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マラザフスカヤ
01
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「わくわくするなあ」
空を仰いで両手を広げ、イアリートは言った。
快晴だった。雲ひとつない。風は冷たいが、空気は乾燥して澄んでいる。
高い場所から地上を見渡すのは爽快だ。広大な校庭に所狭しと屋台が立ち、カラフルなバルーンがあちこちで揺れている。学園を取り巻く森は青くもこもこしていて、ブロッコリーのようだ。その下を抜けるときの陰気なイメージしかなかったイアリートは感動すら覚えた。教員不足による過労も、学長から受けるストレスも、すべて吹き飛んでいくようだった。
「こんな大規模な学園祭はじめてだもんなあ。いい初日になりそうだな、なあマリオン。——なあ、マリオンってば。きゃっ!」
振り向きざまに大きな物体が飛んできて、イアリートは飛びのいた。マリオンが、木製の椅子を寸分の狂いなくかれの足元へ投げつけたのだ。
「うるさいな、さっきから。ごちゃごちゃ喋ってないで手を動かせよ!」
「そんなに怒るなよ……」
イアリートは転がった椅子をもとの位置へ戻し、積み重ねてあった分を並べていく。
「ちゃんと前脚を揃えろよ、ここは開会式のときに一番目立つんだから」
創立記念式典と学園祭開会式に使用されるステージの上で、ふたりは貴賓席を用意していた。正確には、マリオンの仕事をイアリートが邪魔しにきただけなのだが。
「テレビまで来るんだっけ、おれニュースに出ちゃうかな。——ほらできた、どうだよ!」
マリオンはそれを片っ端から直していく。
「……ほかになにか手伝おうか?」
「もういい。きみは自分のクラスの監督をしてろよ」
「あのさ、実は、おまえに報告したいことがあって」
「興味ない」
「おれ、サプさんとつき合うことになったんだ」
「……は?なにを寝ぼけてる?」
「サプさんに言われたんだ、おれに、本当の恋を教えてほしいって」
デレデレと緩みきった表情で、イアリートは巨体をくねらせた。
「今日はふたりで学園祭を巡る約束もしてるんだ。あ、もう行かなきゃ」
「へえ……」
喜び勇んでステップを駆け降りていったイアリートを、マリオンは冷めた眼差しで見送った。
サプは、いやフルスタルは罪つくりな人だ。これまでにかれが弄んだ男は数知れない。あの単細胞だって、フルスタルにしては珍しい相手だが、仕事が終わればお払い箱。別れも告げずに姿を消すくせに。どうせなら、たとえ相手がイアリートでもいい、フルスタルが足を洗うきっかけになってくれないだろうか。
パパがブラーチを生かしていたのは裏切りを許したからじゃない。その逆だ、一生許さないという脅し。裏切り者に自分の整形手術をさせたその精神構造はおれの理解を超えている。パパの身体にメスを入れることになったブラーチはきっと恐れ慄いたに違いない。
そんな男と、たとえ実の兄弟でも、フルスタルは一緒にいてはいけない。
「そこ!」マリオンは背後にいる職員に指示を飛ばす。「校章旗は上手!」
✳︎
式典開始を目前にして、野外ステージが設置された校庭の大理石広場には、大勢の招待客が集まった。マラザフスカヤの紋章を象ったブローチを胸に、思い思いに談笑している。
アルマーズはラマノヴァ会長の相手をしていたが、気持ちはそこになかった。
ステージの陰で式典進行の最終確認をしているマリオンの様子を、ずっと横目に伺っていた。
ふいにマリオンがかれのほうへ顔を向けた。
アルマーズはとっさに視線をそらした。ラマノヴァを促し、移動する。
狼狽えるな、しっかりしろ、とアルマーズは自分に言い聞かせる。
〈学長、現れました〉
右耳にはめたワイヤレスイヤホンを通して、マロースが告げた。
アルマーズは辺りを見回すそぶりでラマノヴァの視界から外れ、応える。
「わかった。サプフィールは?」
〈職員室にいます〉
「見失うなよ」
鐘の音が9時を告げた。式典開始の合図。
ステージの脇にいたマリオンは、違和感を覚えていた。
学長の耳にイヤホンがあるように見えた。しかし、なんのために?
「マロースくん、いま、学長となにか話した?」
〈いいえ、話していません。マリオン、式典開始の時刻です〉
「そうだね……はじめよう、頼むよ」
〈式典プログラム、はじめます〉
学園内のスピーカーから校歌が流れ、巨大ビジョンにはためく校章旗が映し出された。
政治家や地元の有力者、マラザフスカヤ家の現当主といった貴賓の挨拶が滞りなく終わり、学園の理事長兼学長の番がくる。
拍手のなか、アルマーズが壇上中央のマイクの前に立った。
学長が軽快な漫談、いや挨拶を進めるなか、マリオンは会場を見回した。
後方に並んでいる教師や職員のなかにサプフィールの姿を見つける。
見つけて、マリオンはぎょっとした。
サプフィールは手を振っていた。両手で円を描くように大きく。かれらしくない行動だ。
まさかと思い、マリオンは眼鏡をずらしてもう一度かれを見た。
不敵な笑み。悪魔の笑顔。
パパだ。やはり現れたのだ、おれの願いなど無視して。
視線を感じて壇上を見上げたマリオンは、アルマーズと目が合った。かれの目が問うているように見えた。サプフィールはなにをしているんだ、と。
パパに視線を戻す。その姿は消えていた。
いまにも駆け出したい衝動を抑え、マリオンは静かにビジョン横を離れた。
早足で会場を回り込む。その場の多くが壇上に注目していた。そのなかにパパの姿はない。本物の、いやそもそも偽物なのだが、サプフィールの姿もなかった。
と、視界の隅で影が動いた。
マリオンが身を硬くした、そのとき。
「マーリチカ」と背後から囁く声。「あんまり驚いてないな、がっかり」
「どうせ来ると思っていた、あんたが待てと言われて待つはずがない」
「ふん、おれは犬じゃないんだぜ」
「フルスタルはどうした」
「退場してもらった。サプがふたりもいたら混乱するだろ、選手交代、解放してやったのさ」
「うそだ」
マリオンは首だけ振り、間近にパパの顔を見た。
その口元は切れて血が固まっている。
「フルスタルにやられたな、かれをどうしたんだ」
「素直に交代しないからだ。大人しくしてもらってるよ」
パパの手がマリオンの腰を抱いた。
「やめろ」
「騒ぐと、みんなが見ちゃうよ」
マリオンの顎に手を添えたパパは、顔を引き寄せ口づけした。素早かった。
次の瞬間、耳をつんざく甲高い音が校庭中に響き渡った。ふたりも驚いて壇上に目をやる。
アルマーズがマイクを手にあたふたしていた。
身長に合わせて高さを調整していたマイクスタンドが、かれが掴んだ拍子に落ちたのだ。
学長に見られた。そう察したマリオンはパパを睨みつけ、
「サプフィールはこんなことしない、疑われるぞ」
「知るかよ、おれ流だ。もっと見せつけてやろうぜ」
アルマーズの挨拶が、最後はしどろもどろになりつつも無事終わった。
パパは大げさに拍手し、お見事、と声をあげた。
壇上から降りてマリオンのもとへ向かおうとしたアルマーズは、あっという間に理事会メンバーに取り囲まれた。仕方なく、予定通り、貴賓との会食のため食堂へ向かう。
歩きながら、アルマーズが振り返り口をパクパクさせた。
執務室で待て。そいつも一緒に。
「……学長が呼んでる」
「さあ、ゲームのはじまりだ」
とパパが手を打つのと同時に、校庭の上空に花火が打ち上がった。
歓声が上がる。学園祭の開幕だ。
ゲーム? ——マリオンはその言葉を不審に思った。
✳︎
おかしいなあ、どこにいるんだろう?
