50 / 135
第七章「fall down」3
しおりを挟む
次の日、用事があるからと朝から寮室を発った静江さん。
夕方になった頃、空腹に耐えかねた私は華鈴さんに報告しなければならない事もあるため、何とか身体を起こして喫茶さきがけへと向かった。
冷たい風が吹き、身体が冷えてしまうのを抑えようと半分顔を隠すようにマフラーを巻き、クリスマスムードに飾り付けが施される商店街の中を歩いて行く。
革製のブーツで踏み締める地面は冷たく、水に濡れると一層滑りやすくなるので、私はリードを強く握り慎重に歩いた。
これ以上、怪我はしたくない。ギブスで固定しているせいで左手が上手く使えないため、壁に手を掛けることも出来ないので、慎重を期して歩いた。
何とか喫茶さきがけまで辿り着き、扉を開くと暖かい空気と香ばしいコーヒーの香りが漂ってくる。我が家に帰って来たような心地になり、私はいつもの席に向かって歩いた。
今日は店内BGMにショパンを掛けてくれている。それだけのことで、私は傷ついた心が和らいでいった。
「郁恵さん……!! どうしたの……その怪我」
私がテーブルに着いたところで異変に気付いた華鈴さんが慌てて駆けつけてくれる。
椅子を引いて、自然な動作で手を差し伸べて座らせてくれるが、負傷した私の左腕が気になってしまい居ても立っても居られないようだった。
「キャンパスでコケてしまって……運悪く階段から落ちて骨を折ってしまいました」
「そんなぁ……本当に突き飛ばされたとか、そういうことはなかったの?」
私の言葉足らずな説明に心配そうに早口になる華鈴さん。
ミスコンで有名になってしまった私のことを気遣ってくれているんだろう。
確かに悪戯半分で視覚障がい者を突き飛ばす危ない行為に及ぶ人は一定数いる。大体が明確な悪意などなく八つ当たりのようなものだが、私も少なからず駅の構内などで経験があるだけに、華鈴さんが私の怪我を見て確認を取るのは真っ当なことだった。
「ないですよ、心配し過ぎです。
こんな時に怪我をしてしまったのは残念ですけど、本当に私の不注意ですから……」
心配をかけ過ぎないよう、出来るだけ明るい声色で説明する私。
マフラーを椅子に掛けて、右側に置かれた水の入ったグラスを手に持ち、いつもの席にいることを確かめて心を落ち着かせた。
「それでも心配よ。せっかくたくさん練習をしてきたのに」
「はい、本当にすみません。チラシまで作って宣伝してくれていたのに。
華鈴さんとのセッション、楽しみにしていましたけど、この腕なので演奏は出来ません。それを伝えたくてここまで来ました」
もう何カ月も前から少しずつクリスマス演奏会に向けて準備は着実に進めてきた。
しかし、この左腕の状態ではピアノを満足に演奏できるはずがない。
何度も華鈴さんのフルートと合わせて楽しい本番の演奏を心待ちにしていたが、それはもう叶わない願いとなった。
「私も残念よ……来年もあるから落ち込まずにゆっくり治していきましょう。往人君にも伝えておくわ。注文は何にしましょう?」
心を痛めたまま、何とか元気づけようと華鈴さんはしてくれている。
そのことが私は痛いくらいによく分かった。
「あぁ……それじゃあ、クリームシチューをください。
一人で食べられますから」
華鈴さんの明るさと往人さんの優しさにはいつも助けられている。だからこの場所は私にとって暖かくて心地いいのだ。そのことを感じながら、私はクリームシチューを注文した。
ショパンのメロディーに耳をすませながら注文が届くのを待つ。
夕食時の店内は閉店時間が近いこともあってまばらで穏やかな時間だった。
「お待たせしました。ご注文のクリームシチューをお持ちしました。バゲットと一緒にお召し上がりください」
「ありがとう、往人さん……」
