こころ主義

マサカナ

文字の大きさ
上 下
1 / 1

本文

しおりを挟む
  こころ主義
 
  第一章 友情は太陽の現れない大空に輝く
 
 中学を卒業したら、家を出て働くつもりだと答えた。
 進路担当の教員は、真悟の成績表を眺めながら、本当にそれでいいのかと何度も繰り返した。
 将来の選択肢の幅が、経験が、得られる収入がと、高校へ進学することの利点を熱心に語ったが、真悟の考えが変わることはなかった。
 ――いつか後悔することになるぞ。
 教員の言うことも分からないではなかった。ただ真悟には「いつか」を考えている余裕はない。今はただ、「今」から逃れたいという気持ちしかなかった。
 
平時より大分遅い電車を降りて、真悟は俯きがちに改札口を通り過ぎた。今日は一段と寒さが厳しい。電車内で解凍した頬の肉が、またひりひりと固まっていくのを感じる。
コートのポケットに手を突っ込めば、綺麗に折りたたまれた進路希望表が入っている。結局、「家の人ともう一度相談するように」と突き返されてしまったのだ。
しかし家の人間に相談など出来る訳がない。それこそ真悟が進学を希望しない理由だった。もっともそれを、教員に伝えようと言う気にもなれなかった。
真悟は乾いた喉を潤そうと、自動販売機で暖かいお茶を買った。電子案内板の横にある大窓からは、真っ白な月が見える。
湯気を立てるペットボトルを傾けながら、真悟は雲が一つ、月を呑みこみ通り過ぎるまでを見届けた。
「なあ、そこの君」
そのタイミングを見計らったように、凛と透き通った声が後ろから聞こえた。振り返ると、一目で占い師の類であることが分かった。
木製の机に腰を掛けていた声の主は、神道の巫女が着るような装束姿で、頭からは白いヴェールのような布を被っている。顔には両目を隠すように二枚の札が貼られていて、その表情を伺い知ることは出来ない。
街中でこういった輩に声を掛けられることは珍しいことではなかった。世間は空前の占いブームである。古今東西の様々な呪術の話題が、真悟が通う中学校でも毎日のように交わされていた。
真悟は占いや呪術といった不可知なる物に、特段の興味も偏見も持っていなかった。朝のテレビ番組で占いコーナーがやっていれば、一応は自分の星座を確認するものの、家を出る事には忘れているという具合である。
ただ最近では、ブームに乗じた詐欺まがいの占い師が増えているという話を聞いている。自分は騙されるようなタイプの人間ではないと思う一方で、一度も占いを受けたことのない真悟は、どのような診断を受けるのか興味が無いという訳ではなかった。
もっともそれは興味止まりで、自分の悩みを見知らぬ相手に話そうなどという気は一切なく、声を掛けられたことに面倒だという以外の感情は持っていなかった。
占い師はそんな真悟の内心を知る訳もない。真悟の目先に小指を突き出して、仰々しい感じで言葉を続けた。
「君には二つの大きな神性が見て取れる。それは拭えぬ他者への不信と、信頼には応えずに居られない高潔な精神だ」
 入り方は悪くない、と真悟は冷静に占い師を観察した。
 誰であれ自分について言及されれば、その続きが気になるものだ。他者への不信という、誰にでも当て嵌まる弱みを引き出そうとすると共に、善く思われたいと願う人間の自尊心を上手く刺激している。
衣装や小道具も手が込んでいた。机に置かれた水晶玉は、どういう仕掛けか、紫と黄の混じり合った光の線が絶えず泳ぎ回っている。
声の質からは男性とも女性とも判断がつかない。かなり若そうではあるが、悠然とした物言いと雰囲気は熟練のそれに近い迫力がある。ブームに乗って湧きだした、有象無象の似非占い師たちとはレベルが違うように感じられた。
 それでも真悟には、話を聞こうという気は起きなかった。
「悪いが金が無い。声を掛けるなら別の人間にしてくれ」
「金など要らないさ。今日の僕は機嫌が良い」
 占い師は右肘を机に乗せると、ヴェールの下に小指を通して、口に含んだ。噛んでいるのか舐めているのかは、真悟の位置からは分からない。
 相手が学生だからと、からかっているのだろう。真悟は不快感を隠さずに言った。
「折角の申し出だが、対価を取らないようなプライドの低い占い師に、自分の運命を視てもらいたいとは思わない」
 占い師は、ヴェールの下で笑ったようだった。
「言うではないか、気に入ったよ。しかし僕は占い師ではない。『式術士』だ。見てわからないのかい」
 それを聞いた瞬間に、真悟は言葉を失った。一刻も早くここを離れなければならないと、心臓から全身へ、警報が巡って行くようだった。
 式術士とは、不可知なる力を生業とする者の中で唯一、国家から正当な資格と認められた職業である。
 だが、職業という表現は適当ではない。
 式術を使う人間は、『式原』『雨由良』『天海寺』のいわゆる『式御三家』と呼ばれる一族をおいて他には存在しないからだ。
 もし式御三家以外の者が勝手に式術士を名乗ろうものなら、即刻に刑務所行きである。
 国の中枢に関わる祭事や霊的な問題を陰から支え続け、裏世界においても絶大な権力を持っていると言われる式御三家の一族が、こんな場所で一般人を視ることなど有り得ないのだ。
 つまりこの式術士は騙りである。それと知って金銭の遣り取りをした者は、同様に処罰を受けることとなる。
 しかし真悟には、この式術士が騙りだとは思えなかった。その一挙手一投足を見るに、紛い物では出せない雰囲気を感じずには居られなかったのだ。
 だが相手が本物であるのなら、それこそ此処を離れなければ、どんな災難に遭わせられるか分かったものではない。ここは詰まらぬ面目を保つような場面ではない。
真悟は居住まいを正し、式術士へ向けて頭を下げた。
「無礼を働いたのなら謝ります。ですが、どちらにしても同じことです。対価も無しに、式術士の方に視て頂くことなど、恐れ多くて出来る筈もありません」
 真悟の態度を見るや、式術士は更に気を良くしたようだった。
「君の言うことは尤もだ。どうだろう、その対価とやらを僕が払うから、君の時間を少し貰えないだろうか。僕は君のことが知りたいのだ」
 式術士は口元から小指を抜いて、それを真悟へ差し向けた。
 赤く小さな歯型が残る指先が、電子掲示板の明かりで微かに光を湛えている。
 冗談ではない、という言葉を真悟は寸でのところで飲み込んだ。
 曰く式術士は人の心を読み、そこに巣くう魔を祓うという。式術士に対して言葉を発するということは、心の全てを晒すことと同意なのだ。
 とにかく、こんなものに関わるべきではない。
式御三家といえば、背中に綺麗な彫り物を入れた威勢の良い兄ちゃんたちですら、泣いて震えあがるような存在である。本物の式術士を相手に揉め事を起こしては、あっさり死なせてくれるかどうかも疑わしい。
 もっとも、これらのイメージは都市伝説に近いものである。式御三家は、その存在こそ知れ渡っているが、全容はいまだに謎に包まれているのだ。
 真悟は再び丁重に頭を下げて、言葉を発せず相手の出方を窺った。下手に言葉を発しようものなら、そこに付けこまれる。
「君は賢く、相当に疑り深いな。君の本質は『仁』と『義』だが、君に起きた何かしらの事柄が、君から人を信じる分別を奪い取ってしまったのだろう」
 式術士の言葉に、真悟は僅かに身を震わせた。思い当たる節があるのだ。
「僕は君をそのようにした事柄というものを知りたい。そして出来ることであれば、君からその苦痛を取り去ってやりたいと思っている。僕が君の心を知るに必要な対価は、どれほどになるだろうか。君が誠実な答えを示してくれることを、僕は信じて疑わないよ」
 式術士の言葉は、それ自体が紡がれた呪文であるかのように、真悟の心の隙間へと入り込んでいく。それは不快なものではなかったが、真悟の内心に戸惑いと焦燥を生みだし続けた。
 この期に及んでは、何かしらの答えを出さないことには引いてくれそうにない。それならば、到底呑めない条件を提示して諦めてもらえばいいだろう。中途半端な答えではなく、相手がきっぱりと諦めてくれる条件を提示する必要がある。
「わかりました。対価を申し上げます」
 真悟は式術士を見据えて言った。
「現金百万円でいかがでしょう」
「よし、交渉成立だ」
 式術士は開手を打つと、懐から帯付きの札束を出して真悟に放り投げた。
「……えっ」
唖然としている真悟を尻目に、式術士は何処からか折りたたみの椅子を持ってきて、机の対面に設置した。
「さあ、座るといい。低反発のクッションも用意してある。長居が出来るように取り計らったのだ」
 式術士の声は弾んでいた。顔に貼られた二枚の札で表情は見えないが、先程までとは打って変わっての上機嫌な口振りだった。
「自販機の物で良ければ、お汁粉でも飲むか。話をしていると喉が渇くからな。特別サービスで僕が奢ってやる。それともコーンポタージュの方がいいか」
「いや、俺は甘いのは苦手だから……ではなくて、ちょっと待ってくれ、この金はいったい――」
「なんだ、足りないのか」
 式術士は札束をもう一つ取り出して、ぽいと真悟に放り投げた。ハンカチを投げて寄越すかのような気軽さである。
 近くを通りがかった人が、ぎょっとした顔で真悟を見た。真悟は慌ててそれを懐にしまいこみ、「ははは、よく出来た玩具だな」と作り笑いをして、仕方なく椅子に腰をかけた。
「君、寒かったら膝かけもあるぞ。僕の使いかけで良ければ使い捨てカイロもある。なあに大丈夫、僕は背中に湯たんぽを入れているからね。そうだ、お茶を持ってきたから、今用意しよう」
 式術士は何だか楽しそうだった。まるで、初めて家に友達が遊びに来た小学生の様だった。浮き浮きと準備を進める式術士を見ていると、真悟は次第に、先程まで警戒をしていた自分が馬鹿らしく思えてくる。
 しかし現実として、懐にある二百万円の重みは異常だ。この軽い雰囲気も、何かしらの目的があっての演技なのではと疑わない訳にはいかない。
 真悟は警戒心に身を強張らせた。何とかしてやり過ごさなければならないと、式術士の行動に目を光らせる。さらにごく自然な感じで、周囲を見回した。こちらを見ているような人間は居ないようだった。
「ああ君、僕に対して気遣いは無用だよ。気を楽にして、千年来の友人に接するようにしてくれたまえ」
 白い紙コップに、式術士は自前の水筒から茶を注いでいる。湯気と共に芳ばしい香りが立ち上った。
自販機で買ったお茶とは大違いだ。きっと良い茶葉を使っているのだろう。口を付けると、不思議な清涼感が胸の中を満たしていった。
まさか、おかしな薬でも入れられているのではと勘繰った真悟であったが、式術士も同じお茶を飲んでいるのを見て、お替わりのススメに応じた。
 さらに式術士は、桜花を模った和菓子を二つ取り出して、自分の前に置いた。
「君、甘いものは苦手と言ったな」
「あ、ああ」
「それなら僕が食べてもいいかな」
「勿論、構わないが」
「これは僥倖」
 ぱちんと手を打った式術士は、菓子楊枝を使って花の一片を器用に切り取り、ヴェールの下の口元へと運ぶ。その仕草すら、美しい舞踊の一部であるかのように見えた。
 性別は明らかでないが、口振りから察するに男だろう。育ちの良さが自然と香り立ってくるような所作だった。
「仕事柄、えげつない話には慣れている。大抵のことには驚かぬから、気楽に話してくれたまえ。察するに君は、人に裏切られたのだろう。それも、ごく近しい人間に」
 これが普通の占い師であれば、単なるコールドリーディングだと疑う所だろう。誰にでも当て嵌まりそうな言葉を並べて、その反応から論理を積み重ねていくという、よくある手法の一つだ。
 しかし相手は式術士である。単なるブラフとは思えない。札の下に隠された目で見られると、内心を見透かされているような奇妙な心地がした。
「違ったかい」
 悪びれる様子もなく、式術士は言った。
「違わなくはないが……」
 そうハッキリと言われてしまうと、自分の抱えている悩みが矮小なものに思えてくるから不思議なものだ。
詰まるところ個人が抱えた悩みなどは、他者から見れば大概そのようなものなのだろう。
「安心しろ、僕は口が固い」
 そういうことを心配しているのではないのだが、と真悟は内心で呟いた。真悟は式術士から逃れることを諦めて、身の上に起こった経緯を話し始める。
それもやはり、言葉にしてしまえばいかにも安っぽい、在り来りな経緯である。
 
 真悟は一年前に両親を事故で失っていた。多額の保険金と財産を相続することになったところへ、親戚たちが後見人に名乗り出たのである。
 尊敬していた叔父は、下卑た笑みを浮かべて、毎日のように菓子折りを持ってくるようになった。幼い頃に真悟を乗せてくれた逞しい双肩は、見る影もなく縮こまっていた。
 自家製の漬物と家庭菜園の話をいつも楽しそうに語ってくれていた大叔母は、後生だから面倒を見させてくれと泣きついてきた。菜園は捨て置かれ、白い黴にまみれた野菜が見るも無残に転がっていた。
 顔を合わせる度に恋人の自慢話をしていた年上の従妹は、香水をまとって擦り寄ってくるようになった。恋人とは別れ、本当は貴方のような男が理想だったと繰り返した。
 そういった一々のことに、真悟は胃の底に泥を流しこまれるような不快感を覚えた。親戚が引き揚げたあとは、決まって便所で嘔吐をしていた。
 これが他人であったら、どうにも思わないのかもしれない。しかし幼い頃より慣れ親しんできた親戚たちの変容振りは、両親を失ったばかりの真悟にとって、あまりにショックな出来事であった。
 結局、弁護士の薦めで叔父が未成年後見人となったのだが、その弁護士も裏で叔父と繋がっていたことが後になって判明した。
 叔父は表向きには誠実に、真悟が成人を迎える日まで財産を管理すると約束したが、真悟には最低限の生活費用しか振り込まず、一方で車を買い替えるなど突然に羽振りを利かせていた。
 さらに叔父は、娘と真悟の婚約を近所中に吹聴し、その段取りまで進めていたのである。
 まだそこまでは考えられないと、真悟は丁重に断ったのだが、叔父は下卑た笑いを浮かべて、成人するまでに籍を入れてくれれば問題ないと真悟の肩を撫でるのだった。
 