イアリートは中央校舎の廊下を、サプフィールを探して歩き回っていた。
職員室にいるはずのかれの姿はそこになかった。デスクにはファイルが開いたままで、しばらく待ってみたが、戻らなかった。
廊下に並ぶ教室の扉を開けてみる。と、同時になかからも人が出てきた。
ぼんと胸にぶつかった人物を見て、イアリートは「ぎゃ、お化け!」と悲鳴を上げた。
人、というより、それはガイコツだった。
「なんなの、どうしてそんな骨だけになっちゃったんだよお」
「先生、本物じゃないよ」
ガイコツは冷静に言った。
教室のなかにいた生徒たちが腹を抱えて笑っている。
「すごいでしょ、ミノンおねえちゃんがやってくれたんだよ」
教室では、椅子に腰掛けた大柄な女性が、机に並べた絵の具を駆使して生徒たちをお化けに仕立てていた。口裂け女やドラキュラもいる。
「ああ、学長の」
腰を抜かしていたイアリートは立ち上がると、ミノンに向かって頭を下げ、挨拶した。あなたもやってあげるわよ、と言われ、ぶんぶんと首を横に振って断る。
「そうだ、サプフィールを見なかったかい?」
「さっき、廊下を歩いて行った気がするけど、あっちに」
礼を言って怪物だらけの教室から逃げだしたイアリートは、「サプさん、どこですかあ?」とスキップで廊下を進んだ。
その途中、通り過ぎた部屋がふと気になって、イアリートは引き返した。
資料室の札がかかったその部屋は、扉が細く開いたままになっていた。
おかしい。マロースが注意しないなんて。
今度は慎重に扉を引く。と、床に投げ出された人の足が視界に飛び込んだ。
細い足にぴったりフィットした革パンツ、その先へ目線を動かすと、白のジャケットと美しいブロンドヘア。
床にうつ伏せに倒れていたのは、サプフィールだった。
イアリートは滑り込むように駆け寄り、かれを抱き起こした。
「サプさん、しっかり!!」
「……イアリート、うるさい」
「なに言ってるんですか、わー、口切れてる!血、おでこも血が出てる!」
「もう、うるさいってば……」
そう言ってイアリートの胸ぐらを掴んだサプフィールは、ぐいと顔を引き寄せ、唇を重ねた。すぐさまぬるりと舌を滑り込ませ、イアリートのそれを絡めとる。
突然の濃密なキスにイアリートが目を白黒させていると、サプフィールはかれの股間を鷲掴みにした。
「サ、サプ、さん、待っ……!」
「黙れ」
いつの間にかベルトが外され、ジッパーは降ろされ、美しい手が下着のなかに侵入した。すでに硬直しきった小熊を絶妙の加減で、それも執拗に愛撫され、イアリートの息はますます荒くなる。
「ねえ、ぼくのこと好き?抱きたい?」
「好きです、抱きたいです……でも、手当しないと!」
「いますぐ抱いて。抱いてくれたら怪我なんてすぐに治る」
「そんなわけ……ああ、サプさん、もう……」
限界に達した巨体は、震える手で下着のなかで蠢く手を掴み、引っ張り出した。心を鬼にして、勢いづいた小熊をしまい込み、ベルトを締め直す。
「こんなのダメですよ!」
「……つまんない男だな」
サプフィールはイアリートを押しのけて自力で立ち上がると、そう吐き捨てた。震えるその背中を、イアリートは後ろから抱きしめた。
「待たせてすみません。おれ、もうマリオンに未練はないです。誓います、サプさんを一生、全力で大事にします!」
「そんなの求めてない」
「おれにはサプさんが必要なんです。サプさんの代わりはいない」
サプフィールは太い腕のなかで身体の向きを変え、イアリートの顔を見上げた。
「本当に、つまんない男」
呟いて、サプフィールはふたたび唇を重ねた。
✳︎
陽気なラッパの音色が聞こえる。
執務室の自分のデスクで、マリオンは生徒たちの出し物のひとつひとつを思い浮かべていた。
みんな楽しんでるかな。本当ならいまごろは、おれもそこにいたはずなのに……。
視線だけ動かし、さっきからごそごそと音がしているほうを見た。
ソファの背から金髪の頭が覗いている。パパが、退屈だ、と文句を言いながら、ソファに寝そべってごろごろしているのだ。
信じがたい光景だった。悪夢なら早く醒めてほしい。
「待ちくたびれたよ、下膨れはなにしてるんだよ、なあ、下膨れだよ」
パパの挑発に乗らないように、マリオンはぐっと堪えた。
なぜ学長は、おれだけでなくサプフィールまで執務室へ呼んだのだろう?理由はすぐにわかるとして、サプフィールに化ける気のないこの男をどうごまかすか、それが問題だ。
静かに廊下側の扉が開いた。
姿を見せたのは、アルマーズだった。
アルマーズは両手に大きな銀のトレイを持ち、そろそろと執務室に入った。
トレイには野菜や卵のサンドイッチが盛られ、中央にはオラジがあった。直径20cmほどのそれは、6等分にカットされたチーズケーキだった。
「学長、それは?」
「イアリートのクラスの生徒が作ってくれた。マリオンも朝食をとるひまはなかっただろう、座っていなさい、おれがやる」
席を立とうとしたマリオンを制し、トレイを応接テーブルに置いたアルマーズは自ら紅茶を淹れはじめた。
用意したティーカップは4セット。
ほかにだれが来るのだろう?
マリオンは戸惑いつつ自分の分を受け取り、アルマーズと並んで、パパがいる向かいのソファに座った。
アルマーズの動きをじっと凝視していたパパが、口を開いた。
「朝食まで出るとは、至れり尽くせりだ」
「オラジもある。今日は記念日だからな」
「ここの記念日を祝えって言うのか?」
「そんなもんどうでもいい。——今日は、マリオンの誕生日だ」
驚いたのは、マリオンだった。
去年もそうだった。はじめての学園祭の準備に忙殺され、ようやくこぎつけた初日の朝、食堂で振る舞われたのが人生初のオラジだった。
パパは苦虫を噛み潰したような顔をし、
「今日が誕生日?わざわざおれを呼びつけて、誕生日パーティーをやるとか、まさか言わないよな」
「その通りだ。息子の誕生日すら覚えていないとはな。なにが”パパ”だ」
アルマーズは引ったくるようにサンドイッチをひとつ取り、腹立たしげにかぶりついた。
「ちょっと待って」マリオンは思わず口を挟む。「どういうことです、なにが起こってるんです、知らないのはおれだけ?」
「こいつはおれが呼んだ」アルマーズが言った。「今日、ここへ来るように」
「そんな、でも、どうやって……」
ぶーん。
困惑しているマリオンの前を、にんまり笑っているような顔が通り過ぎた。マロースの猫ボディがポートを飛び立ったのだ。
その大きな目を見た瞬間、マリオンは重大なことを思い出した。
思い出したとたん、血の気が引いた。
学長はすべて見たのだ。この部屋でパパと再会した、あの夜の出来事を。
「マロース、本物のサプフィールは?」
そう尋ねたアルマーズの耳元へマロース猫は近づき、
〈ここへ来るように伝えました。イアリートも一緒です〉
「イアリートは来なくていいんだぞ」
〈わたしもそう言いましたが、本人が頑なに一緒に来ると言い張ったので。わたしには止める術がありません〉
「まあいい」
学長、とマリオンはアルマーズの腕を引き、
「なにをするつもりです?」
「言っただろ、きみの誕生日を祝うんだ」
アルマーズはまっすぐパパを見据えた。
パパは鼻で笑い、
「あんたはこのおれに説教するつもりか。誕生日のなにがめでたい。放っておいても歳はとる。おれは老けるのを祝いたくはないね。金儲けの算段をするほうがよほど有意義だぜ」
