キスは氷を降りてから

インナケンチ

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『一緒に暮らさないか』

 その言葉の意味するところを響はよく理解していた。

『おれ、自分の家庭が欲しいんだ』

 20歳になる頃にはすでに、蒼井はそんな願望を口にするようになっていた。響はそれを「ふうん」と聞き流していたが、もちろん、内心は穏やかではなかった。
 蒼井は元々ストレートで、その立派な体格と凛々しい顔つき、穏やかな物腰で女性によくモテた。
 かれ自身にもそんな願望があるなら、別れの日はそう遠くない。
 響は、覚悟を決めるべきタイミングに何度となく見舞われつつ、いまに至っていた。
 そこへ来て、今日のあの言葉だ。

「一緒に暮らすって、おれに奥さんの真似事をやれってこと?……あり得ない」

 もやもやした気持ちと重だるい身体を抱え、響は地下鉄を乗り継いで自宅マンションまでようやく辿り着いた。

 すでに深夜、街灯の丸い灯りが落ちた歩道に人気はなかった。
 空気が乾燥していて風は冷たかった。
 外を歩くには心地よい季節だ。

 ジャケットのポケットのなかでスマートフォンが震えた。
 ロック画面に表示されたメッセージを見た響は、せっかく心地よく感じた空気がまた澱んだ気がした。
 悪い癖、と知りつつ舌打ちする。

 メッセージを送ってきたのは、”元チームメイト”だった。

《佐田ヘッドコーチ、札幌に行ったって本当か?》
《本当。でもそれ、おれに聞く必要ある?》
《おまえ、佐田さんのお気に入りだったじゃん》
《気持ち悪い言い方するな》

 響は返信しつつ、エレベーターに乗り込んだ。
 自宅のある5階に着き、扉が開いた。
 フロアへ出た響は、スマートフォンに目を落としたまま廊下を歩く。

《あの鬼ジジイが消えたせいで、またクラブの空気が変わるかもしれない。無責任なやつだ》
《レッドスターは変わった。もう、荒れてた頃には戻らないよ。それより、佐田さん、札幌ってことはブルーシャークに行ったってことだろ?レッドスター、来シーズンやばそうだな》
《やばいどころじゃない》
《あ、認めるんだ?》
《ジジイは監督としての腕だけは本物だから》

 もしかして、壮平が急に一緒に暮らそうなんて言い出したのは、クラブの内情不安があったからだろうか?
 職場が動揺しているときにプライベートまで落ち着かないのでは、不安になるのも当然だろう。
 かれの将来設計において、おれの存在はますます邪魔になりつつあるということだ。

「……わかってるんだけど、そんなこと」

 最後のほうはほとんど惰性で返事をし、簡潔な挨拶でチャットに区切りをつけた。
 そうしてスマートフォンから視線を上げた響は、ぎょっとして足を止めた。

 自宅の扉前に、大きな赤い塊があった。
 真っ赤なパーカーを着た男が、両膝を抱えたところへフードを被った顔を埋め、丸くなっているのだ。
 そばにはバウアーのロゴが入った黒の大きなスポーツバッグが置かれていた。バウアーと言えば、プロのアイスホッケー選手も愛用するホッケー用具の最大手メーカーだ。
 その脇には、この場で食べたらしい菓子パンの袋と空のペットボトルが転がっていた。

「あ、あの、ちょっと」

 響は腰が引けた状態で恐る恐る男に近づき、スマートフォンの角でちょんと肩を突いた。
 と、男の身体が動いた。
 「わっ」と声を上げ、響は後ろへ飛び退いた。

 ゆっくりと首をもたげた男は、口の端に垂れたよだれをパーカーの袖で拭うと、フードを取って響を見た。
 端正な作りのその顔は、いまは寝ぼけて締まりがない。

「響にいちゃん⋯⋯?」
「えっ?」

 徐に男は腰を上げ、立ち上がった。
 響は男を見上げ、呆然とした。
 はっと目を引くほどに背が高く、肩幅も広い。上背だけで言えば、響の身近で一番大柄な蒼井にも引けを取らない。しかし、分厚い筋肉に覆われた蒼井と違って、この男は細く、まだ少年の名残りがあった。

 男は何度もまばたきしながら、じっと響を見つめた。
 ようやく目が覚めてきたのか、切れ長の目のなかでつぶらな瞳がキラキラと輝き出した。

「響にいちゃんが、目の前にいる⋯⋯すごい、こんなに小さかったんだ」
「はあ?」
「いやだって、長い間、氷の上でプレーしてるとこしか観てないから」
「だから、だれなんだよ、きみは?」
「おれ、夏海です」
「なつみ?」

