執務室に鍵をかけたら

インナケンチ

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パパ

01

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 マリオンは執務室に入ると、後ろ手にそっと扉を閉めた。
 目の前の憎たらしい笑顔をきっと睨みつけ、

「……ここでなにをしてるんだ」
「決まってるだろ、お迎えさ」
「よくもしれっと……殴るくらいじゃ済まないぞ!」

 パパはいっさい動じることなく近づいてくる。

「寄るな!」
「近寄らないと殴れないよ。いいね、その目。男前になったな。やっぱりモニタ越しより、本物がいいよ」

 いざ拳を握ると、マリオンの手は震えた。
 パパの甘ったるい声に全身がびりびりと痺れ、動けない。
 ゆっくりとマリオンの鼻先まで近づいたパパは、柔らかな赤毛をなでると、次の瞬間には拳を握った手を掴んでいた。
 あっさり腕のなかにマリオンを抱いたパパは、澄ました顔で歩き出す。細いジーンズを履いた足でステップを踏み、まるでタンゴを踊っているかのごとく軽快に。
 マリオンは全力でもがいたが、パパの身体はびくともしなかった。華奢な身体のどこからこんな力が生まれるのか見当もつかない。
 パパは神経質そうな大きな目をギョロリと動かし、天井を見上げた。

「マーリチカ、おまえと喧嘩してる時間はないんだ。ここの警備システムを眠らせておける時間はそう長くない。塀のなかに逆戻りはいやだよ」
「一生、極寒の檻に閉じ込められてればよかったんだ」
「ひどいなあ、待ちわびた親子の再会なんだぜ」

 そう言いながらも、パパは悪態すら嬉しいと言わんばかりの表情だ。それでも、決して力は緩めない。
 逃げ出す隙を窺っている息子を学長のデスクにねじ伏せると、背後からのしかかった。

「勝手にいなくなったおまえにも罰が必要だが、長く待たせちまった分でチャラにしてやるよ、今回はな」
「罰……」

 マリオンの目にじわりと涙が込み上げた。

「まさか、フルスタルに罰を?」
「失敗にはお仕置きが必要だ、忘れたのか。おまえだってまだどこかに跡が残ってるだろ?」
「痛い!」

 パパはマリオンの肩を乱暴に引いて身体を仰向けにさせ、頭上に両手首を押さえつけた。
 ネクタイを払いのけ、ワイシャツのボタンをはずしていく。が、すぐ面倒になって残りを引きちぎった。
 露わになった素肌の上に、ゴールドのリングをはめた手を滑らせる。
 リングの冷たさにマリオンの身体は震えた。

「なあんだ、ほとんど消えてる、綺麗なもんだ。フルスタルなんか傷だらけさ。あいつはずっとおまえのそばにいて、ひとりでいい思いしてたんだぜ。傷がひとつ増えるくらいじゃ足りないよ」
「フルスタルは好きでおれのお守りをしてたんじゃない。いまだってそうだ、早く弟を解放しろ!」
「解放ってなんだよ。首輪で繋いでるわけじゃないんだぜ。おれの望みはやつの望みだ」
「フルスタルはあんたとは違う。悪魔!」
「知ってるか、悪魔ってのは天使と表裏一体なんだ。おれたちは一心同体、以心伝心、つまり、おれとフルスタルは切っても切れないってこと。ガキの頃を思い出してみろよ。おまえは手取り足取り、あいつからいやらしいテクニックを教わったはずだぜ」

 いて! と声を上げ、パパが手を離した。
 マリオンの手には、短くなるまでアルマーズが使い込んだ、先の尖った赤えんぴつが握られていた。

「いつの間に……さすが、おれに鍛えられただけのことはあるな」
「さっさと出ていけ、マロースに気づかれないうちに」
「なに言ってる、おまえも一緒に帰るんだよ」
「おれの家は、ここだ」
「こんなところ落ち着かないだろ、あちこちカメラだらけで。あの下膨れは臆病もんだな」
「その言い方やめろよ。学長は子どもたちを守るために」
「ふん、おれに侵入された、間抜けな野郎だ」