「親心のかけらもないやつだな。貴様は何者だ、正体を明かせ」
「正体、ねえ。マリオンを見守る天使、てとこかな」
「いい加減にしろ」マリオンは黙っていられず、「パパの計画は失敗だ、ここで全部白状しろ」
「このコソ泥は、本当にきみの父親なのか?」とアルマーズ。
「だれがコソ泥だ、下膨れめ」
「ま、また言ったな!」
「聞け、下膨れ、おれはビッグな獲物しか狙わないんだ。その辺のゴロツキと一緒にするな、下膨れ」
「笑わせるな、ここからマリオンひとりさらえなかったくせに」
「さらう? マーリチカはおれのためにここにいるんだよ、学長。マーリチカの目は特別だ、見えないものはない。その小さな小さな瞳のなかに隠したダイヤを見つけることもできるのさ」
「やはり貴様の目的はマラザフスカヤの結晶か。マリオンを利用したんだな」
「わからないのか、利用されたのはあんただよ。この子のキスはよかっただろ、学長さん、おれが仕込んだのさ。おれのかわいいマーリチカがあんたに惚れるはずがないだろ」
「やめろ!」
マリオンは目の前のティーカップを取るなり、パパの顔めがけて、まだ湯気の立つ紅茶をぶちまけた。
「……」
パパの白い顔がほんのり赤くなった。飛び上がるほど熱かったはずだが、しかしパパは醜態をさらすことはなかった。静かに顔を拭っただけだ。
マリオンは声を震わせる。
「学長、おれはあなたを騙してない。おれは本気で」
ドンドン、と荒っぽいノックの音で、マリオンは口をつぐんだ。
執務室に現れたのは、サプフィールとイアリートだった。
イアリートに守られるように肩を抱かれたサプフィールの顔を見て、アルマーズは眉を寄せた。
「サプフィール、ひどい顔だな。きみがサプフィールなんだよな、本物の」
「学長、警察を呼んでください!」イアリートが訴える。「サプさんはだれかに襲われたんです!かれをこんな目に遭わせた犯人がきっとまだこの学園内に!」
「それなら、ここにいる」
アルマーズが顎をしゃくると、パパがイアリートに向かって手を振った。
イアリートは目を丸くし、「サプさんがふたりいる!」 と叫ぶ。
「これで揃った」とアルマーズ。「全員座れ」
素直にサプフィールが動いたので、戸惑いながらもイアリートも続いた。
かれはサプフィールとパパの間に壁のように陣取った。同じ顔のふたりを交互に見てから頬をつねり、「痛い」と顔をしかめる。
それを見ていたマリオンも同じようにしたい気分だった。
「おい、貴様」
アルマーズはパパを見据え、言った。
「悪魔のパパとか言ったな、仰々しい名を名乗りやがって。魂胆はわかっている。交渉しよう」
「やっと本題か」
「マラザフスカヤの結晶をくれてやる。その代わりマリオンを諦めろ」
え、とマリオンは驚く。
サプフィールも腫れた目を見張る。
「ほう」パパは感心し、「あんた学園を追われるぞ、下手すれば告訴される」
「かまわん」
「言ったな。だが、マリオンがここに残りたいのかどうか、本人に確かめたのか?」
「マリオンの家はここだ」
「マーリチカ、どうなんだよ」パパは甘い声を出し、「もうパパのご褒美はいらないのか?」と、指先で自分の唇をなぞってみせた。
今度こそ熱湯をかけるくらいじゃ気がおさまらない。
しかしマリオンはぐっと我慢し、眼鏡を取って目頭を押さえた。
「……学長、そんな交渉に意味はありません。パパはもう金庫の鍵を知ってるんです。おれが教えてしまった。パパがここへ来た目的はひとつ、この目だ」
マリオンの瞳がパパを射すくめた。
どきっとした表情が緩んであの憎たらしい笑みに変わるのを、マリオンはスローモーションのように見る。
「そうだろ、パパ。欲しいならやるよ、えぐり出してでも」
「落ち着け、マリオン」とアルマーズ。「鍵は偽物だ」
「偽物?」とパパ。
「本当の鍵はおれの頭のなかにしかない」
「いまさらそんな嘘が通用すると思うのか?」
「おれは自分が把握できないものを身体に入れたりしない。中央銀行も、そこの機械も信用していない。マリオンが読み取ったコードを使ってみろ、即刑務所へ逆戻りだぞ。ここでおれを拷問すれば、もしかすると本物のコードを吐くかもしれん。だが、その必要はない。結晶はそこにある」
そう言ってアルマーズが視線を投げたのは、オラジだった。
みんな一斉にこんがり狐色に焼けたチーズケーキに注目した。
パパだけが、どういうこと? とはてな顔だ。
「最後くらい、息子の誕生日を祝ってやったらどうだ。なかに結晶を入れてある」
「ふうん、なるほど、結晶が入ったピースを当てるゲームか。あんた意外とおもしろいやつだな、アルマーズ・リースチヤ、ちょっとだけ気に入ったぜ。乗ってやるよ。その代わり、条件を追加してもらう。おれが結晶を当てたら、マリオンを返してもらう」
「結晶はやると言っているだろう」とアルマーズは慌て、「これはゲームじゃない!」
「おれは結晶もマリオンも諦める気はない。勝負しろよ」
アルマーズは返事に詰まり、髪を掻き乱した。
「あのお」とイアリートがためらいがちに手を挙げ、「これって、だれかの誕生日パーティーなんですか?」
「マリオンのだと、そう言ってるだろ」アルマーズが切れ気味に答える。
「え、今日はマリオンの誕生日?」
「10月10日だよ」
ぼそりとサプフィール——フルスタルが言った。
「今日は、マリオンが養子になった日。誕生日がわからないから、便宜上そうなっただけ。本当の誕生日は、10月10日。毎年、パパは必ずこの日にマリオンを連れて青の革命広場へ行った。ルーイ帝国を倒した革命と同じ日に生まれたこいつは大物になるぞ、て嬉しそうだった」
「そんな記憶はない」
訝しげにそう言ったマリオンを、フルスタルは悲しそうな表情で見つめた。
「視力を失ったとき、記憶の多くもなくしてるんだよ。きみがパパを恨みきれないのは、記憶はなくしても、ちゃんと覚えているからだよ、パパがきみを愛していることを」
パパは不満げな顔つきで黙っている。
その態度が、フルスタルの話の信憑性を高めた。
マリオンはしばらく考え込むと、アルマーズを見た。
「ゲームしましょう、学長」
「だ、だが……!」
さすがおれの息子、とパパは嬉しそうに言った。その代わり、とマリオンはつけ加える。
「全員でやるんだ」
「それは不公平だ。おまえ、もう見つけてるんだろう」
「おれは最後に取る」
いいだろう、とパパは頷くと、思いがけず自分に味方した弟をチラリと見た。
フルスタルはマリオンの、なぜかその手元を凝視していた。
なにかを見逃した、とパパは直感的に思った。アルマーズの言動にばかり気を取られていたと気づき、同時に、気持ちに余裕がないのを自覚する。
おれも恐れているのか、マリオンを奪われる、と。
「さっさとはじめようぜ」とパパ。「アルマーズ、あんたが最初に選べ、このゲームの親だ」
全員が取っていき、皿にはひと切れ残った。
「マロースの分だ」とアルマーズ。
〈わたしは食べられません〉と、猫がケーキの上を旋回。
「あとで代わりに食ってやる。——うかつにかむなよ、当たったら歯が折れるぞ」
こんなまずいオラジはきっとほかにない、とアルマーズは全員が黙々と食べるのを見ながら思い、後悔した。
