瑠璃色たまご 短編集

佑佳

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瑠璃色たまごは彼のもとへ帰する

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 解錠を静かに行い、玄関へ踏み入れる。音をたてぬよう秒針よりも遅い動きで靴を脱ぎ、瑠由は自身の膝上ブーツを抱えて彼――外川とがわ琢心たくしんの後に続いた。
 まっすぐ伸びた廊下左手の浴室洗面所やトイレを越え、正面のリビングルームへ向かう二人。リビングルーム入口の一枚扉を押し開けたところで瑠由は立ち止まり、『待ち』の姿勢に。琢心が単身でリビングへと乗り込む。
 テレビを見ていたらしい父親といくつか会話を交わし、そうしてリビング内の安全を確認し終え、左手最奥の自室扉を開けたと同時に瑠由へ合図を送る。彼の父親は、彼の自室扉に背を向けている。
 瑠由は『本業』で熟練された『足音や気配を消す歩き方』を使い、二秒内に琢心の部屋へ侵入。彼が目を丸くするのを横目に「閉めなきゃ!」と身振りで急かした。
「ふぅー、危なかったァ……」
 自室扉を閉めるやいなや、琢心はそれを背にずるずるずる、とへたりこむ。
「琢ちゃんすごいね。しのびみたいだったよ」
「いやいや、瑠由ちゃんの方が! 足音しないなんて凄すぎるよ」
「えっへへへー。瑠由ちゃんの得意技なんだあ」
 そうしてヒソヒソと話し、声を殺して笑い合う。
 立ち上がった琢心は、勉強机のスタンドライトを室内灯代わりに点けた。薄暗がりに目が慣れたところで、瑠由の抱えているブーツへ手を伸ばす。
「ひとまずブーツこっち置いとくよ、貸して」
「うん、ありがと」
「それから――」
 次いで、自身のクローゼットから薄手のジップアップパーカーを引っ張ってくる。
「――瑠由ちゃんは、これを着てください」
 白いそれを、瑠由の肩へ優しく掛けた。
「撮影じゃないときにまで肩なんか出して。ダメだよ、風邪ひいちゃう」
「寒くないよ、私。大丈夫だよ」
「だぁーめでぇーす。それに、もしくしゃみでもしたらバレちゃうし」
 クイと琢心が指したのは、自室の扉。向こう側の両親の気配を引き続き気にしている。「そうでした」と眉を上げた瑠由は、琢心の気遣いに素直に甘えておくことにして、ジップアップパーカーに腕を通した。
 余った袖が愛おしい。それを三折りして、琢心を見上げる。
「琢ちゃん、本当に大きくなったね。私より腕も何もかもこんなに長くなっちゃって」
「これでも春には高二だからねぇ、俺」
「えぇ? まだ高校一年生だっけ?」
「なぁに? そんなにふけてると思った?」
「あはは、まさか。昔からだったけど、尚更しっかりしたなーって思ったから、もう少し大人かと思ったよ」
「そっかな? まあ、褒め言葉と思って戴いておきます」
「うむ。素直でよろしいぞ、少年」
「あはは。そのノリ懐かしっ」
 彼の笑みは、変わらずあの頃の彼と同じだ――瑠由の懐古感がゆっくりと溶け出し、黒に染まった自分を隠していく。
「ごめん、立ちっぱなし。ここ座ってね、明るいし」
「何から何まで、お世話さまです」
 促されたキャスター付きの椅子に腰かける。そうしただけで、不思議とホウと安堵の吐息が出た。
「やっと、マスクしてない瑠由ちゃんを実物で見られた」
 囁かれたそれに驚き、瞼を上げる。わずか腕一本分の距離で、琢心が柔く笑んで見つめていた。瑠由を座らせたキャスター付きの椅子の背面に両腕を掛けて、いわゆる『壁ドン』のように半拘束のかたちになっている。
「やっぱり瑠由ちゃんは、美人かわいいお姉さんだったんだね」
 咄嗟に言葉に迷う。アドリブ力には確固たる自信があったのに――息を呑むように、瑠由は固まってしまった。加えて自身の心拍速度に気が付き、困惑を呼び、思考が上手く回らなくなっていく。
 長年恩情を感じていたはずの『男の子』が、いざ再会してみると色香かぐわしい『いち男性』に変わっていただなんて反則だ。反して、たまに垣間見えるかつての姿が瑠由の自制心を最大限に、そして無情に踏んでくる。
 これは琢ちゃん。かわいい琢ちゃん。私のことをまっすぐに信じてくれるけがれていない琢ちゃん。いくらこんなに大人びたことをしても、純真無垢な少年の頃と大差ない笑顔をしてるじゃない――。