 マリオンはとっさに拳を突き出した。
 パパは軽く避け、平手打ちを返す。
 それをまともに頬に食らったマリオンは身体をねじった格好で飛ばされ、デスクの角に腹を強かにぶつけた。

「いって……くそ!」
「帰ったらまずはトレーニングが必要だな」パパはマリオンの腹をなで、「鈍った身体をおれが鍛え直してやるよ」
「触るな! そんなもの必要ない、あんたを一発殴れれば十分だ!」
「いまのおまえじゃ、一発も無理だよ?セクハラオヤジすら殴れなかったなんて、おれの息子とは思えないな」
「殴れなかったんじゃない、殴らなかったんだ。おれみたいな出自の曖昧な人間が人を怪我させたりしたら、一発で社会から抹消される。まともに生きるには、我慢するしかなかったんだ!」
「ろくでもない生き方だな。おれはパンチよりキスがほしいなあ、久しぶりなんだからさ、たっぷりしようよ、なあ、マーリチカ」

 パパはマリオンの耳に顔を寄せ、猫なで声で囁いた。
 マリオンはめまいを覚えつつ、

「……あんたは中身も外見もちっとも変わってない。また整形したのか?そんな金どこにあったんだよ」
「おれの息子たちはみんなパパのためによく働いてくれるのさ。かわいいやつらだ」
「まだ懲りてないんだな……」
「懲りる?なにを?」

 パパは目をぱちくりさせ、首をひねる。

「なあ、それより、顔だけじゃないんだよ、身体もおまえと一緒にいた頃のままなんだ。フルスタルだけちっとも老けないから腹が立ってさ。ねえ、見たい?」
「あんたどうかしてるよ」
「あんたあんたって、パパは寂しいよ、その呼び方」
「好きなように呼んでやる。いまの名前はなんだ、いったいいくつ名前があるんだ、裁判のときすら仮名だったじゃないか」
「しかたないだろ、おれだって本名なんか覚えてないんだから。フルスタルの名だって、おれがつけてやったんだ。おれたちってけっこう不幸なんだぜ、慰めてくれよ」
「やめろよ……」

 パパはマリオンを抱きしめ、細い首筋に口づけした。
 ブロンドヘアの毛先が肌をくすぐり、バニラのような甘い香りがマリオンの意識を遠のかせた。
 この独特の匂いはツェルイだ。パパが好んで呑むタバコ。
 パパの身体に染みついた香りが、マリオンのなかの時間を巻き戻す。パパと過ごした頃、まだ幼かった頃へ。

「ツェルイ、まだ吸ってるんだね」
「ああ、欲しいか?」

 マリオンが頷くと、パパはかれの顎を持ち上げ、唇を重ねた。
 何度も、執拗に、触れるだけのキスをする。

「うまいだろ」
「……もういい、やめて」
「キス好きだったじゃないか。パパ、キスしてってよくせがんだよな。ゲームもたくさんした」

 そう、パパはいろんなゲームを考えだした。おれが一番好きだったのは『暗記ゲーム』だ。
 パパが用意するミッション、それはどこかのビルの青写真の日もあれば現地に行くこともあったが、そこにあるものをすべて覚えればクリアで、ご褒美はキスだった。
 パパが帰ってきたら、今度はおれがキスで迎えるんだと、その日を待ち侘びていたのに……。

「パパ」

 マリオンはパパの小さな頭をなでた。
 パパは微笑む。やっと昔のおまえに戻ったな、そう言おうとして、最後まで言い終わらずに、頭を両手で掴まれた。
 ごん、という鈍い音。
 強烈な衝撃を受けたパパは後ろへのけぞった。その場にマリオンも一緒に頭を抱えてうずくまった。しばらくどちらも動けない。

「……あ、頭割る気か、死んじゃうだろ!」
「一回ぐらい死ねばいいんだ!自分の息子をひとりぼっちにしておいて、なにもなかったみたいに昔と同じことして。ほかにやるべきことがあるだろ!」

