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視線の交錯
あの日の言葉以来、俺は少しずつ、いや、思い切って早川さんを目で追いかけるようになった。誰よりも見ていた。そう思っていた。
朝のホームルーム前、早川さんは必ず窓際の席で文庫本を読んでいる。昼休みは図書室。放課後は時々、あの生物室。俺は彼女の行動パターンを自然と把握していた。
ストーカーみたいだと自分でも思う。でも、やめられなかった。
早川さんが教室に入ってくる瞬間。廊下を歩く後ろ姿。授業中にノートを取る横顔。全部、目に焼き付いていた。
「中井、最近ぼーっとしてること多くね?」
ある日の昼休み、田中が肘で俺を小突いた。
「そう?」
「そう。まあ、元からぼーっとしてたけど、なんか質が違うっていうか。恋でもしてんの?」
ドキッとした。顔に出ていたかもしれない。
「してないよ」
「ふーん。まあいいけど」
田中は興味を失ったように自分の弁当に戻った。
でも、俺の心臓はまだ早鐘を打っていた。バレてる?いや、田中は早川さんの方を見ていなかった。たぶん、大丈夫だ。
ある日の放課後、俺はいつものように生物室に向かった。水槽を見る口実で、早川さんに会えるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて。
でも、生物室には別の人がいた。
「あ、中井」
藤原だった。水槽の前に立って、金魚を見ている。
「藤原、お前こんなところで何してんの」
意外だった。藤原は放課後、いつも誰かと遊んでいるイメージがあった。
「何してるって、見てりゃわかるだろ。金魚見てんだよ」
藤原は振り返らずに言った。いつもの軽い感じじゃない。どこか重たい声だった。
「お前、ここよく来んの?」
「まあ、たまに」
「そっか」
藤原は水槽に顔を近づけた。
「なあ、中井」
「ん?」
「お前さ……」
藤原が何か言いかけて、やめた。
沈黙が流れる。
「なんでもない。忘れて」
「そう」
気まずい空気が流れた。
「じゃあな」
藤原は生物室を出て行った。いつもの明るさはなかった。
何があったんだろう。でも、深く考える前に、廊下から声が聞こえた。
「あ、中井くん」
早川さんだった。
「また金魚見てたの?」
「うん、まあ」
「私も見ていい?」
「もちろん」
早川さんが生物室に入ってきた。
二人で水槽を見る。この瞬間が、俺は好きだった。
「ねえ、中井くん。この前の話、覚えてる?」
「金魚と鳥籠の?」
「うん。あれからずっと考えてたんだけど」
早川さんは水槽を見つめたまま続けた。
「たぶん、どっちでもないんだと思う」
「え?」
「金魚でも鳥でもなくて。人間は人間だから。自分で選べるんだよ、水槽に入るか、鳥籠に入るか、それとも外に出るか」
「選べる、か」
「うん。怖いけどね」
早川さんの横顔が、少し寂しそうに見えた。
「何か、あった?」
思わず聞いていた。
「え?」
「いや、なんか元気ないなって」
早川さんは少し驚いた顔をした。それから、小さく笑った。
「中井くん、意外と人のこと見てるんだね」
「そんなことない」
「いや、見てるよ。私、気づいてた」
心臓が跳ねた。
「中井くん、最近よく私のこと見てるでしょ」
否定できなかった。
「ごめん」
「謝らなくていいよ。嫌じゃないから」
嫌じゃない。その言葉に、胸が熱くなった。
「でも、私、あんまり見られる価値ないと思うよ」
「そんなことない」
即座に否定していた。
早川さんは驚いたように俺を見た。
「中井くん……」
「早川さんは、すごいと思う。いつも一人で本読んでて、自分の世界持ってて。俺なんか、何も持ってないから」
「そんなことない。中井くんは優しいよ」
「優しいだけじゃ、何もできない」
「それでもいいと思う」
早川さんは微笑んだ。でも、その笑顔はどこか悲しかった。
「ねえ、中井くん。もし私が困ってたら、助けてくれる?」
「もちろん」
「本当に?」
「本当」
早川さんは少し考えて、それから言った。
「ありがとう。覚えておくね」
それだけ言うと、早川さんは図書室に戻っていった。
俺は生物室に残された。
早川さんの言葉が、引っかかっていた。
「もし私が困ってたら」
何か、あるんだろうか。
でも、聞けなかった。
俺には、その資格がない気がした。
水槽を見た。金魚が泳いでいる。
相変わらず、何も知らない顔で。
その夜、ベッドで天井を見つめながら考えた。
早川さんを助けるって、何ができるんだろう。
俺に、何ができる?