こういう寂しい時に聞きたくなる往人さんの声だ。私を心配して自ら注文を持ってきてくれた。いつもみたいに華鈴さんから一言二言吹っ掛けられているのかもしれないけど、丁寧な言葉でお店に来た私を歓迎してくれている。
じっくり煮込んだ上品で豊かな香りとチーズの香りが目の前に置かれたお皿から湯気と共に漂ってくる。寒い季節には実にちょうどいい一皿だ。
「大丈夫なのか?」
「うん、全治三か月って言われちゃった、でもすぐに元気になるよ。ちょっと苦い思い出が増えちゃったけど」
「三か月はすぐじゃねぇよ。はぁ……これを食べて元気出せよ」
ギブスと包帯を着けた左腕をさすりながら答えると、こそばゆい感覚がした。
私の言葉を聞いて、静かに往人さんが厨房へと消えていく。
まだ、傍に往人さんがいるような感覚が残ったままスプーンで掬い口の中にクリームシチューを含んだ。
丁寧に煮込まれた柔らかい具材とチーズのまろやかさなコクと旨味が溶け出したシチューが冷えた身体に染み渡っていく。
バケットサイズに切り取られたフランスパンも片手で食べやすく、シチューに付けて食べるとさらに美味しい味わいが口いっぱいに広がっていった。
往人さんの……暖かい気持ちを料理という形で味わい、優しく溶けるように
心に負った瘡蓋が剝がれていく。
美味しいシチューの味わいは往人さんが大切だと言っていたお母さんの味わいのようにも感じた。
暖かな家族の触れ合い……そんな想像まで始めてしまった私は必死に涙を堪えそうと我慢をしていたのに、手の震えでスプーンが上手に使えなくなった。
「大丈夫だよ……大丈夫……きっといつか分かり合えるから。
そんなに心配しないで……」
自分の心の内に言い聞かせるように小さく声を漏らす。
”本当に郁恵はハッピーエンドじゃないと納得できないんだから”
唐突に頭の中で声が響いた。病室で聞いた懐かしい真美の声。
今も私の深淵奥深くで息づく魂の声。悲しい顔をしていると親友の真美は心配になって声を掛けてくれる。
だから……私は真美を心配させないよう、無理やり笑顔を浮かべた。
「こんなに美味しいシチュー、涙で汚したらダメだよね……真美」
遠い空の向こうに届くかは分からないが真美に伝えると、私は瞳に滲んでくる涙を拭い、クリームシチューをまた一口食べた。
完食するまでの間、往人さんが心配そうにじっと私のことを覗いてるような気がした。
楽しみにしていたクリスマス演奏会は中止になり、ロマンチックな甘い展開一つないまま、寮室で恵美ちゃんや静江さんとクリスマスを過ごすことになった。
華鈴さんが用意してくれた少しスカートが短くて恥ずかしいクリスマスサンタ衣装の出番はきっと来年になることだろう……。
その頃にはまた元気で迎えられますように、私は来年こそは頑張って練習してクリスマス演奏会を迎えようと胸に誓った。
夕方になった頃、空腹に耐えかねた私は華鈴さんに報告しなければならない事もあるため、何とか身体を起こして喫茶さきがけへと向かった。
冷たい風が吹き、身体が冷えてしまうのを抑えようと半分顔を隠すようにマフラーを巻き、クリスマスムードに飾り付けが施される商店街の中を歩いて行く。
革製のブーツで踏み締める地面は冷たく、水に濡れると一層滑りやすくなるので、私はリードを強く握り慎重に歩いた。
これ以上、怪我はしたくない。ギブスで固定しているせいで左手が上手く使えないため、壁に手を掛けることも出来ないので、慎重を期して歩いた。
何とか喫茶さきがけまで辿り着き、扉を開くと暖かい空気と香ばしいコーヒーの香りが漂ってくる。我が家に帰って来たような心地になり、私はいつもの席に向かって歩いた。
今日は店内BGMにショパンを掛けてくれている。それだけのことで、私は傷ついた心が和らいでいった。
「郁恵さん……!! どうしたの……その怪我」
私がテーブルに着いたところで異変に気付いた華鈴さんが慌てて駆けつけてくれる。