「金は罪悪だ。人を悪いものに変える」
 真悟は断言した。
 平生より善良であろうと願っている人間でさえ、分不相応な金を前にしては、善良で有り続けることは難しい。醜く、卑しく、その魂を変容させていく。
 金の為に人は裏切る。金の為に人は殺すのだ。
親戚たちの変貌ぶりなど、まだ可愛いものだろう。しかしそれも今後、どのように変わっていくのか分からない。
「これ以上、彼らには関わりたくない。俺自身まで変容させられていくような、あの居心地の悪さに耐えられそうにないのだ」
「それで君は、この先どうするつもりなんだい」
「俺一人の食い扶持くらいは何とかなるだろう。高校へは進学せず、誰の目にも届かぬ場所で暮らすつもりだ」
「ふむ」
 話は分かったと、式術士は最後の一片となった和菓子を口に運んだ。
「しかし君、金は生きている限り付きまとうぜ。世俗を捨てて仙人にでもなるつもりかい。本も読めぬ、美味いものも食えぬで、何を楽しみに生きていくというのだ」
 和菓子が無くなると、式術士はまた小指を口に入れた。
 身の上の話をしたことで吹っ切れたのか、真悟は胸の奥の澱みを吐きだすように、心情を吐露する。
「何が楽しいという話ではない。不快な物から距離を置きたいのだ。今はそれしか考えることが出来ない」
「いつまでも逃げ続けられるものか。金の大小が問題ではないことくらい、賢い君であれば理解しているはずだ。世俗を捨てたところで、パン一つ、百円玉一枚を争って、君はまた苦しむことになる」
 式術士の言う通りだった。
 真悟は親戚たちの元から離れた後の事を考えていなかった。いや、敢えて考えないようにしていたのだ。
「では、どうしろというのだ」
 自らの臆病さを露呈されて、真悟の言葉には苛立ちと恐怖の感情が入り混じっていた。
「君に必要なのは信仰だよ」
 式術士は、小指を真悟に突き付けて言う。
「それも心の全てを委ねられるような、狂信とも言うべき執着だ。そうでなければ遠くない未来、生きることに絶望した君は自らの命を絶つことになるだろう。僕が視るに、君は自分で思っている以上に潔癖で気位が高い。逃げ続けた先に活路は無いぜ」
 式術士の言葉が、まるで他人事のように、しかし異様なまでの説得力を持って真悟の内心に響き渡った。胃の奥が熱を持って、小さく震え出す。
「信仰だと。笑わせるな。人の口を介したものなど、信じられるわけがあるか」
「いや、君が信仰するべきは神ではなく人間だ。物言わぬ神と向かい合ったところで、君には救いを見つけることは出来ないだろう。君には心から信頼出来る人間を見つけることが肝要だよ」
「人を信じろ、だと」
 真悟は乾いた笑い声を上げた。通行人が何事かと真悟を見たが、真悟は構わずに笑い続ける。
やはりこの男は紛い物だ。いや、本物の式術士であっても所詮はこの程度なのだろう。人を信じることが出来ない人間に、人を信じることが大切だと諭したところで、いったい何になるというのだ。何の解決にも、気休めにすらならないではないか。
「そう捻くれるな、君。まだ僕の話は終わっていないぞ」
 この上まだ何を言うのか。
 真悟の不信を込めた目は、つまらない物を見るようだった。
「君の心に巣くう不信は実に重いものだ。僕ら式術士は、人間の感情を『祓う』ことを生業としているが、心の奥底に根付いた感情までを切り伏せることは出来ない。例えば今、君が僕に対して抱いている感情は怒りと苛立ちだが、このうち一過性の物については……ちょっと待っていろ」
 式術士は荷物入れから、古びた刀を取り出した。大きさは日本刀でいう脇差くらいで、音の鳴らない七つの鈴が付いている。年季の入ったものに見えるが、鞘から抜かれた刀身は瑞々しく、妖しいまでの輝きを放っていた。
「生々七碌(ショウジョウシチロク)。修祓(しゅばつ)」
 その切っ先が真悟に向けられる。
「調伏(ちょうぶく)」
 振り上げられた刀が、真悟の頭の上を通過する。
 次の瞬間、真悟は驚きに目を見開いた。内心に渦巻いていた式術士への怒りと苛立ちが、霧が晴れるように消え去っていったのだ。
式術士は刀を鞘に納めて、「どうだい」と言った。
「僕の感覚では、先程まで君が僕に対して持っていた不愉快な感情のうち、八割近くが消え去ったはずだ。それらは君の本分に余る、不相応な感情ということになる。つまりは一過性の、その場の空気や勢いに流されて増幅された『本質より生まれていない感情』だな。残りの二割は『本質より生まれた感情』だ。それは君が最も冷静な状態であっても揺らぐことのない理性的な感情と言える」
 式術士の言葉は、実感となって真悟にそれを理解させた。
 つい熱くなってしまったが、冷静になって考えてみれば、それほど腹を立てるような事ではない。思わず図星を指されて、頭に血が上ってしまったと言えた。一方でそれでも、「人を信じろ」と言った式術士に対する苛立ちが消え去った訳ではなく、その比率は式術士が指摘した八対二という割合が妥当なように思える。
 ――やはり、本物か。
 常識では考えられない現象に、真悟は畏怖の念を抱いた。占い師やカウンセラーが行うお悩み相談レベルの話ではない。それこそ一瞬で、それを解消するための論理も思考も経ることなく、嘘のように感情が消え去ったのだ。
 式術士は小指を口の端に入れて、言葉を続ける。
「ニュースでも耳にするだろう。『気の迷いで』犯罪に手を染める。『ついカッとなって』人を殺す。『嫌なことが続いて何となく』自殺をする。そういった人間の衝動を、僕らは消し去ることが出来るのだ。しかし僕らが祓えるのは一過性の感情であって、記憶や経験ではない。ましてや脳の回路を弄るわけでもない。世の中には少数ではあるが、本質的な感情で犯罪を行い、人を殺し、自殺を遂げる人間がいる。それは君、僕らにだって救うことは出来ないよ」
 その言葉は真悟に向けられている。それが脅しや偽りの言葉でない事は、冷静さを取り戻した真悟には理解が出来た。
 今の自分は、親戚たちから離れたいという一心で生きている。それを達成すれば、一応の満足を得ることが出来るだろう。だが、その後に待っているものは何だ。同じ疑いを他人に持ち続け、それを隠し続け、生きて行くことが出来るのだろうか。
「このままでは君は死ぬ。高潔なる君の魂に懸けて断言しよう」
 淡々とした式術士の言葉が、真悟の心に呪いのように、或いは救いの手のように絡みついた。
「……俺にどうしろというんだ」
 真悟は呻くように言った。それ以外の言葉は見つからなかった。
 式術士は「ふむ」と小さく呟いて、右手の小指を真悟に向けた。
「僕を信じろ。君が生きるにはそれしかない」
「……お前を?」
「君の不信は根強く重いものだ。それを解消するには、人を信じられるようになること以外にはない。だから僕が協力してやる。約束しよう、僕は決して君を裏切らないと。君の信頼の全てに応えてみせる」
 式術士の言葉の意図を、真悟は量ることが出来ない。
「どういう意味だ」
「僕が君の友人になろうということだ」
「何が目的だ」
「君を救うことだ」
「なぜ俺を救おうと考える」
「君のことが気に入ったからだ」
「それで俺が、お前を信用すると思っているのか」
「思うわけがないだろう。君の心に巣くう不信は、万年物の茶渋よりしつこいぜ。だから先ずは、僕が君を信じるのさ。君が僕に、疑いようのない友情を見出してくれるまでね」
「友情など、一体何になる」
「いいかい君、畢竟この世には、友情に優る絆など存在しないのだ。親子、兄弟、恋人、夫婦……いずれの絆も、人間が持つ欲望の前に変容する。あらゆる人間の絆を見てきた僕たちだから分かる。人間が最後に信じられるものは友情だけなのだ」
「馬鹿を言うな。欲望の前に変容するのは、友情とて同じことだろう。むしろ他の関係に比較すれば、最も脆いものだ」
「確かに、一口に友情と言っても程度の差が有る。僕らが目指すべき友情は普通の意味での友情ではない。あらゆる絆と信仰を超越した究極の――そうだな、『畢竟友情』とでも名付けよう」
「畢竟友情……何だ、それは」
「それを君と探しに行くのだ」
 上機嫌な式術士を前に、真悟は思考を巡らせる。
 友人になるだと。
究極の友情だと。
そこまでして俺に構う理由は何なのだ。
 少なくとも金目当てではない。式術士の一族であれば、俺が相続した遺産など比べ物にならない資産を持っているはずだ。
しかし何らかの目的が無ければ、人は行動に出るはずがない。
最も濃厚なのは、一般人をからかって楽しんでいるということだろう。金と暇を持て余した人間が、不幸な人間に手を差し伸べて自己満足に浸ろうとする例は世の中に腐るほどある。
「決まりだな。今日から僕と君は友人だ。そうなると効率的に友情を育むために、君には僕と同じ学校に入学して貰う必要があるな」
 式術士は『私立東征第一高等学校』の名前を挙げた。全国的にも有名な、百五十年以上の歴史と伝統を誇る進学校である。各界の著名人の子らが多く入学するこの学校は、学力の高さばかりでなく、その高額な学費や寄付金のために一般庶民では入ることが難しい。
 そして若いとは思っていたが、この男は真悟と同年齢であった。
「金や試験の心配はするな。君はただ進学を希望すればいい。家から通うのが嫌であれば寮も用意しよう。当然、君の親族が立ち入ることは決して許さない。それなら君の不満も解消されるはずだ」
 式術士の話を聞きながら、真悟はある考えに思い至った。
 人が行動を起こすときの理由は、至ってシンプルなものだ。それが何であれ、人は自分の為に行動をする。つまり彼は俺のために友人になるのではなく、自分のために友人になりたいと言っているのだ。
一つ試してやろうかと、真悟は思案する。
彼が自分をからかっているという可能性は高い。むしろそう考えた方が自然だ。相手は同い年である。ならば遠慮をする必要もない。
「実は最近、俺も占いを始めたのだ。お返しに占ってやろう」
「……ほう」
 真悟の提案は、式術士の意表を突いたようだった。真悟は懐から二百万円を取り出して、机の上に置く。
「対価はこの金でいいな」
「面白いやつだな、君は。いいだろう」
 式術士は愉快そうに笑ってみせる。
「せっかくだ、ここの道具は自由に使っていいぞ。どれも霊験あらたかな、国宝級の代物だ」
「俺が使える訳がないだろう」
 当然ながら、真悟には占いの知識などはない。試しにと水晶玉に触れてみたが、何かを感じるようなこともなかった。
しかし言うべきことは、自然と口を衝いて出た。真悟は式術士の男を見据える。
「お前には二つの特性が見える。それは、他者への強い不信と、潔癖なまでの高潔さだ」
真悟の言葉は、自分が式術士に言われた言葉の焼き直しだった。
真悟は相手の反応を窺う。頷きながら小指を噛み続ける式術士には、真悟を茶化すような雰囲気は無かった。
「お前は俺に、自分と似た境遇を感じ取ったのだろう。癒す者はその実、癒されたい者であることの典型だ。お前は俺を救うために友人になると言ったが、本当の目的はそこではない。そもそも式術士が、このような所にいること自体がおかしいだろう。お前は何かしらの理由で、他人への信頼を求めている。その信頼を与えるに相応しい人間を探していたのだ。信仰を――友情を必要としているのは、俺ではなくお前の方ではないか」
「その通りだ」
式術士は身を乗り出すと、顔が触れんばかりに真悟に迫った。
「凄いな、君は。能力も無いのに何故わかったのだ」
「おい、近いぞ、離れろ」
真悟は慌てて身を引いた。式術士の体、あるいは身に付けた衣服からだろうか、ほのかに澄んだ甘い香りがした。
「凄くなどない。なんとなく、そう思っただけだ」
「いや、君には高い才能があるのだろう。その道を志せば、さぞ優秀な占い師になるはずだ。何たって、この僕を驚かせたのだからな。さあ君、続きを聞かせてくれ。いったい僕はどうすればいいのだ。僕は君の言う通り信じられるものを求めている。そうでなくては、この世に生きる悦びなど在りはしないだろう」
式術士に、先程までの落ち着いた雰囲気は無かった。その言葉には、救いを求める懇願の色が見て取れる。
「わかった、取りあえず落ち着いて、座ってくれ」
真悟は式術士を椅子に座らせると、軽く咳払いをした。
これだけ食いついてくるとは予想していなかった。この反応を見る限りでは、どうやらこの男には、真悟をからかって楽しもうという意図は無いように思えた。
そうなると、こちらも適当な事を言う訳にもいかない。真悟は一つ息を付いて、相手の話を聞く姿勢を整える。これでは本当に占い師をやっているようだ。
「信じられるものが欲しいと言うが、式術士であれば、そもそも信仰に厚いのではないか」
「そんなことはない。本来この力は、一族が引き継いできた咎に由るものだ。有難がって崇拝するようなものではない。僕の周りには、この力を使って不徳義を為す、下衆の輩ばかりがいる」
 絶大な権力を持つ式御三家の一族が、内外に様々な面倒を抱えていることは想像に難くない。真悟と同い年であるこの式術士もまた、跡目や派閥争いの問題に巻き込まれているのだろうか。
「それも君の言う通りだ」
式術士はあっさりと認めた。
「もともと、僕は――」
口を開きかけて、式術士はふと動きを止める。
真悟がその視線を追うと、黒いスーツを着た数人が、こちらを見ながら電話をしているのが見えた。明らかに一般の通行人だという雰囲気ではない。
「すまない、事情を話している時間はないようだ」
 式術士の声色に、焦りが混じっている。
「心配は要らない、あれは屋敷の者だ。僕を探しに来たのだ。何も言わずに飛び出してきてしまったからね。しかし困ったな、君ともう少し話をしていたかったのだが」
 式術士は真悟の手を握った。
小さく温かい、柔らかな手だった。
「どうか君、僕の友人になってくれないか。無理を言っているのは分かっている。しかし君も僕と同じことを感じているはずだ。この世界には不信と不和ばかりが満ちている。心に身を任せて生きるには、余りにも息苦しいのだ。僕は、たった一人で良いから人を信じてみたいと思っている。心の全てを委ねられる相手を見つけて、生きることの喜びを感じたいのだ」
 真悟は言葉を返すことが出来なかった。彼の小さな手には、想像も出来ないような力が込められていた。
「……僕は君に、そのたった一人になってもらいたい」
 黒いスーツの男たちが集まってきて、式術士が持ってきた机や道具などを片づけ始めた。これだけ近くに居ながら、全くこちらには気付いてないかのような振る舞いが、真悟には異様なものに思えた。
 これが式術士である彼の日常の姿なのだろうか。
男たちは荷物をまとめると、式術士を促すように、直立不動で列を作った。
「君を信じさせて欲しい」
 小さく呟いて、式術士は真悟に背を向けた。後に続いた男たちの一人が、真悟に近づいて分厚い封筒を渡す。
 真悟は彼らの姿が見えなくなったのを確認すると、封筒をゴミ箱に放り込んで、逆方向の出口へと向かった。
 空を見上げて吐いた白い息が、煌々と輝く月に溶けて消えた。
 
 
 
   第二章 
 
 季節は春。
東征第一高等学校へ続く桜並木を横に外れ、真悟は鬱蒼とした藪の道へと足を踏み入れる。
 数日前に届いた差出人不明の封書には、この先の場所を示した地図だけが入っていた。メッセージも何もない、バッテン印だけが付けられたそれは、さながら宝の地図である。
 件の式術士とは、あれきり一度も会っていない。駅を通る度に彼の姿を探したが、それらしき人物を見ることも無かった。あれは夢だったのではないかと、時間と共に疑わしく思うようになる。しかし真悟には、彼の言葉が頭から離れずにいた。
――たった一人でいいから人を信じてみたい。
 思い悩んだ末に、真悟は式術士の男が名を挙げた高校への進学を希望した。決して彼を信用したという訳ではない。やはり騙されているのではないか、からかわれていたのではという疑いも強かった。
 しかし、それならそれで構わないと開き直った。どの道このままでは、何も変わることはない。心の底で燻ぶっている何かに、身を任せてみようと思った。
 高校受験の当日、真悟は試験会場で彼の姿を探した。同じ学校に入るのであれば、ここで接触があってもおかしくないはずだが、あては外れた。
しかし、合格発表の当日のことだ。
高校側より連絡が入り、既に学費等は受領しているから心配しなくて良いという説明をされた。誰が支払ったのかと真悟が問うと、先方はあからさまに言葉を濁す。その反応から、裏で彼が手を引いていることは明らかだった。
 僅かな安堵と共に、真悟は彼がどのように自分を特定したのだろうかと疑問に思った。そもそも互いに名前も連絡先も知らないのである。
恐らくは受験票にある顔写真から探し出したのだろう。その中から自分の写真を見つけたとき、彼はどんな表情をしたのだろうかと想像してみる。しかし彼の顔は二枚の札で隠されていたので、想像しようもなかった。
 いったいどんな奴なのだろう。
 歩みを進めながら、真悟は柄にもなく緊張していた。あの日以降、彼という人間への関心は日に日に募っていた。自分が再び、他人に対してこのような感情を持つことになるとは思っていなかった。
 
 藪を抜けると、今にも崩れ落ちそうな木造建築物が見えてくる。印の場所はあそこで間違いなさそうだ。地図に書かれたバッテンが、お宝の在り処どころか、凄惨な事件現場を示しているようにも見えてきた。
 建物の正面には、一際目を惹く枝垂れ桜の木がある。その樹の下に、長い黒髪を揺らす少女がいた。
黒のトレンチコートに身を包み、大きな旅行鞄に腰を掛け、所在何気に足を揺らしている。視線の先には桜の花が咲き乱れていた。少女は腕を組み、小指を口に入れながら、ぼうっとそれを眺めている。
歩みを止めた真悟は、その姿に見惚れていた。真悟が想像し得る限りの、最も美しい物がそこに在るような気がした。
花びらを追っていた少女の視線が、真悟と交錯する。
少女は満面の笑みを浮かべて、「やあ、君、こっちだ」と手を振った。旅行鞄から飛び降りて、腰の回りを軽く払った。目の前を横切った桜の花びらに、少しだけ目を細める。
「久方ぶりだな。元気そうで何よりだ」
その物言いに真悟は覚えがあった。そして、ある恐るべき予感に思わず身を震わせた。大きな落とし穴に落とされたような心地だった。
「どうした君、なにを呆けている。ここは友との再会を喜ぶ場面だぞ」
「……お前、あの式術士か」
 いかにも、と少女は頷いた。
「ああそうか、君は僕の顔を知らないのだったな」
「女だったのか」
「見れば分かるだろう」
 少女は平然と応える。真悟は開いた口が塞がらない。
たしかにあの時、真悟は彼の顔を見ていなかった。声は中性的な印象を受けたが、自らを『僕』と呼び、友情を求めてくる彼に対して、女であるなどとは思いもしなかった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。女だったって、お前、それは……」
 動揺する真悟を見て、少女はもう堪え切れないというように「ぷっ」と吹き出した。
「あはははは! 君、なんて顔をしているんだい。冗談だよ、冗談、本気にしないでくれ」
「……冗談?」
 少女は慣れた手つきで、長い髪を無造作に首の後ろでまとめた。
「僕は式原慧花(しきはらけいか)という。この通り、正真正銘の男だよ」
 慧花は真悟に、写真入りの身分証明書を投げて寄越した。記載を確認すると、たしかに性別は男となっている。
「待っている間が暇だったので、少しからかってやろうと思っていたのだ。僕は母親似でね。この年になっても未だに女と間違えられる。いや、驚かせて悪かった」
 謝罪をされてもなお、真悟に有るのは釈然としない驚きだった。狐につままれたような心地で、彼と彼の身分証を交互に見比べていた。
「僕のことは慧花と呼んでくれ。名字で呼ばれるのは好きじゃない」
 真悟は我に返り、慧花に身分証を返した。
「高月真悟だ。俺も真悟でいい」
 真悟は差し出された手を、少し躊躇しながら握る。
「君の身分証を確認する必要はないよな」
 慧花が悪戯っぽく笑う。
「当然だ。こんな女が何処にいる」
 軽口を叩いたお陰で、幾分か気が楽になった。
 世の中は広い。女みたいな男が居れば、男みたいな女もいる。某歌劇団の男役などは、俳優顔負けの凛々しさだ。以前に見たバラエティ番組では、男性のタレントが女性に変身をするという企画をやっていて、その変わり様に化粧と写真技術の恐ろしさを知ったものだ。
 そういったことを考えれば、別段に驚く程のことではない。
 真悟は冷静さを取り戻して、改めて慧花を見た。比較的大柄な自分と比べると、頭一つ以上の身長差がある。華奢で丸みのある体は、まだまだ成長途上なのだろうと考えられた。
化粧などはしていない。それでこれだけ美しいのなら、女優でも俳優でもやっていけそうだ。
「僕も君のように、男らしくなりたいと思っているのだが」
 慧花は苦笑しながら言った。
「君と同じものを食べて生活していれば、君に近づけるのだろうか」
「俺がお前と同じものを食べて、お前に近づけると思うか」
 真悟が言うと、慧花はお腹を抱えて笑いだし、「それは想像したくないな」と言った。
「失礼なやつだ。俺だって化粧をすれば、それなりにはなると思うぞ」
「君が、化粧かい!」
 追い打ちを掛けられた慧花は、涙を零しながらゲホゲホとむせていた。彼がどんな想像をしているのかは分からないが、およそロクな物にはならないことは真悟も分かっている。
しばらく地面にしゃがみ込んでいた慧花は、涙を拭い、呼吸を整えながら立ち上がった。
「さて、話したいことが山積みなのだが、いつまでも立ち話というわけにはいかないだろう。取りあえず――」
 慧花は言葉を続けながら、後方にある古い木造建築物を見やった。
「荷物を置かないことには落ち着かないな」
「……まさか、この建物に住むのか」
「そうだとも。ここは『清田寮』といってな。大正時代から百年以上続く伝統ある学生寮なのだ。もっとも今は取り壊しが決まっていて、数年前からは誰も住んでいないのだが」
これも冗談なのではと疑ったが、今度は冗談ではないらしい。なぜわざわざ、こんな古い建物に住もうと言うのか。日本有数の資産家である式原家であれば、立派な寮に入ることなど造作もないはずだ。
「わかってないな、君は。苦労は買ってでもしろと言うだろう。見たまえ、このいかにも青春といった趣を。僕のイメージしていた通りだ」
「そういうことか」
 意図を理解したという真悟を見て、慧花は愉快そうに、鍵の付いたキーホルダーを指先で回した。
 
 清田寮の正面扉を引くと、朽木が倒れるようなミシミシという音が鳴った。建物の中には古い木の匂いが充満している。
「おお、素晴らしい」
慧花は喜び勇んで玄関に入る。扉から差しこんだ光の中に、大量の埃が舞った。
「僕らだけの家だぜ。好きな部屋を選び放題だ」
「……ハズレしかないクジを、好きなように選べと言われてもだな」
 まともに住めるようになるまで、どれだけの手間がかかるのだろうかと、真悟は大きくため息を吐いた。
「なあ君、電気はどうやって付けるのだ」
「ちょっと待っていろ」
 真悟は玄関横にあるブレーカーを上げて、それらしいスイッチを押した。天井に下げられた明かりが頼りなく点滅し、そのうちの半数近くが正常に作動した。
「なあ君、靴は脱いだ方が良いのだろうか」
「この有り様では履いたままでいいだろう。何が落ちているかも分からん」
「ふむ、そうだな」
 慧花は靴のまま廊下に上がる。しばらく興味深そうに歩き回っていたが、先程からクシャミを繰り返していた。懐からハンカチを取り出し、口元に当てる。真悟も同じようにハンカチを口に当てて、慧花の後に続いた。
「さて君、どの部屋がいいだろう」
 清田寮には、一階八部屋と二階八部屋の、計一六部屋があった。
 一般的に考えれば、日当たりが良く湿気の少ない二階が望ましい。さらに角部屋であれば、バルコニー以外にも窓があるので風通しも良い。
 東側と西側のどちらにするかは迷わなかった。東向きであれば、窓から朝日が射し込んでくる。西向きとなると、暑くなった季節に辛いだろう。二人が選んだのは二階の東側角部屋の『弐拾壱号室』である。
 部屋の状態は、大方真悟の予想していた通りだった。
 薄暗い玄関には大量の虫の死骸が散乱している。蜘蛛の巣を振り払いながらバルコニーの雨戸を開けると、廃墟のような部屋の内部が明らかになった。雨戸に触れた指は、煤で真っ黒に汚れている。
清田寮の間取りは2Kで、狭いキッチンを抜けると四畳半の和室があり、三枚の襖で隔てられた先には、バルコニーに面した六畳の和室があるという形だ。
「今更かも知れんが、一人一部屋ではないのか。これだけ空き部屋があるというのに」
 真悟が言うと、慧花は「何を今さら」と言った。
 清田寮には元々、二人で住むという規則があったらしい。お互いに助け合い、共同生活を送ることで、社会性と協調性を育むという狙いがあったようだ。
「君は奥の六畳を使っていいぞ。体が大きいからな」
「それは助かる」
 玄関からバルコニーまで、一直線に続くこの間取りでは、真悟は自分の部屋へ行くために慧花の部屋を通る必要がある。慧花もまた、洗濯物などでバルコニーへ出る際には、真悟の部屋を通らなくてはならない。
 お互いのプライバシーを守りにくい、ルームシェアとしては敬遠されがちな間取りだろう。むしろそれは慧花の望むところであり、真悟としても世話になっている以上、文句を言うつもりなどなかった。
 しかし、このままでは到底住むことなど出来ない。掃除をするにも準備が必要だと、真悟は部屋の中を確認して回った。
 キッチンは真っ黒に渦を巻いた電気焜炉が一口で、まな板を置くスペースもなく、流し台はお皿を数枚放り込んでしまえば一杯になってしまうくらい狭い。油汚れなのか、はたまた霊的な何かだろうか、やたらとしつこそうな汚れが其処彼処に飛び散っている。
浴室は古いバランス釜で、床のタイルはボロボロに剥がれかけていた。蓋を無くした排水溝は、何処までも続く闇のように感じられる。
独立洗面台などという洒落た設備は無い。トイレは和式で、部屋の畳は湿気とカビで独特なグラデーションを作っていた。
 ホウキやバケツは寮の倉庫で見つけたが、雑巾や洗剤類は調達してくる必要があった。一度街へ出ようという真悟の提案を、慧花はクシャミをしながら了承する。育ちの良い慧花には、ここの埃はかなり辛いようだった。無論、真悟とて平気だという訳ではない。
 部屋に荷物を置いた二人は、貴重品を持って清田寮を後にした。
 
