東京ラプソディ

手塚エマ

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1巻

1-1




  第一章 もういっそ


 もういっそ、あの男の愛人になってしまおうか。
 伊崎律いざきりつは自分の内なる誘惑に、頭を持っていかれそうになっていた。
 きっと、あの男もそれを望んでいる。
 何も難しいことではない。
 週に一回二時間だけ、黙ってあの男の好きにさせればいいだけだ。
 四六時中空腹に耐えているより、ずっと簡単に違いない。その数時間だけ身体を任せてさえいれば、このひもじさからも逃れられる。
 奉仕の対価を幾らかでも受け取れば、病に伏した母親を医者に診せることも、栄養をつけさせてやることもできるだろう。


        ◆


 石造りの堅牢なビルの地下一階。
 律は、カフェーの狭い廊下を行き交う黒服に蝶ネクタイのボーイや楽団員、派手な銘仙めいせんの着物の上に白いフリルのエプロンをした女給達とも挨拶を交わし、フロア歌手付き、楽団員用の楽屋に向かっていた。
 薄暗い廊下のあちこちには、酒瓶の木箱が雑然と積まれ、ひと一人、すれ違うだけで肩が触れ合いそうになる。
 だが、そんな楽屋のドアに貼りつくように立っている男が視界に入るなり、律はつんのめるようにして足を止めた。

「律君、お疲れ様。今日の演奏も素晴らしかったよ。さすがは音大出のピアニストだ」

 その中年男は、親子ほど齢の離れた十九歳の律を、臆面もなく褒めそやした。
 まだ十五、六歳の女給の少女は漫然と紫煙をくゆらせ、つまらなそうに男をちらりと横目で見る。
 律もフロックコートに山高帽でモダンボーイを気取る男をかたきのようににらみつけた。
 そうして威嚇しながらも、頭の中でせめぎ合う二人の自分の声がまた、大きくなるのを感じていた。
 もう、いっそ。
 いっそのこと、というあの声が。


        ◆


 今から三年前の昭和四年。
 ニューヨーク証券取引所での、株価暴落に端を発した世界恐慌は、東京株式取引所での株価大暴落へと発展し、日本は生糸や鉄鋼業など、対米輸出業に大打撃を被った。
 東京や大阪などの大都市には失業者が溢れ、貧農子女の身売りも後を絶たなくなっている。
 日本という国そのものが目に見えて衰退する中、銀行家であり、金貸しでもあるこの男は、呆れるほどに羽振りが良かった。
 本来ならば、こんな場末のカフェーの客ではないのに、何がそんなに気に入ったのか、律のピアノが目当てで通っていると、常連客や給仕の女性達にも吹聴している。

「僕は何度も言いましたけど、入学してすぐ、半年で休学しています。音大出なんて言われたら、僕が詐欺師だって責められます」

 輪郭のはっきりとした黒目がちな目で男をにらみ、不機嫌を隠さず言い放つ。
 ただでさえ、カフェーの開店時から深夜零時を過ぎるまで、ジャズ歌手のピアニストとして弾き続け、クタクタに疲れきっている。
 この粘着質な男を今夜もどうやって追い返そうかと考えるだけで、なけなしの体力が奪われる。律は聞こえるように嘆息し、艶やかな黒髪をかき上げた。

「律君。君はいつも言うが、あの一流音大に入学できたというだけで、大したものだ。君は立派な芸術家だ。休学中だからといって自分を卑下することはない」

 廊下で一服している給仕の女性やボーイの目の前で、すげなくされた中年男はバツが悪くなったのか、手にした傘を前後に揺らし、愛想笑いの声を響かせた。
 それでも男は楽屋のドアの前から離れない。退くつもりはないようだ。
 仕方なく律がきびすを返すと、男は慌てて追ってきた。

「せっかくだから、これから食事にでも行かないか? もちろん帰りはタクシーで送るから」

 男は律に追いついて、代わり映えのしない口説くどき文句をたれ流す。
 そうこうしている間にも、狭い廊下でステッキのように傘を振りつつ行き来する中年男が、帰り支度を済ませた女給の行く手を塞ぐなどする。真っ赤な口紅の女給達は顔をしかめ、律にまで聞こえるように舌を打つ。

