ぼくだけのドンちゃん

インナケンチ

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 その番号を押せないまま、もう長い時間が過ぎていた。

 夕暮れ時、地下鉄のホームは人の出入りが忙しく、電車を待つ列が絶えない。

 ふとぼくは顔を上げ、辺りに視線を巡らせた。

 楽しそうに会話している学生、子供の手を引く母親、けだるそうなビジネスマン——すべてがガラスを隔てた向こう側の存在に感じられた。声も耳に届かない。

 ぼくは手元に視線を戻した。震える左手の指で、すべての番号を押し切った。あとは発信ボタンに触れるだけ。
 ぼくは画面をタッチした。意を決して、というより、指の震えに任せて押してしまった、という感じだった。

「——津田です、津田零です。——お久しぶりです、名刺をいただいて——はい、十年、経ちます」

 心臓の鼓動がいっそう早まる。
 静まってくれ、声が震えているのを気づかれたくない。
 足がガタガタと震えだした。
 相手が声を発するたび、身震いする。これは嫌悪からくる震えだ。
 しかし、同時に身体の深い部分がじくじくと疼く。

「——やめてください、もう、昔のことです」

 ぼくはあなたに言わないといけないことがあるんだ。
 お願いだから、過去に引きずり戻さないで。

「——できません——違います、そのために電話したんじゃない。お願いします、話を聞いて。ぼくには大事な人がいます、あなたのことはもう」

 きみの絵は、描けるようになったのか?

 その問いに、ぼくは目の前が真っ白になった。
 スマートフォンが、地面に音を立てて落ちた。

✳︎

 クロッキー帳の真っ白なページを、ぼくはただ見つめていた。なにも考えが浮かばない。
 鉛筆を左手に、目を閉じる。
 ワクワクするような物語を、そこに吹く風の匂いや音までが届いてきそうな躍動を、ぼくは子供の頃から、そんな絵に憧れてひたすら描いていたはずだ。

『零くんの絵は、いまにも現実の世界に飛び出してきそうだね』

 ふいに思い出したその言葉に、胸が熱くなる。
 ぼくはその言葉が嬉しかった。
 技術ではなく、ぼくの空想の世界を見てくれたから。

『これは、ぼくを描いてくれたの? ——嬉しいよ、きみにはぼくはこう見えてるんだね。残念だな、ぼくには眼鏡越しにしかきみが見えない』

 やめて、その先はいらない。
 ぼくは大きく首を横に振った。
 しかしなぜか、自分の意思で目を開けることができない……いや、違う、この先を思い出したがっているのは、ぼく自身かもしれない。

『まったく見えないわけじゃないよ。眼鏡をとっても、こうやってうんと近づけば見えるんだ。きみの綺麗な瞳も、ツンとした鼻も、整った唇の形も———』

 鉛筆を持つ手に力が入る。
 手が震え、思わず紙の上にミミズが這ったような線を描く。

『知ってたよ、きみはずっとぼくを見てた。もしかして、きみも気づいてたのかな……』

 ぱきっと鉛筆の芯が折れて飛んだ。

『先生が、きみを好きだってこと』

 消えてくれ、いますぐ消えて!――ぼくは心のなかで叫び、ようやく呪縛から解かれたように目を開けた。

「——消えてって、おれのことじゃないよね」

 その声に驚いて、ぼくは振り返った。

 打ち合わせルームの入口にドンちゃんが立っていた。
 どうやら、ぼくは心の声を口から発していたらしい。

 ぼくは椅子から立ち上がり、クロッキー帳の位置をずらして自分の身体の陰に隠した。さりげなくそうしたつもりだったが、ドンちゃんの視線はぼくの手元を追っていた。

「まさか。少し、考え事を」

 ぼくは笑ってみせたが、動揺を隠しきれない。口元が引きつる。
 ドンちゃんはなにか言いたげだったが、まだ数名のスタッフが残っているオフィスをちらりと横目に見て、口をつぐんだ。

「……あの、なにか、ご用ですか」
「ああ、マスターに頼まれてた絵、進んでるか確認したくて」
「いま、ちょうど考えてたところです」
「そう、ならいい。急ぎではないんだが、サービスしてるとはいえ一応仕事として受けているから、あまり待たせないでやってくれ」
「わかりました」
「じゃあ、よろしく……」