 藪の道を抜けると、東征第一高等学校へ続く桜並木に出た。右方向を見れば、薄いクリーム色の校舎が見える。屋根は明るいえんじ色で、遠目には真悟が嫌いなプリンに見えなくもない。
「甘いものが苦手とは、君は人生の半分を損しているぞ」
「まるっきり駄目だという訳ではない。どら焼きやホットケーキなら食べられる。ただし、餡抜きハチミツ抜きでな」
「では、君が残した餡子と蜂蜜は僕が貰っておくことにしよう」
 慧花はポケットの中から和菓子を取りだして、口の中に放り込んだ。
「僕は甘いものが好きだ。人生の半分を賭けているといって良い」
 並木通りから街へ出るには、高校とは反対方面に向かう。並んで歩くと、歩幅に大分差があるので、真悟は普段より少し遅めに歩いていた。
 掃除の計画が一段落したころ、隣を歩く慧花が小指を真悟に向ける。
「ところで君、僕らが出会った日から、大分時間が経っている。ここで一度、僕らの目的を確認したいと思うのだが」
 真悟は頷いた。彼がどのように友情とやらを育てていこうと考えている、早く知りたいと思っていた。
「僕らが目指すのは畢竟友情だ。不信ばかりが溢れる世界において、ただ一つでも信じられるものが欲しいと願っている。そこで僕らは互いに協力をして、友情の絆を深めていこうと考えているのだ。しかし僕らはまだ、親しい友人とは言えない。親しい友人になろうという決意を済ませたまでの話だ。実のところは、互いの事情や考え方も知らない。それはこれから先、君と生活をしていく中で少しずつ理解していく必要がある」
 真悟は、慧花が友情について冷静に考えていることに感心し、同時に安堵した。
「そこで君に訊いてみたい。友人はどのようにして出来ると思う」
話を振られた真悟は、友情というものについて、自分自身のこれまでを思い返してみる。
小学校、中学校と、真悟には友だちと呼べる存在がいた。部活動には入っていなかったが、運動神経が良く、学業も優秀だったため、自然と話す相手も集まってきた。
その中の何人かとは、放課後に遊びに行ったり、相手の家で勉強会と言う名のゲーム大会などをやったりもした。もっとも親戚との一件があって以降は、真悟は周りを遠ざける態度を取るようになり、周囲とは疎遠となっていったのだが。
「普通は、自然と親しくなっていくものだ」
お見合いではあるまいし、友だちになるために趣味や考え方について、腰を据えて語りあう訳ではない。何気ない会話から、何となく自分に合いそうだという波長を感じて、その距離を少しずつ縮めて行くのだろう。
真悟の言葉に、慧花は頷いてみせる。
「では君、そうして出来た『友人』から、いわゆる『親友』へとステップアップするには、何が必要だと思う」
親友。
その言葉を聞いて、真悟に思い当たる人間はいない。クラスメイトの誰かが、そんな話をしていたような気がするが、傍目から分かるというものではない。
定義で考えれば、友人より更に信頼が置けるようになった相手ということだろう。しかしその為に必要なものが何かと言われても困る。他の友人より性格が合うとか、趣味が合うとか、そんな理由ではないだろうか。
「ふふふ、分からないのかい。ではこの信号が青になったら、答えを教えてやろう」
 話をしているうちに、だいぶ市街地へと近づいてきたようだ。周囲を見回せば、大きな建物やお店が散見できる。
真悟が首を横に振り、目の前の信号が青になると、慧花は大きく一歩を踏み出しながら言った。
「それは『困難』だよ。人は乗り越えた困難の数だけ、絆を強めることが出来る。つまりは相手の為に、どこまで犠牲を払えるかという話だ。その必要ラインをクリアした関係が友人であり、さらに一定以上を越えた時には親友となるのだ」
「なるほど、分かりやすくはある」
 友人と一言でいってもレベルは様々だ。たまに教室で話すだけの友人もいれば、お互いの家に遊びに行き来する友人や、休日も一緒に過ごす友人もいるだろう。相手のためにどこまで出来るかで、その親密度が量れるという慧花の主張は受け入れやすかった。
 しかし困難を乗り越えると言っても、肝心の困難が訪れなければ話にならない。真悟がそう言うと、慧花はその通りだと頷いた。
「だから僕らは、自分たちで困難を作っていく必要があるのだ」
 慧花が言い終わると同時に、目的地であるホームセンターに到着した。慧花はショッピングカートを玩具のように走らせてきて、「こうして買い物に来るのは初めてなのだ」と喜んだ。
「買い物が初めてとは、どういうことだ」
「そのままの意味だ。屋敷では使用人たちが何でも揃えてくれる。僕が外に出る必要はない」
 まるでドラマや映画の世界の話だが、実際にそういった生活を送っている人間はいるのだろう。慧花が言うように、まずはお互いのことを知っていく必要があると真悟は痛感した。
そして話の途中となった、どのように困難を作るのかが気になってはいたが、棚から取った商品を開封しようとしている慧花を見て、今はそれどころではないということを悟るのであった。
 
「買い物とは楽しいものだな。自分の好きなものが手に入る」
 小さいビニール袋を二つ持った慧花が、大きいビニール袋を四つ持った真悟を見上げながら言った。
「それはお前が金に苦労していないから言えることだ」
 中に入っているのは掃除用具ばかりではない。清田寮の惨状ですっかり忘れていたが、掃除を終えた後のことを考えていなかったのだ。歯ブラシやコップ、ティッシュなどの日用雑貨も購入する必要があった。しかし部屋には照明はおろか、冷蔵庫も洗濯機も、寝具すらない。
 高校が始まるのは明後日からだ。今日のところは掃除に専念するとして、一旦それぞれ家に帰り、明日また続きをすることになるだろう。
「それなら心配は要らないぞ」
 慧花の言葉の意味は、清田寮に戻ってみて理解できた。いつの間にか部屋の前に、大きなダンボール箱が並んでいたのだ。
「使用人の白瀬に用意させておいた。一般的な生活に必要なものは揃っているはずだ。不要なものはこのまま置いておけば、回収してくれる手筈となっている」
 慧花は形の良い鼻を上げて言った。
「……おい待て。使用人を使うのなら、俺たちが買い物に行く必要は無かったのではないか。掃除だって――」
「それは君、野暮というものだ。僕らは青春の苦しみを分かち合わなければならない。まあ、面倒臭いところはこうして省略していくが」
 金持ちの考えることは理解できない。真悟は理不尽な苛立ちを、濡らした雑巾に込めて強く絞った。
 いいだろう。
 そっちがその気なら、満足するまでこき使ってやる。お前が望む青春の苦しみとやらを、存分に味わわせてやろうではないか。
 
 人が住める程度に片付いた頃には、陽はすっかり暮れていた。最初は張り切って掃除を始めた慧花だが、すぐに言葉数が少なくなり、今はぐったりと、一番大きなダンボール箱に収納されている。
 真悟は慧花が入ったダンボールを軽く蹴飛ばして、組み立てたベッドに布団を敷いた。
「邪魔だ。寝るならこっちにしろ」
 むくりと起きだした慧花は、布団に倒れ込んで「ああ」と声を上げる。
 真悟も体力に自信があるとはいえ、これだけの重労働は流石に堪えていた。テレビやパソコン、冷蔵庫に洗濯機などの家電の設置は、明日にやることにする。
 しかしこれだけ体が埃っぽいと、風呂に入らないわけにはいかない。見違えるように綺麗になった浴室に湯を張り、昼間に買ってきた石鹸やシャンプーなどを設置した。
慧花が使用人に届けさせた荷物には、真悟の体に合うシャツや下着などが入っていた。いったいどこで調べたのか気味が悪いが、この際は考えないことにする。
「おい慧花、風呂が沸いたぞ。先に入るか」
 真悟が言うと、慧花は布団から顔を上げた。
「……いや、君が先に入るといい。今日の功労者は君だ。僕は布団を温めておいてやる」
 そう言ってまた、布団の中に顔を埋める。
 真悟が風呂から出ると、慧花は既に起き上がっていて、鼻歌混じりに着替えの準備をしていた。鼻歌といっても今風のポップな曲ではない。料亭に流れるような、和風な雰囲気の旋律である。じっと聞いていると、竹筒が石を叩く音が聞こえてきそうだ。
「やけに楽しそうだな」
「一人で風呂に入るのは初めてだからな」
「……いやいや。初めてってお前、普段はどうしていたのだ」
「家にいる時は使用人の白瀬が世話をしてくれていた。僕もこの年だから、一人でも構わないと言ったのだが、白瀬は自分の仕事を取ってくれるなと言って聞かないのだよ」
「式原では風呂にまで使用人が付いてくるのか。どんな人なのだ、その白瀬という人は」
 真悟の勝手な想像では、黒いタキシードを着た白髪の男性である。慧花のことを「お坊ちゃん」と呼んで、厳しくも甘やかしているのだ。
「白瀬は女の子だぞ。僕らより一つ年上だ」
「……待て。色々おかしい。お前は同世代の女に、頭やら体を洗わせているのか」
「僕にはそれが当たり前だったからね。白瀬の家は代々、式原に仕えているんだ。白瀬が僕の世話役になるまでは、彼女の母が僕に仕えていた。白瀬は小さい頃から母の仕事ぶりを見て育った。愛想は無いが、とても忠実で頼りになる使用人だ」
 慧花はしきりに頷きながら、白瀬という使用人の仕事ぶりを思い出しているようだった。
「そうだな。少し君に似たタイプかもしれない」
「冗談ではない。俺はお前の世話などする気はないぞ」
「分かっている。僕らの関係は友人だ。だから僕も、一人で風呂に入ろうと予習を済ませてきたのだ」
「……本当に大丈夫だろうな」
 友情が、信頼がどうとか言う以前に、真悟はこの共同生活に大きな不安を感じ始めた。慧花が着替える前に、風呂にあるバランス釜の使い方を説明する。空炊きによる火災や、熱湯が出ることを注意して聞かせ、実際に操作させてから、これなら問題ないと自分のベッドに寝転がった。
「……流石に疲れた」
先程まで慧花が横になっていたせいか、布団はすこし温かく、透き通った甘い香りがした。それに誘われるように、真悟は強い眠気を感じて目を閉じる。
その時だった。
 洗面所から、大きな物が倒れるような音が聞こえた。
真悟は起き上がり、廊下へ出て「どうした」と声を掛けた。慧花からの返事はない。まさか倒れでもしたのかと、真悟は扉を開ける。
 初めに目に入ったのは、きょとんとした顔でこちらを見ている慧花だった。上半身にバスタオルを羽織り、肩の横から垂らした黒髪にドライヤーの風を当てている。
 慧花は平然とした表情で、ドライヤーのスイッチを切って「なんだ」と言った。足元には、洗濯機の上に置いておいた洗濯カゴが転がっている。さっきの音はこれが落ちた音だったのだろう。ドライヤーをかけていた慧花には、真悟の声が聞こえなかったのだ。
「ああ悪い、大きな音が聞こえたから――」
 真悟は洗濯カゴを拾おうとして、慧花が下半身丸裸であることに気が付いた。そこにはしっかりと、付いているべきモノが付いている。
「いい湯だったぞ。教えてもらった通り、ガスの元栓は締めておいた。後で確認しておいてくれ」
「わ、わかった」
 真悟は返事をして、洗面所の扉を閉めた。なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がするが、考えてみれば男同士なのだから、気にするほどのことではない。現に慧花も、まったく気にしていなかったではないか。
 見た目が見た目なだけに、性別が記載された身分証を見せられても違和感が拭えなかったものだが、こうしてちゃんとした証拠を確認すると、やはり男なのだという安心感がある。
 頭にタオルを載せた慧花は、グレーのスウェットを着て部屋に入ってきた。まだ少し湿った髪が、腰の辺りまで伸びて揺れていた。
部屋の片づけはまだ途中で、慧花の四畳半にはゴミや荷物が散乱している。そのため今夜は、慧花も六畳の部屋に布団を敷いて寝ることにした。
「髪、伸ばしているのか」
 せめて髪が短ければ、女と間違われることがないのではと、真悟は慧花に言った。
「そうしたいところだが、式術士にとって髪の毛は重要な物なのだ。霊力の蓄積された髪は、様々な呪術の媒体として使われる。そのため一族の人間は、男女問わず髪を伸ばしているのだ」
 慧花は髪を鬱陶しそうに纏めると、それを手にして回して見せた。
「白瀬は昔から僕の髪が好きでな。暇さえあれば、ずっと僕の髪を梳いていた。三つ編みだの、ポニーテールだの、ツインテールだの、放っておくと好きなように弄られてしまうのだ」
 霊力が宿っているせいなのか、慧花の髪は艶やかで瑞々しい。触れたくなる気持ちも分からないではないと、真悟は思った。
「知っているか、ツインテール。こんなのだ」
 慧花は髪の毛を頭の横でまとめて、左右に尻尾を作って見せる。
「どうだ、似合うかい」
「……まあ、おかしくはない」
「では明日からこの髪型にしよう」
「それは止めろ」
「なぜだい」
 とても男には見えなくなるから、とも言いにくい。
「いちいち揺れて目障りだからだ」
「ふむ、違いない。僕もそう思っていたところだ」
 慧花は髪留めのゴムを取りだして、首の後ろでお団子を作った。真悟は頷き、それでいいと言った。
ベランダの網戸から風が入り、二人の間を抜けていく。何から話をしたものかと、互いに遠慮し合っているようだった。
「……式原の屋敷は」
 ぽつりと慧花が言った。
「右もしきたり、左もしきたりで窮屈な所だ」
「だろうな」
 真悟は寝転がって、天井を向いた。その方が慧花も話しやすいだろうと考えたのだ。
「実を言うと僕は、小学校にも中学校にも行っていない。一五歳になった日――君と初めて出会ったあの日まで、僕は屋敷から外へ出たことが無かったのだ」
 真悟は天井に浮いた染みを見つめていた。その模様が、脳の奥へと焼きついてしまいそうに思えた。
「何も虐待を受けていた訳ではないよ。ただ、そうせざるを得ない理由があったのだ。僕ら式術士の仕事については、もう説明は要らないよな」
「……ああ」
 真悟は視線を動かさずに答えた。
 式術士は人間が持つ『本質ではない感情』を祓うことが出来る。例えば、理由のない苛立ちや、過剰な怒りなどがそれにあたる。
 一方で『本質からなる感情』を祓うことは出来ない。真悟が相続を巡るトラブルで親戚に持った不信などがこれに当たる。式術士の力は、記憶や人の考え方を変えるものではないからだ。
「人の感情を祓う。その為に必要な能力が『式眼』だ。君と会った時、僕は顔に札を付けていただろう。あれは顔を隠そうとしていた訳ではない。僕の式眼が持つ力を抑えるためのものだ」
式眼は人間の感情を視ることが出来るという。その能力は式術士に共通するものだが、慧花の式眼は生まれながらに異常な力を持っていた。その瞳に見つめられたものは、心の闇を曝け出され、罪悪感に耐えきれず発狂してしまったのだ。
だから慧花は、暗闇の中に閉じ込められた。力の暴走を抑えるために、目を厚い布で覆い、他人を直視することを避けてきた。それこそ愛していた母の姿でさえも、母が生きている間には終ぞ見ることが出来なかったのである。
「なに、直接に見えずとも、今は画像や動画が気軽に使える。話をすることも、触れることだって出来たのだから、そこは大した問題ではないのだ」
 慧花は軽く言ったが、その声には隠しきれない陰があった。
 母の死から数日後、慧花は自らの力を抑えることに成功した。これで普通の生活を送れると喜んだ慧花を待っていたのは、一族の後継を巡る策略だった。
慧花ほどの才能が現れるのは、数百年に一度だという。それは式御三家と呼ばれるパワーバランスの一角を、大きく崩すチャンスであった。
「早い話が、子を作れということだ」
「……酷い話だ」
 真悟は呻くように言った。
屋敷に閉じ込められ、目隠しをされ、学校にも行けず、友だちも作れず、母親の顔を見ることも出来ず、ようやく世界を見ることが叶うと思ったら、子どもを作れと女たちの前に引っ張り出されたのだ。
 当然、慧花は抵抗した。式原の人間も、慧花に反抗されては不味いと思ったのだろう。高校を卒業するまでは自由にして良いとの条件を与えられたのだ。
「高校を出たら、式原の屋敷に戻るのか」
 真悟の問いに、慧花は「戻りたくはない」と答えた。
「あの屋敷には人間の醜いものが集まる。澱みになっているんだ。そういったものを引き寄せる。これは一族の因果なのだろう。薄汚い欲望が充満して、息をする度に苦しくなる。目を閉じても耳を塞いでも、鼻を潰したって匂ってくるものだ」
 真悟にはその言葉が、親戚を嫌って家から逃げ出そうと考えていた自分と重なった。慧花も恐らく、屋敷を出た後のことは考えていなかったのだろう。
 重くなった空気を変えようと、真悟は努めて軽い口調で言った。
「使用人の白瀬とやらは、お前の味方のようだな」
「ああ、白瀬は忠実な使用人だ。話し相手になってくれるし、僕が頼んだ漫画を父親に内緒で持ってきてくれたりもした。僕が君に会った日も、こっそり屋敷から逃がしてくれたのは白瀬だ。僕は白瀬を信頼しているよ。だがそこにあるのは主従関係であって、対等な立場ではない。僕が君に求めているものとは異なるものだ」
 それでも白瀬という女性の事を話す慧花は、少し口調が和らいでいるように思えた。母の死後、白瀬の存在は主従関係とはいえ、慧花の心のよりどころであったのだろう。
「その白瀬さんは、今ごろ何をしているのだ」
「僕にも分からない。彼女は必要な時にだけ、僕の目の前に現れる」
「まるで忍者だな」
「その通りだ。白瀬は代々、隠密の家系だ」
 冗談を言ったつもりが、素で返されてしまった。
 しかし考えてみれば、式原の家が慧花に自由を与えたとはいえ、完全に放置しているということはないだろう。守るという意味でも、見張るという意味でも、どこからか監視されていたって何の不思議でもない。運び込まれた家電に、盗聴器やカメラが仕込まれている可能性もある。
 真悟はそう考えるに至ったが、口にすることではないと思った。慧花とて、重々に承知していることなのかもしれない。
 そんなことを考えながら天井を見ていると、頬を何か固いものでぐいと押された。横を見ると、慧花がペットボトルのお茶を差し出している。
「開けてくれ。どうにも力が入らない」
 真悟は体を起こし、ペットボトルを受け取った。さほど力を込めずとも、蓋は簡単に空いた。
「さすがは男の子だ」
「お前も男だろうが。少しは鍛えた方が良いぞ」
「体を動かすのは好きではない」
 お茶を数口飲んだ慧花は、「君も飲めよ」と真悟に寄越した。真悟がペットボトルを傾けると、常温のお茶が仄かな甘みをもって、喉の奥へと流れていった。
「畢竟この世には、友情に優る絆など存在しない」
 慧花は小指を下唇に当てる。
「大嫌いな父の言葉だ。あらゆる欲望に取りつかれ、堕落の底の泥水を啜る、人間の最たる屑とでも呼ぶべき男だ。しかしだからこそ、僕はこの言葉が真実であると断言できる」
友情という言葉を聞いて、真悟は昼間の話を思い出した。友情を育てるには困難が必要であり、究極の友情を目指すためには、『困難を作っていく』必要があると慧花は言った。困難を作るとはどういうことなのか、話が途中で止まっていたのだった。
 真悟が尋ねると、慧花は「そうだった」と開手を打った。
鞄から一冊のノートを取り出すと、胸の前に両手で持って「ふふん」と鼻を鳴らす。表紙には達筆な文字で『友情ノート』と書かれている。
「このノートには、僕が各方面から集めてきた友情に関するシチュエーションがメモされている。それを更に、僕独自の観点からレベルを付けて振り分けてみたのだ。例えばだな――」
 慧花は最初のページの最初の行を指さした。
 そこにはこう書かれている。
【お互いを名前で呼ぶ(レベル1・推奨)】
「これは既にクリアしている。まあ友人だからと言って名前で呼び合うとは限らないからな。推奨ではあるが必須とまではしていない」
 慧花はボールペンで、その項目にチェックを付けた。
「ああ、これもさっきクリアしたな」
【同じコップやペットボトルで飲み物をのむ(レベル7・必須)】
「これは案外、親しい中でも生理的な嫌悪を持つ場合がある。そのためレベルは7とした。しかし君はあっさりとクリアしてくれたな。もちろん僕も、まったく問題ない」
 慧花は真悟が持っていたペットボトルを奪うと、口を付けて飲んだ。そうしてノートの項目にチェックを付ける。
「要領の良い君のことだ、もう説明せずとも分かるだろう。世に存在する友情の全てが真実だったとしても、払える犠牲や乗り越えられる困難というものは異なるものだ。そこで想定される困難を予め列挙し、さらにレベルを分けすることで、僕らは僕らの友情レベルと、次に越えるべき困難というものを確認できるようになるのだ」
 慧化はノートをぱらぱらとめくってみせた。
「この通り、ノートもまだ空白だらけだが、僕らは協力して困難を見つけ出し、少しずつそれを乗り越え、友情レベルを上げていく。どうだい、わかりやすいだろう」
「分かりやすいといえば、分かりやすいが……ちなみにレベルはいくつまであるんだ」
「もちろん99だ」
「……ちょっと見せてくれ」
 真悟は慧花からノートを受け取って、レベル99のページを見た。
【銃で撃たれそうな友人を庇って自分が撃たれる(レベル99・推奨)】
【溺れた家族や恋人より友人を優先して助ける(レベル99・推奨)】
「こんなこと有る訳がないだろう」
「しかしレベル99ともなると、こういったものしか思い浮かばないのだ。なんたって99だからな」
「ちなみに畢竟友情とやらは、どのレベルまで行けば達せられるのだ」
「無論、レベル99の試練を乗り越えた時だ。なんたって究極の友情だからな。畢竟だぞ、畢竟」
 どうだいこのアイデアは、と慧花は自信たっぷりに言った。
 確かに友情とは目に見えないものだ。それを深めたり確認したりする上で、こういった指標があると便利なのかもしれない。ゲーム感覚であれこれ試練を考えるのも面白いだろう。
 慧花なりに、真悟を気遣ってのことなのだ。そう思うと、真悟も悪い気はしなかった。かなり子どもっぽい試みのようには思えるが。
 しかし予め分かっている試練を乗り越えたところで、本当の意味で試練を越えたことになるのかは疑問だ。
例えばさっきのペットボトルの件だって、初めからそれをクリアしようと思えば造作もないことなのだ。自然な流れの中で試されてこそではないかと、真悟は慧花に言った。
「それはもっともだ。だが、例え予め決めておいた困難であっても、友の為にクリアしてみせようという思いも大切だろう。むしろ僕は、それこそ友情を育む上で重要なことだと考えている」
「成る程、そういう考え方もあるか」
 慧花がそうしたいのであれば、真悟に反対する理由などない。今後は慧花から『この試練をクリアしよう』と言われることになるようだ。
 慧花はノートを真悟に差し出した。中を読んでおけということらしいが、真悟は断った。
「俺は読まなくていい。その都度、お前から指示を出してくれ」
 こういったことを考えるのは得意ではない。慧花のやりたいようにやってくれた方が楽である。それに、中を見てしまうとネタバレ感が強く、何となく興ざめしてしまいそうな気もしたのだ。
「それも良いだろう。まあ君も何か思いついたら教えてくれ。僕がレベル分けをして、ノートに書きこんでおくことにする」
「ああ、わかった」
 長いこと話をしていたら腹が鳴った。真悟は買い物袋からおにぎりを取り出す。
「なあ真悟、こういった試練もあるが」
 慧花はノートを開く。
【食べ物を相手に食べさせる(レベル5・推奨)】
「クリアできるかい」
 慧花が期待に満ちた目で真悟を見つめている。
「……別に、出来ないこともないだろうが」
真悟はビニールから剥いたばかりのおにぎりを差し出した。慧化はそれに食いつくと、もぐもぐと咀嚼しながらノートにチェックを入れる。
「君は話が早くて助かるな。ちなみにこれは、『人前で』という条件が付くとレベル17に跳ね上がる」
「それでは友情どころかカップルではないか」
 さすがにそこまで出来るという気はしない。
「違うぞ、君。それだけの恥ずかしい行為を、友情の力でクリアしようということだ。世間体や羞恥心に苛まれつつ、それでもなおクリアしてみせようという崇高な精神が大事なのだ」
 言っていることが分からないではない。つまりは友人のために『どこまで出来るか』のラインを段階的に伸ばしていこうということだろう。
「今の君には、レベル17の困難をクリアすることは難しい。しかしいずれ、着実にレベルアップを続けていけば、苦も無くこなせるようになるはずだ」
「俺にはまったく想像ができん」
「今はそれでいい。僕だって君の性格はある程度理解しているつもりだ。君は自尊心が高く、意外と周囲の目を気にする性質だからな。友情を育むためにやれと言っても、結局は世間体や見栄えを気にして、踏み切れないことは目に見えている。まあ僕なら余裕でクリアできるけどな。君がレベル5なら、僕は既に70近いと言っていい。その差は歴然だ。友情に対する覚悟が違うのだ」
 そう挑発されると、何だかクリアしてやりたくなってくる。慧花はそれを見抜いた上で挑発しているのだ。真悟もそれを察しているからこそ、尚のこと面白くない。
「まあ『推奨』は半分以上がネタのようなものだ。当面は『必須』とした困難をクリアしていけばいい」
 明日は朝早く起きてキャッチボールをするぞ、と慧花が言った。何でもそれがレベル1の必須試練らしい。判断基準が分からないが、要は慧花の『やりたいことリスト』でもあるのだろう。
「だが、明日は片付けが最優先だからな。明後日には入学式だ。準備も何も出来ていない」
「わかっているとも。時間はたくさんある。焦る必要はない」
 一日中動きっぱなしで、さすがの真悟も疲れている。普段より大分早い時間だったが、眠ることにした。
 電気のコードを引っ張ると、オレンジ色の豆電球だけが付く。
「いよいよ始まったのだな。わくわくして眠れなさそうだ」
「……慧花。一つ、聞きたいのだが」
 真悟には、ずっと気になっていたことがあった。
「お前は式眼で、人の感情が見えると言った。例えば今、俺が考えていることや感じていることは分かるのか」
「いや、式眼を使わなければ僕は普通の人間と同じだ。それに僕は、式眼の力そのものを抑えることが出来たという訳ではない。札の準備にも時間が掛かるし、気軽に使えるというものではないのだ」
「そうか」
「安心してくれ。友を相手に式眼を使うつもりはない。使わずして気持ちを理解できるようになるのが目的だからな」
「別に疑っていた訳ではない」
「分かっているさ」
そう言った慧花は、数十秒後にはスヤスヤと寝息を立てていた。枕を抱きかかえ、赤子のように小指を口に入れている。
 友情に優る絆は存在しない。これが彼の矜持だ。彼は友情を越えた究極の友情、『畢竟友情』を目指したいという。
 それがどのようなものなのか、今はまるで想像がつかない。きっと慧花も同じなのだろう。彼はその良く分からない何かを、共に目指してくれる相手が欲しかったのだ。
 心の奥底に固まった人への不信は、未だに姿形を変えていない。ただそれでも、自分を信じてくれた慧花の思いには、可能な限り答えていきたいと思った。
 