「申し訳ございませんが」

 律が渋々足を止め、重い口を開きかけた時だった。

「おやめなさいな、あなたねえ! 大の大人がこんな所で、こんな子供を口説くどくだなんて、みっともない!」

 律の背中を打つようにして、女の美声がとどろいた。 



  第二章 八等技芸士のフロア歌手


 ドスの利いた女の罵声が狭い廊下に反響し、くわえ煙草の女給やボーイも声の主に目を向ける。
 外は雪が降っているのに、女丈夫は袖のない薄紫の夜会服。
 大きく開いた胸元には、一粒の大きなサファイアのネックレス。爪先の細いヒール靴を履いた、絶世の美女が男をにらみ据えている。

「……え、瑛子えいこさん。僕は、あの……」

 律が男と瑛子をとりなすように間に割って入っても、無言で瑛子に押しのけられる。瑛子は更に進み出て、中年男を汚れた壁に貼りつかせた。

「な、なんだ、貴様!」

 女性にしては背も高く肩幅もあり、豊満な肉体を誇る瑛子は、ただそこに存在しているだけで、見る者を圧倒する。男の声も、女給の失笑を買うほど激しく動揺していた。

「この子は私の大事なピアニストなの。お金でホイホイ釣れるような、そこいらの女給と一緒にしないで頂きたいわ」
「なんだ、その口のきき方は! 八等技芸士のジャズ歌手が、常連客に楯突く気か!」

 それでも罵声を浴びせる男に、瑛子は細い眉を上下させた。

「でしたら、支配人にそうおっしゃっていらしたら? 私が歌手をクビにされるか、あなたの方がフロアに出入り禁止になるかは、わかりませんけど」

 瑛子は付け睫毛まつげをほどこした、大きな両目をすがめて笑う。最後に彼女がとどめとばかりに、真紅の唇を左右に引けば、男は滑稽なほど狼狽うろたした。

「……い、いい気になるなよ! この淫売カフェーの十銭芸者が!」
「悔しかったら、淫売カフェーの八等芸者を口説くどき落としてご覧なさいな」

 捨て台詞ぜりふを吐いて去る男に、痛烈な皮肉を浴びせかけ、瑛子はくびれた腰に手を当てた。
 傍観者達は裏路地のカフェーの歌手と、羽振りのいい男色銀行員の一騎打ちを黙って見ていたのだが、瑛子が圧勝した途端、がっかりしたような顔になる。歯にきぬ着せぬ物言いの瑛子に対して、良い感情を持たない者も多いのだ。

「まったく……。目障り以外の何者でもない男だわ」
「ありがとうございました。いい加減、どうやって断ろうかと困っていたんです」

 苦々しげに男の背中を見送る瑛子に、律は何度も頭を下げた。

「わかっているでしょうけれど。あんな男の口車に乗って、あなたみたいに綺麗な若い男の子が、ついていってご覧なさいな。さんざんオモチャにされて食いものにされて、挙げ句に飽きたら売り飛ばされてしまうのがオチなのよ」

 耳隠しの断髪をパーマネントで波打たせ、七宝焼きのイヤリングを光らせた出で立ちで、瑛子が下世話な脅しをかけてくる。

「そんな事はありませんよ。ただ僕が十九歳にしては童顔だから、男色の相手をさせようと、やっきになってるだけですよ」

 実際、迫力のない小さな顔も、肌理きめが細かく白磁のようだと言われる肌も、奥二重の目もふっくらとした唇も、十九にしては童顔なだけだと思っている。体格までも少年めいているせいか、初対面で十九歳だと返答するたび、大抵は、もっと年下かと思ったなどと驚かれる。
 あの男もきっとくみしやすいとあなどって、声をかけてきたのだろう。

