【完結】妖精と黒獅子

水仙あきら

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第三章 あの日の約束に真実の夢を見る

19 短き邂逅

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 色褪せた記憶が途切れると同時に全身が鈍い痛みを訴え始めて、ルーカスは眉をしかめつつもゆっくりと目を開けた。
 辺り一面真っ黒とは、死後の世界としてはありえそうな景色である。地面に激突した痛みが死んでからもついて回るなんて、女神もなかなか味なことをするものだ。
 横向きに倒れたままぼんやりと虚空を見つめていると、徐々に暗闇の中で像を結ぶものがあった。
 転がる石ころ。無造作に生えた雑草。生い茂る木々に、粉っぽい春の匂いと頬に押し付けられる冷えた土の感触が生々しい。

「嘘だろ? 生きてる!?」

 予想だにしない現実に直面したルーカスは、痛む身体を押して勢いよく起き上がった。
 全身をくまなく確認するが、大きな怪我は見当たらない。擦過傷や打撲でひどい事になっていたし、特に左肩が鋭い痛みを訴えていたが、命に別状はなさそうだった。
 そんな馬鹿な。あれ程の高さから落ちて無事だなんてことがあるはず無いのに。
 そこまで考えて、ルーカスは重要な事を思い出していた。そういえば自分が道連れにしたあの工作員は、一体どうしたのだろうか。
 その答えはすぐに得る事ができた。慌てて視線をめぐらせば、エミールはすぐ近くの木に上半身を凭れかけ、地面に足を投げ出したまま座り込んでいた。

「よう。そっちは無事らしいな」
「……君。その、怪我」

 言ったきり絶句してしまったルーカスに、エミールは皮肉げに笑って見せた。
 エミールの有様は酷いものだった。暗闇の中でも分かる程に白い細面は血に塗れ、裂けた脇腹も朱に染まっている。右腕は妙な方向に折れ曲り、左腕はだらりと垂れ下がって、左足に至っては骨が見えるほどの裂傷を負っていた。

「なんでこんな……俺は、無傷みたいな物なのに」

 問いかける声は自然と掠れていた。自分が引き起こした惨劇を受け止める事は、戦場に出た経験を持つルーカスにとって難しい事ではない。しかし想定外に生き残ってしまった今となっては、その事実も含めて頭が飽和してしまい、ただ呆然と彼を見つめる事しかできなかったのだ。

「あんたが、自分の身を犠牲にするような事をするからだ。なんでそんな事ができるのか、知りたいと思った。だから庇った。結果としてこの有様だ。ほんと、情けねえ」

 闇の中、月の光を受けて藍色が輝いている。情けないと言う割に彼は楽しそうに笑っていたのだが、その瞳には追求する強さが含まれていた。

「あのお姫様もそうだった。揃いも揃って世の為人の為、あんたら頭おかしいんじゃねえのか?」
「ええと、そのお姫様ってのは、義姉上……セラフィナ姫のこと、かな」
「そーだよ。いいから答えろ、坊ちゃんスパイ」

 坊ちゃんスパイとは酷い言い草だが、どうやら彼は今までのやりとりの中でルーカスが諜報員である事を感じ取っていたらしい。それほど優秀な彼が何故そんな事を気にするのかわからないが、別に知られて困ることでもないのでおとなしく答えてやる事にする。

「別に、人の為にって訳じゃない。俺は兄の足手まといになったりしたら自分のことを許せなくなるから、そうならない為に君を道連れにしようとしたんだよ」
「なんだそりゃ。じゃあつまり、あんたは」
「自分の為にやっただけってことになるかな。罪滅ぼしと言ってもいい。俺は利己的な人間だから」 

 そう、ルーカスはセラフィナとは違って、他者の為に自身を犠牲にするような献身は持ち合わせていない。兄に憧れて役に立ちたいと願ったのも、元を正せば役立たずの自分が許せなかったからだし、だからこそあんな無茶な行動に打って出る事ができたのだ。