 
 
   第三章
 
友情を試すという行為は、褒められたものではない。
例えば、待ち合わせの時間にわざと遅れて様子を見る。高額の金を貸してくれないかと無用の頼みごとをしてみる。その結果に不和が生まれれば、その友人との関係に、一つの限界を見ることになるだろう。
仮に上手くいったとしても、「実は君を試したのだ」などと告白すれば、いくら友人とはいえ良い気はしない。最悪の場合は、友情が破壊されてしまう恐れもある。
慧花が作った『友情ノート』には、まさにそのためのシチュエーションが列記されていた。
ただ、真悟に黙って友情を試すということはしない。偶然にクリアされた試練についてはチェックを入れるが、予めこれをクリアしたいという項目があれば、事前に真悟と相談をする。
出会って初日、二日目については、慧花も遠慮していたのだろうか、さし障りのないレベル1~5程度の試練を思い出したように提案するくらいだった。真悟も問題なくそれに応えてみせた。
しかし三日目、入学式を迎えた朝のことだ。
真悟が朝食の洗い物を終えて部屋に戻ると、慧花が制服を見てくれと言って、奥の部屋から顔を出した。
 現れた慧花は、学ランに革製の帽子、襟の高いバンカラマントを身に付けて、腰には式術で使用する宝剣『生々七碌』を差している。その佇まいは、和風伝奇小説の主人公のようだ。
「大正ロマンが香るだろう」
 似合っているかい、と慧花は帽子のツバに手を当てた。慧花ほどの美形であれば、何を着ても似合わないという事はない。しかし彼の色白な肌に、子どもっぽくも端正な顔立ちは、この学ランが最も相応しい衣装であるかのように思えた。
 だが、真悟が考えていたのはそういうことではない。
記憶が間違っていなければ、東征第一高等学校の制服は、薄いクリーム色の『ブレザー』だったはずだ。
「……制服、今年から変わったのか」
 そんなはずはない。甘ったるいプリンのような、真新しいクリーム色のブレザーは、既に押し入れに掛けてある。
「これは僕と君、専用の制服だ」
「お前が何を言っているのか分からない」
慧花は例によって友情ノートを開いて見せる。これまでは前の方のページだったのだが、今回はだいぶ中ほどのページだった。
【校則違反のお揃いの制服を着る(友情レベル50・推奨)】
 唖然とする真悟の前で、慧花は小指を振り「ちっち」と舌打ちをした。
「真なる友情の前では、幾分かの恥など何の障害になろうか。乗り越えた艱難辛苦の数だけ、僕らの友情はより強固なものへと成長していくのだ」
 慧花はマントの下から生々七碌を抜いて、その切っ先を真悟に突きつけた。
「いま君は試されている。僕との友情と世間体とを、秤にかけているのだ。はっきり言おう。入学式から別の制服を着て行くことなど、正気の沙汰ではない。僕だってそれくらい分かっている。しかし、だからこそだ。僕は君への信頼と勇気を示してみせる。僕は君を思えば、この程度の試練など余裕でクリアしてみせるぞ」
 真悟は台所からフライパンを持ってくると、慧花の頭を遠慮なく叩いた。
「痛いぞ、何をする」
「まだ寝惚けているのかと」
「残念ながら、僕はこれでもかと言うほど正気だ」
 学生なら学ランに決まっているだろう、と慧花は続けた。
彼の友情に対する思想は、読んだ本や漫画に影響されてか、かなり古いイメージとなっている。基本的には大正時代から昭和中期にかけてのそれだ。友情ノートには『駄菓子屋さんで買い食いをする』という試練もあった。今どき駄菓子屋などそうは見つからないだろうと言うと、慧花はがっかりした様子だった。
「いいかい君、『トムソーヤの冒険』に知られる米国の作家、マーク・トウェインはこう言った。『友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方することである』とね。正しい時には誰だって味方をしてくれるものだ。友人が間違った行為をしている時こそ、真の友情が問われるというものだろう」
 慧花は得意気に言った。
「一理あるが、間違いを止めることも友人の役割ではないのか」
「……それは、ケースバイケースというやつだ」
 慧花はわざとらしく咳をした。
「さて、想像してくれたまえ、君の友人が舞台へ上がり、芸をすることになったとする。友人は盛大に滑って、会場はしんと静まり返ってしまった。そこで君がするべきことは、顔面蒼白になって舞台を降りる友人を慰めることではないだろう。舞台へ駆け上がり、共に滑って赤恥をかくことではないかね。理想としては最初から、共に舞台へ上がることではあるが」
 つまり慧花は、一人でもこの学ランを着て学校へ行くということらしい。
「そこまでする必要があるのか」
「ないからこそ意味がある。僕は君に覚悟を示したいのだ。君を思えば、君の為ならばここまで出来るという覚悟を」
 まったく馬鹿げていると真悟は思った。全校生徒がブレザーを着ている中で、一人だけマントに学ランを着て行ったら、どんな奇異の視線を向けられることだろうか。ただでさえ式原の名を冠する式術士で、人目を惹く外見であるのだ。
 ……と、そこまで考えて真悟は気が付いた。
 そもそも式原という名前だけで、慧花は特別な視線を向けられるのだ。はっきり言って、学ランを着ようが特攻服を着ようがウェディングドレスを着ようが、式原の名の前では霞んで消える。
 慧花もそれを知っているはずだ。常識で考えれば、このような目立つ行為をして良いことなどない。ただ式原の人間であれば、むしろ隠れ蓑のような効果を持つ可能性がある。別の誰かが、同じように常識外な行動を取ってくれればだ。
 慧花の表情からは、そこまで考えてのことかどうかは分からない。しかし式原の人間として慧花が一斉に注目を浴びるのであれば、それを少しでも軽減してやることが出来るはずだ。
 それに冷静に考えてみれば、この程度の恥など大したことではない。制服を無くしたので代わりに着てきたなどと、適当な言い訳も出来るはずだ。恐らくは入学式が始まる前に、予備の制服やジャージに着替えさせられることだろう。それまでの辛抱だと思えばいい。
「レベル50というのは、過大評価ではないか」
 真悟は言いながら、壁に掛けてあった学ランを手に取った。
「おお、一緒に着て行ってくれるのか」
「サイズは合っているのだろうな」
「白瀬に任せたから間違いないはずだ」
 慧花の顔が喜びに紅潮していた。
 真悟は学ランに袖を通す。生まれて初めてマントというものを羽織り、学帽を頭に載せた。
「よく似合っているぞ。僕のイメージ通りだ。さっそく、夕焼けの河川敷で殴り合いの喧嘩をしたい気分になってきたな」
「発想が古い。大体、殴り合う理由がないだろう」
「それはそうか。まずは殴り合う理由を見つけることが先決だな」
「どれだけ殴り合いをしたいのだ、お前は」
 
 春の風が薫る桜並木を歩くと、私立東征第一高等学校の正門が見えてきた。入学式と書かれた白い看板の周りでは、真新しいクリーム色のブレザーを着た生徒たちが、家族らと記念写真を撮影している。
 そこへ、場違いな学ラン姿の二人組がマントを翻して現れた。おまけに一人は帯刀している。
何事かという視線が一極に集まるが、トラブルが起こるような雰囲気ではない。何かのイベントだと思っているのだろう。
「見たまえ、僕らは注目されているぞ」
慧花が手を振ると、その先にいた女生徒たちは頬を染め、忙しなく髪を整えた。
「それはそうだろう、この格好ではな」
 真悟が一瞥をくれると、その先にいた男子生徒は居住まいを正して頭を下げた。
「くくく、同じ格好をしていても随分な違いだな」
「ほっとけ。それで、あれはどうするのだ」
 真悟が顎で示した先、正門付近には教職員らしい女性が立っていた。遠目にも、こちらを警戒していることが分かる。
「まあ、見ていろ」
 近づいてきた女性に、慧花がぱちりとウインクをした。
「ご苦労様。その服、よく似合っているよ」
「えっ……あ、ありがとうございます」
 二人を呼び止めようと、手を上げかけていた女性は、赤面をしてその手を頬に添えた。
正門を通った慧花は振り返り、なお自分に注がれ続けている視線に手を振って応えた。キャーキャーと黄色い歓声が上がる。
「どうだい、美しい人間は悪徳さえ美徳に変えるものだ。例え君が、花壇の花を摘んで非難されることがあっても、僕であれば美しい絵画を見る心持を与えるだけなのだ」
 得意気に語る慧花の肩を、真悟は肘で強めに突いた。
「なんだ、妬いているのかい」
「誰が誰にだ」
「案ずるな、君もどうして愛嬌のある顔をしているよ。特に目が良い。深みのある優しい色をしている。僕は好きだぜ」
 横を歩く慧花が、真悟を見上げながら言う。初めて顔を褒められた真悟は、気恥ずかしくなって目を逸らした。
「ふふふ、照れた顔も可愛いぞ、君。さて先ずは、教室分けの発表を確認するのだったな」
少し先の広場では、白い看板の前に人だかりが出来ていた。しかし看板を見ている者は少なく、その好奇の目は既に近づいてくる二人へ向けられている。
「ねえねえ、あの人、素敵じゃない?」
「やだ、うそ、モデルとかかな」
「隣の大きい人は何かしら」
「マネージャーとか」
「ボディーガードじゃないの」
 好き勝手に言ってくれる、と真悟は小さく息をついた。
 しかしなるほど、芸能人のマネージャーとはこんな感じなのかもしれない。注目されてはいるが、メインは慧花であり、自分は付属品のような雰囲気だ。お陰で何となく気が楽である。
「喜べ真悟、僕らは同じクラスのようだぞ。1年B組だ」
 掲示板を確認してきた慧花が、目を輝かせて言った。
 ああそうか、と真悟が答えるより先に、周辺の女生徒たちから、
「やった、同じクラスだ!」
「ああ、残念」
などと声が上がった。
 
 入学式が始まる前に、真悟と慧花は校長室へ呼び出された。白い髭を生やした、丸く太った校長先生が二人を出迎える。案の定かとマントに手をかける真悟だったが、要件は制服のことではなかった。
「ほっほ。久方ぶりですね、慧花君。元気そうで何よりです」
「やあ、神徳。その節は世話になった」
 慧花が差し出した手を、校長が恭しく頭を下げながら握る。それが対等な立場同士の握手でないことは明らかだった。
慧化は式原の屋敷に出入りをする以外の人間とは会ったことが無いと言っていた。つまりこの校長は、式原の息が掛かった人間だということだろう。
「お呼び立てして申し訳ないが、これも職務のためご容赦頂きたい」
 慧花は校長から『新入生宣誓』と題された紙を受け取った。東征第一高等学校では、入試における成績の上位者が入学式で宣誓を行うことになっているらしい。今年は真悟と慧花が並んでトップの成績を収めたということだ。
「凄いぞ、真悟。これなら式原の口添えなど必要なかったではないか。友人として鼻が高いというものだ」
分かってはいたが、やはり慧花が裏で便宜を図っていたようだ。そうであれば、同じクラスになったのも偶然ではないだろう。
「さすがは、慧花君のご学友ですな」
「そうだろう、僕の自慢の友人だ」
真悟もまた、慧花がトップの成績であることに驚いていた。しかし厳しい家柄に育った彼は、望むと望まないに関わらず、そういった教育を受けてきたのかもしれない。
 真悟は中学でも常にトップの成績を収めていたが、別に勉強が好きだというわけではなく、目標があったというわけでもなかった。部活に入らず、特に趣味もなかったので、暇つぶしに教科書を開いていただけのことである。もっとも負けず嫌いの性格が、難解な問題に立ち向かおうという姿勢の役に立ったことは確かだった。
新入生宣誓は、該当者が二名並んでいた場合、名前順の早い方が代表として壇上に上がることになっている。式原と高月では、式原の方が優先されるということだ。
「……僕が?」
「ほっほ。よろしく頼みますよ」
 結局、制服についてのお咎めはなかった。これも式原の持つ権力なのだろうか。どうやら今後も、この学ランを着て高校生活を送ることになりそうだ。
 しかし慣れというのは恐ろしいもので、既に真悟は、この学ランを着ていることに大きな抵抗を感じていなかった。隣にいる慧花が、それ以上の注目を集めていることが理由だろう。慧花の隣にいれば、自分の存在が大きく霞むのだ。それこそ芸能人とマネージャーのように。
 真悟と慧花は、校長室を出て体育館へ向かった。
道中、真悟はある異変に気が付いた。先程から、慧花が黙ったまま喋らないのだ。
「どうした、具合でも悪いのか」
「……え? ああ、いや、なんでもない」
 妙な感じだが、真悟は気にせず歩みを進めた。その後ろを、覚束ない足取りで慧花が付いて歩く。
「すまない、ちょっとトイレに入ってくる」
「おい、そっちは女子トイレだぞ」
「ふえっ? あ、ああ、そうだった。こっちじゃない、こっちじゃなかった。あ、あはははは……」
 乾いた笑い声を上げながら、慧花は男子トイレの個室へ入っていく。
 