「まあ、いいわ。何か食べさせてあげるから、私の楽屋にいらっしゃい」

 慈しむように笑んだ瑛子が、楽屋のドアを押し開ける。ファンから贈られた花で埋め尽くされた個室の楽屋は、甘く濃厚な香りで、むせ返るようだった。
 それでも瑛子は、無名の彼女を最初にステージに上げてくれたこのカフェーの主にみさおをたてて、どんなに金を積まれても、引き抜きには決して応じないと明言している。
 見た目は大輪の薔薇のようでも中身は武士だと、律は瑛子を年の離れた姉のように慕っていた。

「なんだか会うたびに痩せていってる気がするんだけれど、ちゃんと食事はしているの?」

 瑛子は応接セットのソファに座る律に紅茶を差し出して、思案げに顔色を曇らせた。
 用意された肉厚のカツサンドにかぶりついていた律は、我に返って手を止めた。

「みっともなくて、すみません。ちゃんと食べていますけど。仕事の後はお腹が空いて」

 気恥ずかしくなり、口ごもる律に、瑛子は優しげな微笑みをたたえたままでうなずいた。

「別にいいのよ、そんなこと。若い男の子がたくさん食べたがるのは当たり前。だから、ちゃんとお腹いっぱい食べているのか心配しているだけなのよ」

 化粧鏡の前の椅子に腰を下ろして足を組み、紅茶のカップに唇を寄せた。
 本音を言えば、カフェーのアルバイトでは病床の母を食べさせるのが精一杯。今の律は瑛子が用意してくれる夜食であったり、このカフェーの給料だけでしのいでいる。
 そこまで切り詰めた生活では、滅多に母を医者に診せることができずにいる。
 律は自分の不甲斐のなさに、内心ほぞを噛んでいた。


        ◆


 半年前に父と兄が相次いで他界し、稼業が破産に追い込まれるまで、年の離れた次男として甘やかされて育ってきた。
 東京の音楽大学に通学するため、実家を離れ下宿を一軒まるごと借り出して、女中や下男に傅かれていた。
 この未曾有の恐慌下で、世間知らずに務まる仕事などあるはずもなく、実家の屋敷はあっという間に借金のカタにとられてしまった。
 母は稼業が倒産し、父と兄を相次いで亡くした心労からか、結核をわずらってしまっている。東京を離れ下宿を引き払い、実家に戻っていたものの、東京にならば仕事があるかもしれないと、母と二人で上京した。
 やっとのことで、カフェーのピアニストとして、日当だけは得られるようになったけれど、それでも、日も射さない棟割り長屋の湿った布団に、病気の母を日がな一日寝かせることしかできずにいる。
 せめて医者に診せることができたなら。

「サンドイッチと紅茶、ご馳走様でした。いつもありがとうございます」

 律はカラ元気で声を張り、立ち上がって頭を下げる。
 瑛子の楽屋の外には差し入れを持った彼女のファンがひしめき合って待っている。
 長居は瑛子の迷惑になる。
 律が廊下に出た途端、老若男女のファン達がわざとのように肩にぶつかり、律を押しのけ、我先になだれ込む。
 空腹が癒やされたせいか、強烈な疲労感と睡魔に襲われ、柱に当たってよろめいた。弾き飛ばされた自分は誰にも顧みられずに、存在そのものを抹殺されたかのようだ。
 それもまた、当たり前かと苦笑した。無礼だとも理不尽だとも思わない。もう既に、怒りを感じる余力がないだけ。
 律はひび割れた壁に手をつき廊下を歩き出す。
 今度のステージは二日後だ。
 つまり、明日は日銭や瑛子の善意にありつけない。
 ただでさえ細い身体が削がれるように痩せ細る。重い足取りで楽団員用の楽屋に戻り、木戸を引き開けると、ステージ衣装の黒のスーツに白いシャツ、銀のネクタイはそのままで上からマフラーを回し、鞄を斜め掛けして楽屋を出た。
 裏路地の左右に立ち並ぶカフェーや呑み屋は、ほとんどが閉店し、暖簾のれんも下ろされ、しんと静まり返っている。
 電柱にもたれてしゃがみ込み、酔いつぶれたサラリーマンを睥睨へいげいしながら、大通りを目指す律は決して歩みを緩めない。
 空前絶後の不景気で、治安も悪化してきている。
 それなのに、何をどうしたら、あそこまで無防備でいられるのかといぶかしむ。
 目覚めた時には財布はもとより、時計もコートも帽子も身ぐるみ剝がされているだろう。
 律は三つ揃えのブラックスーツのベストの内ポケットに鎖で繋げた、自身の財布のありかを確かめようと、思わず胸に手を当てる。
 病身の母に三度三度食べさせるための、貴重な紙幣が数枚だけ入っている。

