ヒグラシと牡丹

とづきこう

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 先生のお屋敷に来て七日が経ちました。

 私の仕事は、庭の花や草木の水やり、掃除、買い物、食事の準備。さらに、このお屋敷には先生の患者がいらっしゃるので、一階にある診察室への案内、診療費のお勘定をするのも私の仕事です。言葉が話せない私に、先生は紙と万年筆をくださり、患者とのやり取りに使用しています。慣れないことばかりで覚えるのに大変ですが、先生は「ゆっくりでいい」と優しく声をかけてくださいます。

 そのような日々でも、ひと時の癒しがあります。それは先生とお茶をすることです。西洋の珈琲というお茶は、あまりの苦さに驚きましたが、先生はこの苦味が美味しいそうです。「苦味が美味しい」という表現は私にはわかりませんでしたが、水飴を溶かすことで幾分か飲みやすくなるので、珈琲にも慣れてきました。

「今日は夕方から往診に出かけてくるよ。私の夕餉はいらないから、かやは好きなものを食べなさい。快星堂の“あんぱん”でも買っておいで」
「……っ」
「ははっ、そんなに嬉しいかい。それと―― 時間のある時に“般若心経”を書く練習をしておくといい。これから先、役に立つことがあるかもしれないから」

 先生は私に三つ折りの紙を手渡しました。その紙を広げると文字がびっしりと書かれており、それが経の見本であることを聞かされました。なぜ経が役に立つのかという疑問はさておき、先生が練習をするようにとおっしゃるものですから、私はその言葉に従うのみです。

 その後、買い物に出かけた私は菓子屋である快星堂へと寄り、あんぱんを買いました。初めてあんぱんを食べた時、この世にはこんなにも美味なものがあるのかと、涙が出そうになるほど感動しました。ひとつ食べるだけで十分にお腹が満たされるので、今日の夕餉用と先生の分と合わせて二つ。先生から金子きんすを預かっていますので、買い物や食費などはその中でまかなっています。

 その菓子屋を出た時のこと。
 浴衣を着た娼婦らしき女性たちが店の前で物騒な話をしていたので、思わず聞き耳を立てました。

「また行方不明だって。これで何人目なのかしら」
「さあ。どうせ客の男と逃げたんでしょ。逃げたって借金があれば一生追われる身なのに、馬鹿なことするわよね。ねぇ、そんなことより“牡丹”の噂、知ってる? 最近、娼婦の間で流行ってるらしいの。牡丹の入れ墨を彫ると、客付きがよくなるんだって」
「たかが入れ墨で?」
「あのね、ただの入れ墨じゃないの。真っ赤な牡丹の入れ墨は生花のような美しさで、特別な墨を使うそうよ。しかも、花柳病かりゅうびょうも防げるんだって」
「そんな夢のような話……どこで彫ってもらえるの?」
「知らないわよ、あたしだって知りたいわ」

 花柳病といえば、先日お屋敷にいらっしゃった患者に同じ病を患っている人がいました。身体中に赤い斑点を持ち、顔の一部がしこりとなり腫れあがっていました。先生がおっしゃるには性行為により感染し、このような状態になれば進行を止めることはできないそうです。煎じ薬で痛みを和らげることはできても、死を待つだけだと。ですので、とても恐ろしい病だと聞かされています。

 そのような病に、入れ墨など効果があるとは思えません。ですが、彼女たちにとっては、迷信であろうと病を防げる可能性がるのなら試してみたいと思うのでしょう。仮にこの話が本当だとしたら、助けられる命があるのではないか。そう思った私は、足早にお屋敷へと戻りました。

 ですが、着いた頃には先生は往診へと出かけていました。絶え絶えの息を整えているうちに、ふと冷静になったのです。あのような噂話を真に受け止めたとして、先生の迷惑になるのでは、と。良くしてくださる先生に、惑わすようなことを言ってはいけないと思いました。

 私は居間の机にあんぱん一つと置手紙を残し、静かに自室へと向かいました。

 階段を上ろうとした時です。
 ふっと鼻を掠めたのは、何かが腐ったような匂いでした。紙袋に入っているあんぱんかと思いましたが、そんなはずはありません。いつもは玄関先で香木を炊いていますが、この日に限って先生は忘れていたのか、香木は炊かれていませんでした。ですので、その匂いは気のせいではなく、一階のどこかであると確信が持てました。

 かすかな匂いを辿って廊下の奥へ進んでいくと、南京錠で施錠してある扉の前に行き着きました。その部屋は「立ち入ってはいけない」と先生に言われていましたが、どうにも気になります。ですが、先生の言いつけは守らないといけません。

 気に留めないようにしよう、そう思って自室へ戻ろうと振り向いた時――
 
「かや」
 
 先生は酷く優しい笑顔でそこに立っていたのです。
 


※花柳病…梅毒、淋病などの性病
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