 そう言って出ていったドンちゃんだったが、ひょいと顔だけ戻ってきて、

「まだ残るのか?」
「はい、もう少し、やっていきます」
「そう……おれは帰るから」
「お疲れさまです——まだ、なにか?」
「いや……」

 そう言いつつ入口でグズグズしていたドンちゃんだったが、「じゃ、お先ー」と微かに聞き取れる程度の小さな声で言って、その場を去った。

 ぼくは椅子にぺたんと座って、息をついた。冷や汗が背中に一筋流れ、身体がぶるっと震える。
 ぐちゃぐちゃな線で汚れたクロッキー帳と折れた鉛筆を見たぼくは、また手が震えているのに気づいて恐ろしくなった。

 どうしよう、描けない。なにも、描けない。

 ぼくの空想の世界が、また侵されてしまったのだ。

✳︎

「これ、描き直せるかな」

 その言葉は想定していたものの、やはり実際に言われるとショックは大きかった。
 ぼくはドンちゃん——社長のデスク前で突っ立ったまま、かれの問いに対して心のうちではすでに出ている答えをなかなか口にできなかった。

 かれのデスクには三パターンのイラストラフ案が並んでいた。
 ケント紙に鉛筆でざっくりと描いた線画に、イメージがわかる程度に水彩絵の具で仮塗りした状態のものだ。
 かれ、そしてぼくの行きつけになった喫茶店が改装することになり、真っ白な壁の一面に絵が欲しい、とマスターから依頼を受けた。社長はたとえ知人相手でもいい加減な取引をしない人だから、期限にゆとりを持たせてもらうぶん料金を下げはしたものの、それはほんの微々たるもので、一個人店が支払うには相応の覚悟がいる金額だった。
 事務所としては小さな仕事だが、社長にとっては、もちろんぼくにとっても、大企業から受ける1000万円の仕事より重い。

「零、どうなんだ?」

 かれはラフ画に視線を落としたまま、もう一度尋ねた。
 自分が出したラフ画を嫌悪感すら持って見つめていたぼくは、息を吸い、言った。

「……ません」

 かれが顔を上げ、ぼくを見たのが気配でわかる。

「ん、いまなんて?」
「……描けません」
「それはつまり、きみはこれで納得しているということか?」
「いいえ」
「なら、どうして」
「これ以上は、描けないからです」

 ぼくは腹を決めて、かれの目を見てはっきりそう言った。
 かれは眉を寄せ、

「どういうことだ」
「わかりません」
「わからない?」
「すみません、理由はわかりません、ただ、描けないんです」

 説明にも言い訳にもなっていないあやふやな答えを聞いたとたん、かれの顔から感情が消えた。
 そして、ぞっとするほど冷たい声で言い放った。

「きみはプロだろ、自分の状態すら把握できないでどうする」
「……はい」
「描けないなら、他のイラストレーターを探す。きみはそれでいいんだな?」

 強い眼差しがぼくの真意を探ろうとしている。
 ぼくは目を合わせられず、「はい」と弱々しく答えるのが精一杯だった。
 かれは頷くと、次の瞬間にはいつもの穏やかな“社長”の顔に戻った。

「わかった、マスターには話をつける——きみはりんりんのほうに戻ってくれ。この間通った企画、新しいwebカタログを早く進めてほしいと催促がきている。来週までに——」

 社長の冷静で的確な指示、同僚の声、キーボードを叩く音、コピーを刷る音、ラジオの音楽——業務に戻っても、ぼくにはそのすべてが別世界の出来事のように感じられた。

✳︎

 今日一日の仕事をどうやって乗り切ったのか、いまのぼくには振り返ることすら困難だった。

 《どうして描けないんだ》

 社長のデスク脇にある、かれ専用のホワイトボードにマグネットで留められた三枚のラフ画を見つめながら、ぼくはもう一度自分に問いかけた。
 オフィスにはもうだれも残っていない。ぼくも帰るところだったのだが、社長のデスク前を通りかかって自分が描いたその絵を改めて目にし、その場を離れられなくなってしまった。

 《どうして、どうして、どうして》

 理由がわからないというのは半分が嘘で、半分は真実だった。
 しかし、正直に言えるはずがなかった。
 また“先生”がぼくの世界を乗っ取ってしまった、でもわからないんだ、十年も会っていないのにどうしてそうなってしまったのか、と。
 “先生”の存在がぼくのなかに舞い戻ってきたその理由を知ったとき、かれがどんな反応をするのかわからなくて、恐ろしくて、なおさら正直に言えない。
 つまらない絵だ。
 ぼくはラフ画を隅々まで見つめ、そう心のなかで吐き捨てた。
 技術だけの、なんの魅力もない絵。
 クライアントに見せる価値がないとドンちゃんが判断したのは当然だった。