答えは出なかった。
でも、もし何かあったら。
その時は、きっと。
そう思いながら、眠りについた。
翌日、学校に行くと、藤原が早川さんと話しているのを見た。
廊下で。二人きりで。
藤原が何か言って、早川さんが頷いている。
俺は、その場から動けなかった。
見ているだけ。
いつものように。
何もできない。
藤原が去って、早川さんが一人になった。
俺は声をかけようとした。
でも、早川さんは俯いていた。
表情が見えない。
結局、声をかけられなかった。
教室に戻ると、田中が言った。
「なあ、藤原と早川って付き合ってんのかな」
「え?」
「だって、最近よく二人でいるじゃん」
そうだったのか。俺は、早川さんばかり見ていて、藤原のことは見ていなかった。
「知らない」
「まあ、お似合いだけどな。藤原イケメンだし、早川も美人だし」
田中の言葉が、胸に刺さった。
お似合い。
確かに。
俺みたいなやつより、藤原の方がずっと。
その日の放課後、生物室には行かなかった。
行けなかった。
早川さんと藤原が、そこにいるかもしれない。
そう思うと、足が動かなかった。
まっすぐ家に帰った。
誰もいない家で、一人、ベッドに横になった。
スマホを見る。
誰からも連絡はない。
当たり前だ。
俺は誰の人生にも、必要ない。
透明人間。
ただの、観察者。
金魚を見る人間。
でも、金魚にすらなれない。
何者でもない。
そんな俺が、早川さんを好きになるなんて。
おこがましい。
そう思いながら、目を閉じた。
でも、早川さんの顔が浮かんでくる。
「もし私が困ってたら、助けてくれる?」
あの言葉が、頭の中でリフレインする。
助けたい。
でも、どうやって。
答えは、出なかった。
朝のホームルーム前、早川さんは必ず窓際の席で文庫本を読んでいる。昼休みは図書室。放課後は時々、あの生物室。俺は彼女の行動パターンを自然と把握していた。
ストーカーみたいだと自分でも思う。でも、やめられなかった。
早川さんが教室に入ってくる瞬間。廊下を歩く後ろ姿。授業中にノートを取る横顔。全部、目に焼き付いていた。
「中井、最近ぼーっとしてること多くね?」
ある日の昼休み、田中が肘で俺を小突いた。
「そう?」
「そう。まあ、元からぼーっとしてたけど、なんか質が違うっていうか。恋でもしてんの?」
ドキッとした。顔に出ていたかもしれない。
「してないよ」
「ふーん。まあいいけど」
田中は興味を失ったように自分の弁当に戻った。
でも、俺の心臓はまだ早鐘を打っていた。バレてる?いや、田中は早川さんの方を見ていなかった。たぶん、大丈夫だ。
ある日の放課後、俺はいつものように生物室に向かった。水槽を見る口実で、早川さんに会えるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて。
でも、生物室には別の人がいた。
「あ、中井」
藤原だった。水槽の前に立って、金魚を見ている。
「藤原、お前こんなところで何してんの」
意外だった。藤原は放課後、いつも誰かと遊んでいるイメージがあった。
「何してるって、見てりゃわかるだろ。金魚見てんだよ」
藤原は振り返らずに言った。いつもの軽い感じじゃない。どこか重たい声だった。
「お前、ここよく来んの?」
「まあ、たまに」
「そっか」
藤原は水槽に顔を近づけた。
「なあ、中井」
「ん?」
「お前さ……」
藤原が何か言いかけて、やめた。
沈黙が流れる。
「なんでもない。忘れて」
「そう」
気まずい空気が流れた。
「じゃあな」
藤原は生物室を出て行った。いつもの明るさはなかった。
何があったんだろう。でも、深く考える前に、廊下から声が聞こえた。
「あ、中井くん」
早川さんだった。
「また金魚見てたの?」
「うん、まあ」
「私も見ていい?」
「もちろん」
早川さんが生物室に入ってきた。
二人で水槽を見る。この瞬間が、俺は好きだった。
「ねえ、中井くん。この前の話、覚えてる?」
