ぼくだけのドンちゃん

インナケンチ

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「少し寒いね、この車両」

 ドンちゃんが耳元で囁いた。
 ぼくは前を向いたまま、しかし車両ドアの窓に映っているかれの姿を見て、やはり声を潜める。

「薄着だからですよ、ワイシャツのうえにセーターだけじゃ寒いです。もう夜は冷えますから――社長」
「こんな時間になると思わなかったからさ」

 背後に立っているドンちゃんはぼくのジャケットのポケットに手を入れ、

「ああ、あったかい――あそこの新しい部長、無駄話が多いよ。前任者は仕事のできる人だった。広告への理解もあったしね、だからきみに引き継いでもらうことにしたんだが」
「ぼくにとっては都合がいいかもしれません。社長のクライアントを引き継ぐのは荷が重いですから、担当者も新しいほうが安心です。なんとかぼくのやり方で、進めます」
「……零、仕事モードはもういいよ。社長、社長って、やめてくれ」
「社長だって仕事モードでしょう。それに、いまはまさに仕事中ですよ、オフィスに戻るんですから」
「じゃあ直帰しようか、おれの家に」
「直帰していいなら、ぼくは自分の家に帰ります」
「じゃあ、おれもきみの家に帰る」
「社長と同居をはじめた記憶はないんですけど」
「零、もう疲れたよ、おれ、泣きそう」

 ぼくは嘘つき者を睨んでやろうと振り返った。
 が、目と鼻の先にあるドンちゃんの顔を直視できず、すぐさま正面に向き直る。

「……ぼくはオフィスに戻ります。まだ、仕事がありますから」
「冷たいな、弱ってるときしか優しくしてくれないのか」

 ドンちゃんは沈んだ声で言い、ぼくの肩に顎を乗せた。
 それでなくても、さっきからかれが耳元で囁くたびに耳の奥がくすぐられて頭がクラクラするのに、たとえ仮病でも、そんな弱々しい声を出されたら堪らない。
 騙されるな零、ドンちゃんはライオン、ガゼルじゃない。
 ぼくは片手で掴んでいたドア脇の手すりを両手でしっかり掴み直した。

 ぼくは横目に左右を確認した。

 地下鉄の車内は、互いの荷物が触れ合う程度に混んでいる。
 だれもが手元のスマートフォンに目を落とし、すぐそばに立っている若者もイヤフォンで両耳を塞ぎ、携帯ゲームに夢中だ。

 ぼくは少しほっとした。
 男同士の妙な会話に関心を持つ物好きなどいない、たぶん。

「どうかしたのか、きょろきょろして、なにか気にしてるみたい」

 そう言いながら、ドンちゃんも視線を左右に振って車内の様子を見る。

「いや、ただ、混んでるな、と思って。こんな時間に帰れる仕事をしたことないから」
「今日は本当に直帰していいよ」
「あ、そんなつもりで言ったんじゃ」
「条件はあるよ、もちろん」
「条件……」

 できれば聞きたくない、と思いながら、ぼくはドンちゃんの次の言葉を待ってしまう。

「おれをきみの家に連れて行ってくれるなら、帰っていい」
「だから、それはダメ」
「どうして、おれを紹介してよ、きみの家のネコちゃんに」
「え?!」

 大きな声をあげてしまったぼくは、慌てて口を押さえた。
 乗客のうちふたりほど顔を上げてこちらを見たが、すぐに興味を失って自分の世界へ戻っていった。

「どこから、マコトのことを」

 見ると、ドンちゃんは煙草を持つような格好で指の間に小さな白い紙を挟んでいた。
 そこに印字されている“なにか”に目を通しながら、「へえ、マコトちゃんっていうんだ」と呟く。

「それ、なに?」
「ん……お徳用猫缶345円、ドライフード500円、鶏ささみ肉300グラム235円――これはネコ用? それとも自分用?」

 ぼくはドンちゃんの手からレシートをひったくると、カバンにねじ込んだ。

「ゆ、油断も隙もない」
「ポケットに入れっぱなしだったよ――ねえ、マコトちゃんに紹介してよ、おれ、好かれる自信あるよ」
「いずれ紹介するよ」
「今日がいい」
「もう、ドンちゃん……」

 ため息を漏らしたそのとき、困り果てたぼくに救いの手を差し伸べるように、車内アナウンスが次の駅名を告げた。
 大手町。オフィスの最寄駅だ。
 まもなく、電車は駅のホームへ滑りこみ、停車。
 ぼくたちが立っている側のドアが開いた。

 ぼくは一目散にホームへ飛び出そうとしたが、片足を踏み出したところで、ドンちゃんに肩を乱暴に抱かれて車内へ引き戻された。
 降車する客に睨まれながら逆行し、反対側のドアの脇へ連れこまれる。