静かな緊張感に満たされた体育館の、右手最前列に二人は座っていた。クラスメイトたちから離れた場所に座っているのは、式の中盤で新入生宣誓をするためだ。
壇上での宣誓は慧花の役割だが、同じくトップの成績を収めた真悟も紹介を受けることになっている。この席に座っているということは、非常に名誉なことなのだ。そのため浮いた格好の二人ではあったが、それがかえって自然なことであるかのような印象を周囲に与えていた。
「お前、まさか緊張しているのか」
 ますます青い顔になる慧花に、真悟は先程から思っていたことを言った。友情を試そうなどと、勇んで規定違反の学ランを着て来るような慧花であるが、挙動から察するに、そうとしか考えられないのだ。
「……君、僕をなんだと思っているのだ」
 口の端を引きつらせて、慧花が答える。
「まさか君は、僕が金持ちの世間知らずで、面の皮の厚い天然愉快系な美少年だとでも思っていたのかい」
 どう見られているかの自覚はあったのか、と真悟は感心する。
「しかし、朝は注目を集めて喜んでいただろう。自分から周りに手を振っていたではないか」
「あれは君が隣にいたから平気だったのだ。それにこれは、友情の試練とは関係がない。つまり僕が僕の為にやらなければならないことだ。仮に君が宣誓をすることになっていて、それを僕が友情によって代わってやるのだったら、一向に問題はないのだが……」
「難儀な奴だな」
 呆れる真悟だったが、慧花の言葉に偽りはないようだった。事実、その手足は小刻みに震えている。
「それなら校長に言って、代えて貰えば良かったではないか」
「馬鹿を言うな。君の前で、そんなことが出来る訳がないだろう」
「ではどうするつもりだ」
 世間知らずは仕方ないとしても、こんなことで緊張するタイプだとは思っていなかった。
 真悟は慧花に始めて会った時のことを思い出す。あの時の慧花は、ミステリアスな雰囲気を纏った、余裕のある立ち振る舞いだった。
しかし真悟と話をすることが決まると、やれクッションだ、カイロだ、お茶だ、お菓子だと、あくせく気を回していたものだ。今から思えば、あれは打算的な行動ではなく、慧花の素の状態だったのかもしれない。
 真悟の前では何かと強気に振舞う慧花であったが、育った境遇を考えると、むしろ無理をしていたのだと解釈するほうが自然だろう。二人だけで居る時はともかく、こうして初めて多くの他人の前に出たのだから、その勇気が揺らいだとしても不思議はない。
「すまない真悟、ちょっと手を貸してくれ」
 真悟は言われるままに、手のひらを上にして差し出した。慧花の小さな手が上に乗せられる。それは冷え切っていて、汗でぐしょぐしょになっていた。
「おい、おかしな誤解をされるだろうが」
 離れようとした真悟の手を、慧花は震える手で掴んだ。
「ちょっとの間でいいのだ。君の友情パワーを僕に分けてくれ」
「なんだ、それは」
 慧花が本気らしいことを察すると、真悟は溜息をついて、慧花が持っていた宣誓の紙で二人の手を隠した。
「おお、流れ込んでくるぞ。真悟が僕を思う友情パワーが」
「……特に何も思っていないのだが」
 友情パワーなるものが存在するのかは疑問だったが、たしかに慧花の手は次第に温かく、震えも小さくなっていった。
 壇上の教職員がマイクのテストを済ませると、私立東征第一高等学校の入学式が恙無く進められていく。
 
「おい、そろそろだろう」
 横目で慧花を見ると、顔色もだいぶ良くなっていた。瞳には自信の色が輝き、唇にも血の気が戻っている。
「まだだ、ギリギリまでパワーを貯めておきたい。壇上で一気に放出する」
「なんの格闘漫画だ」
「……よし、もう大丈夫だ。これで五分は持つと思う」
 真悟の手から、すっかり熱を帯びた慧花の手が離れる。手のひらは汗でびっしょりと濡れていて、どちらの汗なのかはもう分からない。
『――続きまして、新入生宣誓。一年B組、式原慧花。並びに一年B組、高月真悟、起立』
 名前を呼ばれた真悟と慧花が立ち上がる。同時に「おお」というどよめきが起こった。
それには宣誓を行う最優秀生徒が二人居たということ、周りとは違うおかしな制服を着ていたということ、そしてその一人が「式原」の一族であり、既に話題となっている美少年であったことへの関心などが混在していた。
『宣誓は代表して、式原慧花が行います』
そんな浮ついた体育館の雰囲気を振り切るように、慧花は颯爽と階段を上った。真悟はその後を付いて行き、舞台袖で立ち止まると、演台へ向かう慧花を横目で見送った。一時はどうなるものかと思ったが、この様子なら問題ないだろう。
慧花は自信に満ちた表情で、自分へ向けられる多くの視線に相対している。宣誓の紙を開き、声を出そうとしたその時だった。
体育館の中ほどで、小さな悲鳴が上がった。貧血を起こした生徒が倒れたようだった。教員の何人かが生徒の元へ向かい、介抱をしながら体育館を出て行く。その一連の流れは張りつめた入学式の雰囲気を弛緩させた。
教職員より「具合の悪くなった生徒は直ぐに申し出るように」とのアナウンスが流れ、入学式はようやく緊張感を取り戻す。
 舞台袖にいる教職員が、慧花に手振りで「始めてくれ」と合図をした。しかし慧花は、それに気付いていない――――否、動けないのだ。
 その顔は青ざめ、手と足は真悟の位置からでも分かるくらいに震えていた。
 ギギギギ、と音がしそうな具合に、慧花がこちらへ顔を向ける。表情は崩していないが、尋常ではない量の汗をかき、ぱくぱくと口を動かしていた。貧血騒ぎが起きている間に、友情パワーとやらが切れてしまったようだ。
ここで失敗をしてしまえば、慧花には大きなトラウマが残る。真悟は助けを求めている友人に、答えないわけにはいかなかった。
 教職員が並ぶ椅子へ向かって一礼をすると、演台へ向かって歩き、慧花の横に立つ。
「世話の焼けるやつだ」
 小さな声で言い、慧花が両手で持っていた紙の左端を手に取った。疎かになった慧花の左手が演台の下に隠れると、その手を握りしめる。ここなら死角になり、誰からも見えないはずだ。
「真悟……」
「後は任せたぞ」
 慧花は笑顔で頷き、前を見据えた。
宣誓の言葉を、一言一句ずつ噛みしめるように発していく。
気が付けば、慧花はもう紙を見ていなかった。この小さな手に、どれだけの力があるのだろうと真悟が驚く程に、慧花は力強く真悟の手を握りしめていた。
 宣誓が終わり、式場は大きな拍手に包まれる。そっと手を離した二人は頷きあって、壇上から降りて行った。
 
 
 
「友情! なんと素晴らしいものだろうか!」
 夕食のおかずを円卓に並べながら、慧花は何十回目とも分からない感嘆の声を上げた。真悟はそれを無視して、ベッドに寝転がりテレビのニュースを眺めている。その画面を遮るように、慧花が顔を出した。
「なあ、君もそう思うだろう」
「うるさい」
 真悟はうんざりとした表情で、慧花の頭をぐいと横にやる。
「君は窮地に陥った僕を救ってくれた。あの手の感触を思い出すだけで、僕は体の奥から勇気が溢れてくるのを感じるのだ」
学校でのレクリエーションが終わり、そのまま買い出しに行ってからというもの、慧花はずっとこんな調子だ。
「友情が持つ力の素晴らしさは知っていた。だが実際に体験してみると、この喜びはひとしおだ」
「そこまで言われる程のことをした覚えは無い」
「君にとってはそうかもしれない。しかし僕にとっては天地がひっくり返る程の感動だったのだ。今の僕には何だって出来そうな気がする」
 おかずを並び終えた慧花は、真悟の隣にちょこんと座った。太ももと太もも、肩と肩が触れている。真悟が横にずれると、同じ距離だけ慧花が身を寄せた。
「何だよ、おい。離れろ」
「恥ずかしがることはない。僕らは友人同士ではないか」
「食べにくいから離れろと言っているのだ」
「いやいや、これくらいの試練、僕らならクリア出来るはずだ」 
「クリアするとかしないとかの問題ではない。一体どこの友人が、身を寄せ合って飯を食べるというのだ」
「甘いぞ、君。僕らが目指しているのは普通の友情関係ではない。それを遥かに超えた畢竟友情だ。何事も向上心が大切なのだ」
「向上すれば良いという訳ではない。その方向を間違える奴は馬鹿だ」
「間違ってなどいない。僕らの友情は、死せる湖に放り込まれた二つの宝石のように、全方向へと波紋を広げていくのだ。普通の友人がやらないことこそ、探究心を持って進まなければならない」
 真悟はテンションの収まらない慧花を嗜めたが、熱に浮かされたような慧花は、まったく聞く耳を持たない。
「君、口を開けろ。僕が食べさせてやる」
 甘い香りの卵焼きが、口先へと運ばれていた。無言で口を閉じていると、ちょいちょいと唇の先に卵焼きが触れる。
 真悟は箸を置き、慧花の手首を押しのけた。
「何を考えている」
「何って、食べさせっこだ」
「一人で食べられるからいい」
「遠慮することはない。さあ、口を開けたまえ」
「そんな恥ずかしいことが出来るか」
「昨日、君は僕におにぎりを食べさせてくれたではないか。そのお返しだ」
「お返しなどしなくていい」
 真悟が無視していると、慧花はみるみるうちに悲しそうな表情をする。
「僕の願いを聞いてくれないのか」
「……面倒くさい奴だな」
 真悟は小さく息を吐いた。何故、自分が悪いような空気になっているのか。
「頼む、一口だけで良いのだ」
「……わかった、わかった」
 観念した真悟は、目を閉じて口を開ける。まだ温かな卵焼きが、唇から舌の上へと入ってきた。頃合いかと口を閉じると、慧花の箸が口の中から抜かれていく。
「どうだ、美味いか」
 真悟が目を開けると、箸を手に持った慧花が、斜め下から自分を見上げている。
「普通だ。変わらん」
「では次は君の番だ。僕も卵焼きが食べたい」
「一口で良いと言っただろう」
「あれは一口ずつという意味だ。そうでなければ不公平だ」
 慧花は目を閉じて、「あーん」と口を開ける。
 まったく何をやっているのだと、真悟は呆れるばかりだった。これでは友人どころか恋人同士ではないか。なまじ慧花の外見が美少女なだけに、妙な感じがして、尚のこと性質が悪い。
「一度だけだからな」
 卵焼きを一切れ箸でつまんだ真悟は、慧花の口の手前で、これでは大きすぎると気が付いた。いったん皿に戻して半分ほどにカットする。
「まだかい?」
「黙って待っていろ」
 同じ男で、ここまで造形が異なる物なのかと、真悟は卵焼きの先にある慧花の口元を見ながら思う。そうして、小さくなった卵焼きを慧花の口の中に入れた。同時に口が閉じられると、真悟は少しだけ面白いと思った。幼い頃に動物園で、恐る恐る馬に餌をやった時のことを思い出した。
「うむ、美味いぞ。何となく君の味がする」
「妙なことを言うな」
 
 しかしその晩は、さすがの真悟も腹に据えかねた。
 深夜、違和感を覚えて目を覚ますと、慧花がすぐ横に枕を置いて、真悟の手を握りながら眠っていたのだ。
 真悟は起き上がって部屋の電気を付けた。慧花は明かりに眉をひそめて、何事かと文句を言う。
「お前、そこに正座しろ。ベッドの上でいい」
「勘弁してくれたまえ。こんな夜更けに、一体何だっていうのだ」
 慧花は不満そうに口を尖らせ、小さく欠伸をする。
「なぜ俺の布団で寝ている」
「いつまた今日のように、友情パワーが切れるとも限らないからな。こうして寝ている間に充電しておけば、万が一、君から離れた際にも対応が出来る」
「お前の行為は非常識だぞ」
「別に良いではないか、一緒の布団で眠るくらい。友人同士なのだ」
「いいか慧花、良く聞け。友情を試すとか、試練を乗り越えるとか、そういった話ではない」
 慧花の世間知らずは理解している。入学式の壇上で追い詰められ、そこを助けられたことで、喜びにテンションが上がっていることも分かる。 しかしだからこそ、真悟はここで慧花に説教をしてやらなければならないと思った。
「俺たちは普通の友情を越えた畢竟友情を目指そうとしている。もちろん俺もやぶさかではない。お前が友人として、俺に信頼と好意を寄せてくれていることは素直に嬉しく思っている。出来る限りはそれに応えてやりたいとも思っている。入学式の件も、先程の卵焼きの件もそうだ。あれは相手がお前だからこそ出来たことだ」
 それを聞いた慧花は、眠そうな顔のまま嬉しそうに微笑んだ。真悟から面と向かって、はっきりと好意を伝えられたことは初めてだったのだ。
「お前が言う、乗り越えた苦難の数だけ信頼関係が作られるという主張も尤もだ。だが、何にでも向上心を持てば良いという訳ではない。それでも尚、越えてはいけない一線というものがある」
 真悟はゆっくりと、小さな子供に言い聞かせるように言葉を続けた。
「もし仮に、友情があればどんな困難でも越えられるという主張を曲げず、それを試し続けたとしよう。越えるべき試練はエスカレートしていく一方だ。お前が作った友情ノートに、レベル99の欄があったな」
 銃で撃たれそうな友人を庇って自分が撃たれる。
 家族や恋人より、優先して友人の命を救う。
「今でこそ冗談だと笑えるが、試練をクリアしていくうちに、いずれ『試したく』なってくるのではないか。際限なく相手に求め続けるということはそういうことだ。決して大げさな話ではない。行く末に待つものは、互いの自我を放棄しての心中だ。それはお前が望むことなのか」
「そ、そんな訳はないだろう」
 慧花は叱られた子犬のように、顎を引いて上目遣いに真悟を見た。
「僕は君と、楽しく生きていきたいと思っている」
「その為に必要なものは分別だ」
 真悟は守るべき分別として、二つの事を挙げた。
 一つは『自分たち以外の人間に、迷惑をかける行為はしないこと』である。賑やかし程度であれば問題ないが、他人から反感を買い、恨まれるような行為はしてはならない。いくら自分たちが楽しいからといっても、好き放題に暴れまわることは正義に反する行いだ。
 もう一つは『最低限のプライバシーを尊重し合うこと』である。
「もし俺が、トイレや風呂までも一緒に入ろうと言ったら、お前はどうする」
「……それは困る」
「そうだろう。お前が俺に言ったように、『俺たちの友情ならその壁を越えられるはずだ』と迫ったとして、それはお前が目指す畢竟友情を育てる為に必要な行為なのか」
 慧花は首を横に振った。
「俺だって、お前の信頼には答えたいと思っている。だがそれでも、俺についての全てを話せるという訳ではない。どうしたって隠したいこともある。それは慧花、お前も同じではないのか」
 慧花はこくりと頷く。
「分かってくれたのならそれでいい。もう寝るぞ」
 真悟は自分のベッドから慧花の枕を拾って、慧花の胸元に押し付けた。
「……めなのか」
 慧花は小さく呟く。
「君の手を握っては駄目なのか。友人であるのに、手を握ることも許してくれないのか」
 泣きそうな表情になって、慧花は枕を抱きかかえている。
 まるで子どもだ。
 ……いや、実際に彼は子どもなのだろう。人と接する機会の少なかった彼は、自分の行動が相手にどう思われるかを想像することが出来ない。拒絶されることにも慣れていないのだ。
「駄目だとは言ってない。俺はただ、お前に分別というものがあるかの確認をしておきたかっただけだ」
「……では、握ってもいいのか」
 すがるような視線に、真悟は頬を掻きながら答える。これでは卵焼きの二の舞だが、別段、頑なに拒絶するという程のことでもない。
「時と場合による」
 真悟は最も無難な答えを選んだ。
「そうか、良かった」
 慧花はほっとしたように、大きく息をつく。
「しかし君が言う通り、プライバシーは守らねばならない。親しき仲にも礼儀ありだ。究極の友情は、究極の尊重があってこそ。真悟の言葉、しかとこの胸に刻み込んだ」
 やはり友情は素晴らしい、これこそ切磋琢磨であると、慧花は喜んでいる。落ち込んだり喜んだり、表情の切り替えが早いものだと、真悟は思った。
「では話もまとまったところで、寝るとしよう」
 慧花はそう言って、真悟から投げつけられた自分の枕を真悟のベッドの上に放り投げた。
「……ちょっと待て。なぜ枕を戻す」
「何を言う。今し方君は、手を握っても構わないと言ったではないか」
「確かに言ったが、それは時と場合によると――」
「すると君は、手を繋ぐ云々の前に、僕と一緒の布団では寝られないということか」
 慧花は枕元にあった友情ノートを手に取った。
「友人同士で同じ布団に眠る。僕の中ではレベル12相当だったのだが、君がそう言うのであれば修正する必要があるな。どれくらいのレベルが妥当だろうか」
「妥当だとか、そういう話ではなくてだな……」
「君、そう曖昧では困る。試練にぶつかった時こそ、僕らはそれを越えるための努力をしなければならない。先程君は『それでも越えてはいけない一線がある』と言ったな。友人と一緒に眠ることが、その一線を越えるものだというのかい。僕にすら話せない事情や、どうしたって出来ない事と、同じレベルにあるというのかい」
 越えてはいけない一線を越えているかと言われたら、正直に言って、それ程の事ではないと答えるしかない。
「単に恥ずかしいのだ」
「それなら気にすることはない。恥ずかしいのは最初だけだ。すぐに慣れる。男同士なのだから、気を使うこともないだろう」
 お前は自分で鏡を見たことがあるのかと、真悟は小一時間ほど問い詰めたい気分だった。慧花の見た目が美少女ではなく、自分と同じようなむさ苦しい男であれば少しは……と真悟は想像したが、それはそれで非常に嫌だった。
「いびきがうるさいかもしれんぞ。あと歯ぎしりとか」
「別に構わないさ。どうしても煩ければ、耳栓を用意しよう」
嬉々としてベッドに入り込んだ慧花は、掛け布団を半分開けて、ぽんぽんと布団を叩いている。
「はあ……好きにしてくれ」
 ベッドに腰を掛けた真悟は、電気を消して、慧花に背中を向けて寝転がる。自分が余計な意識をしなければ良いだけの話だ。
「おい君、こっちを向け」
すぐ耳の後ろで、慧花の声が聞こえた。
「これでも手は握れるだろう」
真悟は腰の後ろに手を回した。このまま眠るには無理のある体勢であることは分かっているが、慧花が寝付くまでは起きている気でいた。それはどうやら見抜かれてしまったらしい。
「では僕がそちら側へ行く」
「わかった、わかった」
 真悟がため息混じりに寝返りを打つと、枕に顔を半分埋めた慧花が嬉しそうに微笑んでいた。薄明かりの中にあっても美しい黒髪が、滑らかな頬から鎖骨へと流れている。
 だから嫌なのだ、と真悟は強く目を閉じた。
慧花が男であることが分かっていても、その美しさはどうしたって意識しない訳にはいかない。自分を信頼してくれる友人を、そういった目で見てしまうことに、真悟は自らを恥じない訳にはいかなかった。
 慧花の指が手に触れて、真悟は思わず身を竦める。真悟の手を取った慧花は、慈しむように指と指を絡めてきた。柔らかな指の腹が、真悟の手の甲をくすぐるように滑っていく。
 努めて何も考えないように、真悟はじっと耐えていた。
やがて慧花の手が動かなくなり、規則的な寝息が聞こえてくる。真悟は慧花を起こさないように手を解くと、寝がえりを打って、今度こそ目を閉じたのだった。
 
