キスは氷を降りてから

インナケンチ

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マッチ・ペナルティ

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「ーーーーーーだから、戻る気はないですって」

 仕事を終えて自分のマンションへ帰った響は、スマートフォンを耳に当てたままエレベーターに乗り込んだ。
 筋肉痛でだるい腕をぶらぶらと揺らしながら、階数表示を見上げる。

「ーーーーーーこの前はちょっと壮平に用があったんで、寄っただけですよ」

 通話の相手は、響が現役時代からレッドスターでコーチを務める男だった。
 レッドスターが契約するスポーツジムへ響が顔を出したことは、蒼井が言った通り、クラブ内でちょっとした騒動になっていた。響が「鬼ジジイ」と呼ぶ佐田ヘッドコーチが他クラブへ移ったのも影響していた。だれもが来シーズンのレッドスターは勝てるのかと危惧しているのだ。
 佐田、蒼井、黒川の3人が揃っていた3年間はレッドスターの黄金期で、得点力はもちろん、その鉄壁の守りから、“難攻不落の城門”と言われた。当時の勢いを取り戻したいと、関係者なら願わずにいられない。

「ーーーーーー日本代表?冗談はやめてください。いまのおれがついていけるわけないでしょう。現役ですらトップディビジョンへ上がれずにいるのに。おれは来年の世界大会もフィンランドが勝つと思いますよ。監督は続投だし、キャプテンもまだ……あ」

 響は足を止めた。
 扉の前に夏海がうずくまっていた。練習中に着ていた真っ赤なトレーニングウェアのままだ。目立ってしかたがない。

「ーーーーーーすみません、なんか宅配の人がうちの前で待ってて。続きはまた今度ーーーーーーええ、お疲れさまでーす」

 響は通話を切った。
 主人の帰宅に気づいた夏海は立ち上がり、軽く手を挙げた。

「おかえりなさい」
「ただいま」
「今日はだれと話してたんですか?」
「おれが現役の頃のコーチ。てか、なんでいちいち説明しないといけないわけ?」
「あなたがほかの男と話してるんじゃないかと思って」
「そりゃ、話すだろ。元同僚なんか、みんな男だよ」
「口説かれたりされてませんか」
「きみほどしつこいやつはいない。それにその口ぶり……壮平にだけは、やめてくれよ」
「……」

 最近、蒼井の名を出すと、夏海は黙るようになった。
 かれとの関係を理解しているようだ、と響は少しだけ安堵した。

「こんなところで課題やってたのか?」

 足元にはいつものスポーツバッグと革カバンが置かれ、その上にノートが広げてあった。
 夏海はそのノートを退け、ごそごそと革カバンをまさぐると、一枚の紙を取り出して響に差し出した。
 それは、テストの答案用紙だった。

「……すごいじゃん、本当に100点取ったの?」
「響さんの課題のおかげです」
「頑張ってたもんな。えらい」

 響は自分も嬉しくなって、夏海の頭を乱暴に撫でた。
 しかし夏海は真剣な面持ちで、

「約束、覚えてますよね?」
「覚えてるよ……一泊だけだぞ?」
「はい!」

 部屋に入ると、響はまっすぐキッチンへ向かった。
 夏海は無言で後に続き、キッチンまでついてきた。電気ケトルで湯を沸かし、マグカップにインスタントコーヒーを入れる響のそばに立つ。

「ジュース?オレンジならあるけど」
「おれもコーヒーください」
「オッケー」

 こぽこぽと音を立てて、湯が沸騰しはじめた。
 夏海はまだそばに立っていて、自分用に戸棚から出されたマグカップを見つめている。
 響はリビングのソファを指差し、

「あっちで待ってていいよ」
「いや……そのカップ、蒼井さんのですか」
「違うよ、壮平のものはここにはない。かれの家にも、おれのものは置かないようにしてる」
「どうして?」
「自分のものを持ち込み出したら、ずるずると半同棲みたいになるだろ。そういうだらしない関係、嫌いなんだ」
「高校のときからそんなに長くつき合ってて、一緒に暮らしたいとか思わないんですか」
「思わない」
「ずっと一緒にいたいとか」
「おれたちさ、何回か別れてるんだ。壮平はストレートだから女の子とつき合ってる時期も長かった。でもなんか、気づいたらまたもとの関係に戻ってる。そうなるのが当たり前みたいに。きっと、そういう相手とはなんにも考えなくても自然と一緒にいるんだよーーーーーー砂糖とミルクは?」
「砂糖だけ」