「俺は、自分に誇れる自分でありたい。それは兄さんを見ていて心の底から思うことなんだ」

 事も無く言い切ったルーカスに、何故だかエミールは目を見開いたまま呆然としていた。しかしややあって彼の口から漏れたのは、微かな笑い声だった。

「……はは。あははははは!」

 次第に大きくなる声に、今度はルーカスが困惑する番だった。彼は傷が痛むのか時折息を詰まらせつつ、腹を抱えて大声で笑っている。

「え、なにちょっと、どうしたの。俺なんか変なこと言ったかな」
「いーや、別に。あー……久しぶりに笑ったわ」

 ようやく笑いを収めたエミールは、どうしたことか憑き物が落ちたような顔をしていた。登場した時の酷薄な笑みは最早その片鱗すら残っておらず、血に汚れた今の顔つきの方が余程清々しく見えた。

「自分に誇れる自分、か。俺は自分の為にあの国を潰すことを決めたが、結局、母さんの遺志に逆らってまで成し遂げても、自分自身に対する誇りは抱けないんだろうな」
「ええと、ごめん。何を言っているのかよく解らないんだけど」
「あんたの捨て身の覚悟に押し負けるくらいじゃ、俺の考えは結局弱かったんだなって話だよ。あんたは自分のこと利己的だって言うけど、俺からしたら十分ご立派だ。こっちが情けなくなるくらいにな」
「はあ。それは、どうも」

 彼の言うことは難解で、ルーカスは意味がわからずに首をかしげるしかない。

 遠くから名を呼ぶ声が聞こえてきたのは、会話が途切れたその時だった。

 ——ス様! どこですか!

 この、声。聞き間違いでなければ、ルーカスにとって最も愛しい人の声だ。

「ルーカス様! 生きてたら返事してください! ルーカス様——っ!」

 今度こそはっきりと聞こえた。
 あまりにも都合が良すぎる展開に一瞬夢かと疑ってしまったが、ここまで切迫した声は聞いた事がない。聞こえてきた方角へと顔を振り向けば、カンテラの微かな明かりが揺らめいていた。

「ここだよ!」
「……ルーカス様!」

 足音が慌ただしくなり、カンテラの明かりが上下に揺れる。
 信じられないことに、暗闇の中から現れたのはエルマであった。
 彼女がこの旅路への同行を申し出た時、ルーカスは止めようとした。悲しいかな彼女が自分の事を嫌っているのは知っていたので、旅の間中付きまとうと匂わせれば着いては来ないだろうと踏んだのだ。
 しかし彼女はそれさえも意に返さず、結果的にはあの厳格な兄を説き伏せてしまった。それほどの忠誠心をセラフィナに対して抱いているのなら仕方ないと、あの時は嘆息したものだったのだが。
 それなのに迎えに来てくれた。敬愛する女主人に会いに行くことよりも優先してくれた。俄かには目の前の光景が信じられずに目を見開くが、死の危険に晒されたばかりの男に対してもエルマは容赦がなかった。

「無茶をして! どれだけ旦那様が心配なさったか、わかっているんですか!?」

 エルマは見たことのないほどの怒りの形相で一喝をくれた。どれだけルーカスがしつこく話しかけてもここまでは怒らなかったはずなのに。ルーカスは驚いて、反射的に頭を下げていた。

「ごめん。けど、君は心配してくれなかったのかな?」
「それだけ軽口が叩けるなら大丈夫のようですね!」

 いらいらと腕を組んだエルマは、全身土だらけで、ワンピースの裾はほつれてしまっていた。どうやら自力で崖を下ってきたらしいと理解して、ルーカスは眉間にしわを寄せる。

「どうやって降りてきたの」
「持参したロープを伝ってきたんですよ。旦那様を説得した上で、杭を打ち付けて帰りのルートも確保してきましたので、時間がかかってしまいましたが」 