「——零、帰るぞ」

 トイレから戻ってきたドンちゃんが言った。
 気だるそうにリュックを肩にかけ、声もどこか間延びした、プライベートのドンちゃんだ。

「……うん」
「まだ気にしてるのか?」
「……うん」

 ドンちゃんはぼくの前に立つと、うつむいているぼくの顔を覗きこんだ。

「気にするなよ。おれが悪かったんだ、イラストレーターに転向したわけでもないのに、勝手にこんな仕事を引き受けたから。きみが活き活きと描いてる姿を見たくて」
「引き受けたのは、ぼく自身だから。やり遂げられなかったのは、ぼくの責任」
「あのラフ、どれもよく描けてるよ」ドンちゃんはホワイトボードに並んだ絵を見て言う。「でも、違うんだ、あれはきみの絵じゃない。いまにも跳ねまわりそうなキャラクターも、賑やかな街並みもあそこにはない。それに、あれを描いているときのきみは苦しそうだった」
「気分に左右されちゃいけないのはわかってるよ」

 ドンちゃんは、そうじゃない、と首を横に振った。

「こんな仕事、まさに気分次第だよ。アイデアはそれをひねり出すときの心の持ちように大きく左右される、そういうものだ。ただきみの場合は、そうじゃないだろ」
「ドンちゃん……」
「見覚えがあるんだ。このラフを描いていたときと同じように、苦しそうに絵を描いているきみの姿を見たことがある——放課後の、美術室で」

 記憶のなかに意識が飛んでいるのか、ドンちゃんはほとんど独り言のようにそう言った。
 ぼくの意識も、かれに手を引かれるように古い記憶へ導かれていった。
 が、そこには厚い霧がかかり、恐ろしく不鮮明だ。
 ぼくはどんな様子だったのだろう、ドンちゃんとなにを話したのだろう……ぼくは固唾を呑んでドンちゃんの言葉を待った。

✳︎

「れ……」

 おれは声をかけようとして、慌てて口をつぐんだ。
 零が最初の一筆をキャンバスにおろすところだったのだ。
 危うく邪魔するところだったと、おれは息をつく。

 窓からたっぷりの西日が射し込む美術室には、零ひとりだった。

 五時間目の授業でデッサンをしたときのまま、中央の台に透明な瓶と果物のレプリカが置かれ、それを囲むように椅子が並んでいる。

 零は部屋の後方の窓際にキャンバスを立てていた。
 眩しいオレンジ色の光に縁どられたかれの姿は、とても儚い。細くて柔らかそうな髪はきらきらと輝き、ふっくらとした唇と、そこから小さな顎にかけての輪郭が美しい。

 おれは入口の扉の枠にもたれ、その姿にうっとりと見惚れた。

 零は制服の上着を椅子の背にかけてある。
 華奢な体つきのかれにはまだ制服は大きくて、特に絵を描くときは邪魔だからと、寒くても脱いでしまうのだ。
 だが今日はセーターを着ているし陽射しはまだ暖かいから平気だろう、とおれは思った。

 捲り上げた袖から伸びた腕は細く、筆を優しく持つ手は小さい。
 キャンバス上での流れるような筆使いや蜘蛛の糸のような可憐な線は、かれ自身の繊細さから生まれているのだとおれは確信し、改めて思う。

 好きだ、零が絵を描いている姿が、堪らなく好き。

 夢見心地で零を見ていたおれだったが、急に心配になってきた。
 零の手は、筆先をキャンバスに向けたまま一向に動こうとしない。いったん手を引っ込め、また描きはじめようとするが、今度は手が小刻みに震えだした。逆光のなかでも、かれが唇をきゅっと噛んだのがわかる。
 と、零は唐突に椅子を引いて立ち上がると、まるで腕に這う虫を払い捨てるように、パレットと筆を机の上へ放った。
 そのとき、かれはやっとおれの存在に気づき、悪夢でも見たような顔を向けた。

「……ドンちゃん」
「零、どうした?」
「なんでもない」零は苦笑いを浮かべ、「スランプってやつかな」
「本物の芸術家みたい」

 おれは美術室へ入ると、キャンバスのそばにある椅子に座り、零を見上げた。かれは立ったまま、鉛筆でうっすら下書きされた絵を睨んでいる。

「ねえ、平気?」
「なにが?」
「風邪。三日も休んでただろ、無理して描かなくていいんじゃないの」
「ああ、風邪……もう平気だよ」
「そっか……零、先生になんか言われた?」

