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7 春は舞う
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入院生活は静かに過ぎた。
最初の頃に感じていた焦燥感もなくなり、気付いた時にはほとんど痛みも感じなくなっていた。日に一、二組の来客と世間話をし、本や新聞を好きなだけ読み、供された食事をゆっくりと味わうだけの日々。
そんな中、ジゼルとは見舞いに来てくれた時以来顔を合わせることはなかった。その事実が妙に気にかかっていることを、ロードリックはまだ自覚していない。
この病院の中庭は、二つの病棟に囲まれる様にしてひっそりと存在する。
南向きの環境故に温かく、芝生が敷き詰められた庭の片隅では桃の花が満開を迎えていて、華やかな香りを漂わせている。
ロードリックは外で本でも読もうかと出かけてきたところだった。今くらいしかこんなにゆったりとした時間は取れないのだから、せっかくなら楽しまなければと思える様になったあたり、かなりの成長だと言えるのかもしれない。
そうして座るところを探して視線を巡らせたところ、目を止めたベンチの上に腰掛けるほっそりとした人物と目を合わせることになった。
「チェンバーズさん……」
「ジゼル嬢か」
最初に髪を切ってもらったベンチに座っていたのは、他ならぬジゼルだった。
今日は小花柄のワンピースを身に纏っており、春の日差しと相まって温かみのある装いだ。ジゼルは膝の上にキジトラの猫を乗せていて、立ち上がって挨拶ができない非礼を詫びた。
「いや、構わない。……その猫は?」
「ここに住み着いているみたいですね。私、よくここで休憩してから帰るので、懐いてしまって」
ロードリックは実のところ動物が好きだ。その事実を知った者は意外だと驚き、冗談であることを疑ってかかるのだが、子供の頃から変わらず好きなのだ。
だがしかし、だいたい驚かれるので素直に口には出しずらい。触りたいのを誤魔化すために腕を組むと、ジゼルは何の裏表もない笑みを浮かべたようだった。
「可愛いでしょう? 触ってみませんか」
「いいのか?」
いかん、ちょっとあからさま過ぎる笑顔を見せてしまった。
ロードリックは表情を引き締めるべく再び口を閉じたが、ジゼルは特に指摘することもなくにこにこと微笑んでいる。断りを入れて隣に腰掛けても、細い膝の上に鎮座したドラ猫は落ち着き払っていた。
恐る恐る頭を撫でてみる。ふわふわとした毛の感触と、お前には興味がないと言わんばかりの佇まい。これこそが猫だ。
「……うむ。癒されるな」
「ふふ、そうですよね。私も癒されるので、ついここに寄りたくなってしまうんです」
軽やかな声が春の風に乗って溶けていく。桃の花に混じって春特有のまどろむような香りが周囲を包んで、緑の擦れ合う音が耳をくすぐる。
ロードリックは雲の浮かぶ青空を見上げて目を細めた。柔らかな日差しを浴びて、知らずのうちに凝り固まっていた体が綻んでいくかの様だった。
未だかつてこんなにも穏やかな時を過ごしたことがあっただろうか。そんなことを思うほどに、温かい時間だ。
「春ですね……」
「そうだな……」
ジゼルが猫の両脇に手を入れてロードリックの膝の上に乗せると、やはりこの毛玉は大物だったのか、なんの戸惑いも見せずに丸くなった。どっしりとした重みに知らずのうちに苦笑が漏れる。
ジゼルはこのドラ猫にオズワルドと名付けていて、由来を聞くと楽しそうに笑った。
「亡国騎士物語の主人公です。猫とは全然関係がないのですけど、すごく大好きな物語でしたので」
亡国騎士物語とは、今から200年ほど前に書かれた古典文芸の傑作だ。戦により仕える国を失った主人公の騎士オズワルドが、かつての国王の息子である王子と力を合わせて国を取り戻すという筋書きの英雄譚。
しかしジゼルからすれば、見所はそこではなかったらしい。
「国を取り戻す過程で、オズワルドは囚われていた王女様を救うでしょう? そのシーンが本当に素敵で」
なるほど、それはとても女性らしい視点の様に思われた。
ロードリックは教養として目を通しただけなのでよく覚えていないが、オズワルドはその王女と結婚するのだったか。
「子供の頃は本当に憧れました。こんな風に救い出してくれるなら、たとえ相手がおばけでもついていくのにって」
この時、ジゼルの瞳が透き通るように遠くを見つめていたので、ロードリックは今更ある事実に気付いて愕然とした。
彼女のことを何も知らない。こんなにも得難い時間をもらっているのに、何を返せば喜ぶのかさえわからない。何歳なのか、どこに住んでいるのか、家族はいるのか。踏み込んだことを聞く術を、ロードリックは何一つとして持っていないのだ。