 響はそれぞれのカップに湯を注ぎ、片方を夏海に差し出した。

 夏海はカップを受け取ろうとせず、じっと響を見つめている。
 響はため息まじりにカップを置き、

「なあ、そんな怖い顔しないでくれる?」
「おれが蒼井さんに敵わないのはわかってます。かっこいいし、プレイヤーとしての腕も抜群で、なんかオーラがすごいって言うか、あんなに緊張する人ほかにいない」
「あれで緊張してたの?かなり太々しかったけど」

 握手を交わしたときの様子を思い出し、響は眉をひそめた。

「だって、舐められたくなくて。蒼井先輩のことは尊敬してます。でもおれ、響さんを諦めるつもりないです」
「きみの気持ちは、きみ自身でどうにかしてもらわないと、おれにはなにもできないよ」
「じゃあ、好きでいたいです」
「きみはまっすぐだね、かなわないよ」

 めずらしく優しい笑みを見せた響に、夏海は吸い寄せられるようにぐっと身を寄せた。
 響の身体はとっさに強張った。逃げようとするも、すぐ背後の壁が退路を阻む。これ以上は寄らないように夏海の胸を両手で押さえ、

「おい、誤解するなよ」
「わかってる。でも、耐えられないんだ。響さんがほしくてしかたない。毎日会いたくて、教室にもこっそり行ってる。でも顔を見たらもっと近づきたくなって、触れたくなる。気持ちが抑えられないんだ」
「いずれ見つかるよ、おれなんかよりいい相手が」
「そんなつまらない言葉でごまかすなよ。あなたじゃないとだめなんだ、代わりなんかいないんだよ!」

 夏海は腹立たしげに響の背後の壁を拳で叩いた。
 凛々しい顔が苦悶に歪む。
 普段はだれよりも素直にコーチや響のアドバイスに耳を傾け、意地悪な先輩の妨害にも動じない少年が、苦しんでいる。

 少年。そう呼んで夏海を見くびったのは、大人としての思い上がり。人としてもプレイヤーとしてもまだ未熟であることは、夏海本人が一番よくわかっている。こんなになりふり構わないのは、そうする以外の方法を知らないからだ。

 響は思わず手を伸ばし、夏海の頬を撫でた。

「ごめん、夏海、ごめんな」
「……」

 夏海は顔を上げ、響の目を見つめた。そして、唇に食らいついた。

「んんっ……!」

 唇はあっさりと押し開かれ、舌を絡め取られた。
 それは愛情表現の口づけと言うより、飢えた獣の捕食に等しかった。
 響は息苦しさに朦朧としながらも、あまりに必死なその口づけを拒めなかった。

 これは同情?
 ガキ呼ばわりして、かれの真剣な気持ちをはぐらかしたことへの罪の意識?

 夏海は響を腕のなかにぎゅうと抱きしめ、貪り食うように唇を吸った。
 大きな手で響の身体をまさぐる。小さな尻を鷲掴みにする。
 頭のなかには、幼い頃に見た光景が鮮烈に甦っていた。大好きな人がほかの男の腕のなかで頬を赤らめ、身体を好きなように触られている様だ。それは夏海の嫉妬心に火をつけ、もはやかれ自身にも手に負えなくなっていた。
 夏海は響のベルトに手をかけた。

「んっ……ふっ……や、だめ……!」

 響は腕のなかから抜け出そうと懸命にもがいた。しかしこの若者はびくともしない。
 ベルトが外され、スラックスが降ろされそうになり、響は思い切り夏海の足の甲を踏みつけた。
 夏海が痛みに怯んだ隙に逃げ出す。が、ずり落ちたスラックスに足を取られてすぐさま床に転んだ。