「あのときはごめんね。『外さない』なんて意地悪言い続けちゃって」
 絞り出した瑠由の返答に、彼は「ううん」と首を振る。拘束されていた腕一本分の距離は、椅子の背面から手を離し三歩後退したことで、ぐんと開かれた。
「直接見られて、素直に嬉しいなって思っただけだから。それにあのときだって、瑠由ちゃんはちゃんと理由教えていってくれたじゃん」
 琢心は対面のベッドへ腰を据えた。瑠由の心拍速度は最速のまま変わらない。なんだ、どうした、と自問自答がぐるぐると続く。
 コソコソしたままの会話を続けて二〇分程度経った頃。リビングの様子窺いも兼ねて、琢心が一旦離席した。数十秒でペットボトルを二本持ち戻ってきて、片方を瑠由へ手渡す。
「父さんも母さんも自室に行ったみたい。コソコソするには変わりないけど、もう少し楽にしていいからね」
「そっか、ありがとう」
「窓閉める?」
「平気だよ、丁度いい感じ」
「寒かったら言って。あとそれ遠慮しないで飲んでね。ぬるくてごめんだけど」
「ううん、体冷やさずに済むからむしろ嬉しいよ」
 キチキチ、とそれの蓋を握り開ける琢心。ならって瑠由も開封する。
「勉強中だったんだね?」
 机上を眺めながら問う。飲み終えた後の「まぁね」の返答は、さして重要性が見えないほど軽く明るい。
「もうすぐ定期考査なんだぁ」
「定期考査? って、テストのこと? テスト勉強中だったの、琢ちゃん?」
「うん。でも瑠由ちゃんが載ってる雑誌の発売日になったから、そっち優先しちゃったってワケ。集中切れちゃったしねぇ」
「勉強続けとかなくて大丈夫なの? 私、勉強はてんでだめだったからよくわかんないけど」
「いいの。瑠由ちゃんのが優先」
 ぎゅ、と締め付けられていく、瑠由の胸の内。琢心の笑みが目映まばゆい。見続けているだけで涙が溢れそうになる。
「私、押しかけたのに、琢ちゃんに迷惑かけてるの不本意だよ」
「言ったでしょ、迷惑じゃないの。俺、あれからずっとずっと瑠由ちゃんが最優先なんだ」
「どうしてそんな、最優先だなんて」
「前も言ったけど、俺が瑠由ちゃんのことたくさん知りたいって思ってるからだよ」
 笑んだ口元のまま静かに立ち上がる琢心。数歩進んで、本棚代わりのカラーボックスから雑誌を一冊引き抜いた。
「見て。瑠由ちゃんが初めて載った雑誌。覚えてる?」
 琢心が開き見せたのは、そのとおり瑠由の初めてのグラビア写真だった。際どい水着を着用し、上気した頬が読者を扇情的にさせる写真のページ。
「最後に瑠由ちゃんと話した日――ほら、ここの屋上でさぁ。『雑誌で見つけたときに、顔をしっかり見てね』って、瑠由ちゃん俺に言ったじゃん?」
 優しく語りかけるまなざしの琢心に引き戻される記憶。
「瑠由ちゃんのこの笑顔見て、俺、めちゃくちゃびっくりしたんだよ。瑠由ちゃんが予想以上にかわいかったから。そしたら、あのとき見られなかった瑠由ちゃんをもっとたくさん見たいって思ったんだ。瑠由ちゃんのどの写真も、手元に置いときたくなった」
 無意識的に、チラリと先程のカラーボックスへ目を移す琢心。つられて瑠由もそれを追う。
「えっ」
 薄明かりのためはっきりとは見えないが、カラーボックスには瑠由の載った雑誌がびっしり収められていた。デビュー雑誌が簡単に出てきたことから察するに、あの量は恐らく掲載誌を網羅していてもおかしくはない。
「琢ちゃん、もしかして……」
 そろりそろりと琢心を見上げる。デビューページを広げたまま、変わらず柔く笑んでいる。
「私の載った雑誌、全部買って取っててくれてるの?」
「えっと、うん。そ、そうなの。瑠由ちゃんを応援したいと思ったら、雑誌買うことからしか始められなかったし」
 はにかむように照れ恥じらう琢心に、少年の頃のあの姿がちらつく。
 このページの『私』の胸の谷間とその膨らみ。首筋に貼りついた後れ毛。艶やかな唇や、しなやかな腰つき――そんな官能的な肌色に『琢ちゃん』も欲情してくれたのだろうか、と高速でよぎった。
「な、なんかごめん。さすがに引いたよね。本人目の前にして何言ってんだろ。ま、舞い上がりすぎだね」
「違うのっ」