子供の頃の憧れをどこか切なそうに語るジゼル。彼女はもしかすると、何か大きなものを抱えているのかもしれない。
「あ……も、申し訳ありません、私ったら。変なことを申しましたわ。どうか、忘れて下さい」
返す言葉を持たない口下手なロードリックのせいで、ジゼルは誤魔化すような笑みを浮かべた。
己は仕事しか脳のない木偶の坊だ。恩人が悲しそうにしているのに、話を聞いてやることすらできないだなんて。
それは後悔に拳を握りしめた時のことだった。
今までとは違う強い風が吹いて、ひゅうと大きな音が鳴る。整えられた芝生に風の波が広がったのを見て、ロードリックは反射的に目を閉じた。
すぐに風はおさまったようだ。睫毛に埃の重みを感じながらも再び目を開けると、そこには美しい景色が広がっていた。
薄紅色の桃の花びらが舞って、静かな空間を夢のように彩っている。春の女神の気まぐれとしても奇跡的な光景に、隣のジゼルが歓声を上げた。
「まあ、なんて綺麗……! ほら、見て下さいチェンバーズさん!」
はしゃいだ様に言ってこちらを振り向いた彼女の黒髪に、薄紅色の花びらが一枚乗っていたので。
ロードリックは吸い寄せられる様にして手を伸ばし、ふわふわとした花弁を掬い上げた。頭を花びらで飾ったジゼルは華やいで可愛らしかったから、少し惜しいなと思いながら。
「そうだな、綺麗だ。……ジゼル嬢?」
気付いた時には、ジゼルは顔を真っ赤にして固まっていた。
予想外の反応にロードリックも花びらを掴んだ姿勢のまま動きを止めた。
なぜ。なにが。私は気に触る様なことをしてしまったのか。途端に困惑と後悔が湧き上がってきて、指先が冷えてゆく。
「あ……あ、あの、取ってくださってありがとうございます! わ、私、その、もう帰らないと!」
ジゼルはあたふたと視線を彷徨わせた末に掠れて上擦った声で言った。傍に置いていたトートバックを引っ掴み、怒涛の勢いで立ち上がる。
「で、では、どうかお大事に! 失礼しますっ!」
こうして、ジゼルは脱兎の如く走り去って行った。
一人残されたロードリックは額に手を当てて、目まぐるしく働く思考回路に没入した。この状況は、もしかして。
——三十も過ぎたおっさんが、若い女性に無遠慮に触って引かれた……?
ロードリックは青ざめた顔を猫の背に埋めた。オズワルドという大層な名前をもらった勇者が一匹、場違いなほどに呑気な鳴き声を上げた。
最初の頃に感じていた焦燥感もなくなり、気付いた時にはほとんど痛みも感じなくなっていた。日に一、二組の来客と世間話をし、本や新聞を好きなだけ読み、供された食事をゆっくりと味わうだけの日々。
そんな中、ジゼルとは見舞いに来てくれた時以来顔を合わせることはなかった。その事実が妙に気にかかっていることを、ロードリックはまだ自覚していない。
この病院の中庭は、二つの病棟に囲まれる様にしてひっそりと存在する。
南向きの環境故に温かく、芝生が敷き詰められた庭の片隅では桃の花が満開を迎えていて、華やかな香りを漂わせている。
ロードリックは外で本でも読もうかと出かけてきたところだった。今くらいしかこんなにゆったりとした時間は取れないのだから、せっかくなら楽しまなければと思える様になったあたり、かなりの成長だと言えるのかもしれない。
そうして座るところを探して視線を巡らせたところ、目を止めたベンチの上に腰掛けるほっそりとした人物と目を合わせることになった。
「チェンバーズさん……」
「ジゼル嬢か」
最初に髪を切ってもらったベンチに座っていたのは、他ならぬジゼルだった。
今日は小花柄のワンピースを身に纏っており、春の日差しと相まって温かみのある装いだ。ジゼルは膝の上にキジトラの猫を乗せていて、立ち上がって挨拶ができない非礼を詫びた。
「いや、構わない。……その猫は?」
「ここに住み着いているみたいですね。私、よくここで休憩してから帰るので、懐いてしまって」
ロードリックは実のところ動物が好きだ。その事実を知った者は意外だと驚き、冗談であることを疑ってかかるのだが、子供の頃から変わらず好きなのだ。
だがしかし、だいたい驚かれるので素直に口には出しずらい。触りたいのを誤魔化すために腕を組むと、ジゼルは何の裏表もない笑みを浮かべたようだった。
「可愛いでしょう? 触ってみませんか」
「いいのか?」
いかん、ちょっとあからさま過ぎる笑顔を見せてしまった。
ロードリックは表情を引き締めるべく再び口を閉じたが、ジゼルは特に指摘することもなくにこにこと微笑んでいる。断りを入れて隣に腰掛けても、細い膝の上に鎮座したドラ猫は落ち着き払っていた。