 翌朝、真悟は味噌汁の香りで目を覚ました。隣に慧花の姿はなく、台所から間の長い、和風な鼻歌が聞こえてくる。
重い眠気を引き摺りながら、真悟は布団を抱えてバルコニーに出た。春の空気を胸一杯に吸い込んで、もやもやとした気持ちと共に吐きだす。
やがて台所からは、まな板を叩く規則的な音が聞こえてきた。食事は慧花が担当することになっている。この寮生活のために、慧花は毎日料理の練習を続けていたらしい。使用人の白瀬から定期的に食糧が届くということもあり、食卓には高校生が食べるにしては上等過ぎるメニューが並ぶ。
布団を何度か叩いて部屋に戻ると、慧花はエプロン姿で食器を並べていた。真悟の視線に気付くと、耳元の髪を上げながら、にっこりと笑みを浮かべる。
慧花が女であったら、100人中100人の男が押し倒すことだろう。いや、男であっても、100人中90人くらいは押し倒すのかもしれない。もちろん自分は残り10人であると、真悟は眉間に力を入れて慧花を睨みつけた。
「なにを怖い顔をしている」
「別に」
朝食では、慧花は昨晩のように側に寄って来なかった。そればかりか昨晩の件について、我儘を通し過ぎたと反省の弁を述べた。
「考えるまでもなく、手を繋がれたままでは眠りにくい。今朝、君はなかなか起きてこなかったし、目の下にもクマが出来ている。昨晩は本当に申し訳なかった。今日からは自分の布団で眠ることにするよ」
 そればかりの理由ではないのだが、とは真悟は口にしない。しかし慧花が自らの行いを省みてくれたことには安堵した。
「何より君の手を握っていては、君の背中を叩くことが出来ないからな」
 慧花は決意を込めた表情で言う。
「僕はもっと常識を学ぶべきだ。世間や他人にも慣れていく必要がある。いつまでも生まれ育った環境を言い訳に、君に甘え続けるわけにはいかない。それでは友人として対等な立場とは言えまい」
 その向上心は良い向上心だと、真悟は頷いた。慧花は賢いのだが、世間的な常識というものを知らな過ぎる。それを自ら認めて、積極的に学んでいこうという姿勢を持つことは立派なことだ。真悟は慧花の考えを、素直に賞賛した。
「しかし具体的に、何をしようというのだ」
「まずは他人と交流する機会を作ろうと思う。せっかく学校に通っているのだ。部活動を始めてみようかと考えている」
「なるほど、良い考えだ。どの部に入るのだ」
「ふふふ、当ててみたまえ」
「……そうだな」
運動部系は論外だ。屋敷に引きこもっていたせいか、慧花は基礎体力が無さ過ぎる。しかし逆に考えれば、それを克服するために敢えて運動部というのも良いかもしれない。古風で熱いノリの好きな慧花のことだから、貧弱であることをからかわれながらも、努力と根性で周囲を見返す展開などは大好物だろう。
「君の言う通り、熱血体育会系な青春に憧れなくもないが、それ以上に体を動かすのは好きではない」
 それでは文化系の部活動ということになる。その中でも協調性が求められるような部が好ましいだろう。
「吹奏楽部や合唱部あたりか。お前、何か楽器が出来そうだし」
「ああ、出来るぞ。ピアノなら幼少の頃から嗜んでいる。声もこの通り美しいソプラノボイスだ。天使に交じって歌っても違和感は無いだろう。しかし、部活動で音楽をやろうという気にはなれないな」
書道、茶道、美術、文学、演劇……片端から挙げてみるが、慧花は首を横に振った。
「僕が入るのは『畢竟友情部』だ」
「そんな部はない」
「作るのだよ、君と僕とでね」
 問題を出しておきながら、答えが無いというのは腹が立つものだ。しかし真悟の興味は、部活動の内容に移っていた。
「幸い僕には特別な力がある。占いの真似事をすれば、多くの生徒たちが興味を持つことだろう。そうして交流を深めることで、僕は庶民の常識と悩みを学ぶことが出来るというわけだ」
 庶民どころか、あの高校に通う生徒たちは相当に格の高い生活を送っている。それでも慧花からみれば、十分な庶民なのだろう。
 式術士である慧花が無料で見てくれるとなれば、それこそ行列が出来るはずだ。世は空前の占いブームであり、その業界の頂点に立つのが慧花たち式術士なのだから。
 部活動を始めるには、部員数などの制約があるだろうが、慧花が望むのであれば、あの校長がすぐにでも許可を出すに決まっている。
「もちろん本来の目的も忘れていないぞ。僕と君の友情をより深めていくために、友情ノートを充実させていく必要がある。そのネタ集めとしても、畢竟友情部の活動は役に立つことだろう。一石二鳥というものだ」
 楽しそうに語る慧花を、真悟は少し眩しく思った。慧花は生まれ育った境遇を言い訳にすることなく、世の中に適応しようと前進している。そのエネルギーは自分には無いものだと、真悟は思っていた。
「ああ、そうだ。俺も一つ、やろうと思っていることがある」
「ほう」
 高校生になったらと、前々から考えていたことだ。
「アルバイトだ。何をするかは決めていないが、生活費くらいは自分で出したい。だから曜日によっては、部活へは出られないと思う」
 慧花は「そうか」とだけ答えて、白米を口に運んだ。
真互は現在、学費や寄付金、寮費に生活費等の全てを慧花に負担してもらっているが、いずれは全額を返すつもりでいた。アルバイトはその意志表示であり第一歩である。
真悟には金が原因で他人に不信を持つようになったという経緯があり、慧花の厚意であっても、やはり有耶無耶にしたくないという思いがあった。
「高校で仕事の斡旋をしていると聞いた。放課後にでも行ってみようと思う」
「いいだろう、僕も付き合うよ」
 真悟にはどんなアルバイトが合っているかなどを議論しつつ、時計を見てみれば、そろそろ寮を出る時間になっていた。
 
 
 
 
第4章
 
真悟と慧花が高校に入学してから、今日で一週間となる。
1年B組の見目麗しき式術士と、常に隣にいる無愛想な男の噂は、既に全校に広まっていた。学ラン黒マントという異質なコスチュームも、すっかり当たり前の物として受け入れられている。
真悟は家庭教師のアルバイトを始めていた。最初は柄では無いと断ったのだが、慧花が「後学になるだろう」と強く薦めたこともあって、渋々と面接に行ったのだった。
生徒は富沢葵という小学四年生の女の子だった。母親からも気にいられ、その日に是非お願いをしたいと言われた。高校側からの『今年の最優秀成績の生徒だ』というお墨付きも効いたのかもしれない。他のアルバイトに比べて報酬が高いということもあり、最後はそこが決め手となった。
初めての授業から帰った晩、「先生と呼ばれている」という真悟に、慧花は笑って「似合っているではないか」と言った。
 
 
 高校での昼休み、中庭で雑談をしていた二人の周りには、いつの間にか多くの女生徒たちが集まっていた。
話しかけて良いものかと遠巻きに様子を窺っていた女生徒たちだが、その中の一人が意を決したように前へ出て、慧花に声を掛ける。スカーフの色から察するに最上級生だろう。
「あ、あの、一緒に写真を撮って頂けませんか」
「構わないよ」
 愛想良く慧花が答えると、黄色い悲鳴が中庭に轟き、窓のあちこちから何事かと生徒たちが顔を覗かせた。
「すいません従者さん、これ持っていてください!」
 カメラを取り出した女生徒が、鞄を真悟に押し付けた。私も私もと、真悟の両手はあっという間に荷物で一杯になる。
「……誰が従者だ」
 真悟は不満の声を上げるが、誰一人として聞く耳を持たない。撮影会が終わると、先輩たちは満足気にお礼を言いながら、洋服かけ状態となっている真悟から荷物を持っていった。
「なんなのだ、まったく」
「皆が喜んでくれているのだから良いではないか。愛想良く振舞うのは悪い事ではないよ。お陰で君も最近は、クラスメイトとよく話をしているではないか」
慧花の言うことも尤もだった。
その容貌と雰囲気から、何かと敬遠されがちな真悟であったが、隣に慧花が居ることで雰囲気が中和されている。
さらに何故だか『ご主人様に従順な家来』というイメージが広がっていて、知らない生徒からも「お勤め御苦労さま」「毎日大変ですね」などといった労いの言葉が飛んでくるようになったのだ。
日頃から警戒心の強い、仏頂面の真悟であったが、逆にそれが家来としての忠実さとして映っているようだ。さすがは式原の従者だと評判になっている。
「いっそこのまま、僕の家に就職するかい」
 くくく、とおかしそうに慧花が笑う。
「さてと、大勢の相手をしたことで、僕のエネルギーは空っぽになってしまった。緊急措置として君の友情パワーを分けて欲しいのだが」
 慧花はわきわきと手を動かすと、誰にも見られない物陰へと真悟を連れ込んだ。
「……これはもう、止める筈ではなかったのか」
「そうしたいのは山々だが、立ち上がったその日から走りだせるという訳ではない。今の僕にはまだ、君に与えられる勇気が必要なのだ」
 慧花は真悟の手を握ると、ほうと安心したように息をついた。真悟はこの姿を誰かに見られないか気が気でない。
「そうだ君、例の準備が整ったぞ」
「……例の?」
「部活だよ、部活。僕らの畢竟友情部だ。放課後に案内しよう」
 
真悟が案内された空き教室には、『畢竟友情部』という看板がぶら下がっていた。横には達筆な文字で『友情ニ関スル相談事ヨロズ承リマス』と書かれている。
 さらに入口の横には投書箱が置かれていた。ここへ投函された手紙から、相談を受ける事案を選ぶということだ。
「おお、さっそく届いているな」
 慧花が箱を開けると、中から大量の手紙が溢れ出てきた。
「見たまえ君、友情に悩む青少年たちの、いかに多いことか」
「とてもそうは見えないが」
 真悟は地面に落ちた手紙を拾う。その大半は綺麗にデコレーションされ、ハートマークの封止めが付けられていた。
「さっそく中で読むことにしよう。君にも部室の鍵を渡しておく」
 部室の扉を開けると、まず紫色の厚い布が垂れていた。手触りが良く、いかにも高級そうである。
 真悟は布を手で避けて慧花の後に続いた。中は薄暗くて、よく見えない。
 ぱちん、とスイッチが入る音がする。
部屋の内部が明らかになると、真悟は驚きに言葉を失った。
 先ず目に入ったのは、天井にかかった虹を降らせんばかりのシャンデリアである。赤い絨毯には金色の刺繍が施され、アンティークな調度品がバランスよく配置されていた。香でも焚いているのか、様々な花の香りが混じり合っているようで、異国に迷い込んだかのような錯覚に陥る。
『空き教室』の名残はない。まさに『占いの館』である。
「一度、こういった雰囲気のお店を開きたいと思っていてね。つい力が入ってしまった」
「ただの部活にここまでやるか」
「畢竟友情部はただの部活動ではないぞ。友情という名の真理を探究するための、この世で最も尊い場所なのだ」
 そんなことよりも、と慧花は扉の鍵を閉めると、忙しなく走り寄ってきて真悟の手を取った。
「これで校内でも安心して君に触れることが出来るな。残り友情パワーが3%を切っていた。危ないところだった」
「携帯の充電器か、俺は」
「ああ、そうだ、携帯といえば」
 慧花は片手を繋いだまま、鞄から二つの黄色い携帯電話を取り出した。
「これは君の分だ。今どき携帯電話を持っていないのは不便だろう」
 真悟は慧花から携帯電話を受け取った。
真悟も中学までは携帯電話を持っていたのだが、親戚からの連絡が引っ切り無しに続くのを不愉快に思い、川へ投げ捨てたのだった。
「お友だちプランとやらで、通話料が無料らしいぞ。さすが友情だ。家族や恋人では、そうはいかないだろう」
 家族プランや恋人プランもあるだろうと思ったが、野暮なので突っ込むのは止めておいた。
「金は払う」
「いや、これは屋敷にあったものを借りているだけだ。どうせ使っていなかったものだから遠慮しなくていい。それより僕は、携帯電話を持つのは初めてなのだ。これでいつでも君と話せるな」
「一緒に住んでいるのだから、使うことは少ないだろう」
「大いに使うとも。トイレの時とか、風呂に入っている時とか」
「トイレや風呂くらい、一人でゆっくりさせてくれ」
「そうだな、アルバイトが終わったら連絡をくれるといい。料理を温めておくとしよう」
 家庭教師をしている富沢家でも、携帯電話を持っていないか聞かれたものだ。これで番号を教える事は出来るが、先方の娘さんに大分懐かれているので、逆に教えない方がいいのかもしれないと真悟は思っていた。
 慧花は携帯電話を操作して、アドレス帳に登録された『高月真悟』の名前を表示して見せる。真悟がアドレス帳を確認すると、『式原慧花』の名前と電話番号が登録されていた。
「そして君、これは最新型の携帯電話で、カメラにもなるらしいぞ。皆が使っているので、僕も羨ましく思っていたのだ。折角だからカメラ付きの携帯電話にしてくれと、白瀬に頼んでおいた」
 今どきカメラ機能など付いていて当然だと思ったが、慧花が楽しそうなので黙っておくことにした。それにしても白瀬という女性と慧花は、いつどこで連絡を取り合っているのだろうか。
寮暮らしを一週間が経つが、白瀬という人間の存在を感じるようなことはなかった。慧花に言っても「白瀬は人見知りが激しいからな」と答えるばかりである。やはり本物の忍者なのだろうか。
「準備が出来たぞ」
慧花は携帯電話を持ちながら、真悟の顔に顔を寄せる。同じシャンプーを使っているはずなのに、どうしてこうも違うのだろうと、真悟は度々不思議に思うのだった。
携帯電話からシャッター音が鳴る。ご機嫌な慧花と、仏頂面の真悟の顔が鮮明に映し出されていた。
写真をメールで送ってくれというので、真悟は慧花のアドレスにデータを送った。慧花は本文の一つでも書けと文句を言っていたが、嬉しそうに初めてのツーショット写真を眺めていた。
そして例によって、友情ノートにチェックを付ける。
【携帯電話で二人の写真を撮る(レベル2・必須)】
「どれだけ僕らの写真が増えていくのか、これからが楽しみだ。もちろん僕らの画像を壁紙に使うのだぞ」
「嫌だよ、恥ずかしい」
「これはレベル21の推奨だ。さっさとクリアしたまえ」
「おいこら、やめろ」
「誰に見られるでもない。気にする事もないだろう」
 強制的に設定されてしまった携帯の画面を、真悟は溜息混じりに見やる。まるで、彼女自慢をしている男のようだ。
 さて、と慧花は机に置かれた大量の手紙を見た。相変わらず手は繋いだままである。
「どんな友情相談があるだろうか」
「期待しない方が良いと思うぞ」
 手紙の装飾から見るに、ラブレターやファンレターの類が大勢を占めていることだろう。
「君、開けてくれたまえ。僕は片手が塞がっている」
「奇遇だな。俺も片手が塞がっている」
 真悟が手を離そうと引っ張ると、慧花はイヤイヤをしながらしがみ付いてくる。
「まだ5%しかチャージされていないのだ。手を離されては困る」
「どうしろと」
「片手ずつ協力してやろう」
 しかし思っていた以上に上手くいかず、イライラの募った真悟は強引に慧花の手を振り払った
「死ぬ、死んでしまう!」
「死ぬわけがあるか」
「仕方ない。では手紙は諦めるとしよう」
「部活の本分を忘れるなよ」
「そんなことを言われても、友情パワーが10%を切った状態では、僕は読み書きもロクにできなくなってしまうのだ」
「おかしな設定を後付けするな」
「せめて充電しつつであれば何とかなるのだが。もしくは――」
 そうだ、と手を叩いた慧化は真悟の正面に立った。
「両手を開いて出してくれ。手のひらを僕に向けてだ」
 真悟が出した手に、慧花は自分の手のひらを合わせて握った。
「急速充電モードだ。二倍だぞ」
「アホか。これでは何も出来ないだろう」
「そんなことはない、ちゃんと動けるぞ。ほら」
 慧花は真悟の手を引きながら、後ろ向きに歩いて見せる。
しかし次の瞬間、慧花は大きくバランスを崩した。絨毯に落ちていた手紙を、気付かずに踏んでしまったのだ。
「わわっ!」
 倒れようとする慧花を見ながら、真悟は瞬時に考えを巡らせた。このまま力任せに手を引いて、慧花を引き起こすことは可能だ。しかし、通常の握手ではないこの握り方では、慧花の全体重が指に掛かることとなり、捻挫や脱臼の危険がある。
 それならばこの勢いのまま転倒させ、頭を打たないようにカバーしてやればいい。地面は柔らかい絨毯だから、怪我をすることもないだろう。
 真悟は流れに逆らわず、前傾に身を屈めて慧花のフォローを試みた。
 ――しかし。
 火事場の馬鹿力とでもいうのだろうか。
真悟の手を握る慧花の力が想像以上に強く、真悟は慧花に引っ張られると、覆いかぶさるように倒れ込んだ。
このままでは慧花を押し潰してしまうと考えた真悟は、転倒する瞬間に両足を開き、体重が慧花に掛からないようにカバーした。だがその配慮が、結果的にそれ以外への注意力を散漫させたこととなった。
地面に倒れた衝撃の後、「うぐっ」という慧花の呻きが、なぜか自分の口の中へ直接に響いてきたのだ。
真悟は全身を硬直させる。
 視界に入っているのは、赤いカーペットと千々に乱れた黒い髪。象牙で作られた細工物のような、白くて形の良い耳。
そして唇に感じる、少しの湿り気を帯びた、温かく柔らかい何か。間に出来た空洞から、自分のものではない吐息が流れ込んでくる。
それが『それ』だと気が付くと、真悟は慌てて顔を上げた。二人は無言のまま、しばらく見つめ合っていた。何とも言えない、気まずい空気が流れている。
「すまない、僕の不注意だった」
 先に口を開いたのは慧花だった。
「だが、気にすることはない。男同士であれば何の問題があろうか」
「そ、そうだな」
「君が動揺する気持ちも理解できる。相手が友人とはいえ、初めての接吻ともなれば混乱もしよう。だがそれは一時的なものだ。今から数年後、僕らはどこかの居酒屋で酒を酌み交わしながら、『そういやあの時さー』『いやー参ったよな、あれは』などと笑い話にすることだろう。そのネタが出来たと思えば、これは神様が与えたプレゼントと言っても差し支えない」
「そうだな。架線下のおでん屋なんて、一度は行ってみたいものだ」
「僕らはネクタイをおでこに巻いて、肩を組んで、ふらふらと歩くのだ。『部長のバカヤロー!』などと叫びながら」
「……想像してみたが、どうもお前には似合わないな。ストレスでくたびれたサラリーマンという感じではない」
「ふむ、たしかにそうかもしれん」
 どちらからともなく笑い出し、繋がれていた手は魔法が解けたように自然と離れた。慧花は後頭部をさすりながら立ちあがる。
「つまりだ、君。こんなことは何でもないことなのだ」
「まったくその通りだ。外国ではキスなど挨拶代わりだからな」
 真悟が言うと、慧花は「そういえばそうだ」と手を叩いた。
「確かに政治家も、外遊先では風習に従っているな。男性同士のキスが全世界に報道されたところで、そういう風習であれば何とも思うまい」
 真悟と慧花は、二人してコクコクと頷きあった。いつもの空気に戻ったことに、真悟は安堵する。安堵ついでに、真悟は慧花を茶化してやろうと思いついた。
「友情ノートにチェックはしないのか。『友人とキスをする』というのは」
 えっ、という驚きの表情で、慧花は真悟を見る。
「そのような項目は入れていなかったが……必要だろうか」
「冗談だ、冗談」
 真顔で返されて、真悟は慌てて手を振った。自分らしくない軽口だったと反省する。
「……いや、ちょっと待ってくれ」
 慧花は難しい顔をして、小指を下唇に当てた。
「たしかに僕は、友人同士でのキスなどおかしいと思っていた。だが君が言った通り、海外では親しい相手への挨拶にキスを行う所も多い。日本の風習に生きている僕らにとっては抵抗のある行為だが、畢竟友情を目指す僕らには、むしろ相応しい行為なのではないか。君も言ったよな。キスなど何でもないことだと。何でもないことであれば、どうして気にする必要があるのだ」
「落ち着け。何でもなくは無い。決して何でもなくは無いぞ。あれは便宜上、場を落ち着かせるために言ったのだ。実際は大問題だ」
「むう……?」
 妙な流れを断ち切ろうと、真悟は慧花の前に大量の手紙を持ってきた。
「さあ、さっそく中を見ることにしよう。皆が俺たちの助けを待っているぞ!」
「……そうだな。取りあえず今は、手紙に集中するか」
 口元から小指を離した慧花を見て、真悟は胸を撫で下ろす。
 手紙の内容は、真悟が予想していた通りの結果だった。その殆どが慧花と友だちになりたいというラブレター、ファンレターであった。
 考えてみれば畢竟友情部の看板に書かれた『友情ニ関スル相談事ヨロズ承リマス』という文言であれば、そういった手紙が投げ入れられるのも仕方が無いような気もする。
 期待外れの結果に気落ちしているかと思えば、慧花は実に嬉しそうに熱心に手紙を読んでいた。
「見ろよ。僕と友達になりたいらしいぞ」
「何でも言葉通りに受け取らないようにな」
「分かっている。でも嬉しいことだ」
「返事でも書くのか」
「いや、それでは流石に手間だ。皆をここへ招待することにしよう」
 深刻な友情相談など、そうあるわけでもない。慧花は手紙をくれた生徒たちとの交流会を開こうと提案した。
「大丈夫なのか」
「心配ない。隣に君が居るのだ」
 一度に呼ぶのは四名が限度だろうということで、慧花と真悟は手紙をくれた生徒のリストを作り、順に招待していくことにした。
 飲み物や菓子なども振る舞いたいと慧花は言った。放課後は街へ買い物に行き、来客用に食器も買い揃えた。
 