 零が大きな目を見開いて、おれを見た。

「なんかって、なに」
「わかんないけどさ、五時間目のとき、なんか先生を怖がってるみたいに見えたからさ」
「気のせいだよ、なんにもないもん」
「いじめられたならさ、言えよ、おれに」

 零はクスッと笑い、

「いじめられてるの、ドンちゃんじゃない。今日、きみの答案用紙回ってきたよ、怒らないとダメだよ」
「もう慣れたし」
「嘘つき」

 嘘つきは零のほうだよ。
 そうおれは思ったが、口にはできなかった。
 きっとおれが頼りないから、なにも話してくれないんだ。零を守れるくらいに強い、本物のライオンになれたら、おれを頼ってくれるのかな。おれを好きになってくれるのかな。
 おれは口を尖らせ、頭をぽりぽりと掻いた。

✳︎

 ぼんやりとした意識のなかで、ぼくは目を開けた。

 少しずつ暗闇に目が慣れて、寝室の隅にある猫タワーと、その真ん中あたりのベッドで眠るマコトの姿が見えた。熟睡しているようだ、腹が上下に動き、微かに寝息を立てている。

 しかしぼくは眠れない。緊張していた。
 マコトの寝息は聞こえるのに、隣で眠っているはずのドンちゃんの寝息がまったく聞こえないのだ。
 ドンちゃんも、ぼくが起きていると気づいているかもしれない。

 あの後、結局ドンちゃんは過去の記憶について触れなかった。
 他愛ない話を楽しそうに語り、冷蔵庫の残り物でぼくが簡単な夕食を用意するのを邪魔し、一緒に風呂に入ろうと軽口を言い、いつも通りのドンちゃんだった。

 ただ、ぼくはドンちゃんがなにを思い出したのか気になって、こうして一緒にベッドに入ったいまも、眠れずにいる。

 どうしてなにも言わないのだろう。ぼくが描けなくなった理由に思い当たったわけではないのだろうか。先生が関わっていると気づけば黙っているはずがなく、きっとこう言っただろう。

 《おれが骨まで残さず平らげてやる》

 食べてほしい、血や脂さえも残さず。
 それができるのは、ドンちゃんしかいない。

 ぼくは寝返りを打つと、壁に向かって横になっているドンちゃんの背中を見つめた。声をかけようとするが、言葉が出ない。
 ぼくはそっと、かれの背中に手を触れた。

「……零、どうした?」
「起きてたんだ、やっぱり」
「零が眠らないから。子守唄でも歌おうか」
「ドンちゃん、話さないといけないことがある」
「明日にしよう、零」
「お願い、聞いて……ぼくにはわかってるんだ、描けなくなった理由が……また、先生がぼくの世界に現れたんだよ」
「……」
「ドンちゃんが作ってくれた名刺をシードの部長に渡した。一番お世話になった人だから。その部長が先生に名刺を見せた。ぼくは知らなかったんだ、部長が先生の友人だったと。大学の同期だったんだ。この間部長と会ったときに先生の名刺を渡された、会いたいから連絡してほしいと言っていた、と」
「……連絡、したのか?」

 ぼくは小さく頷いた。

「どうして」
「断ち切りたくて……あの人との関係は、大学に入るまでずっと続いてた。でも耐えられなくなって、ぼくは逃げた。電話番号を変えて、実家を出た。けどそれでは、気持ちを断てなかった。だから今度はちゃんと別れを告げないといけない、そう思った。それなのに……ごめん、ドンちゃん」

 ぼくはドンちゃんのシャツを掴み、背中に顔を埋めた。

「消してほしいんだ、先生を。勝手なこと言ってるのわかってる、ドンちゃんが嫌な思いするのもわかってる、でも、お願い、食べて、ぼくも一緒にぐちゃぐちゃになってもいいから!」

 唐突にドンちゃんが寝返りを打った。
 ぼくに覆いかぶさり、ぼくの口をそっと指で押さえた。

「零、おれはずっと、きみを抱きたいと思ってたんだよ」

 ぼくはドンちゃんのおぼろげな顔を見つめる。

「おれだって普通の男だ。強がって、我慢して、気持ちが抑えられないときもたくさんあった。でも、抱けなかった。きみの心の傷が見えたから」
「心の、傷?」
「中学のあの頃、おれはきみが先生にいじめられてると思ってたんだ。だから時々学校を休んだり、絵が描けなくなったりしたんだと。ウブなガキ過ぎて、きみの口から先生に抱かれたと知るまで、そんなこと考えもしなかった」
「ぼくは先生が好きだった、初恋の人だったから。だから忘れられないんだ」
「かれと結ばれたことが幸せな思い出なら、どうしてきみの世界は空虚になったんだ、どうしてそんなに苦しむんだ」
「それは……」
「零、一緒に戻ろう、あの日に」
「あの日?」
「そう、一緒に」

