窓野枠 短編傑作集 2

窓野枠

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一枚の写真

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 「何でこんなに楽しそうにしているのだろう」 
 ソファーに座っていた徹郎は、ぼそっと呟くと立ち上がり、写真の所まで近づきじっと睨み付けた。最初にそう思ったのは、ちょっとした諍いで智子と口喧嘩したときだ。嫌な気分で寝室に入り、お互い口を利かなかった。そんなときこの写真を目にした。智子が言った。 
「いつも笑ってる。楽しかったね」 
「おお」 
 二人並んで写真を見た。 
「俺たちなんで喧嘩していたんだっけ? 」 
「さあ? 」 
 不思議なことに喧嘩してもこの写真を見ると穏やかな気持ちになった。なつかしい声がどこからか聞こえたような気がした。 
「さあ、哲郎、こっちみて…… 」 
 そんな声がした。17年間が過ぎ、笑顔の絶えない家庭が続いた。 
  ☆ 
 午後9時に残業を終えて帰宅した徹郎は、畳の部屋に寝転がった。智子は子どもができたからと辞めた仕事をまた再開した。勝が大学に入って自由な時間ができたから。軌道に乗り時々残業が続く日もある。 
「今日は俺より遅いなあ。がんばっているな智子」 
 閉じていた目を開け上半身を起こした。隅のテーブルにおいてある煙草とライターを手に取った。煙草をくわえ火を付けようとする。火が付かない。イライラしながら何度も石を擦るが、やがて諦めてライターと煙草をテーブルの上に置き、また寝転がった。 
 天井を見てからやがて周りを見回す。見慣れた物ばかりのありふれた部屋の風景。 
 壁に掛けた写真は17年間同じ場所。筑波山の山頂で徹朗の父一徹が撮ってくれた写真だ。今まで徹朗は写真の勝を見て、成長を楽しんでいた。その長男も今では大学に入り、クラブ活動で帰りも遅い。今日もきっとアイスフォッケーの練習を終えてから仲間と何処かで飲んでいるのだろう。すっかり大きくなった。体格を比べると、この写真の面影など何処にもない。唯一残っているものが、きらきら輝く瞳だった。かわいかったなあ、と徹朗は何度も見るたびに思う。もちろん、今でもかわいいことに変わりないが、昔のように抱きしめることもできない。一抹の寂しさを感じていた。 
 最近、家族はそれぞれの道を進んでいる。俺は何処へ進んでいくのだろう。自分だけ何の成長もない気がする。そんなもやもやを感じるようになった。そんなとき、いつものように穏やかな気持ちになりたくて写真を見る。 
写してくれた父のことが頭に浮かんできた。今まで父のことなど考えたことも無かった。写っていないのに写してくれている父の顔がくっきりと徹郎の瞼に蘇ってきた。 
  
「おー、笑って笑って、スグルちゃん、…… トモコさ~ん、…… 。テツロウ、こっち向いて…… 」 
「まあ、お父さんったら、そんな大きな声で、」 
 恥ずかしそうに周りを見ながらも微笑んでいた。智子が抱えていた長男の勝も母親が笑ったからなのか、同じようにケタケタと声を出して笑った。その瞬間にシャッターの音が聞こえた。シャッターの音が消えて、笑い声が消えて、静寂が一瞬起きたとき、山頂に吹く冷たい風が聞こえた。鳥の声が聞こえた。 
一瞬、空間がぽっかり抜き取られた感覚を徹朗は感じた。 
「ははは、撮れたぞ」 
 一徹も笑いながらカメラを胸に構え徹郎たちのほうへ近づいてきた。 
「いや、山の上だって言うのに暑いなあ」 
 胸に構えていたカメラを徹郎に差し出すと、頭に巻いていた手ぬぐいをはずし、顔を手ぬぐいで拭き出した。 
「父さんも写すからさ。智子の横に行ってくれないかな」 
「いやいや、いいよ。とにかく暑くてさ、おまけに登り詰めでもうへとへとだ。なあ、ちょっと休もう。写真はまだ後で取れるから」 
 いつも元気な一徹が珍しく休もうと言い出した。寄る年波には勝てないようだ。標高876メートル足らずの小さな山である。それもケーブルカーで登ってきたのだからほとんど歩いていない。 
 3人でプレハブ作りの茶屋に入り、3人かけのベンチが対においてあるテーブルに腰掛けた。日陰の小屋の中に開け放たれた窓から山の冷たい風が吹き抜けていく。腰掛けてほっとして横を見ると、父の禿げ上がった額に玉のような汗が噴出していた。顎から汗のしずくが滴り落ちていた。 
「父さん、大丈夫かい? 汗びっしょりだけど」 
「ああ、ちょっと疲れたな…… 俺も年か」 
 父の汗は拭けども拭けども引くことはなく流れていた。 
  