 およそその華奢な外見からは及びもつかない身体能力である。そして用意の良さが尋常ではないのだが、彼女は一体どのような事態を想定していたのだろうか。

「君こそ無茶じゃないか」
「ルーカス様ほどではありません」
「それを言われるとね。兄さんたちはどうなった?」
「お二人には残りの馬に乗って先に行って頂きました。あなた様のせいで本当に大変でしたよ」

 エルマは不機嫌であることを隠そうともせず、ぷいと顔を背けてしまった。
 そこでようやくエミールの存在に気付いたらしく、彼女はその惨状を目の当たりにして体を硬直させた。

「し、死んで……!」
「ねえよ。残念だったな」

 エミールは苦笑すると、折れ曲がった右手を持ち上げて追い払う動作をした。

「もういい加減に夜も明けてきた。さっさと行けよ」
「けど、君はハイルング人なんだろう? さっきより怪我の治りが遅いように見えるけど」

 それは先程からずっと気になっていたことだった。血は止まっているようだったが先程と同じく瞬時に回復しているようには見えず、もしかするとここまでの怪我だと治せないのではと思ったのだ。
 しかしルーカスの危惧にあっさりと首を横に振ったエミールは、続いて面倒くさそうに肩をすくめて見せた。

「ハイルングの力を連続で使い過ぎて、修復が追いつかないだけだ。時間はかかるだろうがほっときゃ治る。その後はかつてないほどの疲労地獄だろうけどな。あーヤダヤダ」
「痛むんだろう」
「なんだよ今更心配か? やっぱあんたも立派なお人好しだな」

 エミールは続けて右手を振っていたが、ルーカスはすぐに動く事ができなかった。敵とはいえ彼は命の恩人なのだ。こんな寂しい森の中、大怪我をした状態で置いていくなんて。
 躊躇するルーカスを促したのはエルマだった。

「ルーカス様、参りましょう。開拓した登攀ルートを残していきます。彼なら自力でなんとかするでしょう」

 エルマは複雑な感情を織り交ぜた眼差しをエミールへと向けた。セラフィナを刺したという事実と、今ルーカスを助けて傷を負った彼の姿が重なって、心を落ち着かなくさせているのだろう。

「ルーカス様を助けてくださり、ありがとうございました。これ、良かったら」

 真摯に腰を折り曲げたエルマは、エミールに向かって紙袋を差し出した。膨らみ方を見るに、どうやら果物でも入っているらしい。怪我によって手で受け取ることのできなかったエミールは、足元に置かれた紙袋を見やり、呆れ返ったと言わんばかりにため息をついて見せた。

「類は友を呼ぶってやつか。ほんと、お人好しの甘ちゃんどもが。さっさと行っちまえ」

 突き放す言葉とは裏腹に、エミールが見せた笑みは今までで一番優しいものだった。
 彼がルーカスとの会話の中で何を得たのかは解らない。しかし彼が苦しみから解放されたことはその表情を見れば明らかで、先程こぼした言葉を思い返しても、敵対する意志は無いと感じられた。

「もう会うことはないよね?」
「ああ、俺はそう願ってるよ……」

 それが最後だった。エミールの全身から力が抜け、安らかな寝息が聞こえ始める。あの冷徹な雰囲気は見る影もなく、無防備に眠るその姿は、血まみれである事を除けば子供のようにあどけなかった。

「いこうか」
「はい。ご案内します」

 登攀ルートとやらに案内してくれるらしく、エルマは先立って歩き始めようとしたが、ルーカスはそれを制して先頭に立った。流石に惚れた女に草木を掻き分けさせるなんて男の名折れだ。

「エルマ」
「はい」
「ありがとう、探しに来てくれて。嬉しかったよ」
「……いいえ。ご無事で何よりでございます」

 ちらりと斜め後ろを振り返れば、照れたように俯くエルマの姿があった。やっぱり好きだなと独りごちて、ルーカスは黙って森を進むのだった。
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