想い出に変わるまで

豆ちよこ

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中川和真

どんな愛の言葉よりも

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 吹き込む風に秋の気配を感じるようになった。その風に乗って嗅ぎ慣れた煙草の香りが混じってる。
 
「……ったく。また窓開けっ放しにして」

 だらしのない同居人の背中を呆れて見やれば溜め息しか出てこない。
 今朝も始発で帰って来たんだろう。昨日と同じシャツを着てベランダで美味そうに紫煙を燻らしている。
 ……それはまぁ、いいとして。

「おい……どうしてパンツ一丁なんだよ!」
「お、和真。おはよー」

「そーゆうだらしない格好で外に出るなと、何度言えばわかるんだ!」
「ええ……。べっつにいいだろう。上はちゃんと着てるんだし、通りからは見えないぞー」

 そーゆう問題じゃない!
 
「窓を開けっ放しで煙草を吸うな!臭い!」
「ん…? あぁ、そりゃ。悪かった」

 う………。くそっ!
 そう素直に謝られたらもう文句が言えないじゃないか。
 咥え煙草で片目を眇めながらその同居人、氏家康成は窓を閉めた。こちらに向ってひらひらと手を振ってニヤリと笑う。それから背中を向け、外界を見下ろしながら煙を吐き出した。
 今更遅いんだよ。…部屋の中にその匂いが残ってるんだ。
 
 どうせなら煙草を捨てて、部屋に戻って来たらいいのに…。
 透明な窓ガラスの向こうとこちら。距離は3メートルも無い筈なのに、まるで世界を別けられたように感じる。
 おれはどうも目の前で扉が閉まる事が苦手だ。………いつかの別れを思い出させるからかも知れない。

 目の前で閉まったドア。
 階段を降りていく足音。
 取り残された独りぼっちの部屋。
 今でも鮮明に思い出す。
 
 まだ二十歳を過ぎたばかりの頃の青臭い記憶。
 あれからもう7年が過ぎた。

 最初こそ失くした恋に絶望しかなかったけれど、今となってはいい想い出だ。
 あの頃のおれに教えてやりたい。お前の選択は間違ってはいなかった…と。

 それを裏付けるような出来事がほんのつい先日にあった。
 奇跡的な再会。まさかまた彼に…、雄大に出会えるとは夢にも思っていなかった。

 たまたま居合わせた店のカウンター。
 3つ空けた席から聞こえた声。
 一気に時が遡り懐かしさとほんの少しの苦さが蘇り、落ち着かない気持ちになった。

 互いに相手を認識し合うには時間が経ち過ぎていた。かと言ってわざと知らんぷり出来るほどの蟠りはもう無い。
 
 もう…おれの事は忘れただろうか。それとも少しくらいは、記憶の片隅にでも残っているのかな。
 2つ空いた席。これが今のおれと雄大の距離。隣同士。遠くは無いけど近くも無い。別れた元恋人との距離感に、ホッとするような少し物足りないような…妙な気分だった。

 時間という薬は良く効いた。
 新しい人達との出会いも、おれの傷口を塞ぐ絆創膏代わりになってもくれた。

 雄大と別れ部屋を引き払い、知り合った惣菜屋店主の江木さんに拾われ、その店“わかば”で働き始めた。
 何もかも中途半端なおれを、江木さんとその娘さんの若葉ちゃんが二人して、時に励まし時に叱咤してくれた。
 店にやって来る常連のお客さん達も温かくおれを受け入れてくれ、少しづつだけど前を向いて歩くことを教えられたんだ。
 
 あそこには感謝しかない。

 本当の家族には見向きもされず、放置子だったせいか人付き合いというものが苦手だったおれを、優しく包んでくれたのが雄大だった。
 その優しさに何時の間にか胡座をかいていたんだろうな。
 本音を伝えるのが怖くって上っ面だけいい顔をして取り繕ってたおれに、雄大は疲れたんだろう。おれもガキだったが雄大だってまだ子供だったんだ。会社勤めを始めたばかりでストレスだってあった筈だ。

 結局、雄大には何もしてやれなかったな。

 そんな後悔ばかりのおれの背中を、グイグイ押して歩かせてくれたのが“わかば”の皆だ。
 あの惣菜屋をモデルにした下町人情の物語。ずっと成りたかった物書きとしての礎をあそこで書き上げた。

 今じゃ『先生』なんて呼ばれてる。
 
 人間変われば変わるもんだな。
 あんなに苦手だった人付き合いも、そこそこ卒なく熟すようになったし、本音で文句を言える相手も出来た。

 ……最近は文句しか言ってない気がするけど。

 ガラス越しの背中に向って思いっ切り「いーーっ!」と歯を剥いた。
 その気配を感じ取った……かはわからないが、不意にこちらを向いた氏家と目が合ってしまった。
 吹き出したように笑われてバツが悪い。タイミング最悪なんだよ!