「伊崎君。伊崎律君」

 神経を尖らせた律は、声がした方向に瞬時に目をやる。
 歩幅こそいくらか狭めたものの、立ち止まるのは相手が誰だがわかってからだ。
 律を呼び止めた三人組の男達は、背後から迫ってきて律に追いついた。待ち伏せしていた可能性は否めない。律はまなじりを吊り上げる。

「仕事帰りで疲れているのに申し訳ない。私はこういう者でして」

 男達は三十代の前後だろうか。口火を切った一人はフロックコートに中折帽を粋に被った洒落者だ。あとの二人は濃紺のスーツに黒のシャツ、銀色のネクタイという、何かしらの圧を感じる装いだ。
 足を止めた律は、フロックコートの男から、片手で名刺を受け取った。

「私は銀座ぎんざでカフェーを経営しています。伊崎さんのピアノを拝聴して、ぜひ、うちのバーでも弾いて頂けないかと思いまして」

 いびつな愛想笑いを貼りつけた男を律は黙って凝視した。
 正規のスカウトマンなら、事前連絡を取りつけるだろう。それが深夜の、しかも疲弊しきった状態を狙い定めるようにして来た相手を信用するほど馬鹿じゃない。

「すみませんが」

 別のカフェーをかけ持ちするなら、瑛子に相談したかった。
 名刺だけを受け取って、断りの言葉を口に仕掛けた律に対して、饒舌じょうぜつな男は更に言葉を重ねてくる。

「うちのカフェーは、ピアノの演奏だけなんだ。ピアニスト自身に店や客層に合わせた選曲を任せている。その辺が腕の見せ所といった感じなんだよ。ジャズは歌手がメインだから、ピアニストにファンがつくのは稀だけど、うちでは気に入ったピアニストが入る日にしか来ない客もいるんだよ。伊崎君ならすぐに熱烈なファンがつくはずだ」

 断りかけた律を説き伏せるようにして男は続ける。

「君はカフェーに週に三日入っているから、空いた曜日に一日でも、何なら四日でも入って欲しいぐらいだよ。給金もカフェーの二割増しでだ。もっと条件があるのなら、話し合いにも応じるよ」

 大通りの路肩に止めた車に、さりげなく男は視線を移した。話し合いに応じるのなら、ここから車で別の場所に移動しようというのだろう。
 富裕層しか所有できない高価な車を、これ見よがしに見せつける、饒舌じょうぜつな男の背後では、だんまりを決め込む屈強そうな男が二人、にらみを周囲に巡らせる。
 怪しい匂いしかしないのに、それでも律はぐらついた。
 カフェーでの勤務は三日間。あと一日でも二日でも働けるのなら。
 それにより、飢えがしのげるというのなら。
 理性と本能がせめぎ合い、感情が思考を上回る。
 車に乗るのは危険だが、あと少しだけここで話ができないか。甘い餌ほど今は心に突き刺さる。律があらためて名刺に視線を落とした、その時だ。

「失礼、律さん。今夜は大勢でお帰りなんですね」
「えっ?」
「皆さん、お知り合いの方ですか?」

 律本人やスカウトマン達の困惑をよそに、どんどん話しかけられて、律もまた当惑した。
 日本人とは思えないほど背が高く、すらりとしていて手足も長い。
 紺の背広を着ているせいか、腰の位置が高く見えた。
 また、洋装に合わせるように、黒髪を軽く後ろに撫でつけて、形のいい額を顕わにしている。男にしては顎が華奢で秀麗な顔立ちながら、切れ長の双眸そうぼうには、一種異様な凄味すごみがあり、色香を醸し出している。

