神様のボートの上で

shiori

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第五話「決意の言葉は」2

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 正直なところ身体が入れ替われる力なんて半信半疑だった。
 
 でも、学校に復帰してしばらくしたその時にはもう自暴自棄になっていて、やけくそになっていた。
 話しを聞かされても、まだ半信半疑のままで、彼に自分からぶつかっていき新島俊貴の身体に入れ替わった時、そんな力が本当にあると知って驚いたものだ。

 彼よりも先に目が覚めたから、一人になって冷静に考えることが出来たけど、これが逆だったらまったく違った今があったのかもしれない。

 進藤ちづるとして生きることを辞めることに未練はなかった。でも、一度奇跡的に助けられた命、それを簡単に投げ出す勇気はなかった。


 新島俊貴の家に行ったとき、どれだけ自分が満たされていない空っぽの中を生きていたのか分かった。
 家庭という環境に絶望にしていた私、そこには私が欲していたすべてがあった。

 新島家は父親も母親も怖いところもあるけれど愛情があってちゃんと私と向き合ってくれていた。弟と妹はやんちゃで可愛くて、兄弟のいない私にはそれはとてもかけがえないものに思えた。
 
 パズルの欠けてしまった私の家族と違って、この家族は足りないピースのない完成されたもので、その安定したバランスは私にとって理想に近いものであった。
 
 そして、一般的な価値観と比較しながらも、それを普通といえるほど、私は幸福ではなかった。

 それは特別眩しく映って、もう心の中がどす黒いものに覆いつくされた私にはそれは眩しすぎて、上手に笑うことができなくて、息苦しかった。

 自分がここにいるだけで黒く汚してしまっているのではないかという感覚、上手に言葉を合わせることも出来ない弱さ。そんなもので私は支配されていた。

 眩しいものにやられて意識を失うように思い出した過去の記憶の中でわたしは・・・、

”いたい・・・、いたい・・・、苦しい・・・”

 どす黒いもの、憎しみの火がライターの火となって写真を燃やす。私は泣きじゃくりながら薄気味悪い笑みを浮かべて

”消えろ消えろ・・・、燃えろ燃えろ”

 と真夜中の公園のベンチで一人呟いていた。

 意識が現実に戻ると、心配そうに見つめる新島家の家族の姿があり、どうしようもなく枯れたはずの涙が止まらなくて、”大丈夫?”と本気で心配される家族の声に耐えられなくて、私は家を飛び出した。

 私はもう人間には戻れない、もう心が醜悪なほどに壊れているんだと知った時、私は柚季にすがった。柚季は優しく私を許してくれた、そして猫の身体を譲ってくれた。

 私は臆病で意気地なしで人でなしだ、もう自分の気持ちを上手に伝えることもできない、壊してしまうのが怖かった、私は上手に新島俊貴を演じられる自信はない、もう心底生きることに疲れてしまったから。

 だから柚季に泣きついて、人でいることを辞めていくしかなかった。



 久々に聞いた父の声、それを聞いても今更怒りも悲しみもなかった。あの頃は随分嫌気がさしていたけど、猫の姿になった今では、もうそれも遠い過去のようであった。

 単なる興味本位だと思っていたけど期待以上だった、ちょっと私も意地悪が過ぎたかもしれない。

 彼は私の記憶がないというのにうまく進藤ちづるを演じている。それは想定外もいいところだ。すぐに私に泣きついてきて身体を返してくれと言ってくると思っていた。

 私は父との面会をずっとバッグの中で聞いていた。猫が入るには広いスペースではないが窮屈とも言ってられない。それでも無理やりついてきた甲斐はあった。父が今の進藤ちづるが偽物であることに気付かなかったのは、新島君がそれだけ進藤ちづるの身体に順応してきたということだろう。


”新島俊貴は私以上にうまく進藤ちづるを演じている”、それが私の実感だった。

 私にはここまでできなかっただろう、心が枯れてしまった自分に父のことを信じてあげることなんて・・・。
 それは茨の道だ、他に味方してくれる人なんていない、この父にとって絶望的な今の状況で出来ることが何かあるなんて、私はそんなこと考えたこともなかった。

 建物を出てすぐバッグが開かれる、私は勢いよくバッグから飛び出した。

「わぁ!猫!ってちづるか」

 私は猫らしく”ニャー”と答えた。

「いつの間に付いてきてたんだよ・・・」

 ビックリしたのと呆れ果てているのと織り交ざった反応で新島君は答えた。

「まぁどうせなら家までついて来いよ、聞きたいこともあるし」

 男言葉に戻ってる・・・、今はいちいち注意しなくていいか、私は後ろをちょこちょこと付いていった。

「面会中に何かバッグから物音がすると思ってたけど、こっそり付いてきてるなんてな・・・、オコジョでも忍び込んだかと思ったぞ・・・」

 見当違いのことを言い出して、ツッコミを入れたくなったが、私はグッと我慢した。



 ポツポツと降る通り雨で身体を濡らしながら歩く。
 梅雨特有のお天気雨と言ったところだろうか。

 あの日もこんな雨だった気がする。あの時は一人だったからまるで気持ちの持ちようが違うのだけど、こんな風に突然降ってきた記憶が残っている。

「こんな時に雨だなんて、傘もないのにツイてないや。
 仕方ない、家までダッシュするぞ、ちづる」

 猫の姿の私は、なんとか新島君に付いて行く、バックに入れて家まで連れ帰ってくれたらいいのに、そういうところは気が回らないんだから。
 
 進藤家に到着して、びしょ濡れのままでもいけないので、恥ずかしいけど一緒にお風呂に入って、ドライヤーで乾かしてもらって部屋に戻ってきた。外はもう真っ暗で雨の音だけが部屋に響いた。

 猫の身体とはいえ触れられるとこそばゆい気持ちになる。ずっと鏡で見てきた自分が目の前にいて、その手が私の身体を触れてくるなんて不思議な気分だ。
 鏡で見ていたころはそれは自分自身だったはずなのに、それが段々と自分から離れていくような感覚、自分ではなくなっていくような違和感も含めた妙な感覚。
 この何を考えているのかまるで自分のことが分からないような不思議な感覚はどう表現すればいいのか困った。

「ニャーニャー言ってないでそろそろ教えてほしいんだけど」

 部屋に戻ってしばらくして新島君が耐えかねて言った。私のご所望通り、女の子座りする膝で丸くなって身体を優しくマッサージするように撫でてもらっている。

「猫なんだからニャーニャー言っててもいいじゃない」

「あまりにもくつろぎ過ぎだろう・・・」

「ここは私の部屋、私の身体なんだから、そういう日もあっていいでしょ。いろいろ考えてばっかりだと疲れちゃうんだから」

「猫になったら悩みも何もないだろう・・・」

「デリケートなのよ、女心っていうのは」

「そうですか・・・」

 こうしてゴロゴロするのもたまにはいい、こうして自分の身体を眺めるのは不思議だけど、この膝の上は極楽なのにゃ。これでは独占欲が溢れて欲望のままに近寄ってくる男どもを許せなくなりそうだ。

「父親のことなんだが、知っていることを教えてほしい」

「なにを考えているか知らないけど、面白い話じゃないわよ」

 私は冷たく告げた、それでも新島君は知りたいようだ。本当に事件に首を突っ込むつもりなのか、私は真剣な表情に押されて話すことにした。
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