「なにするんだよ、降りないのか?」
「きみの家は、あと三駅先だろ」
「ドンちゃん、勘弁してよ、本当に仕事が残ってるんだよ」
「社長が帰っていいと言ってるんだぞ」
「さっきは社長と呼ぶなと言っておいて!」

 ごにょごにょと声を抑えて揉めているうちに、ドアが閉まり、電車は動き出す。

「――どうしてそんなに嫌がるんだよ。いま帰ったら、マコトちゃん以外のだれかがいるのか」
「え」

 このとっさの反応は、ドンちゃんは正しい、と自ら認めているようなものだった。

 ドンちゃんは畳み掛ける。

「おれたちみたいな不規則な生活をしている独り身が、動物の世話なんてできるわけがない。だれか、いるんだろ、男が」

 ああ、またはじまってしまった。
 ぼくは心のなかで嘆いた。
 “先生”のときと同じ状況。シリアスなドンちゃんをはぐらかせるほどの意志の強さを、ぼくは持ち合わせていないのだ。
 またしてもぼくは観念する。

「……確かに、今日は家に友達がいるけど――どうやってそんなことまでわかったんだよ」
「缶酎ハイ」
「ああ……」
「さっきのレシートにあったよ。きみは酒が飲めないだろ、それなのに酎ハイを五本も買うなんて、自分のためじゃないのは明らかだ。一度に飲みきる分かも怪しい。男と一緒に暮らしてるんじゃないのか」
「違うよ、近所に住んでてしょっちゅうマコトの世話をお願いしてるから、お礼に渡したんだ」
「本当にただの友達なら、そいつにも紹介しろよ」
「……会わないほうがいいよ、きっと、いやな思いをするから」
「どうして。そんなにタチの悪い男なのか」
「そうじゃなくて……ドンちゃんも、知ってるやつだから」

 ドンちゃんは目を丸くする。

「じゃあ、中学の?」
「晃介だよ、三嶋晃介」

 ぼくは渋々うなずき、言った。ドンちゃんは眉間にしわを寄せ、

「……だれだ?」
「奇跡の答案用紙を回覧しようと言い出した張本人だよ」
「あいつか……あのサッカーばか」

 どうやらドンちゃんのなかで、三十名ほどいたクラスメイトのうちのひとりの顔がはっきりと浮かんだようだ。
 とたんに眉間のしわが深くなり、より一層険しい顔つきになる。

「いつも弁当をかきこんで、昼休みは毎日ボールを持って校庭に飛び出して行ってた、騒がしいやつだった」
「まあ、サッカーばかなのは間違いないけど」
「あんなのとずっとつき合ってたのか」
「いい気がしないのはわかるけど、悪いやつじゃないんだよ、ただ……」
「おれのことが気に入らなかったんだろ、わかってたよ」
「転校生は、どうしても目立つから」
「そうじゃない。おれは知ってた。どうしてあのボールを蹴るしか頭にないようなやつが、おれをクラス中の笑い者にしようとしたか」
「どういうこと?」

 ドンちゃんは腹立たしげに鼻をふんっと鳴らした。

「きみが、おれに近づいたからだ」

 ひとつ、ふたつと駅に停車するごとに、降りる客よりも乗りこむ客のほうが増え、車内は窮屈になってきた。
 人に押されたドンちゃんの身体が密着してきて、ぼくは慌てて背を向ける。手すりにしがみつくように身を縮めるぼくに、ドンちゃんは顔を近づけた。

 ぼくはドンちゃんの言葉に困惑し、首を振った。

「わからないな、ぼくがなんの関係があるんだよ」
「決まってるじゃないか、あいつはきみを好きだったんだ」
「まさか」

 ぼくは鼻で笑う。

「昼休み、いつもひとりで絵を描いていたきみが、おれに話しかけたあの日以来、おれと一緒に過ごすようになっただろ、覚えてるか」
「うん」
「きみの習慣の変化で、あいつになにが起こったと思う?  教室の窓から、手を振ってくれる友達がいなくなったんだ。あいつは自分のことをきみに見ていてほしかったんだよ、だから、おれに嫉妬した。きみを取られたと思って」
「もしそうだとしても、好きだった、とは言い切れないだろ。だいたい、あいつはずっと女たらしなんだから」
「絶対に、いまもきみに惚れてる」
「ねえ、ぼくの話聞いてる? そんなわけないんだって、本当にただの腐れ縁なんだ」
「じゃあ、確かめさせてくれよ」
「なんのために……」

 これが答えだと言わんばかりに、べろん、とドンちゃんが耳たぶを舐めた。
「ひゃっ」と声を上げかけたぼくは歯を食いしばり、堪える。こんな人混みでなんて真似をするんだと訴えたいが、それもできない。
 またぼくをからかって、満足げにニヤついているに違いない。そう思ってぼくはドアの窓を見た。
 が、そこに映っていたのは、悲しげに目尻を下げたドンちゃんの顔だった。
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