 
交流会を開こうという慧花の狙いは成功した。翌日以降、畢竟友情部のお茶会は評判となり、希望者は絶えることなく続いた。
始めこそ緊張していた慧花だったが、隣に真悟が居るという安心感もあり、次第にリラックスして皆の話を聞けるようになった。慧花の常識知らずから、時折間の抜けた質問をすることがウケたようで、遊びにきた生徒たちも何かと親切に慧花に物事を教えてくれた。
慧花が行う占いも人気だった。式眼を使っていないため、本人曰くまるっきりデタラメではあるのだが、式術士に占われては信じない訳にはいかない。そこそこに良い兆候と、深刻でない程度の注意喚起を織り交ぜた慧花の占いは、流石に当たると皆を驚かせていた。
幸いなことに、真悟の心配は杞憂に終わったのである。日を追うごとに成長していく慧花を、真悟は喜ばしく思った。
 同時に、全く変わろうとしない自分自身に、少しばかりの不安を感じていた。
 
 
そして、桜の木々がすっかり葉桜となった頃、畢竟友情部へ初めての依頼が飛び込んできた。依頼者は二年C組の木村多恵子。おかっぱ頭の大人しそうな少女である。
真悟は木村多恵子を畢竟友情部へと連れてきた。彼女のプライバシーを守るために、誰にも見つからないように配慮している。
部室内は照明が消され、代わりに幾つかのキャンドルライトが灯されていた。幻想的な雰囲気の中、真吾は木村多恵子を座席に案内する。
しばらくして、式術士の装束に着替えた慧花が現れた。その目元は二枚の札で隠されている。真悟がこの姿を見るのは、初めて出会った時以来だった。
「木村多恵子君だね。気を楽にしてくれたまえ」
「は、はい、よろしくお願いします」
装束を着ているためか、或いは式眼を開いているからか、慧花の振る舞いには神聖な雰囲気が漂っている。
小一時間前まで「おい真悟、初めての依頼だぞ」とはしゃぎまわっていた少年とは、とても同一人物には思えない。
木村多恵子は随分と緊張していた。ただでさえ小柄な彼女が、更に小さく見える。それでも此処を訪れたのだから、よほど深刻な悩みを抱えているのだろう。少なくとも冷やかしでないことは、その態度を見れば明らかだった。
「……友だちのことで悩んでいます」
声は小さいが、透き通っていて聞き取りやすい。彼女は軽音楽部でボーカルを務めているとのことだった。多恵子は緊張した面持ちながらも、少しずつ事情を話し始める。
 多恵子の友人が、最近同じバンドの男子生徒と付き合い始めた。友人の名を優子といい、中等部の頃からの付き合いだという。
優子に彼氏が出来たことを祝福してあげたいと思う反面、多恵子は次第に不和を感じるようになってきた。なぜなら多恵子は、優子の彼氏であるその男子生徒の事を好きになってしまったからだ。それを自覚してからというもの、優子とうまく会話が出来なくなっている。
慧花は小指を口に入れながら、妙子の話を真剣に聞き入っていた。
「二人とも、私の大切な友達です。私、どうしたら……」
「話は分かった。真悟、君はどうすればいいと思う」
「……なぜ俺に振る」
「なに、難しいことは考えず、思ったことを素直に言えばいい。事情を知らぬ、他人からの意見は案外と役に立つものだ」
 そういうことなら、と真吾は自分なりの答えを探す。
 これは典型的な三角関係というものだ。しかし既に、多恵子の友人たちは付き合い始めている。横から割り込もうものなら、多恵子たちの関係は間違いなく悪化してしまうだろう。
 そして、男子生徒への恋慕を捨てられるというのであれば、今日ここには来ていない。では、どうするべきか。
「友人に内緒で、男の方に告白をしてみたらどうだ」
 真吾が出した答えは、至極真っ当なものだった。断られて諦めがつけば良いし、男が多恵子と付き合うと言うのなら、それを男から伝えてもらえばいい。
「そんなこと出来るわけがないじゃないですか! 優子に嫌われたら、私……!」
 突然に怒鳴られて、真吾はたじろいだ。では、いったい他にどうしろというのか。慧花を見ると慌てた様子もなく、相変わらず小指を口に入れている。
「恋愛は罪悪だ」
慧花は静かに言った。
「罪悪とは、人を悪たらしめるものだ。罪悪に魅入られ、その身に呪いを受けてしまうと、いかに善良な人間であっても心を正常に保つことが出来なくなる」 
 慧花は腰元から、宝剣『生々七禄』を抜いた。机に置かれたキャンドルライトの明りが、銀色の刃先に滑るようにきらめいた。
「生々七碌。修祓」
ひゅう、と風を切る音がした。慧花が剣を振ったのだ。
多恵子の体がびくりと痙攣し、まっすぐ前を見たまま動かなくなる。瞳孔は開き、多恵子は何もない中空をただ見つめていた。
「おい、大丈夫なのか」
「麻酔を打ったのだ。施術の間に暴れられては困るからな。安心して見ていてくれたまえ」
 慧花は式原の屋敷からは出なかったが、式術士としての仕事は何度もこなしていると言った。
ところで、と慧花は真悟に向き直る。
「これだけの情念だ。君にも見えるだろう」
 慧花は剣で、多恵子の後方を指した。
「……何もないが」
「もっと良く目を凝らせ。僕の直感だが、君は才能があるはずだ」
 真悟は意識を集中させた。空間が僅かに揺らいだように見えた。キャンドルライトのせいかと思ったそれは、次第にはっきりと見えてきて、ついには灰色をした人影のようなものになった。
「……なんだ、これは」
「彼女を苦しめていた罪悪の正体だ」
 真悟は影を見ているほどに、心の底が震えるような不安を覚えた。押し寄せる不快感と極度の緊張に、真悟は耐え切れず目を逸らした。
「妬み、嫉み、虚栄心、自尊心……様々な感情が入り混じっているが、総じて一般的な『恋愛感情』だと言って構わない」
「こんな、おぞましいものが……」
「色恋沙汰の相談は、最も多いものだ。これだけはっきり出てくるとなると、彼女も相当に苦しんだのだろう。もはや彼女一人の力では、どうしようもない所まで来ている」
「どうするのだ」
「決まっているだろう。祓うのさ。彼女の中の『本質から生まれていない感情』を斬り伏せる」
「おい、待ってくれ。恋愛感情を祓うということは、つまり――」
「男のことが好きではなくなる」
「まずいだろう、それは」
「なぜまずいのだ。彼女もそれを望んでいる」
 真悟は言葉に詰まった。人を好きになるという感情を、真悟はまだ知らない。しかし人を好きになった感情が消されてしまうということに、重大な問題があるように思われてならなかった。
「どの道、これは本質から来る感情ではない。式眼を開いた僕の目には、彼女の本質を視ることが出来る。彼女が持つ恋愛感情は、一時的な気の迷いに過ぎないのだ」
 真吾は、多恵子の背後に現れていた灰色の影が、醜く恐ろしいものに変化していることに気が付いた。明らかな敵意を慧花に向けている。それは悪霊と形容するにふさわしい形相だった。
「君はこれを見ても、彼女の恋愛感情が尊い立派なものだと言えるのかい」
「慧花、危ない!」
 悪霊は慧花へと襲い掛かった。大きく開かれた魔物の顎が、慧花の頭に噛み砕かんとする。
しかしそれは、既に上下へと二分されていた。悲鳴ともうなりとも分からない声を上げ、黒い影は霧となって消えていく。
「調伏」
慧花は、振り下ろした生々七碌の刃を返した。
 
「……あ、私」
正気に戻った木村多恵子は、憑き物が落ちたかのような晴れやかな顔をしていた。
「さて多恵子君、気分はどうかな」
 柔らかな口調で慧花が言う。
「すごく……軽くて良い気分です。どうして私、こんなことで悩んでいたのかな。まるで目が覚めたみたい」
「それは良かった」
慧花は生々七碌を鞘に納める。
「友人を大切にしたまえ」
「はい、本当にありがとうございました!」
部屋に入ってきた時とは、まるで別人だった。あれが彼女の本来の姿であれば、どれだけ悩み苦しんでいたのかが理解出来る。
しかしそれでも尚、真悟には釈然としない思いがあった。多恵子が去った後、真吾は黒い影が消えていった中空を見つめていた。先程までここに、彼女の思いがあったのだ。
「君の疑念も理解しているつもりだ」
 顔に札を付けたまま、慧花は言った。式眼が閉じるまでに時間が掛かるらしく、慧花は真悟を見ないように顔を背けていた。
「人が人を好きになる。それは抗い難い程に魅惑的で、神聖な衝動のように思えるものだ。しかし事実としてはそうではない。君も見て感じたはずだ」
「……ああ」
 真悟が、あの灰色の影に感じたもの。それは真悟が最も疎んじている、独善的で身勝手な醜い感情の塊だった。だがそれでも、あれは間違いなく恋愛感情だったのだ。
「お前が彼女を救ったことは確かだと思う。だがもしかしたら、彼女と例の男と付き合うような未来もあったのではないか。そういった可能性を消してしまったということにはならないのか」
「そうなるのであれば、自然とそうなる」
君も理解しているだろう、と慧花は言葉を続けた。
「僕は過剰な感情を消しただけで、彼女の記憶を消したわけではない。もし彼女に『本当に男のことが好きになる理由』があれば、再びそれに気付くことになるだろう。僕が行ったのは、緊急措置のようなものなのだ。罪悪を前に正体を失った人間に、その真実の価値を認識させるだけの心の余裕を与える。それでも罪悪に飲み込まれるのなら、それまでの話だ」
慧花の説明は、真吾にとってある程度の納得がいくものではあった。
しかし、恋愛というものはそういうものなのだろうか。明確な理由なくして、人を好きになることは許されない事なのだろうか。
 
数日後、屋上で昼食を取っていた二人は、校庭に見覚えのある人物を見つけた。
木村多恵子だ。
隣にいるポニーテールの女生徒が友人の優子だろう。優子の側には優しそうな顔立ちをした男子生徒が寄り添っている。
「僕の言った通りだろう」
 慧花はその方向を顎で指し、「ふふん」と鼻を鳴らした。
 それは、彼女らの友情が無事守られたことを言っているのではない。なぜなら多恵子の隣には、別の男子生徒がいたからだ。手を握り合い寄り添う姿は、むしろ優子とその彼氏よりも仲が良さそうに見える。この幾日か、恋愛感情を祓う正当性について思い悩んでいた真悟が馬鹿に思えるくらいのイチャつきっぷりだ。
「……あの恋愛感情は、本質からくるものなのか」
 少々の苛立ちを感じながら、真悟は言った。
「依頼を受ければ視てやるが、僕は興味ないね」
 慧花はくるりと反転し、屋上の柵に背中を寄りかけた。
「恋愛など、くだらぬものだ」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第5章
 
この頃、慧花の様子におかしな点があった。
 二人で校内を歩いている時に、不意に舌打ちをしたり、小指を痕が付くほどに噛んだりしている。
――忌々しい。
――何とかしなければ。
 そういった不穏な呟きを繰り返していた。
 何事かと真悟が問いかけても、「心配は無用だ」と首を振るばかりである。
 
 そんな折、原因は向こうの方からやってきた。
 部室に入ってきた女生徒を見ると、慧花は今まで真悟が見たことのない、苦々しげな表情を浮かべて言った。
「……来たな、罪悪め」
「罪悪とはご挨拶ですわね、式原慧花君」
一目で純粋な日本人でないと分かる、彫りの深い顔立ち。月夜のススキを梳いたような柔らかな髪が、年齢以上の大人びた雰囲気を醸し出していた。
「二年A組、御鐘詩然(みかね・しぜん)と申します。以後、お見知りおきください」
 慧花から向けられる敵意を込めた視線を、たおやかな笑顔で受け流している。
 直接に話したことは無いが、真悟は彼女を知っていた。というより御鐘詩然は、式原慧花と並んで校内で知らぬ者のいない有名人だ。
 生徒会で書記を務めている彼女は、その容姿と人望から圧倒的な人気があり、次期生徒会長は間違いないだろうと言われている。また噂では、彼女の母はとある北欧の国の王族に縁があるらしい。
それが事実であるかはともかく、たしかに彼女はそこに居るだけで、お姫様と形容するに相応しいカリスマを漂わせていた。
『御鐘先輩と式原だったら、どっちが好みだ』などという話題を、真悟はたびたび耳にしている。西洋美人と和風美人の代表格として、二人は何かと比較に挙げられているようだ。そもそも慧花は男であるのだが。
 その和風美人代表である慧花はというと、警戒心全開の番犬のように唸っている。人気を争うライバルを意識してのことだろうか。
そう考えた真悟は、馬鹿らしいと即座に否定した。慧花がそのようなことに拘る訳が無い。
「初めまして、高月真悟君」
 詩然が真悟を見て微笑んだ。春風に揺れるレースのカーテンのような、暖かく柔らかな微笑みだった。
 真悟は僅かばかり姿勢を正して、自然な風を装って会釈をする。
 彼女の為なら死ねると豪語していたクラスメイトの気持ちが、真悟は少しだけ理解できたような気がした。
「畢竟友情部のご活躍は、かねがね聞いております。私も是非、ご相談に乗って頂きたいと思いまして」
「生憎だが、今日は店じまいだ」
 慧花はにべもなく断った。まだ放課後になったばかりである。
慧花の明らかな拒絶にも、詩然は表情を変えることがなかった。
「それは残念です。ではまた明日、お伺いいたしますね」
「明日も明後日も予約で一杯だ。貴様を見ている暇などない」
「おい、慧花」
 いくら何でも先輩相手に失礼だろうと、真悟は慧花を窘めた。
「何をそんなに苛ついている。先輩とは知り合いなのか」
「いや」
「いいえ」
 二人の返答が被る。慧花はそれすら不快に感じているようだ。
「真悟、その女に近づくな。見た目に騙されるなよ。式眼を使うまでもなく僕には分かる。その白々しい能面に隠された、下衆な欲望と、醜く狡猾な精神がな」
「ふふ、酷い言われようですわね」
 慧花の暴言にも、御鐘詩然は気にした風もなく微笑んでいる。
 真悟には、慧花の言葉の意味が理解できなかった。
真悟は他人に対して、人一倍強い警戒心を持っている。そのため人の嘘やごまかしには、非常に強い嗅覚を持っていた。
しかし詩然を見ていても、慧花が言うような悪意の欠片すら感じることが出来ない。慧花が何の根拠もなく、そのような事を言うとは思えないのだが、何かを推測するには材料が少なすぎる。
「私だって、皆さんと同じ一高の生徒ですもの。皆さんの悩みを聞いて、私の悩みは聞いてくれないだなんて、意地悪なことだと思いませんか。 ねえ、高月君?」
 詩然は小首を傾げながら真悟を見た。急に話を振られて、真悟は「はい」と生返事をした。
「お友だちの高月君も、こう仰っていますけれど」
「断る」
 一切の交渉を拒絶するように、慧花はそっぽを向いた。
「それでは仕方ありませんね。今回は、高月君に相談に乗って頂くことにいたしましょうか」
「なっ!」
 そっぽを向いていた慧花が、冷水を浴びせられたかのように両手を構えた。
「いえ、俺は慧花の手伝いをしているだけなので……」
「でも、高月君も畢竟友情部の部員なのでしょう。話を聞いてくれるだけでも助かりますわ。それに……私にとってはその方が、都合が良いかもしれませんし」
 詩然は微笑み、意味ありげに伏せた目を慧花に向けた。慧花は詩然を睨みつけたまま、「上等だ」と顎で椅子を指し示した。
 
 一言も発せず、向かい合っている二人の前に、真悟は紅茶のカップを置いた。
「ありがとう、高月君」
 完璧な笑顔で詩然が礼を述べる。
自分の紅茶を持った真悟が、慧花の隣の席に座ると同時に、慧花が口を開いた。
「御鐘詩然。お前の目的は分かっている」
「話が早くて助かりますわ」
 それきりまた、二人は黙りこんでしまった。
話の見えない真悟は動きようがない。校庭からは運動部の掛け声が聞こえてくる。真悟にはそれが、酷く遠い世界の事のように思われた。
「お前の目的は真悟だ」
 唐突に慧花が言った。
「その通りです」
 紅茶のカップを置いて、詩然が平然と答える。
「私は高月君と、お付き合いをしたいと思っています」
「……は?」
 真悟は耳を疑った。
「ちょ、ちょっと待ってください。それって――」
「もちろん、恋人同士になりたいという意味ですわ。私は高月君に興味があるのです」
 詩然は真悟をじっと見つめて言った。
「真悟。君は気付かなかったようだが、この女はしばらく前から、君の事をストーキングしていたのだ」
「……ストーキング?」
「人聞きが悪いですわ。好きな人を少しでも見ていたいと想うのは、恋する女の子であれば誰だって同じことです」
 恋する女の子だと、と慧花は吐き捨てるように言った。
「こちらへ接近しないのであればと、僕も大目に見ていた。真悟に余計な心配をさせる必要も無いからな。しかし貴様の方から乗り込んでくるとは、返って好都合だ。この際、はっきり言っておくが、真悟には恋人など必要ない」
「あら、どうして式原君がお答えになるのですか。私は高月君のお返事が欲しいですのに」
「僕が真悟の友人だからだ」
「友人であれば、友人の恋路を応援するべきではありませんか」
「笑止。女狐に騙されようとする友人を、見過ごす訳にはいかぬ」
 再び睨みあう両者を、真悟はただ見ていることしか出来ない。
初対面であるはずの二人が、どうしてこうも言い争っているのか。そして何より理解できないことに、その理由が自分を巡ってのことなのだ。
「……あの、御鐘先輩。失礼ですが、何かの冗談ですよね」
 真悟は彼女のことを何も知らない。
そして彼女もまた、真悟のことを知らないのだ。
「冗談などではありません。私は高月君のことを知りたいのです。もっと近くでお話をして、声を聞きたいと思うのです。『好き』というより『好きになれそう』といった方が適当なのかもしれませんね」
「何を純情ぶっている」
 慧花は苛立ちを隠さずに、会話に割って入る。
「下品な女狐らしく、所構わず発情するのは自由だ。勝手に何処ででも発散するがいい。だが、淫猥な目で僕の友人を汚すことは許さないぞ」
「慧花、先輩に対して言い過ぎだ」
「言い過ぎではない。現にこの女は、君に淫らな感情を抱いている。君の体が目当てで近づいているのだ」
「お前、なにを……」
 不意に真悟と詩然の視線が絡まった。上品に微笑む詩然は、欲情などという言葉からは最も遠い場所に居るように思える。
「ご友人を心配するのは結構なことですが、貴方は高月君をそこまで信用していないのですか」
「……なんだと」
 慧花の表情が気色ばむ。
「仮に私が式原君の言うように、不埒な目的で高月君に近づいているのだとしましょう。それで高月君は、式原君の助言を聞き入れることもなく、欲望に屈してしまうほど弱い人間だと思っているのですか」
「馬鹿を言うな! 真悟は高潔な精神を持った人間だ。貴様の誘惑になど負けるはずがない!」
「それならば何故、そこまで私を恐れているのです。高月君の口から拒絶させれば良いだけの話ではありませんか」
 慧花と詩然が、同時に真悟を見た。
「いいだろう。さあ真悟、はっきりと言ってやれ。恋愛は罪悪だ。そんなものに感けている暇は無いとな」
「いいえ。高月君は、私の申し出を無下に断ることなどしないはずです」
 詩然は余裕をもって言葉を続ける。
「私がこうして、勇気を持って自分の心を打ち明けたのです。高月君なら私の気持ちを尊重して、私について知り、それから答えを出しても遅くないと考えるでしょう。そんな誠実な高月君だからこそ、式原君も彼を親友だと認めているのではないですか」
「そ、それは……」
 慧花に言葉に窮した。
 相手の誠意に対しては、誠意をもって答えるべきだと、真悟は常から考えている。それは自分が相手を信頼しているか否かとは別の問題だ。
 親戚に裏切られた真悟が、せめて自分自身はそうは成るまいと、他人に対して誠実で在りたいと願う自尊心である。
慧花と出会った日、荒唐無稽な慧花の提案を受け入れようと考えたのも、相手の真意を理解しようという真悟の真面目な精神に依るものだ。慧花自身がそれを否定することなど出来る筈もない。
とはいえ真悟も、すぐに詩然の申し出を了承しろと言われても困る。
無下に断ることはしないにせよ、二つ返事で答えられるような問題ではない。何しろそれは、恋人同士になるということなのだ。
「申し訳ございません。私も少し急ぎ過ぎたようです。いくら高月君でも、この場で返事をするということは出来ませんもの」
停滞する真悟の思考に、助け船を出したのは詩然だった。
「そこで提案なのですが、高月君とは一先ず、お友だちから始めさせて頂きたいと思うのです」
 それは無難な提案であるように思えた。ただし、真悟と慧花の事情を知らない第三者が聞けばの話である。「お友だち」という詩然の言葉を聞いた慧花の表情は、ますます険しいものとなっていた。それを知ってか知らないでか、詩然は火に油を注ぐような提案を続けた。
「それで、私も畢竟友情部へ入れて下さるというのはいかがでしょう」
「ふざけるな!」
 叫ぶように、慧花は拒絶をした。
「ここは僕たち二人の場所だ! 誰であろうと入れさせるものか!」
「あら、それは残念です」
 詩然はさほど残念ではなさそうに、頬に手を当てた。
「では、こういたしませんか。私は友情部の邪魔は一切いたしません。お二人が話をされている時は近づきませんし、この部室にも式原君の許可なくは訪れません。その代わり『一日一五分』だけ、私と高月君の二人だけで会わせて頂けませんでしょうか。それで高月君が、もう会いたくないと仰いましたら、私は二度と高月君に近づかないとお約束いたします」
 
