引き返そう!」
「無理じゃ。この坂道で四本足の王は振り切れん!」
「じゃあ!?」
「戦うしかないわい。行動目標は“撃退”、殺す必要はない!」

「指示を!」
「火炎系の“どでかい”魔法を頼む!六十拍、ワシが持たせる!」
「じいちゃん、闘気はダメ!命を削る!」
「それができりゃ苦労はせん!」


白狼王が、雪を爆ぜさせて来た。雄叫びが谷を割り、銀の牙が弧を描く。クレインは半身で迎え、刃ではなく“面”で受け、顎の力を流す。爪が閃くたび、足と呼吸の拍だけで線を外し、肩でいなし、腰で抜く。
「瀕死のじじいに、きつい仕事じゃ」
冗談めいた言葉と裏腹に、目は笑わない。

噛みつき、引き剥がし、横薙ぎ——白い影が拍ごとに形を変えるたび、クレインは刃ではなく“面”で受け、力の向きを半尺だけずらして雪へ落とす。牙は鍔元で受けて手首で回し、爪は籠手の外側で滑らせ、肩の捻りで空に放る。右足はためて、左足は撫でて置く。踏み替えの「いち」で間合いを奪い、「に」で腰を落とし、「さん」で流す。雪面はきしみ、白狼王の肢が刻んだ轍が、いなされた軌跡として残っていく。

連続、継続。攻めは途切れず、受けも切れない。
白い霜が火花の代わりに散り、狼の息と人の息が氷の匂いで混じる。
その合間に、クレインの足裏は雪の薄皮だけをそぎ落とし、刃の縁は一度も“斬らず”に、攻撃の線だけを外へ導く。すべてが一拍ごとに噛み合い、次の一拍のためにほどけていく——老剣士はただ、流し続けた。

だが、凌いだのは“たった十拍”。残り五十、クレインが支えねばならない時間は、山の斜面よりも途方もなく思えた。

「白狼王相手に、出し惜しみはできんか!」
深呼吸一つ。覚悟が、声の濁りを消す。
「ワシの命——ここで全部、置いていく」
「ダメだ、じいちゃん!」
抗う声を背に、老剣士は拍を解いた。

「闘気解放・初段<身体強化>」

熱が皮膚の内でふくらみ、筋が一本ずつ順番に目を覚ます。腱がきしみ、血が指先まで押し出され、聴覚だけが研ぎ澄まされていく。
踏み込み——雪がぐっと圧縮されて鳴り、刃の代わりに足裏が地を切る。白狼王の肩が沈む気配と同時に、クレインの体は拍に先んじて前へ滑り、牙へ到達する速度が一段、跳ね上がった。
鍔元で受け、手首で半寸ねじる。
火花の代わりに白い霜が円を描いて散り、ふたつの影は同じ拍でぶつかり、同じ拍で離れる。呼気が白く絡み合い、毛並みが逆立つ気配まで指に伝わる。
老骨は悲鳴を上げるが、心は静かだ。次の拍、また次の拍——互角に届く距離だけを保ち続ける。

「……くっ。これで互角、いや、やや劣るか」
息は荒いが、目の焦点は切れない。ルカの詠唱は続く。
残り四十拍。
クレインは顎をわずかに下げ、ため足で雪面を撫で、次の牙に“いち”を合わせた。風が鳴り、拍が刻む。撃退のための六十拍が、山の呼吸と重なり始める。


クレインは白い巨影の動きを、目ではなく“拍”で掴みはじめた。牙が弧を描くたび、前脚の肩がわずかに沈む。爪の散弾が舞う一瞬前、瞳孔が針のように収縮する。
「……お主の手、いち、に、いち、に、に、じゃ」
数える声は雪に吸われるほど小さい。だがその拍こそが、暴風のような連打をほどく鍵だった。

爪と牙が降り注ぐ合間に、細い“素通しの道”が一条だけ立ち上がる。
「今じゃ!」
クレインは爪の返しに生じる、ほんのわずかな揺らぎを指で手繰り寄せるように踏み込み、そこでしか通らない角度で刃をすべり込ませた。
鋼は骨を求めず、ただ線を通す。白い鼻梁に、細い切れ目が走る。
「ぐわぁああ」
白狼王が跳ね、雪煙が円を描いた。