椅子を引いて、自然な動作で手を差し伸べて座らせてくれるが、負傷した私の左腕が気になってしまい居ても立っても居られないようだった。
「キャンパスでコケてしまって……運悪く階段から落ちて骨を折ってしまいました」
「そんなぁ……本当に突き飛ばされたとか、そういうことはなかったの?」
私の言葉足らずな説明に心配そうに早口になる華鈴さん。
ミスコンで有名になってしまった私のことを気遣ってくれているんだろう。
確かに悪戯半分で視覚障がい者を突き飛ばす危ない行為に及ぶ人は一定数いる。大体が明確な悪意などなく八つ当たりのようなものだが、私も少なからず駅の構内などで経験があるだけに、華鈴さんが私の怪我を見て確認を取るのは真っ当なことだった。
「ないですよ、心配し過ぎです。
こんな時に怪我をしてしまったのは残念ですけど、本当に私の不注意ですから……」
心配をかけ過ぎないよう、出来るだけ明るい声色で説明する私。
マフラーを椅子に掛けて、右側に置かれた水の入ったグラスを手に持ち、いつもの席にいることを確かめて心を落ち着かせた。
「それでも心配よ。せっかくたくさん練習をしてきたのに」
「はい、本当にすみません。チラシまで作って宣伝してくれていたのに。
華鈴さんとのセッション、楽しみにしていましたけど、この腕なので演奏は出来ません。それを伝えたくてここまで来ました」
もう何カ月も前から少しずつクリスマス演奏会に向けて準備は着実に進めてきた。
しかし、この左腕の状態ではピアノを満足に演奏できるはずがない。
何度も華鈴さんのフルートと合わせて楽しい本番の演奏を心待ちにしていたが、それはもう叶わない願いとなった。
「私も残念よ……来年もあるから落ち込まずにゆっくり治していきましょう。往人君にも伝えておくわ。注文は何にしましょう?」
心を痛めたまま、何とか元気づけようと華鈴さんはしてくれている。
そのことが私は痛いくらいによく分かった。
「あぁ……それじゃあ、クリームシチューをください。
一人で食べられますから」
華鈴さんの明るさと往人さんの優しさにはいつも助けられている。だからこの場所は私にとって暖かくて心地いいのだ。そのことを感じながら、私はクリームシチューを注文した。
ショパンのメロディーに耳をすませながら注文が届くのを待つ。
夕食時の店内は閉店時間が近いこともあってまばらで穏やかな時間だった。
「お待たせしました。ご注文のクリームシチューをお持ちしました。バゲットと一緒にお召し上がりください」
「ありがとう、往人さん……」
こういう寂しい時に聞きたくなる往人さんの声だ。私を心配して自ら注文を持ってきてくれた。いつもみたいに華鈴さんから一言二言吹っ掛けられているのかもしれないけど、丁寧な言葉でお店に来た私を歓迎してくれている。
じっくり煮込んだ上品で豊かな香りとチーズの香りが目の前に置かれたお皿から湯気と共に漂ってくる。寒い季節には実にちょうどいい一皿だ。
「大丈夫なのか?」
「うん、全治三か月って言われちゃった、でもすぐに元気になるよ。ちょっと苦い思い出が増えちゃったけど」
「三か月はすぐじゃねぇよ。はぁ……これを食べて元気出せよ」
ギブスと包帯を着けた左腕をさすりながら答えると、こそばゆい感覚がした。
私の言葉を聞いて、静かに往人さんが厨房へと消えていく。
まだ、傍に往人さんがいるような感覚が残ったままスプーンで掬い口の中にクリームシチューを含んだ。
丁寧に煮込まれた柔らかい具材とチーズのまろやかさなコクと旨味が溶け出したシチューが冷えた身体に染み渡っていく。
バケットサイズに切り取られたフランスパンも片手で食べやすく、シチューに付けて食べるとさらに美味しい味わいが口いっぱいに広がっていった。
往人さんの……暖かい気持ちを料理という形で味わい、優しく溶けるように
心に負った瘡蓋が剝がれていく。
美味しいシチューの味わいは往人さんが大切だと言っていたお母さんの味わいのようにも感じた。