もしダイヤを当てられてしまったら、どうする。サプフィールの話の真偽はわからないが、マリオンが信じていたら、従ってしまうかもしれない。
全員が食べ終えても、だれも当たりの声を上げなかった。
「最初から入れてなかったな?」とパパ。「マリオンが見つけられないはずがない」
「オラジはゲームじゃない。その意味を知らないおまえにはただの遊びだろうが。ダイヤは最後のひと切れのなかだ、くれてやる、持っていけ。だがマリオンは諦めろ」
「ケーキを手土産に帰れってか?ダイヤもマリオンもおれのものだ」
「あんたがダイヤを当てても、おれは戻らない」とマリオン。
「どうせダイヤは偽物だ。マーリチカ、おまえ、それをわかってたからゲームをやると言ったんだろう?」
「違う」とアルマーズ。「それは本物だ!」
「アルマーズ・リースチヤ、姑息な野郎め。あんたが守りたいのはマリオンじゃない、学長の地位だろ」
「本物だと言っているだろう!いいからその目で確かめ」
「だめだ!」突如、フルスタルが叫んだ。
全員が気づいたときには、マリオンは、袖のうちから出した万年筆のペン先を右目に突き立てていた。
その瞬間を見ていたのは、異変に気づいていたフルスタルだけだった。マリオンはためらいもせず刺した。すでにこうすることを覚悟していたように。
パパがジャケットを翻してテーブルを乗り越え、マリオンの右目から乱暴にペン先を引き抜いた。
そのとたん、瞳のなかに青でも紫でもない濁った色が溢れ出た。
視界が大きく乱れた。周りの景色がぐるぐる回る。
上体がぐらついたマリオンの身体をアルマーズが抱きとめた。
右目を閉じると、黒い涙がこぼれ落ちた。
「マロース、救急車を!」
だめだ、とアルマーズの指示をすぐさまマリオンが制した。
「病院には行けない……」
「救急車がだめなら、救急箱だ!イアリート!」
「は、はい!」
弾かれたようにイアリートは腰を上げ、執務室を飛び出していった。
パパはアルマーズを押しのけ、マリオンの胸ぐらを掴んだ。
「マリオン」パパは低い声で、「その目はおまえだけのものじゃない、わかってるんだろうな、家族のために手に入れた武器を無駄にしたんだぞ」
「家族……そう、あんたはおれの本当のパパだ。だからおれが間違いを正す」
「きれいごとで生きていけると思ってるのかよ」
「一度でも別の道を探したことがあるのか!おれはずっとパパの帰りを待ってた。でもそれは、犯罪を繰り返すためじゃない。……ここが好きなんだ。はじめて、心から安心して暮らせる場所を見つけたんだ。学長と一緒なら、子どもたちのためにいくらでも頑張れる。おれたちの生きる道はもう違うんだよ、パパ」
兄貴、とフルスタルがその肩を叩いた。「もうやめよう」
「おまえは黙ってろ」
「行くんだ!」
フルスタルは強引にパパをマリオンから引き離した。
腕を引いて部屋から連れ出そうとしたとき、マリオンが、待って、と呼び止めた。
「パパと一緒に行くな、フルスタル。パパはきみを、みんなを自分のものとしか思ってない!」
「坊っちゃん、やめて。その言葉をパパは許しても、ぼくは許せない」
「まだこんなやつを庇うのか、どうして」
フルスタルはマリオンを振り返った。
そこには、マリオンが見たことのない顔があった。パパと同じ、冷たい目をした男の顔だ。
「マリオン、早く目を覚ませ、天使はいないんだ。ぼくの道も、きみとは違うんだよ——ねえルビン、ぼくらの負けだよ」
「勝負を決めるのは、おれだ」
パパはフルスタルの手を振り払い、出ていった。その間際に一度、マリオンを振り返って。
深いため息だけを残し、フルスタルも従った。かれは振り返ることはなかった。
扉が音を立てて閉じた。
立ち尽くすマリオンの背中に、アルマーズは声をかけることができなかった。伸ばした手も、震える肩を抱きしめることさえできず、宙ぶらりんになった。
重苦しい空気を破って、騒々しい男があたふたと戻ってきた。
イアリートは流れる汗もそのままに、抱えていた救急箱の中身をテーブルにぶちまけた。
「消毒したほうがいいのかな、どうしたらいいんですか、学長!」
「あれだ、湿布だろ、めまいには湿布。いや違う、風邪には軟膏だから、胃薬か。胃薬を探せ」
アルマーズは支離滅裂だ。
イアリートも、かれの指示をおかしいとも思わず胃薬を探す。
このままでは目のなかに胃薬を入れられそうだ、とマリオンは思った。
ふたりのほとんどコントのようなやりとりは、気持ちをいくらか落ち着かせた。
袖で黒い涙を拭い、眼鏡をかけ直すと、ふたりを振り返った。
「まんまと引っかかったな、イアリート」
アルマーズとイアリートは揃ってマリオンに顔を向けた。
「さっきのは、全部うそ。サプもきみを驚かすために一役買ってくれたんだよ。そっくりな役者まで用意して、本当の双子みたいだっただろ?」
「え、驚かすって……」
「学長とおれが考えた、いたずら」
「いたずら?!サプさんもグルだったのか、もしかして、あの怪我は特殊メイク?」
マリオンが頷くと、イアリートは、よかったあ、と安堵した。ソファにどすんと腰を落とし、額に浮いた汗を拭う。
「倒れてるサプさんを見つけたときは焦ったよ……」
二度目のサプフィールからの濃厚な口づけは、結局のところイアリートの理性を吹き飛ばした。もっと、もっと、と耳元で煽られ、夢中で美しい身体を貪っている最中、マロースが声をかけたのだ。
その弾みで果ててしまったかれは、夢見心地ながらサプフィールにプロポーズする決意を固めたのだった。
「それも、もしかしておれと結ばれるため?へへ、そんなにおれのこと好きなら、もっと早く言ってくれればよかったのに。ああ、ほっとしたら腹が減った」
だらしなく緩んだ顔で、イアリートはオラジの最後のひと切れに手を伸ばした。
「おい、待て」
イアリートが大きな口を開けて頬張るのを見たアルマーズは止めた。
が、遅かった。
一口目で「ぎゃ!」と声を上げたかれは、口のなかのものを手のひらに吐き出した。
「おれ当たったみたい。……わ、だめじゃないですか、こんな大きいガラス入れたら!」
歯が折れたかも、とイアリートは口を押さえ、部屋を飛び出していった。
皿の上には、チーズケーキにまみれた塊が残された。
そのなかに思いがけない輝きを見たマリオンは目を剥いた。
「……まさか、本物を?」
「だから、本物だと言っただろ」
「どうしてそんな無茶を……」
「きみを守るためだ、決まってるじゃないか!」
アルマーズはマリオンの顔を覗き込み、そっと眼鏡をはずした。
「ひどい傷だ。おれが甘かった。素直にダイヤを渡していればこんなことにはならなかった」
「これは作り物、盗人の目です。自分の欲のために人の不幸を顧みない人間が創った道具でしかない。痛みもない」
「ブラーチはどこかで歪んだのかもしれない。脆い人間をどうすれば強くできるのか、やつはそんなことばかり考えていた」
「やっぱり、あなたの命を救ったのはブラーチだった」
「おれの母親を救えず、やつはずっと悔やんでいた……おれたちの思いは同じだった。二度と後悔したくない、大事な人を失いたくない」
「ブラーチを責める気はありません。おれも同罪だから。おれはこの目に頼って生きてきた。見たくないものもたくさん見てしまった……」
マリオンは遠い目をした。
アルマーズは言った。
「おれにも教えてくれないか、きみのことを」