 響は、はてと首を捻った。
 夏海と名乗った少年は悲しそうに目尻を下げ、

「その⋯⋯甥の、夏海です。おれのお母さんは久美子」
「⋯⋯え、夏海って、あの?!」


『おれの響にいちゃんから離れろ!』


 あれはいつだったろう、10年くらい前だったかーーーーーー

 響の脳内におぼろげな記憶が蘇った。

✳︎

 あれは確か、高校2年に進級する年の春。
 3学期の終業式を終えて、春休みに入ったばかりだったはずーーーーーー

『⋯⋯なあ、黒川』

 部活後の帰り道、ふいに蒼井が響の手を引いた。
 当時、かれは1年後輩の響を姓で呼んでいた。

 最寄り駅までの近道としてよく使われる狭い裏路地。
 とっくに日は落ち、街灯も少なく暗かった。
 人気はなく、ふたりきり。

 部活の最中から、蒼井がずっと落ち着きなくもじもじしていたのを、響は気づいていた。ふたりきりになる状況を待っているのだと、察しはついていた。

『あのさ⋯⋯おれ、おまえのこと⋯⋯好き、だ』

 ゼンマイ仕掛けのロボットが発したようなぎこちない告白だった。
 女の子からのラブレターにいちいち頭を悩ませ、丁寧に頭を下げて断るような、律儀で純情な蒼井らしい告白だった。
 女の子からのラブレターをその場でゴミ箱に捨てるのも厭わない響はよく蒼井に叱られたが、かれが待ち侘びていたのは女の子からの告白ではなく、まさに蒼井のこの言葉だった。

 男相手の恋愛など論外だった蒼井壮平が、自分を選んでくれた。
 好きな人と結ばれる喜びと快感を知って、ふたりでがむしゃらに汗を流していた、まさにあの頃だーーーーーー

 その日も、響は蒼井と部活後にどちらかの家で一緒に過ごす約束をしていた。ふたりとも両親が共働きで、家は夜まで留守の日が多かった。
 練習の間も響の頭のなかは蒼井のことでいっぱい、というより、蒼井の逞しい肉体が目に焼きついて離れなかった。全身をゴーリーの物々しいプロテクタで固めた上にユニフォームを着た姿は、かれの勇ましさをいっそう引き立て、見惚れないようにするのに苦労した。

『黒川!方向転換でスピード落ちてるぞ!インエッジを意識しろ、ちゃんと使いきれ!!』

 コーチの声がアイスリンクに響き渡った。
 響はぎりっと歯を食いしばった。フェイスガードの下で悔しさに涙が滲んだ。

 くそ、蒼井先輩にこれ以上かっこ悪いところを見せたくない!

 その後の練習で驚異的な集中力を発揮した響は、終了の笛が鳴る頃には酸欠で倒れかけていた。
 更衣室のベンチに寝転がった響の、すっかり青ざめた顔をタオルで仰ぎながら、蒼井は心配げに言った。

『響、今日はもう帰って寝たほうがいいんじゃないか?』
『おれは平気。先輩が疲れてるなら、引き留めないけど……』
『ぜんぜん疲れてないよ。おまえのスケーティング見てたら興奮した。コーチに言われてすぐに修正しただろ、無駄がなくなってスピード殺さずにパック守れてた、すげえ理解力!』
『ほんと、ホッケーバカだね』
『おまえが上手すぎるんだよ……なあ、本当に平気か?』蒼井は周囲を見回してから声をひそめて言った。『おれ、したくなるよ、ふたりきりになったら』

 もちろん、響も同じ気持ちだった。
 そんななか、ふたりの高まった気分に水を差す事態が起きた。だれもいないはずの響の家で、なぜか甥っ子がひとりで留守番をしていたのだ。

 確か、父親(響にとっては義兄)の地方転勤が決まって、引っ越し準備やらなんやらで慌ただしい数日間、ひとり息子を預かることになったのだ。
 それをおれは聞かされていたはずだが、忘れていた。
 ただ、おれにとってはそんな事情などどうでもよかった。

 せっかく蒼井先輩とエッチしようと思ったのに、クソガキに邪魔された。

 そんな忌々しい出来事でしかなかった。

✳︎

「大きくなったね⋯⋯」

 響は当たり障りない感想を口にした。
 正直、甥の存在は記憶に薄い。
 久しぶり、元気だったか?と肩を叩くほどの感慨もなかった。
 目の前にいるのは、ほぼ初対面の青年でしかない。