「いえ、僕に面識はありませんが」

 男のペースに乗せられて、律は諾々だくだくと返事をした。すると、饒舌じょうぜつなスカウトマンが舌打ち交じりに豹変した。

「つべこべ言ってねえで、さっさと乗れや」

 乱暴に腕を掴まれて、ぐっと前に引っ張られた。
 車の中にも一人いて、後部座席のドアが中から押し開かれる。律は、四人がかりで連れ去られそうになっていた。
 自分なんぞを誘拐しても身代金のあてなどないのは、わかりきってるはずなのに。
 だが、先ほど律の名前をはっきり呼んだ細身の男も顔色を一変させている。スカウトマンの先導者だった男の肘を鷲掴みにした。彼は輩の肘をぐいと持ち上げるなり、がら空になったみぞおちに、拳を深く打ち込んだ。
 細身の男の足元にくずおれた男は、白目を剥いて横転した。

「うわっ!」

 誘拐めいた行動に出た四人のうち、一人を一撃で横転させた男は足元に転がる男に冷ややかな一瞥をくれたあと、三人の屈強そうな男達に、ひたりと視線を据えている。

「律さん、下がっていてください」

 そんな男達と対峙している彼に従い、もと来た路地まで退いた。律、律と連呼されたが、律には誰だかわからない。
 彼は律から視線を戻した瞬間、自分に殴りかかる巨漢の拳をさらりとかわし、男の顔に鉄球のような拳を次々くり出した。男の顔がへしゃげるほどに殴打したあと、最後に一人、運転手の男の背中に肘鉄を食らわせ、前屈みになった腹を更に蹴り上げ、難なく倒した。全員ほとんど一撃で打ちのめした彼は一体誰なのか。
 路地に落ちた中折帽を拾い上げ、軽くはたいて砂埃を落とした。
 その顔つきが感慨深げになった時、律は脳天を突かれるようにして思い出す。

「……聖吾せいご

 過去の彼と、あまりに印象が違いすぎた。その名を口にしたあと、唇だけをあえがせていると、聖吾は畏敬の念を込めるようにして目元を細める。

「ご無沙汰致しておりました」

 水嶋みずしま聖吾は帽子を脇に抱えると、優雅な所作で一礼した。
 口をほとんど開かずに話す彼特有のもの言いと、そして微かに甘さをはらんだ声が、一気に過去へと引き戻す。

「お見苦しいところをお見せして」

 足元に横たわる四人の男を見下ろすと、間が悪そうに口ごもる。そして、暴漢と化した男達は、しつこく口説くどいてきている銀行家の手先なのだと断言した。
 しびれを切らした銀行家が強行手段に打って出たのだと。
 しかし、どうして聖吾がそこまで知っているのか。
 あの男の公言が激しくて、カフェー以外の誰かの耳にも入ったということなのだろうか。
 そして誰か、というのが聖吾なのか。
 疑問や、様々な思い出の断片が頭の中で突風のように吹き荒れた。