 この山登りから帰宅した夕飯の席で、父はビールの大瓶を2本も空けた。身体のためと1本だけにしていたのに。 
「今日は汗をかいたからいつもより多く水分を補給させてもらったよ。夏はビールに限るハハハッ。勝も残さずにまんまを食べて偉いなあ。いっぱい食べてお父さんより大きくなれよお」 
 智子の横に座る勝は、ベビーチェアの上で食べ終わったスプーンをテーブルに叩きつけてキーキーと声を上げながら笑っていた。それを見た一徹は高らかな笑い声を上げた。 
「勝は元気だな。その調子その調子。ちょっとお先に汗を流させていただくよ」 
 首に下げていた手ぬぐいの両端を両手でつかみくるくる捻りあげた。それを禿げた頭に巻き付けた。よし、と声を上げ、席を立つと、一徹は風呂場に向かった。 
「お父さん、着替えを用意しますから」 
 智子がとんとん叩いてうるさい勝のスプーンを取りあげ、替わりにふきんを握らせた。そして一徹の後を追った。一徹は着ていた服をさっさと脱ぎ風呂場へ入っていった。 
「お父さん、下着を置いておきますから」 
 風呂場のドア越しに智子が声をかける。 
「あ、悪いね、いつも」 
 数分すると、やがてお決まりのように一徹は、鼻歌を歌いだした。いつも遊びに来て風呂に入ると黒田節の鼻歌を歌うのが常である。その鼻歌が始まりだしてからしばらくして智子が台所へ笑いながら戻ってきた。 
「お父さん、今日もご機嫌ですねえ。いつもより鼻歌の調子がいいと思わない? 」 
「そうかな。でもさ、もう、年なんだから酒を飲んで風呂へ入るのはやめてほしいなあ、万が一ってことがあるだろ」 
 一徹は二人の心配をよそになおも軽快に鼻歌を歌い続けていた。 
  
「あら、お父さん顔でも洗いはじめたかしら」 
「え、何でそんなことが分かるの? 」 
「ほら、鼻歌が聞こえないでしょ。さっきから歌っていたのに急に聞こえてこないんですもの。顔洗っていたら歌えないでしょ」 
「え、歌えないかなあ」 
 徹朗も流行の元ちとせのハイネズミを歌ってみた。 
「どうだ? いい感じだろ? 」 
 徹朗と智子は冗談を交わしながらも、かすかな不安が脳裏を掠めていた。1分くらいしてまた鼻歌が聞こえてきた。 
「やっぱり顔洗ってたかな」 
  