空を仰いで両手を広げ、イアリートは言った。
快晴だった。雲ひとつない。風は冷たいが、空気は乾燥して澄んでいる。
高い場所から地上を見渡すのは爽快だ。広大な校庭に所狭しと屋台が立ち、カラフルなバルーンがあちこちで揺れている。学園を取り巻く森は青くもこもこしていて、ブロッコリーのようだ。その下を抜けるときの陰気なイメージしかなかったイアリートは感動すら覚えた。教員不足による過労も、学長から受けるストレスも、すべて吹き飛んでいくようだった。
「こんな大規模な学園祭はじめてだもんなあ。いい初日になりそうだな、なあマリオン。——なあ、マリオンってば。きゃっ!」
振り向きざまに大きな物体が飛んできて、イアリートは飛びのいた。マリオンが、木製の椅子を寸分の狂いなくかれの足元へ投げつけたのだ。
「うるさいな、さっきから。ごちゃごちゃ喋ってないで手を動かせよ!」
「そんなに怒るなよ……」
イアリートは転がった椅子をもとの位置へ戻し、積み重ねてあった分を並べていく。
「ちゃんと前脚を揃えろよ、ここは開会式のときに一番目立つんだから」
創立記念式典と学園祭開会式に使用されるステージの上で、ふたりは貴賓席を用意していた。正確には、マリオンの仕事をイアリートが邪魔しにきただけなのだが。
「テレビまで来るんだっけ、おれニュースに出ちゃうかな。——ほらできた、どうだよ!」
マリオンはそれを片っ端から直していく。
「……ほかになにか手伝おうか?」
「もういい。きみは自分のクラスの監督をしてろよ」
「あのさ、実は、おまえに報告したいことがあって」
「興味ない」
「おれ、サプさんとつき合うことになったんだ」
「……は?なにを寝ぼけてる?」
「サプさんに言われたんだ、おれに、本当の恋を教えてほしいって」
デレデレと緩みきった表情で、イアリートは巨体をくねらせた。
「今日はふたりで学園祭を巡る約束もしてるんだ。あ、もう行かなきゃ」
「へえ……」
喜び勇んでステップを駆け降りていったイアリートを、マリオンは冷めた眼差しで見送った。
サプは、いやフルスタルは罪つくりな人だ。これまでにかれが弄んだ男は数知れない。あの単細胞だって、フルスタルにしては珍しい相手だが、仕事が終わればお払い箱。別れも告げずに姿を消すくせに。どうせなら、たとえ相手がイアリートでもいい、フルスタルが足を洗うきっかけになってくれないだろうか。
パパがブラーチを生かしていたのは裏切りを許したからじゃない。その逆だ、一生許さないという脅し。裏切り者に自分の整形手術をさせたその精神構造はおれの理解を超えている。パパの身体にメスを入れることになったブラーチはきっと恐れ慄いたに違いない。
そんな男と、たとえ実の兄弟でも、フルスタルは一緒にいてはいけない。
「そこ!」マリオンは背後にいる職員に指示を飛ばす。「校章旗は上手!」
✳︎
式典開始を目前にして、野外ステージが設置された校庭の大理石広場には、大勢の招待客が集まった。マラザフスカヤの紋章を象ったブローチを胸に、思い思いに談笑している。
アルマーズはラマノヴァ会長の相手をしていたが、気持ちはそこになかった。
ステージの陰で式典進行の最終確認をしているマリオンの様子を、ずっと横目に伺っていた。
ふいにマリオンがかれのほうへ顔を向けた。
アルマーズはとっさに視線をそらした。ラマノヴァを促し、移動する。
狼狽えるな、しっかりしろ、とアルマーズは自分に言い聞かせる。
〈学長、現れました〉
右耳にはめたワイヤレスイヤホンを通して、マロースが告げた。
アルマーズは辺りを見回すそぶりでラマノヴァの視界から外れ、応える。
「わかった。サプフィールは?」
〈職員室にいます〉
「見失うなよ」
鐘の音が9時を告げた。式典開始の合図。
ステージの脇にいたマリオンは、違和感を覚えていた。
学長の耳にイヤホンがあるように見えた。しかし、なんのために?
「マロースくん、いま、学長となにか話した?」
〈いいえ、話していません。マリオン、式典開始の時刻です〉
「そうだね……はじめよう、頼むよ」
〈式典プログラム、はじめます〉
学園内のスピーカーから校歌が流れ、巨大ビジョンにはためく校章旗が映し出された。
政治家や地元の有力者、マラザフスカヤ家の現当主といった貴賓の挨拶が滞りなく終わり、学園の理事長兼学長の番がくる。
拍手のなか、アルマーズが壇上中央のマイクの前に立った。
学長が軽快な漫談、いや挨拶を進めるなか、マリオンは会場を見回した。
後方に並んでいる教師や職員のなかにサプフィールの姿を見つける。
見つけて、マリオンはぎょっとした。
サプフィールは手を振っていた。両手で円を描くように大きく。かれらしくない行動だ。
まさかと思い、マリオンは眼鏡をずらしてもう一度かれを見た。
不敵な笑み。悪魔の笑顔。
パパだ。やはり現れたのだ、おれの願いなど無視して。
視線を感じて壇上を見上げたマリオンは、アルマーズと目が合った。かれの目が問うているように見えた。サプフィールはなにをしているんだ、と。
パパに視線を戻す。その姿は消えていた。
いまにも駆け出したい衝動を抑え、マリオンは静かにビジョン横を離れた。
早足で会場を回り込む。その場の多くが壇上に注目していた。そのなかにパパの姿はない。本物の、いやそもそも偽物なのだが、サプフィールの姿もなかった。
と、視界の隅で影が動いた。
マリオンが身を硬くした、そのとき。
「マーリチカ」と背後から囁く声。「あんまり驚いてないな、がっかり」
「どうせ来ると思っていた、あんたが待てと言われて待つはずがない」
「ふん、おれは犬じゃないんだぜ」
「フルスタルはどうした」
「退場してもらった。サプがふたりもいたら混乱するだろ、選手交代、解放してやったのさ」
「うそだ」
マリオンは首だけ振り、間近にパパの顔を見た。
その口元は切れて血が固まっている。
「フルスタルにやられたな、かれをどうしたんだ」
「素直に交代しないからだ。大人しくしてもらってるよ」
パパの手がマリオンの腰を抱いた。
「やめろ」
「騒ぐと、みんなが見ちゃうよ」
マリオンの顎に手を添えたパパは、顔を引き寄せ口づけした。素早かった。
次の瞬間、耳をつんざく甲高い音が校庭中に響き渡った。ふたりも驚いて壇上に目をやる。
アルマーズがマイクを手にあたふたしていた。
身長に合わせて高さを調整していたマイクスタンドが、かれが掴んだ拍子に落ちたのだ。
学長に見られた。そう察したマリオンはパパを睨みつけ、
「サプフィールはこんなことしない、疑われるぞ」
「知るかよ、おれ流だ。もっと見せつけてやろうぜ」
アルマーズの挨拶が、最後はしどろもどろになりつつも無事終わった。
パパは大げさに拍手し、お見事、と声をあげた。
壇上から降りてマリオンのもとへ向かおうとしたアルマーズは、あっという間に理事会メンバーに取り囲まれた。仕方なく、予定通り、貴賓との会食のため食堂へ向かう。
歩きながら、アルマーズが振り返り口をパクパクさせた。
執務室で待て。そいつも一緒に。
「……学長が呼んでる」
「さあ、ゲームのはじまりだ」
とパパが手を打つのと同時に、校庭の上空に花火が打ち上がった。
歓声が上がる。学園祭の開幕だ。
ゲーム? ——マリオンはその言葉を不審に思った。
✳︎
おかしいなあ、どこにいるんだろう?