  第三章 水嶋聖吾


 水嶋聖吾が一体いつから屋敷にいるようになったのか。
 律は正確には、わからない。
 父親が、十四歳の聖吾を救護院から引き取ったのは、律がまだ四、五歳の頃だった。
 下男にするためにというより、息子の教育係としての意味合いが強かったらしい。というのも、横浜の外国人居留地出身の聖吾は語学が得意で、西洋式の習慣にも精通していたからだ。
 そんな聖吾が救護院に入るに至ったのは十二歳の時。
 事業に失敗した実父が一家心中を強行したからだという。両親と兄弟四人人の家族の中で、辛くも一人、生き残ったのが聖吾だった。
 律は実父に刺されたという、左脇の傷も見せてもらったこともある。肋骨の間の肉が削げて、一部が陥没。傷が完治しても陥没は元には戻らない。そう話してくれた時も、聖吾はまるで童話でも語るように微笑んでいた。
 わずか十二歳で家族も住む家も失い、借金取りから逃れるために路上を転々とする生活を二年も続けていた彼が、どんな辛酸をなめ尽くしたのか。
 幼かった自分が、どれだけ理解できていたかはわからない。
 それでも聖吾は自分の過去を聞かせることを嫌がらなかった。大好きな人の話なら、どんなことでも聞きたがる律に対して、どんな時にも穏やかな笑みを絶やさなかった。
 瀕死の重症を負いながら隣家の主婦に奇跡的に助け出されたものの、病院にまで借金取りが押しかけてきたこと。傷が癒えたら借金のカタに淫売窟に売られると、決まっていたこと。
 借金取りの目を盗み、怪我が完治しないまま病院を逃げ出した彼は、浮浪児仲間とつるんで生き延びたと言う。
 ただ、その間どうやって食い繋いでいたのかについては、訊ねようとはしなかった。浮浪児だった頃については聖吾は口が重い気がしたからだ。幼かった律は、彼を無心に仰ぎ見ているだけだった。
 聖吾は律付きの下男として朝起きてから床につくまで、着替えから食事の給仕、入浴に至るまで甲斐甲斐しく世話してくれた。寝つきの悪い律のために、毎晩枕元に付き添っていてくれた。
 聖吾の温かい掌で肩や背中を優しく撫でたり、緩やかに叩かれているだけで、心から満たされ、何の憂いもなく眠りにつくことができた淡い記憶が鮮明に蘇る。
 英語や西洋式の礼儀作法の教師として、時には厳しい一面を見せながら、遊び相手にもなってくれた美しい青年。
 夏には水泳を、冬にはスキーを。異国のスポーツを教授しながら、自らも華麗にこなしてみせる。律の目には、まぶしいほどにきらめいて見えていた。
 その淡い憧憬が特別な熱を帯び始めたのは、律が十二歳になったばかりの春だった。
 その日のことを思い浮かべるだけでも胸が、悲鳴にも似たきしみを上げる。
 二十一歳の美丈夫に成長した聖吾は、近隣の女学生にまで広く知られる存在だった。
 その聖吾が密かに通う女が花街にいる。
 聖吾を狙う女達の間で、そんな噂がまことしやかにささやかれると、律は言いようのない焦燥にかられて懊悩おうのうした。
 聖吾が通っているのは本当なのか。
 本当だとしたら、相手は一体どんな女だろうかと、いつしか律もその花街に何度も足を運ぶようになっていた。けれども子供が一人で夜の街を徘徊すれば、嫌が応にも目立ってしまう。
 身なりが良かったことも災いして、見知らぬ車夫に言葉巧みに連れ出され、気づいた時にはどこかの安宿に監禁されてしまっていた。
 この車夫が、律の家に多額の身の代金を要求したことを知らされたのは、無事に解放され、両親のもとに保護されたのちのことだった。
 警察の迅速な捜査で、三日後には無傷で救出されたものの、その車夫が偶然にも、聖吾の昔の浮浪児仲間だった事実が判明した。
 そのため聖吾に共犯者という嫌疑がかけられ、彼が警官に連行されてしまった時の焦りと罪の意識と絶望を思い起こせば、今でも血の気が引くのがわかる。
 だが、律の父は弁護士を雇い、躍起になって聖吾を擁護してくれた。
 律をまぶしいぐらいに溺愛している聖吾が、そんな悪事に手を貸す訳がないと、自ら警察に出向いて訴え、聖吾も容疑を断固否認した。
 結果、律が誘拐されたのと同時刻に、聖吾が噂の芸者といたことが判明した。
 この最悪の形で立証された聖吾の無実に、律は更に打ちのめされた。実際には花街の別の芸者に熱を上げ、通っていたのは律の兄の方で、聖吾は兄の供をしていただけだったのだ。
 芸者といたのは、女郎を兼ねた芸者を買わずに楼には入れなかったから。
 兄君だけを登楼させては、供する意味がなかったからだと、聖吾に釈明されてもなぐさめなんかなりはしない。聖吾が表向きは芸者の女郎と一緒にいた。その事実に何ら変わりはないからだ。

「私があんな場所にいたせいで、律さんをこんな目に」

 申し訳ない、自分のせいだと、床に額を擦りつけてびる聖吾に応えることもできないほど、律は心を打ち砕かれていた。
 賢明な律の父は、聖吾を責めたりはしなかった。
 それでも聖吾は親の稼業が破産したせいで、未だ借金取りにも追われる身であった。
 律の父が聖吾が抱える借金を全額返済しようと説得しても彼は拒絶した。たとえ金が返せたとしても、過去が過去として追いかけてくる後ろ暗い身の上があらためて露呈した。律に危険が及んではいけないと、自らいとまを願い出た。

「お願い、聖吾。もう、あんな馬鹿なことは絶対しない。約束するから行かないで」

 彼が屋敷を出ていく瞬間まで、どんなに泣いてすがっても、聖吾の決意を変えることはできなかった。聖吾は自分の過去の後ろ暗さが明るみに出たことを恥じていた。
 今日のように底冷えのする寒い日の朝。
 粗末な木綿もめんの羽織袴で、風呂敷包みひとつを抱え、雪の降る路地を遠ざかる聖吾の背中が、どんなにわびしく見えたか知れない。
 今でもあの日の聖吾を脳裏に思い描いただけで、目頭が熱くなってくる。
 律は重苦しい息を吐き出した。
 銀行家が遣わせた暴徒を聖吾があえなく倒し、積もる話もあるからと、連れてこられたバーはカウンター席のみだった。薄暗いバーの末席で、ホットワインのグラスを両手で握って項垂うなだれる。
 何年経っても思い出すたび、自責の念と悔恨にあぶり焼かれるようだった。
 両手で持ったグラスには、沸騰させてアルコール成分を飛ばした赤葡萄酒にオレンジ果汁と蜂蜜を混ぜた、甘い花の匂いがする飲み物が白い湯気を上げている。
 律が通りに面した窓の外に目をやると、洋傘をさした人の影が映っていた。

「……やっぱり降ってきましたか?」

 聖吾に不意に訊ねられ、律はハッとして目を上げた。
 身動みじろいだ律の煽りを受けたのか、窓辺の三本立ての洋蝋燭ろうそくも炎をうねらせ、揺れていた。
 蓄音機が穏やかなクラシックを奏でるバーカウンターの隣席には、琥珀色のウイスキーを静かにたしなむ聖吾がいる。

「うん。……みたいだね」

 律は半ば夢見心地でうなずいた。
 記憶の中の聖吾はいつも、地味な色味の木綿もめんの着物に袴姿だ。
 こんな風に光沢のある紺の背広に薄灰色の細縞柄のシャツを合わせ、えんじ色のネクタイを締めた彼は見たことがなくて別人のように華やいで見える。
 その聖吾が七年前と同じように、優しく微笑みかけてくる。

「だけど、どうしてここが……」

 聖吾の行方が知れなくなっていたように、破綻した伊崎家の人間の行方も知れなくなっていたはずだ。

「失礼ながらツテを頼って探したんです。律さんと奥方様をあのような貧民窟に放置したまま何もしないでいることこそ、いちばん憂慮するべきはずだとわかっていました。わかっているのに、私に意気地がないせいで、何日も声をかけられずにいたんです」
「えっ……?」
「一刻も早くお助け申し上げないと、と焦りましたが、もう七年も経っていますし。もし律さんに忘れられてしまっていたらと考えると、どうしても二の足を踏んでしまって、気が引けて……」

 聖吾が手にするグラスの中で氷が崩れる音がした。

「申し訳ないことを致しました。あの銀行家は今後一切律さんに近づかないよう、先ほど手筈てはずを整えました。もう心配はいりません」

 聖吾は律に向き直り、手を握らんばかりの勢いで宣言した。

「だって、いつの間に、そんなこと」


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