恐る恐る頭を撫でてみる。ふわふわとした毛の感触と、お前には興味がないと言わんばかりの佇まい。これこそが猫だ。
「……うむ。癒されるな」
「ふふ、そうですよね。私も癒されるので、ついここに寄りたくなってしまうんです」
軽やかな声が春の風に乗って溶けていく。桃の花に混じって春特有のまどろむような香りが周囲を包んで、緑の擦れ合う音が耳をくすぐる。
ロードリックは雲の浮かぶ青空を見上げて目を細めた。柔らかな日差しを浴びて、知らずのうちに凝り固まっていた体が綻んでいくかの様だった。
未だかつてこんなにも穏やかな時を過ごしたことがあっただろうか。そんなことを思うほどに、温かい時間だ。
「春ですね……」
「そうだな……」
ジゼルが猫の両脇に手を入れてロードリックの膝の上に乗せると、やはりこの毛玉は大物だったのか、なんの戸惑いも見せずに丸くなった。どっしりとした重みに知らずのうちに苦笑が漏れる。
ジゼルはこのドラ猫にオズワルドと名付けていて、由来を聞くと楽しそうに笑った。
「亡国騎士物語の主人公です。猫とは全然関係がないのですけど、すごく大好きな物語でしたので」
亡国騎士物語とは、今から200年ほど前に書かれた古典文芸の傑作だ。戦により仕える国を失った主人公の騎士オズワルドが、かつての国王の息子である王子と力を合わせて国を取り戻すという筋書きの英雄譚。
しかしジゼルからすれば、見所はそこではなかったらしい。
「国を取り戻す過程で、オズワルドは囚われていた王女様を救うでしょう? そのシーンが本当に素敵で」
なるほど、それはとても女性らしい視点の様に思われた。
ロードリックは教養として目を通しただけなのでよく覚えていないが、オズワルドはその王女と結婚するのだったか。
「子供の頃は本当に憧れました。こんな風に救い出してくれるなら、たとえ相手がおばけでもついていくのにって」
この時、ジゼルの瞳が透き通るように遠くを見つめていたので、ロードリックは今更ある事実に気付いて愕然とした。
彼女のことを何も知らない。こんなにも得難い時間をもらっているのに、何を返せば喜ぶのかさえわからない。何歳なのか、どこに住んでいるのか、家族はいるのか。踏み込んだことを聞く術を、ロードリックは何一つとして持っていないのだ。
子供の頃の憧れをどこか切なそうに語るジゼル。彼女はもしかすると、何か大きなものを抱えているのかもしれない。
「あ……も、申し訳ありません、私ったら。変なことを申しましたわ。どうか、忘れて下さい」
返す言葉を持たない口下手なロードリックのせいで、ジゼルは誤魔化すような笑みを浮かべた。
己は仕事しか脳のない木偶の坊だ。恩人が悲しそうにしているのに、話を聞いてやることすらできないだなんて。
それは後悔に拳を握りしめた時のことだった。
今までとは違う強い風が吹いて、ひゅうと大きな音が鳴る。整えられた芝生に風の波が広がったのを見て、ロードリックは反射的に目を閉じた。
すぐに風はおさまったようだ。睫毛に埃の重みを感じながらも再び目を開けると、そこには美しい景色が広がっていた。
薄紅色の桃の花びらが舞って、静かな空間を夢のように彩っている。春の女神の気まぐれとしても奇跡的な光景に、隣のジゼルが歓声を上げた。
「まあ、なんて綺麗……! ほら、見て下さいチェンバーズさん!」
はしゃいだ様に言ってこちらを振り向いた彼女の黒髪に、薄紅色の花びらが一枚乗っていたので。
ロードリックは吸い寄せられる様にして手を伸ばし、ふわふわとした花弁を掬い上げた。頭を花びらで飾ったジゼルは華やいで可愛らしかったから、少し惜しいなと思いながら。
「そうだな、綺麗だ。……ジゼル嬢?」
気付いた時には、ジゼルは顔を真っ赤にして固まっていた。
予想外の反応にロードリックも花びらを掴んだ姿勢のまま動きを止めた。
なぜ。なにが。私は気に触る様なことをしてしまったのか。途端に困惑と後悔が湧き上がってきて、指先が冷えてゆく。
「あ……あ、あの、取ってくださってありがとうございます! わ、私、その、もう帰らないと!」
ジゼルはあたふたと視線を彷徨わせた末に掠れて上擦った声で言った。傍に置いていたトートバックを引っ掴み、怒涛の勢いで立ち上がる。
「で、では、どうかお大事に! 失礼しますっ!」
こうして、ジゼルは脱兎の如く走り去って行った。
一人残されたロードリックは額に手を当てて、目まぐるしく働く思考回路に没入した。この状況は、もしかして。
——三十も過ぎたおっさんが、若い女性に無遠慮に触って引かれた……?
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