イアリートは中央校舎の廊下を、サプフィールを探して歩き回っていた。
職員室にいるはずのかれの姿はそこになかった。デスクにはファイルが開いたままで、しばらく待ってみたが、戻らなかった。
廊下に並ぶ教室の扉を開けてみる。と、同時になかからも人が出てきた。
ぼんと胸にぶつかった人物を見て、イアリートは「ぎゃ、お化け!」と悲鳴を上げた。
人、というより、それはガイコツだった。
「なんなの、どうしてそんな骨だけになっちゃったんだよお」
「先生、本物じゃないよ」
ガイコツは冷静に言った。
教室のなかにいた生徒たちが腹を抱えて笑っている。
「すごいでしょ、ミノンおねえちゃんがやってくれたんだよ」
教室では、椅子に腰掛けた大柄な女性が、机に並べた絵の具を駆使して生徒たちをお化けに仕立てていた。口裂け女やドラキュラもいる。
「ああ、学長の」
腰を抜かしていたイアリートは立ち上がると、ミノンに向かって頭を下げ、挨拶した。あなたもやってあげるわよ、と言われ、ぶんぶんと首を横に振って断る。
「そうだ、サプフィールを見なかったかい?」
「さっき、廊下を歩いて行った気がするけど、あっちに」
礼を言って怪物だらけの教室から逃げだしたイアリートは、「サプさん、どこですかあ?」とスキップで廊下を進んだ。
その途中、通り過ぎた部屋がふと気になって、イアリートは引き返した。
資料室の札がかかったその部屋は、扉が細く開いたままになっていた。
おかしい。マロースが注意しないなんて。
今度は慎重に扉を引く。と、床に投げ出された人の足が視界に飛び込んだ。
細い足にぴったりフィットした革パンツ、その先へ目線を動かすと、白のジャケットと美しいブロンドヘア。
床にうつ伏せに倒れていたのは、サプフィールだった。
イアリートは滑り込むように駆け寄り、かれを抱き起こした。
「サプさん、しっかり!!」
「……イアリート、うるさい」
「なに言ってるんですか、わー、口切れてる!血、おでこも血が出てる!」
「もう、うるさいってば……」
そう言ってイアリートの胸ぐらを掴んだサプフィールは、ぐいと顔を引き寄せ、唇を重ねた。すぐさまぬるりと舌を滑り込ませ、イアリートのそれを絡めとる。
突然の濃密なキスにイアリートが目を白黒させていると、サプフィールはかれの股間を鷲掴みにした。
「サ、サプ、さん、待っ……!」
「黙れ」
いつの間にかベルトが外され、ジッパーは降ろされ、美しい手が下着のなかに侵入した。すでに硬直しきった小熊を絶妙の加減で、それも執拗に愛撫され、イアリートの息はますます荒くなる。
「ねえ、ぼくのこと好き?抱きたい?」
「好きです、抱きたいです……でも、手当しないと!」
「いますぐ抱いて。抱いてくれたら怪我なんてすぐに治る」
「そんなわけ……ああ、サプさん、もう……」
限界に達した巨体は、震える手で下着のなかで蠢く手を掴み、引っ張り出した。心を鬼にして、勢いづいた小熊をしまい込み、ベルトを締め直す。
「こんなのダメですよ!」
「……つまんない男だな」
サプフィールはイアリートを押しのけて自力で立ち上がると、そう吐き捨てた。震えるその背中を、イアリートは後ろから抱きしめた。
「待たせてすみません。おれ、もうマリオンに未練はないです。誓います、サプさんを一生、全力で大事にします!」
「そんなの求めてない」
「おれにはサプさんが必要なんです。サプさんの代わりはいない」
サプフィールは太い腕のなかで身体の向きを変え、イアリートの顔を見上げた。
「本当に、つまんない男」
呟いて、サプフィールはふたたび唇を重ねた。
✳︎
陽気なラッパの音色が聞こえる。
執務室の自分のデスクで、マリオンは生徒たちの出し物のひとつひとつを思い浮かべていた。
みんな楽しんでるかな。本当ならいまごろは、おれもそこにいたはずなのに……。
視線だけ動かし、さっきからごそごそと音がしているほうを見た。
ソファの背から金髪の頭が覗いている。パパが、退屈だ、と文句を言いながら、ソファに寝そべってごろごろしているのだ。
信じがたい光景だった。悪夢なら早く醒めてほしい。
「待ちくたびれたよ、下膨れはなにしてるんだよ、なあ、下膨れだよ」
パパの挑発に乗らないように、マリオンはぐっと堪えた。
なぜ学長は、おれだけでなくサプフィールまで執務室へ呼んだのだろう?理由はすぐにわかるとして、サプフィールに化ける気のないこの男をどうごまかすか、それが問題だ。
静かに廊下側の扉が開いた。
姿を見せたのは、アルマーズだった。
アルマーズは両手に大きな銀のトレイを持ち、そろそろと執務室に入った。
トレイには野菜や卵のサンドイッチが盛られ、中央にはオラジがあった。直径20cmほどのそれは、6等分にカットされたチーズケーキだった。
「学長、それは?」
「イアリートのクラスの生徒が作ってくれた。マリオンも朝食をとるひまはなかっただろう、座っていなさい、おれがやる」
席を立とうとしたマリオンを制し、トレイを応接テーブルに置いたアルマーズは自ら紅茶を淹れはじめた。
用意したティーカップは4セット。
ほかにだれが来るのだろう?
マリオンは戸惑いつつ自分の分を受け取り、アルマーズと並んで、パパがいる向かいのソファに座った。
アルマーズの動きをじっと凝視していたパパが、口を開いた。
「朝食まで出るとは、至れり尽くせりだ」
「オラジもある。今日は記念日だからな」
「ここの記念日を祝えって言うのか?」
「そんなもんどうでもいい。——今日は、マリオンの誕生日だ」
驚いたのは、マリオンだった。
去年もそうだった。はじめての学園祭の準備に忙殺され、ようやくこぎつけた初日の朝、食堂で振る舞われたのが人生初のオラジだった。
パパは苦虫を噛み潰したような顔をし、
「今日が誕生日?わざわざおれを呼びつけて、誕生日パーティーをやるとか、まさか言わないよな」
「その通りだ。息子の誕生日すら覚えていないとはな。なにが”パパ”だ」
アルマーズは引ったくるようにサンドイッチをひとつ取り、腹立たしげにかぶりついた。
「ちょっと待って」マリオンは思わず口を挟む。「どういうことです、なにが起こってるんです、知らないのはおれだけ?」
「こいつはおれが呼んだ」アルマーズが言った。「今日、ここへ来るように」
「そんな、でも、どうやって……」
ぶーん。
困惑しているマリオンの前を、にんまり笑っているような顔が通り過ぎた。マロースの猫ボディがポートを飛び立ったのだ。
その大きな目を見た瞬間、マリオンは重大なことを思い出した。
思い出したとたん、血の気が引いた。
学長はすべて見たのだ。この部屋でパパと再会した、あの夜の出来事を。
「マロース、本物のサプフィールは?」
そう尋ねたアルマーズの耳元へマロース猫は近づき、
〈ここへ来るように伝えました。イアリートも一緒です〉
「イアリートは来なくていいんだぞ」
〈わたしもそう言いましたが、本人が頑なに一緒に来ると言い張ったので。わたしには止める術がありません〉
「まあいい」
学長、とマリオンはアルマーズの腕を引き、
「なにをするつもりです?」
「言っただろ、きみの誕生日を祝うんだ」
アルマーズはまっすぐパパを見据えた。
パパは鼻で笑い、
「あんたはこのおれに説教するつもりか。誕生日のなにがめでたい。放っておいても歳はとる。おれは老けるのを祝いたくはないね。金儲けの算段をするほうがよほど有意義だぜ」
「親心のかけらもないやつだな。貴様は何者だ、正体を明かせ」
「正体、ねえ。マリオンを見守る天使、てとこかな」
「いい加減にしろ」マリオンは黙っていられず、「パパの計画は失敗だ、ここで全部白状しろ」
「このコソ泥は、本当にきみの父親なのか?」とアルマーズ。
「だれがコソ泥だ、下膨れめ」
「ま、また言ったな!」
「聞け、下膨れ、おれはビッグな獲物しか狙わないんだ。その辺のゴロツキと一緒にするな、下膨れ」
「笑わせるな、ここからマリオンひとりさらえなかったくせに」
「さらう? マーリチカはおれのためにここにいるんだよ、学長。マーリチカの目は特別だ、見えないものはない。その小さな小さな瞳のなかに隠したダイヤを見つけることもできるのさ」
