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8 主従の現在について

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「はいチェンバーズさん、検温ですよ。……あら、どうしたんです。頭でも痛いんですか?」

 オドランは相変わらず事務的な態度で朝の検温にやってきたのだが、対するロードリックは抱えた頭を上げる気になれなかった。
 ジゼルと話したのはつい昨日のことだ。別れ際の彼女の様子を思い出すたび、ベッドの上でのたうち回りたいような衝動に駆られてしまう。

「頭ではなく胃が痛い……」

「何で。今はストレスなんてかかっていないはずでしょう」

「ストレスではない。後悔しているだけだ……」

 ため息をつきながら顔を上げると、口の中に体温計をねじ込まれた。この看護婦長、患者の事情に興味がなさすぎである。

「何があったのか知りませんが、せっかく良くなってきたのに無理をすると入院期間が延びますよ」

「……む」

 看護婦が淡々と言って血圧などを計測し始めたので、患者は大人しくしていることにした。ロードリックにとっても職務に忠実な者の仕事を邪魔するのは本意ではないからだ。

 ああ、それにしても昨日は本当に無遠慮なことをしてしまった。必要があったとはいえ断りなく髪に触れてしまうとは、己の行いとは思えない。

 オドランが体温計を抜き取って数値を控えている。口が解放されたのを契機として、ロードリックは一応尋ねてみることにした。

「婦長殿、貴殿はここにジゼルという名の女性が訪ねてきたのを覚えているか」

「ああ、覚えていますよ。ジゼルさんのことは私も知っていますからね」

 ジゼルはオドランとも顔見知りだったようだ。よほど頻繁に知人の見舞いに訪れているのだろうか。
 このままでは二度と会うことはないだろうが、せめて居場所がわかれば謝る機会くらいは得ることができるかもしれない。

 ——二度と会うことは、無い……?

 当然のことを頭の中で確認しただけなのに、妙に胸が痛むのは何故なのだろう。
 正体不明の感傷を隅に押しやり、ロードリックはなるべく平静を装って問いかける。

「彼女が誰の見舞いに訪れているのかご存知か? 謝りたいことがあるから、できれば病室番号まで教えてもらえると助かるのだが」

 しかし問いを受けたオドランは、怪訝そうに眉を顰めて見せた。

「お見舞い……? 何を言っておられるのかわかりませんが、彼女は通院患者さんですよ」

 看護婦長の揺るぎない返答は、ロードリックに頭を殴られたような衝撃をもたらした。
 そんな馬鹿な、何か勘違いをしていたのか? いやしかし、彼女は確かに見舞いに来ているだけだと笑っていたはずで。
 目を見開いて固まるロードリックを前に、オドランはしまったという顔をした。恐らくはジゼルが嘘をついた理由に思い当たるものがあったのだろう。

「すみません、チェンバーズさん。私の言ったことは忘れて下さい」

「しかし、婦長殿……!」

「ジゼルさんは命に関わるようなご病気ではありませんし、悪意があって貴方を謀ったわけでもありません。それだけわかれば十分だと思って下さい。これ以上は、私から言えることではありませんから」

 オドランの態度は取り付く島もなく、会釈すると足早に病室を出て行ってしまった。

 残されたロードリックは混乱した頭で必死に考える。
 命に別状はないとオドランは言っていたから、その点に関しては安心しても良いだろう。初対面の相手に病気について知られたくないという気持ちもわかるし、嘘をついていたことに対して何か思うことがあるわけでもない。

 けれど胸がざわついて仕方がない。日を置かずに通うほど、ジゼルの病状は重いのだろうか。

 まとまらない頭を左右に振ると視界の端に封筒が映り込んだ。すっかり中身を確認するのを忘れていたが、あれはジゼルが余ったからと言って返してくれた銀貨の残りだ。

 そう確か、見舞いの品にありがたく使わせてもらったと——。

 そこまで思い出したロードリックは、確信めいた予感に突き動かされて封筒に手を伸ばした。中身をサイドテーブルの上にひっくり返せば、予想以上にたくさんのコインが卓上に散らばる。

 ああ、これは。この多すぎる金額は。

「茶葉の缶詰が買えるくらいしか使っていないじゃないか……」

 結局のところ、ロードリックは恩すら返すことができなかったのだ。
 気恥ずかしそうに紅茶の缶を手渡してくれたジゼルの姿が思い出された。ロードリックは拳を握りしめて、じくじくと傷み始めた胃を意識の外に追い出したのだった。



 日々は滞りなく過ぎる。どれほど気分を落ち込ませていても、休息を得た体は勝手に回復していく。そしてついに医師から退院の許可が降りたその日、マクシミリアンが最後の見舞いにやってきた。

「退院決定おめでとう、ロードリック」

「は。マクシミリアン様におかれましては、お忙しいところをお運びいただき恐縮でございます」

 ロードリックはいつものように応えたつもりだったのだが、覇気の無さは伝わったのかも知れない。マクシミリアンは無言でベッドの側の木椅子に腰掛けて、しばし言い淀んだ後に問いかけてきたのだが、その内容は実に判然としないものだった。

「……もしかして、辞める気なのか」

「やめる? 何をでしょうか」

 マクシミリアンは葬式でもまだ明るい顔をするだろうと思えるほどに沈痛な面持ちをしていた。一体何を聞かれているのかわからず首を傾げたロードリックは、主君がぼそぼそと続けた言葉に仰天することになる。

「騎士団長を辞める気なのか、と聞いた」

「……はっ!?」

 驚きのあまり主君に対するには余りにも不躾な反応をしてしまった。しかしマクシミリアンは臣下の無礼を気にした様子もなく、どん底のような声音で懺悔を始めた。

「俺は復讐に囚われるあまり、お前たちを……俺の大事な臣下を顧みることができなかった。それでも、お前たちは文句一つ言わずに着いてきてくれた。一つ間違えれば、死ぬところだったのにだ。俺は皆にどうやって恩を返せばいいのかわからない。特にロードリック、お前には」

 マクシミリアンは臣下への感謝を語った。特にロードリックに苦労をかけ、最終的に倒れさせてしまったことについては、謝っても謝りきれないのだと。
 何も役に立てなかったと思っていた。しかし、当のマクシミリアンはそうは思っていなかったのだろうか。

「お前はもう、好きにしていいんだ。亡きチェンバーズ伯へ力添えしたことに恩義を感じているならもう忘れろ。あの時のことは俺こそが伯に対する恩をお返ししただけだ。お前は十分すぎるほど、俺によく仕えてくれた」

 そう締めくくって微かな笑みを浮かべたマクシミリアンを前に、ロードリックはようやく胸の内に実感を得た。

 ——ああ、本当にマクシミリアン様は、お戻りになられたのだな。

 復讐に魂を捧げていた頃の主君はもういない。かつての想い遣りある優しい男が帰ってきてくれたのなら、もしかするとロードリックの仕事など残されていないのかもしれない。
 だが、意思決定の権利が自身にあるというのならば。

「わかりました。御恩をお返ししようなどとは、もう思いません」

「……ああ、そうだな。それでいい」

「これからは私の意思のみで貴方様にお仕えします。まだ席が残されているのなら、ですが」

 この時のマクシミリアンは、思いもよらぬ晴れ間に出会ったような顔をしていた。やがて浮かんだその笑顔は、まさに出会った頃と全く同じものだった。

「当たり前だ。曲者揃いの我が騎士団の団長は、お前にしか務まらない」
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