暖かな家族の触れ合い……そんな想像まで始めてしまった私は必死に涙を堪えそうと我慢をしていたのに、手の震えでスプーンが上手に使えなくなった。
「大丈夫だよ……大丈夫……きっといつか分かり合えるから。
そんなに心配しないで……」
自分の心の内に言い聞かせるように小さく声を漏らす。
”本当に郁恵はハッピーエンドじゃないと納得できないんだから”
唐突に頭の中で声が響いた。病室で聞いた懐かしい真美の声。
今も私の深淵奥深くで息づく魂の声。悲しい顔をしていると親友の真美は心配になって声を掛けてくれる。
だから……私は真美を心配させないよう、無理やり笑顔を浮かべた。
「こんなに美味しいシチュー、涙で汚したらダメだよね……真美」
遠い空の向こうに届くかは分からないが真美に伝えると、私は瞳に滲んでくる涙を拭い、クリームシチューをまた一口食べた。
完食するまでの間、往人さんが心配そうにじっと私のことを覗いてるような気がした。
楽しみにしていたクリスマス演奏会は中止になり、ロマンチックな甘い展開一つないまま、寮室で恵美ちゃんや静江さんとクリスマスを過ごすことになった。
華鈴さんが用意してくれた少しスカートが短くて恥ずかしいクリスマスサンタ衣装の出番はきっと来年になることだろう……。
その頃にはまた元気で迎えられますように、私は来年こそは頑張って練習してクリスマス演奏会を迎えようと胸に誓った。
0
あなたにおすすめの小説
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
Lucia(ルシア)変容者たち
おまつり
恋愛
人は、ときに自分の中に「もう一人の自分」を抱えて生きている。
それがもし、感情の揺らぎや、誰かとの触れ合いによって、男女の姿を入れ替える存在だったとしたら――。
カフェ『リベラ』を営むリアと、雑誌編集者の蓮。
二人は、特定の感情を抱くと性別が変わる「性別変容者」だった。
誰にも明かせない秘密を抱えながら生きてきた彼らは、互いの存在に出会い、初めて“同類”として心を通わせていく。
愛が深まるほど、境界は曖昧になる。
身体と心の輪郭は揺らぎ、「自分とは何者なのか」という問いが、静かに迫ってくる。
一方、過去に囚われ、自分自身を強く否定し続けてきたウェディングプランナー・景子と、まっすぐすぎるほど不器用な看護学生・ユウ。
彼らもまた、変容者として「変わること」と「失うこと」の狭間で、避けられない選択を迫られていく。
これは、誰の記憶にも残らないかもしれない“もう一人の自分”と共に生きながら、
それでも確かに残る愛を探し続けた人々の、静かなヒューマンドラマ。
※毎日20時に1章ずつ更新していく予定です。
お前が愛おしい〜カリスマ美容師の純愛
ラヴ KAZU
恋愛
涼風 凛は過去の恋愛にトラウマがあり、一歩踏み出す勇気が無い。
社長や御曹司とは、二度と恋はしないと決めている。
玉森 廉は玉森コーポレーション御曹司で親の決めたフィアンセがいるが、自分の結婚相手は自分で決めると反抗している。
そんな二人が恋に落ちる。
廉は社長である事を凛に内緒でアタックを開始するが、その事がバレて、凛は距離を置こうとするが・・・
あれから十年、凛は最悪の過去をいまだに引き摺って恋愛に臆病になっている。
そんな凛の前に現れたのが、カリスマ美容師大和颯、凛はある日スマホを拾った、そのスマホの持ち主が颯だった。
二人は惹かれあい恋に落ちた。しかし凛は素直になれない、そんなある日颯からドライブに誘われる、「紹介したい人がいるんだ」そして車から降りてきたのは大和 祐、颯の息子だった。
祐は颯の本当の息子ではない、そして颯にも秘密があった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる