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第四節 ひと夏の陽炎とファンタジア

#49 朝の夏空、二人のファンタジア

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早朝の日差しがカーテンの隙間から洩れていた。梅雨の湿った空気と朝日が相まって、人の息遣いのような感触が勝行の頬を撫でる。ふと目を覚ましたら、目の前には本当に人がいた。
主のベッドを占拠し、気持ちよさげに眠る金髪ピアス少年が、起き抜けすぐ視界に入る。

(うわ。知らない間に寝落ちてた……もう朝?)

勝行はあくびしながら時計を確認し、いそいそと登校前の準備を始める。昨夜は光に自分のベッドを貸し出し、その下の床で座ったまま眠っていた。出しっぱなしのギターに足を引っかけそうになり、慌ててそれも片付ける。

既存曲の即興セッションで何度も歌ったり、一緒に作曲作業するのが楽しすぎて、夜遅くまで光を引き留めてしまった。弟の晩御飯はどうするのか光に聞いたところ「あいつは日曜の夜は帰ってこない」と言われ、ならば……とついつい二人で夜遊びし過ぎてしまったのだ。どちらの家にも、それを咎める大人など誰もいなかった。
先に力尽きて寝落ちた光は、勝行のセミダブルベッドの上で、着替えもしないまままだ眠っている。

「光、もう起きなよ、朝だよ。制服取りに帰らないと……今日は学校」
「……んん……」

寝起きが悪いのは知っているが、朝から耳を引っ張って機嫌を損ねるのもできたら避けたい。
どうしたものかなあと思いながらひとまず制服に着替えていると、唐突に光の方から腕を伸ばしてきた。

「あとちょっと……」
「何甘えた声で言ってんの。俺のこと、弟と間違えてない?」

泊まったことなど、きっとまったく自覚ないだろう。寝落ちたことすら覚えてないに違いない。座ってピアノを演奏しながらいきなりスコンと落ちた時は、さすがの勝行も驚いた。あれから一度もまだ起きてこないから、どうにかベッドに寝かせてあげたことも知らないに違いない。
寝つきはよすぎるけれど、寝起きは悪いとか、典型的な幸せ人間の惰眠スタイル。勝行にしてみれば実に羨ましい話だ。

「うーん……サボるわけにいかないし、車で送ってもらうか。ちょっと目立つけど、俺も光の家から徒歩で登校したら間に合うかな。よし、せっかくだから一緒に登校しよう。たまには一時間目から教室行こうよ」
「んー……」
「ほら、起きて。俺、ついでにコーヒー買いに行きたい」
「……こーひー? まって、今作る……」
「え、作ってくれるの?」
「んー……そのまえに……おはよー……」

完全に弟と間違えたままなのだろうか。甘ったるい声を出しながら、光はもぞもぞと布団の上で腕を動かす。勝行の身体を見つけてしがみつくと、それを支えにして起き上がった。
頬に、唇をチュッと押し付けながら。

「おは……」
「……」
「………………」
「おかえしは……?」

光の目は完全に寝ぼけていて、まだ半分座ったまま。寝崩れたシャツからはだけた肩をチラ見せして、濡れた薄桃色の唇を離して首をもたげる。
完全にグラビア美少女のようなその仕草。その姿。そして、その唇が。勝行の視線を捉えて離れない。

(なんだいまの)

いつも起き抜け速攻で回転するはずの勝行の思考回路が、完全に固まった。

「あれ……源次じゃない」
「…………」
「なんでお前がいんの……?」
「…………こっ……ここは俺の家なんだけど」
「……そうだっけ」
「……そっ……そうだよ……」
「んー……ああそうだ、コーヒーつったっけ……」

目を擦り、欠伸をしながらようやく覚醒してきたらしい光は、勝行にしがみついたままだった手を離した。この非常におかしな状況は特に気にならないらしい。ゆるりとベッドから降りて立ち上がった。

「粉、まだあったっけ……」

ぽりぽりと胸元を掻きむしりながら、大股でふらふら台所に向かうその姿を見送りながら、勝行はまだ固まっていた。
今のは事故……?
それとも。

(……攻略しきったと思ったけど、なんなんだあいつ。またしても謎が増えた……!)

――なんで朝からキス⁉ あいつ……弟と毎朝何やってんだ?