——ルカの詠唱、残り三十拍。

「ぐぉおおおおおおお!!」
大地が鳴った。獣の雄叫びは、獲物を示す音から、敵を指名する音に変わる。クレインとルカは、いまや“食われるもの”ではなく“退けるべき相手”になった。

「まだ退いてくれんのかのう」
クレインは半歩退き、白狼王の進路とルカの身体の間に斜線を引く。噛み込みは鍔元で受けて回し、爪の払(はら)いは籠手で滑らせ、体当たりは斜面の傾きへ逃がす。後退しながらも、ルカへの直進だけは一度も許さない。

「命、いくつ差し出せば、退いてくれるのか?」
自嘲とも覚悟ともつかぬ呟きのあと、老剣士は息を深く吸い込んだ。
「闘気解放・弐段——〈剛力〉」

雪が低く鳴り、地面の下まで固くなる。白狼王の爪が正面から振り下ろされる。クレインは逃げず、真正面で受けた。鍔と爪が噛みあい、霜が火花のように四方へ散る。
「白狼王と鍔迫り合いできるなんて——長生きはするもんじゃなぁあああ!!」
喉から血が跳ね、唇が紅く染まる。それでも足は“ため”を失わず、腕は弓のようにしなり続ける。押し込みと押し返しの拍が合い、互いの体幹が雪に深く彫り込まれていく。

——ルカの詠唱、残り二十拍。

クレインは顎をわずかに下げ、肩と腰の回転をもう一度合わせた。次の牙に、“いち”を乗せるために。白い息と白い霜が交わり、拍だけが、確かに刻まれていく。



 白狼王は、力比べでは埒が明かぬと悟ったのだろう。踏み込みの拍が変わり、攻めが縦に切れ、横にほどける。単調だった連撃が織物のように密度を変え、牙と爪が交互に光を引いた。

 「獣とは思えぬ、いい頭のキレよ……ならば——」

 クレインは雪を一度だけ強く踏み、肺の底の火を引き上げる。
 「闘気解放・弐段〈飛脚〉」

 足裏が雪の薄皮をそぎ、拍ごとに影が二重になる。白狼王の連打は、来るより先に抜けられた。爪が空を切り、牙が遅れて霜を散らす。速度だけで追い越すという、単純で無謀で、老体には酷い芸当。

「じいちゃん、もうやめて!」
背で、ルカの声が裂ける。けれど詠唱は止まらない。——残り十拍。

白狼王の打ち手に、さらに変化が生まれた。均一だったリズムに濃淡が混じり、虚と実が編み込まれる。空を噛ませる一撃の直後に、本命の牙が“半拍”だけ遅れて落ちる。クレインはそれを見て、口角だけで笑った。そこには捕食者の傲りはなく、好敵手への澄んだ敬意があった。

「光栄じゃ。狼の王——ならば、ワシの“全部”、持ってけぇえええ!」

「闘気解放・参段《剛力・飛脚》同時」
血が目頭から滲み、口端を赤く染める。視界の縁が震えるのに、世界はむしろ遅く見えた。(——見える。起こり。肩の沈み。次の拍)
牙が来る“いち”を、腰の捻りで空へ捨て、“に”で脛の外へ押し出し、“さん”で線を通す。爪の返しの揺らぎを指先で手繰るように潜り、喉元の皮膚がわずかに張るその瞬間へ、刃先だけを置いた。

白い毛並みが震え、短い傷が首元に走る。

「今じゃ、ルカ!」
「——〈フレイム・ボルケーノ〉!」

大気が一瞬、吸い込まれて落ち、次いで噴き上がる。火柱が雪面を割り、炎の舌が白狼王を包む。毛が焼ける匂いと、爆ぜる音。
「うぉおおおおおお!」
獣の咆哮が谷を揺らした。

クレインは膝を折り、剣先を雪へ突いて息を繋ぐ。ルカも肩で荒く息をして、両膝に手をつく。炎の向こう、白狼王はなおも立っていた。焦げた毛の間から白い眼が二つ、静かにこちらを見ている。

「……届かんかったか」
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