 その氏家が窓越しにちょいちょいと手招きしてきた。まだ指には煙草を挟んだままだ。……窓は開けないぞ。

「……なに?」

 防音対策のされた強化ガラス越し。こちらの声もあちらの声も届かない。仕方無く口パクで会話を始める。……まったく。これが三十路男のやる事かな。

「…え? なに?」

 もっと大きく口を開けろよ。何が言いたいのかさっぱりだ。

「わからないよ」

 朝の7時を過ぎたこの時間。このファミリー向けマンションの事だ。何処かのベランダで洗濯物を干している奥様もいるだろう。さすがの氏家も大声は出し辛かろう。バカめ。だからさっさと煙草を消せばいいのに。

 こちらの考えが伝わったのか、今度はゆっくりと大きく口を動かした。

「ん? ……あ、…と、…て?」

 後…で?
 うんうん。

「…い? …す、?」

 いす?
 え? 意味がわからん。

「さ、…せ、………っ!」

 パチンと片目を瞑った氏家が徐ろに投げキッスしてきた。

『後で キス させろ』

 氏家の口の動きとジェスチャーがそう語り、おれを指差しその後に自身のパンツの膨らみを指差した。

「ば………っ! バッカじゃねぇの!!」

 下品極まりないニヤケ面でこちらを見ているパン一男を閉め出す為に、窓に鍵をかけカーテンもしっかり閉じた。

「ふざけやがってっ、あのスケベジジイ!!!」

 窓をドンドン叩く音が鳴り響くリビングで、おれは暫くの間羞恥と怒りに苛まれた。
 清々しい朝にとんでもない下ネタをかましてきた氏家は、その後おれのスマホのメッセージ欄を土下座スタンプで埋め尽くしてくれた。

 鳴り止まないメッセージの通知音をBGMにコーヒーメーカーをセットする。部屋に流れ込んだ煙草の香りが消えた頃には、二人分の朝食もテーブルに並ぶだろう。


 一緒に暮らし始めてそろそろ3年。自宅仕事ばかりのおれと外を飛び回るのが仕事の氏家とは、こうして朝から顔を合わせるのも久方ぶりだ。

 あの惣菜屋を舞台に書き上げた物語。
 それを映像にしたいと持ち掛けて来たのが、当時新進気鋭と呼ばれていた映画監督の氏家康成だった。
 
 初顔合わせの時から何故かこちらを知っている素振りを見せていた氏家が、あの惣菜屋“わかば”の店主江木さんの義兄弟だと知ったのは、映画が公開された後だった。
 一躍時の人となったおれとの後日会談での席。取材のスタッフが消えた後に『食事に行こう』と誘われ、着いて行った先が江木さんの自宅だった。

 雄大にフラれ死にそうな顔で店の張り紙を見ていたおれを拾った江木さんは、氏家に事ある毎におれの話をしていたらしい。

『話を聞いてる内に、和真を他人とは思えなくなってな』

 少しづつでいい。俺を知ってくれ。
 江木さん親子の前でおれの両手を掴み取り、赤面するような甘言を散々吐かれた。

 それから親交を深め、口説かれ口説き落とされ今に至る。
 
 雄大が優しい毛布なら、氏家は堅牢な檻だ。
 時折見せる激しい執着と身動きすら取れないくらいの束縛に、息苦しさを感じることもある。
 でも、それを喜ぶ自分がいるのも確かだ。
 氏家のような愛し方はおれには出来ない。
 肉親に放置され愛した人には裏切られ、糸の切れた凧のようにただ風の吹くまま流されて生きてきた。
 誰かを捕えたいなんて考えも及ばなかった。
 だからその激しく頑強な鎖に雁字搦めに囚われている今の自分が好きだ。このままずっと捕まえていて欲しいと願っている。
 だって……。この檻の居心地の良さを嫌というほど覚えてしまった。
 たとえどんなに文句ばかりになったとしても、この檻の中なら赦されると知ったから。





 軽快な電子音が鳴り、部屋に珈琲のいい香りが漂った。苦い煙草の香りはもうしない。

 キッチンを出てリビングの窓辺に足を運ぶ。朝晩はすっかり秋風が空気を冷やすようになった。最上階に近いベランダは不埒な煩悩をクールダウンさせるにはもってこいだ。
 さて…。そろそろ煙草を捨てる気になったかな。

 ぴっちり閉じていたカーテンを開けると、窓の向こうに耳と尻尾を垂れ下げた犬のような、大柄な三十路男がへにょりと眉を下げて張り付いていた。

「ぷ……っ!」

 窓を解錠してやると「寒い!」と言いながら部屋に戻った氏家に捕まった。
 腹に巻き付く氏家の腕がひんやりとしている。

「コーヒー、出来てるよ」
「ありがとう。…でもその前に」

 シトラスのコロンと少し苦い煙草の香り。
 それが心地よく感じるようになってからどの位経っただろう。随分と長いような、だけど短いような。

 不意に腰を引き寄せられ唇が重なった。

「ただいま和真」
「おかえり………、」

 力強い腕の中で囁くように呼び合う恋人の名前。どんな愛の言葉よりも、それが一番甘くて愛しい。

「……康成」



 
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