 夏海は、長めのさらさらの髪を後ろへかきあげた。

「おれ、もう17です」
「まだ17なんだ⋯⋯それより、なんでここにいるの?住所、だれに聞いたんだ?」
「おばあちゃんに」

 勝手に教えるなよ、と母親に対して心のなかで悪態をつきつつ、

「あ、そう。姉ちゃんたち、いま北海道だっけ?春休みで東京こっちに帰ってきたのか?」
「いや、来たのはおれだけです。東京の高校に編入することにしたんです」
「ひとりで?ーーーーとりあえず、なか入るか。寒かっただろ、あ、北海道のほうが寒いかーーーーてことは、うちの実家に、つまりきみのじいちゃんばあちゃんとこで暮らすのか」

 鍵を開けて先に部屋へ入った響の背中に、夏海はよく通る声で言った。

「いえ、ここに住みます」

 玄関と廊下の照明を点けて靴を脱ぎ、リビングへ向かおうとした響は足を止めた。振り返り、

「いま、なんて言った?」
「ここで、響さんの家で居候させてもらいます」
「は?なんでここ?」
「響さんと一緒にいたいから」

 当然じゃないですか、という口ぶりに、響は唖然とした。
 夏海の眼差しは強く、表情は真剣そのものだ。

「おれ、響さんが好きです。子どものころからずっと好きでした、ずっと会いたかったんです」

 夏海はくたびれたスニーカーを脱いで部屋に上がると、ずんずん響に歩み寄った。
 かれの気迫に圧倒されて動けずにいる若き叔父を、胸のなかに抱きしめる。

「おれはもう、チビじゃないです」

『おいチビ、いま見たことだれかに言ったら、ぶっ飛ばすからな』


 蒼井とのキスを目撃されたあの日、幼い甥を脅したのを思い出し、響は顔をしかめた。

「あのときは悪かった、告げ口しなかったことは感謝してるから⋯⋯離してくれる?」
「そんな話してるんじゃないんです。おれはもう、響さんを抱けるくらい成長したんです」
「夏海くん、きみ、とんでもないこと言ってるんですけど!」

 夏海は響の首筋に顔を埋め、深く息を吸った。

「⋯⋯なんか、男くさい。響さんの匂いっぽくない」
「獣か、きみは!なあ、冗談やめてくれよ、早くシャワー浴びて寝たいんだよ」
「おれをここに置いてください」
「いやです!」
「なんで、恋人がいるんですか?」
「関係ないだろ!」

 響はいよいよ頭に来て、夏海を突き飛ばした。
 その反動で自分自身もよろけた。疲れ果てていたのだ。疲れは主に足腰にきていた。朝早くから働き、恋人と激しく愛し合い、帰ってみたらいきなりこれだ。怒る気も失せた。
 腕時計を見る。すでに午前1時を回っている。

「タクシー呼ぶから、ばあちゃんたちの家に帰りなさい」
「お願いします、ここに置いてください!」

 夏海は深々と頭を下げた。
 響は深いため息をつく。

「よし、日を改めて話し合おう。だから、今夜はとにかく帰ってくれーーーーーー待て。なあ、編入するって、どこの高校に?」
「⋯⋯聖クラスナ」

 消え入りそうな声で夏海が答えたその高校の名を聞いて、響は目を剥いた。
 思わず夏海に詰め寄り、かれが着ている赤いパーカーの生地を掴む。

 胸に小さな刺繍があった。生地よりも濃い赤色の糸で描かれた、星のマーク。
 それは響と蒼井が卒業した、私立聖クラスナ高校の校章。そして、学校がオーナーのアイスホッケープロクラブ“レッドスター”のシンボルだ。

「まさか、おれがいるってわかってて?」
「はい。歴史の先生で、1年の担任だって。おれは2年だから、響さんのクラスには入れないけど、でもおれ、ホッケーやってるんで」
「当然、顧問だってのも⋯⋯」
「おばあちゃんに聞きました」
「またか⋯⋯くそばばあ⋯⋯あ、いまのは撤回」

 響は壁にもたれかかり、前髪をかき上げた。
 よくも親戚の、しかも自分が通う学校の教師に「好きだ」なんだと言う気になったな、と呆れ果てる。

「ーーーーポジションは?」
「オフェンスです」
「すごい強そう」
「響さんはディフェンスでしたね、名選手だった。あなたを目標にしている選手はたくさんいる」
「やめてくれ、おれは上手くなかったよ。身体も小さいままだったし……きみに言われる筋合いはないけどね」
「でも、あの“レッドスター”のスター選手だったのは事実ですよ!だれより早くて、スケーティングもパック捌きも巧みで、試合を観るたびに感動しました」
「乗せたって、ここには置いてやらない」
「そんなつもりじゃ⋯⋯!」

 夏海がいまにも泣き出しそうな顔をするのを見て、泣きたいのはこっちだ、と響は嘆いた。
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