 顔を上げたパパの額には血がにじんでいた。
 マリオンも同じく。

「だから、ちゃんと迎えに来たじゃないか。身体も昔の通りにしてさ」
「13年だぞ、わかってるのかよ。子どもにとっては永遠に等しい時間なんだ、捨てられたも同然なんだよ。なにを悠長に整形なんかしてんだよ!」
「怒るなら弁護士に怒れよ、高い金で雇ったのにとんだ役立たずだったんだからさ」
「この、ばか、人のせいにして!」
「いたいいたい、叩くなって。怒るなよ、その分稼がせてやるから!」
「またおれを利用するつもりなのか……この目か、そうなんだな……教えろ、あの医者はどこにいる!」
「お、改良でもしたいのか?」
「二度とあのマッドサイエンティストの実験台になってたまるか。この目をもとに戻すんだ」
「なんだそのマッドなんとかってのは。やつは名医だぜ、おれのボディを見てみろ」
「見せるな。あの医者はそんなことまで?」
「地下の医者はなんでもやるさ。その目はやつの最高傑作だぜ、完璧じゃないか。どうして眼鏡なんかかけてる」

 眼鏡を取り上げられそうになって、マリオンは必死に押さえた。

「なにが完璧だ、完全な欠陥品だ。ずっと光の調整がばかになったままなんだ。些細な明かりでも眩しくて、落ち着いて眠ることもできない」
「そうなの?」
「あの医者、こうなるとわかってたからこんな眼鏡まで用意してたんだ。これだって、ないよりはましなだけ。どうして名医が、わざわざ人を生きにくくするんだよ!」
「稼げりゃ、なんてことないだろ」
「く……」
「あの白髭め」パパは独りごとのように呟く。「せっかく生かしてやったのに、クジラでのたれ死にか。まあ、地獄へ行くには便利そうだな」
「クジラ? あんなところに……え、あの医者は、死んだのか?」
「ほんと残念」

 たいして残念な素振りも見せずに、この色男はまた魅惑的な笑みを口元に浮かべた。
 マリオンは目の前が真っ白になる。

「じゃあ、この目は一生このままなのか?」
「それは金があれば手に入るってもんじゃない。新しいパパにその目を与えてやれると思うか? その目がなきゃ、おまえ、失明してたんだぜ」
「おれのためみたいな言い方するな」
「そんなにいやなら新しいパパに頼んで、普通の義眼を入れてもらえよ。金持ってそうじゃないか」
「どうして知って……うそだろ、まさか養父さんのところに行ったんじゃ」
「別になにもしてないよ、おれの大事な息子を預かってくれた礼を言いに行っただけ」
「信じられない!」
「でかい家だったなあ。おまえ、ずいぶんいい暮らししてたんじゃないか。おれなんか、夏でも凍えるくらい寒くてさ、床も壁も天井も廊下も、どこもかしこも真っ白なところに押し込められて、気が狂いそうだったよ。でもさ、あの家セキュリティーが甘いよ、あれなら簡単に侵入できるし、住んでるのは年寄りひとりだろ、ちょろいな」

 マリオンは怒りでぷるぷると震える指でパパの胸を小突き、

「うちで金庫破りなんかしたら、おれがこの手であんたを殺すぞ、二度と養父さんに近づくな!」
「パパはおれだけだろ?」

 パパはマリオンの指を掴むと、かぷりと口にくわえた。
 マリオンはぞっとして、急いで指を引っこ抜いてワイシャツで拭った。

「もう、あんたなんか赤の他人だ!」
「なんだよ、新しいパパにぞっこんなのかよ。幸せなジジイだな。やつになにをしてもらったんだ、いっぱいキスしてもらったのか?」

 パパは急に険しい顔つきになり、マリオンの身体を足下から舐めるように見た。
 気味が悪くなったマリオンは後ずさりして、

「なんだよ」
「まさか、キスより先のことまでされてないよな、綺麗な身体だよな?」

 キス魔の自分を棚に上げ青ざめた顔で身震いするパパを、マリオンは心の底から軽蔑した。
 おれのパパというのは、こういう人間だったのか。幼いマーリチカにとっては強くて賢い、憧れのパパだった。
 だが、いま目の前にいるのはだれだ?ただの欲深い男じゃないか。反省というものを知らず、図々しい自分勝手な男。
 じゃあ、おれは?おれはキスこそがパパの愛と信じて疑わなかった。それが異常な感覚だと知らなかった。つまりおれ自身も、絶望的な存在だったのだ。
 マリオンはなんとか正気を保とうと、自分へ言い聞かせるように言った。