「やはり貴様の目的はマラザフスカヤの結晶か。マリオンを利用したんだな」
「わからないのか、利用されたのはあんただよ。この子のキスはよかっただろ、学長さん、おれが仕込んだのさ。おれのかわいいマーリチカがあんたに惚れるはずがないだろ」
「やめろ!」
マリオンは目の前のティーカップを取るなり、パパの顔めがけて、まだ湯気の立つ紅茶をぶちまけた。
「……」
パパの白い顔がほんのり赤くなった。飛び上がるほど熱かったはずだが、しかしパパは醜態をさらすことはなかった。静かに顔を拭っただけだ。
マリオンは声を震わせる。
「学長、おれはあなたを騙してない。おれは本気で」
ドンドン、と荒っぽいノックの音で、マリオンは口をつぐんだ。
執務室に現れたのは、サプフィールとイアリートだった。
イアリートに守られるように肩を抱かれたサプフィールの顔を見て、アルマーズは眉を寄せた。
「サプフィール、ひどい顔だな。きみがサプフィールなんだよな、本物の」
「学長、警察を呼んでください!」イアリートが訴える。「サプさんはだれかに襲われたんです!かれをこんな目に遭わせた犯人がきっとまだこの学園内に!」
「それなら、ここにいる」
アルマーズが顎をしゃくると、パパがイアリートに向かって手を振った。
イアリートは目を丸くし、「サプさんがふたりいる!」 と叫ぶ。
「これで揃った」とアルマーズ。「全員座れ」
素直にサプフィールが動いたので、戸惑いながらもイアリートも続いた。
かれはサプフィールとパパの間に壁のように陣取った。同じ顔のふたりを交互に見てから頬をつねり、「痛い」と顔をしかめる。
それを見ていたマリオンも同じようにしたい気分だった。
「おい、貴様」
アルマーズはパパを見据え、言った。
「悪魔のパパとか言ったな、仰々しい名を名乗りやがって。魂胆はわかっている。交渉しよう」
「やっと本題か」
「マラザフスカヤの結晶をくれてやる。その代わりマリオンを諦めろ」
え、とマリオンは驚く。
サプフィールも腫れた目を見張る。
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「かまわん」
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しかしマリオンはぐっと我慢し、眼鏡を取って目頭を押さえた。
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マリオンの瞳がパパを射すくめた。
どきっとした表情が緩んであの憎たらしい笑みに変わるのを、マリオンはスローモーションのように見る。
「そうだろ、パパ。欲しいならやるよ、えぐり出してでも」
「落ち着け、マリオン」とアルマーズ。「鍵は偽物だ」
「偽物?」とパパ。
「本当の鍵はおれの頭のなかにしかない」
「いまさらそんな嘘が通用すると思うのか?」
「おれは自分が把握できないものを身体に入れたりしない。中央銀行も、そこの機械も信用していない。マリオンが読み取ったコードを使ってみろ、即刑務所へ逆戻りだぞ。ここでおれを拷問すれば、もしかすると本物のコードを吐くかもしれん。だが、その必要はない。結晶はそこにある」
そう言ってアルマーズが視線を投げたのは、オラジだった。
みんな一斉にこんがり狐色に焼けたチーズケーキに注目した。
パパだけが、どういうこと? とはてな顔だ。
「最後くらい、息子の誕生日を祝ってやったらどうだ。なかに結晶を入れてある」
「ふうん、なるほど、結晶が入ったピースを当てるゲームか。あんた意外とおもしろいやつだな、アルマーズ・リースチヤ、ちょっとだけ気に入ったぜ。乗ってやるよ。その代わり、条件を追加してもらう。おれが結晶を当てたら、マリオンを返してもらう」
「結晶はやると言っているだろう」とアルマーズは慌て、「これはゲームじゃない!」
「おれは結晶もマリオンも諦める気はない。勝負しろよ」
アルマーズは返事に詰まり、髪を掻き乱した。
「あのお」とイアリートがためらいがちに手を挙げ、「これって、だれかの誕生日パーティーなんですか?」
「マリオンのだと、そう言ってるだろ」アルマーズが切れ気味に答える。
「え、今日はマリオンの誕生日?」
「10月10日だよ」
ぼそりとサプフィール——フルスタルが言った。
「今日は、マリオンが養子になった日。誕生日がわからないから、便宜上そうなっただけ。本当の誕生日は、10月10日。毎年、パパは必ずこの日にマリオンを連れて青の革命広場へ行った。ルーイ帝国を倒した革命と同じ日に生まれたこいつは大物になるぞ、て嬉しそうだった」
「そんな記憶はない」
訝しげにそう言ったマリオンを、フルスタルは悲しそうな表情で見つめた。
「視力を失ったとき、記憶の多くもなくしてるんだよ。きみがパパを恨みきれないのは、記憶はなくしても、ちゃんと覚えているからだよ、パパがきみを愛していることを」
パパは不満げな顔つきで黙っている。
その態度が、フルスタルの話の信憑性を高めた。
マリオンはしばらく考え込むと、アルマーズを見た。
「ゲームしましょう、学長」
「だ、だが……!」
さすがおれの息子、とパパは嬉しそうに言った。その代わり、とマリオンはつけ加える。
「全員でやるんだ」
「それは不公平だ。おまえ、もう見つけてるんだろう」
「おれは最後に取る」
いいだろう、とパパは頷くと、思いがけず自分に味方した弟をチラリと見た。
フルスタルはマリオンの、なぜかその手元を凝視していた。
なにかを見逃した、とパパは直感的に思った。アルマーズの言動にばかり気を取られていたと気づき、同時に、気持ちに余裕がないのを自覚する。
おれも恐れているのか、マリオンを奪われる、と。
「さっさとはじめようぜ」とパパ。「アルマーズ、あんたが最初に選べ、このゲームの親だ」
全員が取っていき、皿にはひと切れ残った。
「マロースの分だ」とアルマーズ。
〈わたしは食べられません〉と、猫がケーキの上を旋回。
「あとで代わりに食ってやる。——うかつにかむなよ、当たったら歯が折れるぞ」
こんなまずいオラジはきっとほかにない、とアルマーズは全員が黙々と食べるのを見ながら思い、後悔した。
もしダイヤを当てられてしまったら、どうする。サプフィールの話の真偽はわからないが、マリオンが信じていたら、従ってしまうかもしれない。
全員が食べ終えても、だれも当たりの声を上げなかった。
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「ケーキを手土産に帰れってか?ダイヤもマリオンもおれのものだ」
「あんたがダイヤを当てても、おれは戻らない」とマリオン。
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「違う」とアルマーズ。「それは本物だ!」
「アルマーズ・リースチヤ、姑息な野郎め。あんたが守りたいのはマリオンじゃない、学長の地位だろ」
「本物だと言っているだろう!いいからその目で確かめ」
「だめだ!」突如、フルスタルが叫んだ。
全員が気づいたときには、マリオンは、袖のうちから出した万年筆のペン先を右目に突き立てていた。
その瞬間を見ていたのは、異変に気づいていたフルスタルだけだった。マリオンはためらいもせず刺した。すでにこうすることを覚悟していたように。
パパがジャケットを翻してテーブルを乗り越え、マリオンの右目から乱暴にペン先を引き抜いた。
そのとたん、瞳のなかに青でも紫でもない濁った色が溢れ出た。
視界が大きく乱れた。周りの景色がぐるぐる回る。
上体がぐらついたマリオンの身体をアルマーズが抱きとめた。
右目を閉じると、黒い涙がこぼれ落ちた。
「マロース、救急車を!」
だめだ、とアルマーズの指示をすぐさまマリオンが制した。
「病院には行けない……」
「救急車がだめなら、救急箱だ!イアリート!」
「は、はい!」
弾かれたようにイアリートは腰を上げ、執務室を飛び出していった。