 勝を寝かせてきた智子が来て、 
「あら、お父さんは? 」 
「あ、風呂だよ」 
二人は時計を見た。 
「もう8時よ。1時間以上経ってるわ」 
「まいったなあ。親父、いい加減なところで出なよ! ねえ、聞こえているかあ? 」 
 台所から風呂場へ向かって声を張り上げる徹朗だが、一徹からの返事はなかった。 
「ねえ、聞こえないのか。もう…… 」 
 そう言ったと同時に、徹朗はダイニングテーブルを押し出すように席を立った。風呂場へ駆けていくと扉を勢いよく開け放った。徹朗が見下ろすと、一徹の薄い髪が浴槽の中に逆立ちながら漂っていた。 
「親父! 大変だ、智子きてくれ! 」 
 浴槽に沈んだ一徹の身体は思ったより重く引き上げるのに手間取った。やっとの思いで引き出し一徹の顔を見た。苦しい表情を見せず、微かな笑みを浮かべ、穏やかな寝顔に見えた。緊急事態を忘れさせるようないい顔をしていた。 
 我に帰った二人は、慌てて救急車を呼んだ。しかし、すでに心臓は停止しており、病院の集中治療室で当直医が人工呼吸を試したが、無駄だった。一徹72歳の最期だった。それから、警察から鑑識課員が来て検死していった。死因は心不全だった。 
 元々一徹は長男一朗と同居していたのだが、時々徹朗の家に泊まり込みで遊びに来る。勝もよちよち歩きをするようになった頃で一徹もかわいくて仕方がない。いつものように風呂に入り、翌朝には朝食を家族で食べる。 
「智子さん、ご馳走様。スグルちゃんまたね。バイバイですよお」と台所で挨拶をすると風の如く帰っていく。こういう何げない日が続くはずだった。 
 葬儀は一徹の自宅で執り行われた。一朗は酒を飲んで死んだ父への対応について哲郎に何も言わなかった。 
「いつかこういう日が来ると思っていたよ。おまえのうちで死んだからって気にするな。俺のうちで同じように死んでいたかもしれないんだから。たまたまおまえのうちだったってだけだ」 
 一朗は徹朗の肩を押さえながら「顔見たろ、おまえのうちで逝って喜んでるよ。俺のところだったらどうだったか…… 」とだけ言って家の中に入っていった。 
 納骨が終わり、一通りの儀式が済んだ。徹朗の家もまたいつもの流れに落ち着いてきた。やっと家の中のことに目がいくようになってきた。 
 寝室の畳にいつものように寝転がった。隅にナップザックが置かれていた。 
 筑波山へ行ったきり片付けていなかったな、と徹朗はナップザックを引き寄せ、中身を覗き込んだ。ケーブルのチケット、レジャーシート、カメラ、三脚が出てきた。元々日帰りだからたいした物は入っていない。こんなことなら三脚を使って4人で写しておくんだったな、と思う。そこへ、夕飯の片付けを終えた智子が入ってきた。 
「なんかやっと落ち着いたわね」 
「ああ、とんだ引き際だったよなあ」 
「なんか、お父さんらしいわ」 
「畳の上で死ねなかったな」 
「でも先生もおっしゃってたわ。死んだことも分からなかったと思いますよ、って」 
「そうか、親父、きっとまだ風呂に入っているつもりでいるかもな」 
 あまりにも突然の死。徹朗には一徹が死んだと言うことがどうにも信じられなかった。また、土曜日になれば突然、ちょっとこの辺まで用事できたから、と言って玄関から顔を覗かせる。徹朗が玄関口に出て行くと、片手を胸の高さにあげ、「おう、徹朗来たぞ」そう言って入ってきそうな気がした。徹朗は断片的な父の面影を噛みしめながら、カメラからフイルムを取りだした。 
 翌日、カメラのフィルムを現像に出した。その後、山頂で写した写真の出来がよかったので、大きく引き伸ばし寝室に飾ったのだ。 
  ☆ 
「あれから17年も経ったのかあ。この写真のお陰でずいぶん励まされてきたような気がするなあ」 
 一徹は財産らしき物を何も持ち合わせていなかった。だから、何か思い出に残るような物がほしかったが、何もなかった。残された預金は葬式費用でほとんどが消えた。考えてみれば、この写真が徹朗にとって一番大事な親父の形見のような気がした。 
 寝転がっていた徹朗は体を起こすと立ち上がり、写真の前に立った。 
「このとき親父なんか大声で言っていたな。なんて言っていたのかなあ。随分昔で忘れてしまったな」 
 写真のガラスに人影が映った。 
「なあ、智子、このときさ、親父さなんて…… 」 
 徹朗が智子と思って振り返ってみると、そこには亡き一徹が笑いながら立っていた。胸にはカメラを構えていた。首にはいつもの手ぬぐいを引っかけていた。汗をしきりに拭いていた。山頂に吹く風が聞こえた。鳥の声が聞こえた。 
「親父…… 」 
「ほら、並んで並んで。おまえだけはみ出てるぞ」 
「えっ…… 」 
「写真からはみ出ている。写真を見てみろ」 
「えっ」 
 写真を見る。笑っている自分の姿があった。智子、勝もいる。 
「ちゃんと写ってるよ」 
「そうか。それならいい。いつもみんな一緒だ。忘れるな。俺もここで見てる。だからがんばれ。俺には何も残せなかったけど、おまえたちを思う気持ちだけはいつまでも持っているから…… 心はいつもここの場所にな」 
 一徹が足下を目で指した。 
「笑って、笑って、笑って、笑って、笑って……」 
 一徹は何度も徹朗に向かっていった。やがて語尾が小さくなり、一徹の姿が少しずつ薄くなり消えていった。 
 しばらく徹朗は立ちつくしたまま一徹のいたところを凝視していた。山頂と同じ風が徹朗の顔をゆっくりなでていった。 
「……ごめんよ、親父。弱音を吐いたりしてさ。俺、親父の子だものな、がんばれるさ」 
 徹朗は一徹の立っていたであろうところにしゃがんだ。一徹の立っていた床の上に手をそっと乗せてみると、ほんのり暖かかった。親父の心の温かさが手のひらから伝わってきた。 

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