今脳内でBGMが流れるならば、謎だらけの壮大なファンタジア。
だがすぐそばで頬をくすぐるような息遣いも、やわらかい唇の感触も、ばっちり録画保存された。あれは幻想なんかじゃない。少しだけ男の象徴がむくっと上向きに反応しているのは、絶対さっきの『寝起きショット今西光』のせいだ。あれがうっかり『好みの美少女みたい』に見えたからに違いない。
そう、ただの誤認識、幻想。あれは男だ、男。
勝行はとまらない動悸と真っ赤になった顔をどうにか治めることに集中する。心頭滅却すれば火もまた涼し。
やがてインスタントコーヒーの香ばしい香りが部屋中に立ち込め、迷走する勝行の思考回路をどうにか現実に引き寄せた。


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朝から揃って登校してきた二人を誰よりも早く見つけたのは、養護教諭の西畑だった。校門前で登校指導に当たっていた他の教員たちも、まともな時間に光がやってきたことに驚きを隠せない様子。

「おはようございます」
「おはよう二人ともー! 珍しいね今日は」
「あー……はは、週末一緒に遊んでたら、流れで泊まり……みたいな感じになっちゃって」
「やだもうー! すっかり仲良くなって!」

背中をバンバンと叩きながら嬉しそうに語りかけてくる西畑に対し、光は挨拶抜きで「うっせえ、いてえわクソジジイ!」と捨て台詞を吐く。途端、西畑のたくましい腕に首を絞められ、「誰がクソだって?」と拳でグリグリされている。本気で痛そうだが……まあこれはどうやら、ヤンキーと世話焼き教師の日常茶飯事のようだから気にしないことにする。

相変わらず眉間に皺を寄せ、周囲を威嚇しながら歩く彼だけれども。つかず離れずの微妙な距離を保って歩きながら、昨日のご飯は美味しかっただとか、またセッションして遊ぼうと語り掛けると、一応ちゃんと「……おう」と返事してくれるようになった。
仲良くなったかどうかはわからないが、少なくともこの週末、色々一気に進展したのは確かだ。少々卑怯な手口ではあったが。
突然くんくんと鼻を鳴らした西畑が、嬉しそうに二人を並べる。

「二人とも同じシャンプーの匂いがするわ」
「ええっ」
「そらあたり前だろ。同じ風呂に入ったんだから」
「お、お風呂も一緒に! んまー、裸同士のお付き合いね。何かいかがわしいことまでしちゃってないかしら? そこんとこ詳しく」
「そんなことしません!」

驚き焦った勝行は思わず本気で声を荒げた。
光も文句を言うかと思いきや、なぜか不安そうな顔をして黙りこくっている。

「ほらあ、今西くんが熱愛否定されて悲しそうな顔をしてるわよ……? 相羽くん、あなた可愛い顔してやること大胆だわねえ⁉ 大丈夫、先生は二人の味方よ、でも肉体関係だけはまだもっちゃいけないからね、中学生」
「肉体……」
「ちょっと。今西くんガチで青ざめてるんだけど、相羽くん一体なにしたの」
「誤解だ、何もしてません!」
「大丈夫、昨今の世の中はゲイに寛容だから。恋愛に関する相談事なら、いつでも保健室で聞くわよー!」
「は? なんで恋愛の話」

本気で眉間に皺を寄せている光は、西畑のツッコミの真意に全然気づいていないようだ。何に怯えているのだろうか。――もしかして「アルバイト契約」のことがバレてはまずいと思っている?

(大丈夫、バイトのことは誰にも言わないし、俺がいくらでも誤魔化すから心配するな)

さっと光の肩に手を置き、小声で光に告げると、彼はほっとしたような顔でこちらを見た。どうやら見当通りだったらしい。
そんな姿を見た西畑が、さらにニヤニヤした目でこちらを見ていることには気づかなかったが。校門で騒いでいる間に、予鈴が鳴り響いた。駆け込み勢の学生たちが、走って通り抜けていく。

「やば。光、早く行こう」
「え、音楽室に?」
「ばか違うよ、教室だよ」

そう告げると、光は明らか不満げな顔を見せて眉間の皺を深くした。

「音楽室じゃねーのかよ」
「朝からサボる気満々で学校来るなよ、もう。放課後また俺んちのキーボード貸してあげるから、それまでは我慢しな」
「えっ」
「俺、部活ないんだ。放課後も空いてるから。昨日の続きやろうぜ」

放課後まで頑張れば、またあの部屋で演奏できると聞いた途端、わかりやすいぐらいに目が輝く光をみて、勝行は思わず苦笑した。この男、ツンデレで素直にならないくせに、いざ好物をぶら下げれば意外とチョロい。オレンジジュースより簡単に釣れたかもしれない。

「その代わり、ちゃんと勉強もしろよ。居眠りばっかりしてないで」
「……う、うっせえな。俺が何しようと勝手だろ」

相変わらずの減らず口。だがもう聞き慣れている勝行は「ああ、俺も勝手にするから」と意地悪く告げる。そしてその手を無理やり引いて、返事を待たずに昇降口へと駆け出した。

それはどんよりとした雨雲を薙ぎ払いながら駆け足でやってくる、夏の青空のようだった。

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