「養父さんはおれを大学まで行かせてくれた。まともで、安全で、こそこそと逃げ隠れしなくていい生活を与えてくれた。おれは、13年の間に変わったんだ」
「おまえはなんにも変わってないさ。つまんなかっただろ、そんな生活」
「……もう、行けよ」
「一緒に帰ろう、マーリチカ」
「しつこい。ここから、この街から消えてくれ。この厄介な目がある限り、どんな人混みでも、どんな暗闇でも、必ずあんたを見つけてしまう」
「違うだろ、おまえがおれを求めてるんだよ」
「出ていけ」

 ブブブブ。
 スマートフォンが震える音がした。

「時間切れだろ」

 とマリオン。
 パパはコートのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見ることなく電源を切った。

「出所は祝ってやる。二度と塀のなかに戻るようなことはするな。ここには二度と入るな、おれの前にも現れるな。もう、これっきりだ」
「しょうがないな」

 ふうっと息を吐いたパパは、すぐにけろっとした顔になって「また来るよ、マーリチカ」とマリオンの頬に別れのキスをしようとした。それを手で払いのけられると、今度は力ずくでキスをやり遂げた。
 パパは満足げに部屋を出ていった。
 マリオンは膝から崩れ落ち、床にへたり込んだ。

『キス、好きだっただろ?』

 パパの唇の感触、熱い息、ツェルイの香り、そしてあの話し方……同じ舌足らずなのに、優しいフルスタルとはまったく違う、どこか強迫的な力を持った声。
 マリオンは身を縮め、膝を抱えた。
 パパは結局、一度も謝らなかった。キスなんかいらない。「13年もひとりぼっちにしてごめん」、その一言だけでよかったのに。
 マリオンはぽろぽろとこぼれ落ちる涙を袖で拭い、手の甲をつねった。無意識にまたそうした自分に気づき、はっとする。
 泣くな、焦るな、取り乱すな——仕事中のパパの口癖だった。
 パパは幼いおれにも容赦はなかった。怖くて泣きそうなとき、緊張でパニックになったとき、おれは自分で自分の身体をつねって落ち着きを取り戻した。それを教えたのはパパだ。

『泣きそうになったら、どこでもいい、こうやって我慢しろ』

 それも、養父さんに執拗に叱られるうちに治っていたはずだった。
 13歳にもなって赤ん坊みたいな真似はやめなさい、みっともない。食事の仕方も知らないのか、みっともない——おれは養父さんに引き取られるまで一度も学校に行ったことはなく、食事のマナーさえ知らなかった。教師だったかれの学校になんの知識もないまま放り込まれ、ほかの生徒にばかにされ、いじめられながら、みっちり『まともな生活』を叩き込まれた。辛かった。いまでも思い出すと吐き気がする。パパとの綱渡りの生活より、生きた心地がしなかった。
 そんな現実から逃げるために、おれはパパに幻想を重ねたのだ。
 必ずパパが助けてくれる、と。

「悔しい……!」

 マリオンは手の甲が赤く腫れるほど何度もつねりながら、しかし涙をこらえきれなかった。大粒の涙が頬を伝ってあとからあとから流れ落ちる。

 またつねったら、おれもこうしてやる。

 そう言って自分の頬をつねったアルマーズの顔が浮かぶ。

「学長……学長……!」

 マリオンは泣きじゃくった。

 お願い、そばにいて、おれを抱きしめて!

 ふいに、ドタドタという音が聞こえた。
 涙の出すぎでもうろうとする頭で、これはおれの脳みそが壊れる音だろうか、とマリオンは思った。
 それが足音だと気づいたとき、廊下側の扉が乱暴に開け放たれた。

「マリオン!!」

 入口に現れたのは、顔を真っ赤に上気させ、ほうきを握りしめたアルマーズだった。
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