「金魚と鳥籠の?」
「うん。あれからずっと考えてたんだけど」
早川さんは水槽を見つめたまま続けた。
「たぶん、どっちでもないんだと思う」
「え?」
「金魚でも鳥でもなくて。人間は人間だから。自分で選べるんだよ、水槽に入るか、鳥籠に入るか、それとも外に出るか」
「選べる、か」
「うん。怖いけどね」
早川さんの横顔が、少し寂しそうに見えた。
「何か、あった?」
思わず聞いていた。
「え?」
「いや、なんか元気ないなって」
早川さんは少し驚いた顔をした。それから、小さく笑った。
「中井くん、意外と人のこと見てるんだね」
「そんなことない」
「いや、見てるよ。私、気づいてた」
心臓が跳ねた。
「中井くん、最近よく私のこと見てるでしょ」
否定できなかった。
「ごめん」
「謝らなくていいよ。嫌じゃないから」
嫌じゃない。その言葉に、胸が熱くなった。
「でも、私、あんまり見られる価値ないと思うよ」
「そんなことない」
即座に否定していた。
早川さんは驚いたように俺を見た。
「中井くん……」
「早川さんは、すごいと思う。いつも一人で本読んでて、自分の世界持ってて。俺なんか、何も持ってないから」
「そんなことない。中井くんは優しいよ」
「優しいだけじゃ、何もできない」
「それでもいいと思う」
早川さんは微笑んだ。でも、その笑顔はどこか悲しかった。
「ねえ、中井くん。もし私が困ってたら、助けてくれる?」
「もちろん」
「本当に?」
「本当」
早川さんは少し考えて、それから言った。
「ありがとう。覚えておくね」
それだけ言うと、早川さんは図書室に戻っていった。
俺は生物室に残された。
早川さんの言葉が、引っかかっていた。
「もし私が困ってたら」
何か、あるんだろうか。
でも、聞けなかった。
俺には、その資格がない気がした。
水槽を見た。金魚が泳いでいる。
相変わらず、何も知らない顔で。
その夜、ベッドで天井を見つめながら考えた。
早川さんを助けるって、何ができるんだろう。
俺に、何ができる?
答えは出なかった。
でも、もし何かあったら。
その時は、きっと。
そう思いながら、眠りについた。
翌日、学校に行くと、藤原が早川さんと話しているのを見た。
廊下で。二人きりで。
藤原が何か言って、早川さんが頷いている。
俺は、その場から動けなかった。
見ているだけ。
いつものように。
何もできない。
藤原が去って、早川さんが一人になった。
俺は声をかけようとした。
でも、早川さんは俯いていた。
表情が見えない。
結局、声をかけられなかった。
教室に戻ると、田中が言った。
「なあ、藤原と早川って付き合ってんのかな」
「え?」
「だって、最近よく二人でいるじゃん」
そうだったのか。俺は、早川さんばかり見ていて、藤原のことは見ていなかった。
「知らない」
「まあ、お似合いだけどな。藤原イケメンだし、早川も美人だし」
田中の言葉が、胸に刺さった。
お似合い。
確かに。
俺みたいなやつより、藤原の方がずっと。
その日の放課後、生物室には行かなかった。
行けなかった。
早川さんと藤原が、そこにいるかもしれない。
そう思うと、足が動かなかった。
まっすぐ家に帰った。
誰もいない家で、一人、ベッドに横になった。
スマホを見る。
誰からも連絡はない。
当たり前だ。
俺は誰の人生にも、必要ない。
透明人間。
ただの、観察者。
金魚を見る人間。
でも、金魚にすらなれない。
何者でもない。
そんな俺が、早川さんを好きになるなんて。
おこがましい。
そう思いながら、目を閉じた。
でも、早川さんの顔が浮かんでくる。
「もし私が困ってたら、助けてくれる?」
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でも、どうやって。
答えは、出なかった。
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