 そう言うと、ドンちゃんはぼくの額に口づけをした。

✳︎

「嘘つきは零のほうだろ」

 ドンちゃん?――目の前に、いまよりうんと幼いドンちゃんが座っていた。
 クセの強い髪があらゆる方向に跳ね、制服のネクタイは緩み、シャツの裾がズボンからはみ出している。
 自分の手足に目を移す、ぼくも制服を着ていた。
 ぼくはあたりを見回した。
 中学の美術室だ、ぼくが放課後の大半を過ごした場所、先生にはじめてキスされた場所……。
 ぼくは険しい表情をしたドンちゃんに視線を戻し、尋ねた。

「嘘つきって、どういう意味?」
「本当は先生になんかされたんだろ」
「なんにもないって、言ったじゃん」
「嘘つき!」

 ドンちゃんが椅子を倒しながら勢いよく立ち上がり、ぼくに迫った。

「おれにだってわかるんだぞ、きみがいっぱい泣いたことも、いまもすごく泣きたいってことも」
「泣くはずないじゃん、だって先生もぼくのこと好きだったんだ、両想いになれたんだ。だから、あんな……」

『先生、手、痛い』
『だってじっとしてないから。なにも怖くないって言ってるだろ』

 もう一度耳元で先生がそう言ったように感じて、ぼくは無意識に自分の左手首を掴んだ。そうしないと、手の震えが止まらないから。
 先生の声は優しかった、しかし有無を言わせない響きがあった。

 先生に連れていかれたかれのマンション、はじめて見る大人の一人暮らしの部屋――しかしはっきりと覚えているのは、ざらざらとしたカーペットに肌が擦れて痛かったことだけだ。

 緊張しながらジュースを飲むぼくを見ていた先生は、突然、テーブルを押しのけてぼくを床に押し倒し、唇を重ねた。
 いや、あれは、重ねるなんてものではなかった。美術室でしてくれた優しいキスとはかけ離れていて、息ができなくなったぼくは手足をばたつかせた。
 それを先生は力づくで押さえつけた。

「……もうこんな話やめよ」

 ぼくは懇願するようにドンちゃんを見た。

「ダメだ、やめちゃダメだ」
「どうしてぼくを苦しめるんだよ!」
「気づけよ、きみは自分で自分を苦しめてるんだよ、辛かったくせに、嫌だったくせに、大人になってくあいだに無理やり納得して傷を塞いだんだろ」

『ほら、足もっと開いて』

 先生はワイシャツを脱ぎ捨てると、ぼくの両足を持ち上げ、右足の指を咥えた。
 ぼくは経験したことのない痛みと不快感ですでに身体の感覚が麻痺していて、遠のいていく意識のなかでかれを見た。

『まだ、なにか、するの』
『もっと気持ちいいことだよ、きみもよくなってきたところだろ――可愛いよ、零くん、好きだよ』

 好きだよ、と先生は何度もぼくに囁いた。だからぼくは、我慢しなくてはならないと思った。ぼくも好きだったから、嫌われたくなかったから。
 その日以来、先生は何度もぼくを抱いた。
 まるでかれの存在を身体に叩き込むように、激しく。
 
「……きみに、わかりっこない、きみはあの後すぐにいなくなっちゃったんだ」
「わかるよ!」

 ぼくの手をドンちゃんが掴んで、身体ごと引き寄せた。

「おれ零のこと好きだから、ずっと好きだったから、忘れたことなんか一度もないから……もう、後悔したくないんだ、だから、今度こそずっとそばにいるって決めたんだ」
「ドンちゃん……」
「先生を好きだったことも、辛かった気持ちも、消しちゃダメだ、見ないふりしちゃダメだ」

 ぼくはドンちゃんの胸に身を寄せた。
 かれの腕がぼくの身体をきつく抱きしめる。
 不思議だった。まだ子供であるはずのドンちゃんの身体は見た目以上に大きく、包み込まれるようだった。
   ぼくたちは本当に時を超えたのかもしれない。過去の“いま”と現在の“いま”は常に同じ空間に存在していて、ドンちゃんと一緒なら、いつでもその壁を超えられる。そしていつでも、かれの体温を感じられるのだ。
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