パパはアルマーズを押しのけ、マリオンの胸ぐらを掴んだ。
「マリオン」パパは低い声で、「その目はおまえだけのものじゃない、わかってるんだろうな、家族のために手に入れた武器を無駄にしたんだぞ」
「家族……そう、あんたはおれの本当のパパだ。だからおれが間違いを正す」
「きれいごとで生きていけると思ってるのかよ」
「一度でも別の道を探したことがあるのか!おれはずっとパパの帰りを待ってた。でもそれは、犯罪を繰り返すためじゃない。……ここが好きなんだ。はじめて、心から安心して暮らせる場所を見つけたんだ。学長と一緒なら、子どもたちのためにいくらでも頑張れる。おれたちの生きる道はもう違うんだよ、パパ」
兄貴、とフルスタルがその肩を叩いた。「もうやめよう」
「おまえは黙ってろ」
「行くんだ!」
フルスタルは強引にパパをマリオンから引き離した。
腕を引いて部屋から連れ出そうとしたとき、マリオンが、待って、と呼び止めた。
「パパと一緒に行くな、フルスタル。パパはきみを、みんなを自分のものとしか思ってない!」
「坊っちゃん、やめて。その言葉をパパは許しても、ぼくは許せない」
「まだこんなやつを庇うのか、どうして」
フルスタルはマリオンを振り返った。
そこには、マリオンが見たことのない顔があった。パパと同じ、冷たい目をした男の顔だ。
「マリオン、早く目を覚ませ、天使はいないんだ。ぼくの道も、きみとは違うんだよ——ねえルビン、ぼくらの負けだよ」
「勝負を決めるのは、おれだ」
パパはフルスタルの手を振り払い、出ていった。その間際に一度、マリオンを振り返って。
深いため息だけを残し、フルスタルも従った。かれは振り返ることはなかった。
扉が音を立てて閉じた。
立ち尽くすマリオンの背中に、アルマーズは声をかけることができなかった。伸ばした手も、震える肩を抱きしめることさえできず、宙ぶらりんになった。
重苦しい空気を破って、騒々しい男があたふたと戻ってきた。
イアリートは流れる汗もそのままに、抱えていた救急箱の中身をテーブルにぶちまけた。
「消毒したほうがいいのかな、どうしたらいいんですか、学長!」
「あれだ、湿布だろ、めまいには湿布。いや違う、風邪には軟膏だから、胃薬か。胃薬を探せ」
アルマーズは支離滅裂だ。
イアリートも、かれの指示をおかしいとも思わず胃薬を探す。
このままでは目のなかに胃薬を入れられそうだ、とマリオンは思った。
ふたりのほとんどコントのようなやりとりは、気持ちをいくらか落ち着かせた。
袖で黒い涙を拭い、眼鏡をかけ直すと、ふたりを振り返った。
「まんまと引っかかったな、イアリート」
アルマーズとイアリートは揃ってマリオンに顔を向けた。
「さっきのは、全部うそ。サプもきみを驚かすために一役買ってくれたんだよ。そっくりな役者まで用意して、本当の双子みたいだっただろ?」
「え、驚かすって……」
「学長とおれが考えた、いたずら」
「いたずら?!サプさんもグルだったのか、もしかして、あの怪我は特殊メイク?」
マリオンが頷くと、イアリートは、よかったあ、と安堵した。ソファにどすんと腰を落とし、額に浮いた汗を拭う。
「倒れてるサプさんを見つけたときは焦ったよ……」
二度目のサプフィールからの濃厚な口づけは、結局のところイアリートの理性を吹き飛ばした。もっと、もっと、と耳元で煽られ、夢中で美しい身体を貪っている最中、マロースが声をかけたのだ。
その弾みで果ててしまったかれは、夢見心地ながらサプフィールにプロポーズする決意を固めたのだった。
「それも、もしかしておれと結ばれるため?へへ、そんなにおれのこと好きなら、もっと早く言ってくれればよかったのに。ああ、ほっとしたら腹が減った」
だらしなく緩んだ顔で、イアリートはオラジの最後のひと切れに手を伸ばした。
「おい、待て」
イアリートが大きな口を開けて頬張るのを見たアルマーズは止めた。
が、遅かった。
一口目で「ぎゃ!」と声を上げたかれは、口のなかのものを手のひらに吐き出した。
「おれ当たったみたい。……わ、だめじゃないですか、こんな大きいガラス入れたら!」
歯が折れたかも、とイアリートは口を押さえ、部屋を飛び出していった。
皿の上には、チーズケーキにまみれた塊が残された。
そのなかに思いがけない輝きを見たマリオンは目を剥いた。
「……まさか、本物を?」
「だから、本物だと言っただろ」
「どうしてそんな無茶を……」
「きみを守るためだ、決まってるじゃないか!」
アルマーズはマリオンの顔を覗き込み、そっと眼鏡をはずした。
「ひどい傷だ。おれが甘かった。素直にダイヤを渡していればこんなことにはならなかった」
「これは作り物、盗人の目です。自分の欲のために人の不幸を顧みない人間が創った道具でしかない。痛みもない」
「ブラーチはどこかで歪んだのかもしれない。脆い人間をどうすれば強くできるのか、やつはそんなことばかり考えていた」
「やっぱり、あなたの命を救ったのはブラーチだった」
「おれの母親を救えず、やつはずっと悔やんでいた……おれたちの思いは同じだった。二度と後悔したくない、大事な人を失いたくない」
「ブラーチを責める気はありません。おれも同罪だから。おれはこの目に頼って生きてきた。見たくないものもたくさん見てしまった……」
マリオンは遠い目をした。
アルマーズは言った。
「おれにも教えてくれないか、きみのことを」
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凪は普通の大学生だ。βで、容姿も中身も平均値ぐらいだと認識している。ある日、大学でもよく噂されている先輩に声をかけられる。先輩の独特の雰囲気と空気に、次第に巻き込まれていく凪。
書き殴り状態なので少しずつ修正するつもりですです…。
逃げた弟のかわりに溺愛アルファに差し出されました。初夜で抱かれたら身代わりがばれてしまいます💦
雪代鞠絵/15分で萌えるBL小説
BL
逃げた弟の身代わりとなり、
隣国の国王である溺愛アルファに嫁いだオメガ。
しかし実は、我儘で結婚から逃げ出した双子の弟の身代わりなのです…
オメガだからと王宮で冷遇されていたので、身代わり結婚にも拒否権が
なかたのでした。
本当の花嫁じゃない。
だから何としても初夜は回避しなければと思うのですが、
だんだん王様に惹かれてしまい、苦しくなる…という
お話です。よろしくお願いします<(_ _)>
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
一度も話したことないイケメンのクラスメイトと二人組になったら引くほど執着されてた
時
BL
「はい、じゃあ二人組作って」──あまり人付き合いが得意ではない夏稀(なつき)にとってそれは地獄の言葉。
けれど高校ではちがう。なぜなら新しくできた友達と『二人組』協定を結んだから。
もう二人組なんて怖くないと思っていた矢先、その友達が風邪で欠席。
ほかに組む相手が見つからず、先生と組むことも覚悟する夏稀だったが、そこで声をかけてきたのは美形の転校生──緒川聖夜(おがわ・きよや)だった。
「俺と二人組にならない?」
その一言をきっかけに聖夜は夏稀との距離を急速に縮めてきて──。
執着美形攻め×平凡受けのちょっと不穏な学園BL。
番解除した僕等の末路【完結済・短編】
藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。
番になって数日後、「番解除」された事を悟った。
「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。
けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。
2026/02/14 累計30万P突破御礼バレンタインSS追加しました
2026/02/15 累計いいね♡7777突破御礼SS 19時に公開します。
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