「やだ、やめろって……夏海!」

 響は無言で迫ってくる夏海を蹴り上げたが、両足とも軽々と捕まってしまった。
 仰向けにされ、下半身につけているものをすべて剥ぎ取られた。
 掴まれた太ももに指が食い込む。両足を開かされ、その間に夏海の身体が割って入った。トレーニングウェアを履いた下半身の膨らみが股間に押しつけられる。
 ワイシャツのボタンが引きちぎられ、胸が露わになった。
 闇雲に暴れた手が夏海の顔に当たり、爪が頬を引っ掻いた。
 赤い線が一筋入り、血が滲む。しかしそれに怯んだのは響のほうで、夏海は顔色ひとつ変えなかった。
 夏海はずしりと響にのしかかると、腰を浮かしてウェアと下着を下ろした。

 下半身に肌が密着するのを感じて、響は怒鳴った。

「挿れたら舌噛み切って死ぬぞ!」
「そんなことできるわけない」
「あのときはできなかった、でもいまなら、きみを止めるためならやる!」

 容赦なく蹴られる上にはじめてのことに手間取っていた夏海は、予期せぬ言葉に「え」と驚いた顔で響を見た。
 涙を溜めた大きなふたつの目に浮かぶのは、自分を凌辱しようという男への憎しみでも、叶わぬ恋に身を焦がす少年への哀れみでもなかった。

「……あのときって?」
「レッドスターで続いた不祥事……かつての選手が、きみの先輩がなにをしたか、耳にしたことくらいあるだろ?」
「そんな……嘘でしょ?」
「おれを犯した連中がなんて言ったか教えてやろうか?『まだ1年のくせに先輩相手にボディチェックきめてパック奪って、生意気なやつだ』『おまえが逆にチェックくらうところ見たらたまらなく犯りたくなった』」
「……」
「『おまえも犯してくださいって顔してたぞ、乱暴に掘られて気持ちいいんだろ』」
「やめて」
「『澄ました顔して、どうせ毎日だれかのしゃぶって』」
「もういい、やめろ!!」
「聞け!きみも同じことしてるんだぞ!」


『痛い、お願い、もうやめて……!』


 16歳のおれは泣き叫びながらそう訴えた。だが聞き入れてはもらえなかった。だれにも負けたくない一心で、何度挫けそうになっても氷の上から降りなかった日々がすべて無駄になった気がした。
 あの悪夢の夜はしかし、蒼井壮平というかけがえのない存在を得た大切な日でもあった。
 だが、きっともう壮平は助けてくれない。おれはまた同じ過ちを繰り返した。

 両目に溜まった涙が耳元へぽろぽろとこぼれ落ちた。堰を切ったように後から後から涙が押し寄せ、止まらなくなった。
 響は鼻をすすり、嗚咽を漏らしながら、

「夏海、よく聞け、もしきみがこのまま続けて、あのクズどもと同じ地獄まで堕ちるって言うなら、いいさ、やれよ。その代わり、おれは死ぬ……なぜなら、責任を取る義務があるからだ、おれは顧問なんだぞ、てめえの、わかってんのかこのバカ野郎!!」
「あんたを手に入れるにはこうするしかないんだ!」
「そんなにおれのこと好きなら、どうして苦しめるんだよ。おれは好きな人とは幸せな時間を過ごしたい。ほんの一瞬でも、たとえそれが最後になっても後悔しないように」
「だって、強いとこ見せないと、蒼井さんには勝てないじゃん……」
「力任せにいくらシュートしたってゴールは決まらないぞ。おれはきみのものにはならない。いまのきみは、なにをしたって壮平には勝てない」
「……」
「さっさとズボン上げて退いてくれ……退けよ!」

 響の上から退いた夏海は、顔面を足蹴にされて尻餅をついた。
 響は急いで起き上がると、床に投げ捨てられた服を拾って身につけた。シンクに手をついて何度か深呼吸し、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
 口の端からこぼれたコーヒーを袖で拭い、響は最後に大きく息を吐き、やっと胸を撫で下ろした。

「……約束は約束だ。今夜は泊まっていい。風呂入ってさっさと寝ろ」
「響さん、おれ……」
「もうやめよう、今夜は休戦。謝罪もいまは受け入れる気はない。きみは口ばっかりでちっとも反省しないからな。反論できないだろ?」

 また「だって」と言い返しそうになった夏海は先に釘を刺され、口をつぐんだ。

「縛られたくなかったら言うこと聞けよ。おれは……コーヒーを淹れ直す」
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