 雑誌を閉じた琢心の腕を、咄嗟に掴む瑠由。
「嬉しいの。凄く嬉しくて、感動しちゃって」
「え?」
「私実はね、周りの人にこの仕事反対されてるんだ。でも、この仕事も好きなの。続けられる限りは続けたいと思ってるし。だからずっと『辞めたくない』って我を徹し続けてもいるんだ」
 かけていた椅子から、そっと立ち上がる。
「だってね、琢ちゃんと約束したこと守りたかったの。いつか琢ちゃんにメディアで見つけてもらいたくて、それならまず雑誌に載り続けてやるんだって。すごく、意気込んでたし」
「瑠由、ちゃん」
「琢ちゃんが、初めから私のこと見つけてくれてたなんて思わなかった。それだけじゃなくて、載った雑誌の全部を取っててくれてるなんて……」
 にじり寄るように一歩、一歩、と瑠由の脚が前へ出る。
「ありがとう、琢ちゃん。私を初めから見つけてくれて、本当にありがとう」
「ううん。俺はただ、あのとき瑠由ちゃんと話せたことが、自分の中ですんごく大事なものになってるってだけだよ」
「私だって、あのときのことは今でも宝物だよ。あのとき琢ちゃんに気付かせてもらったことがあったから、今、大好きな自分でいられてるの」
「そっか、よかった。そういえばそれ、結構前のラジオでも言ってくれてたもんね」
「えっ? ゲスト出演したラジオまで聴いてくれてるの?」
「当たり前じゃんか。瑠由ちゃんは俺の大切な人だってば。ずっとずっと、応援してるんだよ」
「ありがとう……とっても嬉しい」
 潤んだ双眸そうぼう、間近で向けられる笑み。
「まだしばらくグラビア続けようと思ってるの。だからこれからも、応援してくれる?」
 琢心の喉仏が、一度下がって元に戻る。徐々に、琢心の口角が上がる。
「もっ、もちろんだよっ」
 返ってくる、大きな首肯。瑠由の安堵の溜め息。掴んだ腕から手を放そうと、力を緩めていく。
「俺も約束どおり、ずっとずっと瑠由ちゃんのこと見続けてきたんだから。最初からっ」
 逆に琢心の左手が、その白い手を取った。
「瑠由ちゃんはいつでも変わらない『お姉さん』だし、俺にとって一番かわいいと思う人だし、美人の代名詞だと思ってるよ」
「わあ、ほ、ほんと?」
「うん、ほんとっ。だから、瑠由ちゃん。俺、その……」
 俯いた琢心は、深呼吸の後に再度瑠由を見据える。
「俺、瑠由ちゃんのこと、あの頃からマジで、ずっとずっと好きなんだ」
「え……」
「その、い、いますぐはハードル高いかもしんないし、瑠由ちゃんだってもしかしたら好きな人とか彼氏とかいるかもしんないけどっ。けど俺はいつか瑠由ちゃんと付き合いたいなって、ずっと、思ってて」
 瞬間。瑠由の締め付けられていた気持ちが、パンと弾けてしまったようだった。
「あ、あの、年下の高校生の冗談とか、思うかもしんないけど、俺はほんとマジで、考えててさ」
 握られている手をすり抜けて、琢心の脇腹にそれぞれ腕を挿し込み、背へまわす。彼の胸板下方へ、瑠由の柔く大きな胸が潰れるように当たる。腕にゆっくり力を込めて、きつく彼を抱き留める。
「えっ、瑠っ」
 大人になりつつある躯体。伸び代のわかる腹筋や背筋。壊れてしまうのではと思えるほど激しい彼の心拍。瑠由の下腹部に当たる、彼の膨らみ。
「ねぇ、琢ちゃん」
 名を愛おしげに囁けば、純朴な少年ならばたちどころに思考が麻痺し、その膨らみは熱を帯びて強固になってしまうもの――黒く染まった瑠由は、そう熟知している。
「私があのとき『ダメ』って言ったことだけは、忘れちゃったの?」
 カーテンの隙間から射している月明かりに妖しく笑み、意地の悪いお姉さんを魅せる。
 彼の左脚首を引っ掛け、払う。彼の体勢が崩れ、自重で彼をベッドへ押し倒した。脇腹下と耳の横にそれぞれ腕を立ててつき、腕一本分の高さが作り出した彼と自身の空間を占有する。
「わっ、ちょっ?!」
「もう一回言うよ」
 彼の告白を素直に受け入れた上で、素直に本来の自らを提示しすべてを受け入れてもらいたいなど、彼にとっては悪影響でしかないと言い聞かせる。
「私を応援してくれるのはいいけど、好きになるのだけはダァメ」
 瑠由は、かりそめの笑みを深くした。

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