「……二人だけで、だと」
 慧花は反応に困っているようだった。
一日一五分という詩然の提案は、あまりに小さいもので、そこに別の意図があるのではと考えない訳にはいかなかった。
「これでもだいぶ譲歩したつもりですよ」
 詩然の微笑みには、微かに挑発の色が見てとれた。それは気のせいとも思えるくらいに、本当に僅かな変化だった。
「式原君は先ほど、恋愛は罪悪だと仰いましたね。私の考えはまるで反対です。せつなる恋の心は尊きこと神のごとし。恋愛こそが人間の最も尊い感情で、生きる喜びを与えてくれるものだと信じています」
「はっ、いったい恋の何処に神聖さなどがある。恋愛感情など、薄皮一枚をめくれば醜い情欲の塊でしかない」
 慧花は詩然の主張をせせら笑った。
「恋愛は性欲の詩的表現を受けたものに過ぎぬ。醜い蟲に変化した恋人を、お前は愛することは出来るのか。答えは否だ。真に窮地に陥った人間を救えるのは、恋愛などではなく友情なのだ」
「出来ますとも。例え恋人が醜い蟲に変わったとしても、私は彼の元を離れることはありません」
「お前ならそう答えるだろうと思っていた。だがそれこそが虚構だ。恋愛など騙し合いでしかない。それ故に人は惑い傷つくのだ」
「確かに恋愛には虚構という一面もあります。しかし相手の為に自らを偽り、尽くす精神の何と崇高なことでしょうか。人間の徳は本音に出るのではありません。相手を思いやる建前にこそ出るのです」
「お前に真悟が騙しとおせるものか」
「騙すつもりなどありませんよ」
 詩然は穏やかに笑った。
「それで高月君、私の申し出を受けてくださるのかしら」
 君に任せる、と慧花の目は語っている。
 詩然が求めたのは、一日のうちたった一五分だ。真悟が続けたくないと言えば、それも直ぐに止められる。
 慧花は式術士だ。式眼を使ってなくとも、経験からある程度は人の本質を見抜く事が出来るのかもしれない。その慧花が言うのであれば、詩然という人間を見た目だけで判断するわけにはいかない。
 ただやはり、彼女の真意が何であれ、理由なく拒絶するべきではないと思った。誠意を以て答えを求められたのなら、誠意を以て答えるべきなのだ。
そして真悟は、先程の詩然の言葉に強い関心を持っていた。
――人間の徳は本音に出るのではなく、建前にこそ出る。
 彼女の言葉や振る舞いが、全て建前による虚構であるのならば、これほどまでに多くの人に信頼され、愛されるような存在になれるのだろうか。自分や他人に嘘をつきながら、後ろめたいとも思わず、美しく笑って生きていけるものなのだろうか。
「……わかりました、御鐘先輩。その条件で良いのなら」
 慧花は驚く様子もなかった。真悟の性格を知っているからこそ、そう答えると分かっていたのだ。だからこそ最初から、詩然を近づけたくなかったのだろう。
「どうぞ、詩然とお呼びください。一日一五分とはいえ、私たちは恋人同士なのですから」
「おい御鐘、調子に乗るなよ。誰が恋人だ」
「あら、お友だちになってはいけないと言ったのは、式原君ではありませんか。それとも私を、畢竟友情部へ迎え入れてくれるのですか」
 慧花は舌打ちをして目を逸らす。
「どうせすぐに終わる」
「ふふ、それはどうでしょうか」
「言っておくが、一五分以上の真悟との接触は一切認めないからな。電話やメール、手紙のやり取りも不可だ。校内で話しかけることも許さない」
「ええ、私もそのつもりです。しかし連絡が取れないのでは、待ち合わせの場所すらお伝え出来ません。電話番号くらいは教えて頂きませんと……」
 渋々と認める慧花の前で、真悟は詩然と電話番号とメールアドレスの交換をした。
「勿論この事は、他言は一切いたしません。私と高月君が付き合っていることなんて知れたら、学校中が大騒ぎになってしまいますからね」
 詩然は立ち上がり、真悟にだけ分かるように小さくウインクをした。
「それでは高月君。明日からよろしくお願いいたします」
 綺麗なお辞儀の後、スカートの端を静かに翻して、御鐘詩然は部室を出ていった。
 扉が閉まり、溜息を吐いたのは慧花だった。
「僕は君の高潔な精神を理解している。一時の情欲に溺れるほど、軟弱な精神ではないと理解している。しかしそれでも尚、恋愛には警戒しなければならない。恋愛は罪悪だ。過去多くの智者たちが、その崇高な理念を、魂を、つまらぬ色恋沙汰で犠牲にしてきた」
 慧花が言うことは、真悟にも理解できた。恋愛の素晴らしさを謳う言葉以上に、その苦しみや絶望に打ちひしがれた人間は多いはずだ。
「僕は君の高潔な精神が、恋愛における裏切りによって傷つけられてしまわないかが不安で仕方ない」
「心配するな。本当に付き合う訳ではない。一日一五分、話をするだけだ」
 強く小指を噛む慧花の腕を、真悟が引いた。
慧花の白い指先には、赤く歯の痕が付いている。せっかく離したそれを、慧花はまた口の中に含んだ。
 
 翌日から、真悟と詩然の逢瀬が始まった。
不安そうな慧花を畢竟友情部に残して、真悟は詩然からのメールで指定された、生徒会室の隣にある生徒指導室へと向かう。
 そういえば、慧花以外の人間と二人きりで話すのはいつ以来だろうか。
たった一五分とは言え、自分に興味を持っているという女生徒と会うということに、戸惑いや緊張がないわけではなかった。
 ただそれ以上に、真悟は御鐘詩然を警戒していた。
人が行動を起こす際には、必ず何かの目的がある。もし彼女の目的が真悟ではなく、別にあるのだとすれば、それは間違いなく式原家だろう。
式原慧花が持つ影響力は、国を裏から支える『式御三家』のバランスを変える程のものだ。それに関わる人間が、慧花の妨害や調査に当たることは当然であるように思える。
慧花自身が与り知らぬ場所で、何かが動いていることを想定しておく必要があった。式原家の影響力を考えれば、むしろこれまで何の障害もなく日常が過ごせていることこそ不自然に思えた。
 もし御鐘詩然の目的が慧花であるならば、盗撮や盗聴をされている可能性もある。迂闊なことを喋る訳にはいかない。
 決意と共に扉をノックする。
中から「どうぞ」と声が聞こえた。
「お待ちしておりました、高月君」
 女性らしい柔らかな笑顔で、詩然は真悟を出迎える。真悟が部屋に入ると、詩然は扉の鍵を閉めた。
「そちらにお掛けください」
 真悟は椅子に腰を掛けて、壁に掛かった時計を見た。
現在時刻は一五時四六分。秒針が平時より、ゆっくり動いているように見える。
「お飲み物は何がよろしいですか。お茶とコーヒー、紅茶があります」
「……では、お茶で」
「はい、かしこまりました」
 奥へと消えた詩然は、暫くしてお盆にお茶を乗せて戻ってきた。生徒会室と指導室は、中で繋がっているので都合が良いと言った。
 真悟は詩然を注意して観察している。しかし昨日と同様に、詩然の態度に不自然な点は無かった。それがいつもの彼女であるかのように思われる。
真悟は目の前に置かれたお茶をすする。それは熱すぎもせず温すぎもせず、丁度良い温度に調整されていた。
「そろそろ、学校には慣れましたか」
「ええ、まあ……」
「高月君たちは人気者ですからね。色々と大変でしょう」
「人気なのは慧花だけです。俺はおまけにもなりません」
「謙遜することはありませんよ。少なくとも私は、式原君ではなく高月君を見ていました」
「……そうですか」
 それ以上、何と答えていいものか分からず、真悟は湯のみを傾ける。いつの間にか飲みほしていたらしい。詩然は立ち上がり、お替わりを用意して参りますと言った。
 時計を確認すると、もう五分以上が過ぎている。
 詩然は焦る風でもなく、ひたすらお茶を飲み続ける真悟を、楽しそうに眺めていた。
「何か、俺に聞きたい事があったのではないですか」
 沈黙に耐えかねて、真悟が言った。
「もちろん、ありますよ。でも今はこうして、高月君が居てくれる喜びを噛み締めていたいと思ったのです」
「どうして、俺なのですか」
「……そうですね」
 詩然は少し俯いて、肩から垂れる髪に指を触れた。
「初めて貴方を見たのは、今年の入学式のことです。私は生徒会の仕事で舞台袖に待機していました。高月君は気付かなかったでしょうけれど、新入生宣誓で舞台に上がってきた高月君の、手が届く位の距離に居たのです」
「それは気が付きませんでした」
「私はあの時、貴方に興味を持ちました。演台で怯える慧花君の手を、そっと握った貴方を見て」
「まさか……あれを、見られていたのですか」
しかし考えてみれば、周りに見られないようにという配慮は、壇上を見ている生徒たちを想定してのことだった。舞台袖に居た人間からは見えていたという可能性は十分にある。
「安心してください。私以外の生徒と職員は、貧血で倒れた生徒の対応に当たっていました。見ていたのは私だけです。それに、恥ずかしがることなんてありません。友達を助けるために演台へ向かった貴方の姿は、とても素敵でした。私は本当に感動したのです」
 詩然は目を伏せて、その場面を思い出しているかのように、両手を胸の前に当てた。
「それから貴方への興味は、日ごとに増すばかりでした。あの式原の人間が、友人として全幅の信頼を寄せる高月真悟という人間を、私はもっと知りたいと思ったのです。それで、遠目に貴方を観察していました。元気な式原君と、彼を見守っているような高月君を見て、次第にお二人を……いえ、式原君を羨ましく思うようになりました。それで畢竟友情部のお茶会に参加した方から、話を聞いてみたりもしたのです。みんな式原君が目当てだったので、私が高月君のことを聞くと、不思議な顔をされたりもしました」
「……それは、そうでしょう」
 真悟が言うと、詩然は楽しそうに笑った。
「生徒会役員という立場上、何となく来にくく思っていたのですが、どうしても見ているだけでは我慢できなくて……ついに昨日、畢竟友情部の扉を叩いたということです。ふふ、今から思えば大胆過ぎる行動ですね。はしたない女だと思わないでくださいね」
「そんなこと、思っていないです」
 照れくさくなった真悟は、視線を外して時計を見上げた。
詩然もつられるように時計を見る。
「あら、もう時間ですね」
 詩然は手をぽんと叩いて立ち上がった。
「急がないと、式原君に怒られてしまいます」
 十、九、八……とカウントダウンをしながら、詩然は生徒指導室の扉を開けた。
「楽しい時間はあっという間ですね。さあ、どうぞ」
 真悟の背中を詩然が押す。扉を閉めながら、詩然は小さな声で「また明日」と言った。
 
 廊下に放り出された真悟は、鋭い視線を感じてそちらを見た。廊下の曲がり角で、恨めしげにこちらを睨んでいる慧花がいた。
小走りにこちらへ近づいてくると、「あの女の匂いがする」と言いながら、消臭スプレーを振りかけた。
「君が無事に戻って来られて良かった。悲鳴が聞こえたら、すぐに飛び込む準備をしていたのだ」
「何を大袈裟な」
「さて、もう十分だろう。明日から此処へ来る必要はないよな」
流石にそれは、と真悟は首を振った。
たった一五分では、話らしい話は出来ていない。今後の交流を断るような理由は、真悟には見つけられなかった。
「まったく、君は真面目な奴だな。そこが良い所ではあるのだが、僕は心配で胃を痛めてしまいそうだ」
「お茶会の方は大丈夫なのか。みんな待っているだろう」
「ちょっと席を外すと言っておいた。今頃みな、僕の帰りを待っていることだろう」
 慧花は楽しそうに言った。
「僕は人気者だからな」
「違いない」
 そう答えながら、真悟は詩然に言った自分の言葉を思い出した。自分は慧花のおまけにもならない、と。
 今は上手く学校生活を送れているが、それは慧花が隣にいるからの話だ。真悟が自分自身の力で、人間関係を築いているという訳ではない。
 尤も真悟は、積極的に他人と交流をしようという性格ではない。孤立することを恐れている訳ではないが、着実に成長をしていく慧花を間近に見ていると、なぜか焦りにも似た感情が湧きあがって来るのだった。
「どうした君、さっさと行くぞ。皆が待っている」
「……ああ、そうだな」
 
 真悟と詩然の逢瀬は、それからも続いた。
 慧花はいつまで続けるつもりだと憤っていたが、詩然との会話は他愛のない一般的な雑談ばかりで、拒絶するような理由が見つからなかったのだ。部活動の話題や、学校の行事、最近食べた美味しいもの等々、教室で友人同士がする会話以上のものは無かった。
 そうして君を油断させているのだ、と慧花は言った。
詩然の態度は、純粋に真悟との会話を楽しんでいるように見えたが、真悟自身もまた、進展のない逢瀬に、詩然の意図を量りかねていた。
 
「慧花は先輩を警戒しています」
 紅茶のカップを置いて、真悟が切り出した。
 窓の外では雨が降っている。季節は本格的な雨期を迎えていた。
 慧花が詩然を嫌っていることなど、言うまでもなく詩然も理解している。しかし詩然の内心を理解するために、真悟は揺さぶりをかけてみようと考えた。
「残念ながら、そのようですね。私は式原君とも仲良くしたいと思っているのですが、どうやら彼には、私の存在が邪魔なようです」
「詩然先輩が、俺に欲情をしていると」
「ふふ、そうですか。式術士である式原君がそう言うのなら、間違いないのではありませんか。私にはよく分かりませんけれど」
 詩然は上品な所作で紅茶を口に運ぶ。
 真悟としては思い切って踏み込んだつもりだったが、詩然の反応は雲を掴むようで、手ごたえが感じられなかった。
 気勢をそがれた真悟に対して、詩然は丁寧な口振りを変えることなく、ほんの少し悪戯っぽい目で言った。
「でも、高月君だって男の子でしょう。魅力的な女の子を見て、心を動かすこともあるはずです。それとも高月君は、女の子より男の子の方が好きなのですか」
「そ、そんな訳がありません」
 真悟が慌てて否定をすると、詩然は笑って「ごめんなさい」と言った。
「でも、人が人を好きになって、もっと相手を知りたい、相手に触れたいと願うことは、何もおかしいことではありません。私も貴方も、そうして紡がれてきた命の過程として此処に存在しているのです。たしかに情欲は、人を傷つけ、争いの元になることもあるでしょう。でも、だからこそ、人間の分別や理性というものが、高潔な精神として尊ばれるのだとは思いませんか」
 ――人間の徳は本音に出るのではなく、建前にこそ出る。
 以前に詩然が言った言葉を、真悟は頭の中で反芻していた。その言葉は真悟に、大きな救いを与えてくれるような気がしていた。
「ですから、もし高月君が魅力的な女の子に欲情をしたとしても、私は不潔だなんて思いませんし、軽蔑することもありません。ただそれを表に出して、しつこく女の子を追いかけ回すような行為をするのであれば、窘めて差し上げます。もちろん浮気も駄目ですからね」
「そんなことはしません」
「ふふ、分かっています。高月君はどう思いますか」
「何がです」
「人が人に触れたいと思うこと。それは非難されるべきことだと思いますか」
「わかりません。本能で感じるものを感じるなというのは、無理があるように思います。しかし何でも本能のままに動くわけにはいきません。先輩が言う通り、分別というものが大事なのかと思いますが」
「ところで私は、高月君の前で分別を欠いた行為をしましたでしょうか」
「いえ、なにも」
「であれば、私は高月君から嫌われてはいないということですよね」
「最初から、嫌ってなどいませんが」
安心しました、と詩然は微笑んだ。慧花が自分を何と言っているのか、不安になっていたのだと言った。
「少し際どい話題でしたね。何だか私、どきどきしてしまいました。今日は一段と蒸し暑いですし……」
 頬を紅潮させた詩然は、ハンカチを取り出して首元を拭いた。真悟の目は自然と、白いうなじと鎖骨に奪われる。
この衝動は、種を引き継ぐ本能によるものだ。自分が人間である以上、非難するべきものでは無いはずだ。ただ、それを善しと受け入れてしまうことが正しいことなのか、真悟には分からなかった。
「……高月君、少しだけ表に出ていますよ?」
 ほんの少し音階の下がった詩然の声に、真悟ははっと顔を上げる。
「す、すいません、つい……」
「ふふ、別に見て頂いても結構ですよ。だって私たちは、恋人同士なのですから」
「いや、それは……」
 ピピピ、と時計のアラームが鳴った。
一五分が過ぎたのだ。
「まるで、織姫様と彦星様のようですね。こういった逢瀬もロマンチックなものです。それではまた、明日の七夕に」
 
その晩、真悟は慧花に話を聞きたいと言った。
真悟の方から話を持ちかけるということは珍しいので、慧花は散歩に出かける子犬のように、嬉々として真悟の前に座っていた。
「話とはなんだい」
「……いや、少し言いにくいことなのだが」
「尚のこと大歓迎だ」
 やはり話すべきではないかと一瞬迷った真悟だったが、慧花の勢いに押される形で口を開いた。
「お前は女に欲情をしたことがあるか」
 慧花はきょとんと目を丸くして、
「さてはあの女に、おかしなことを吹き込まれたな!」
 と忌々しげに小指を噛んだ。
「そうではない。疑問に思っただけだ。年頃の男であれば普通のことだろう。お前はどうなのだ」
「そ、それは……」
 当然あるに決まっているだろう、と慧花は小さく答えた。
 慧花は乗り気では無さそうだったが、真悟は構わずに疑問をぶつけた。
「恋愛が罪悪であるとしても、俺たちには人間としての本能というものがある。恋愛は性欲を言い変えた形に過ぎないと、お前は言ったな。それでは、性欲自体が罪悪だということになるのか」
「その通りだ。恋愛も性欲も人を狂わせる。だから罪悪なのだ」
「しかしそれでは、人間の本能を否定することになるのではないか。お前は人間の本能が間違っていると言うのか」
「それは違う。正しいとか間違っているとか、美しいだとか醜いとか、罪悪とはそういった問題ですらない。人を狂わせるという一点に置いてのみ、罪悪であると断言できるのだ」
 金に例えて考えてみたまえ、と慧花は言った。
「金は罪悪だと君は言う。ただそれも、全ての場合に当て嵌まるわけではない。使いようによっては良い影響を与えることくらい、君だって認めているだろう」
 真悟は頷いた。
「恋愛についても同じことだ。僕は何も、君に一生独り身でいろと言っている訳ではない。恋愛、そして結婚には信頼関係が必要だ。心の底から信頼出来るパートナーを見つけることが出来れば、君は幸福な人生を歩めるようになる。しかし一時の情欲に惑わされ、虚構の優しさに心を委ねるのであれば、それは刃となって君の心を引き裂くだろう」
 慧花の瞳からは、真剣に真悟を心配する気持ちが伝わってくる。
「罪悪は僕らが生きている限りに付きまとう。金、女、地位、名誉……それらの罪悪の正当性について考えるのではない。今の僕らには、罪悪に直面しても負けないための心が必要なのだ。その為の友情なのだ」
「……そうだな。慧花、お前の言う通りだ」
 真悟自身、そんなことは理解していたはずだった。
情欲の衝動は、誠実であろうとする精神を揺るがし得る。その正当性を問うまでもなく、今の自分には受け入れることが出来ないものだ。
 慧花と過ごす日常の中で、真悟は自身の中に緩みが出来ていたのだと気が付いた。
 人を信じることすら出来ない自分が、何を根拠に恋愛を肯定しようとしていたのか。詩然との逢瀬に安心感を覚えていたのか。
 省みるに、情欲と言う衝動を詩然から『許された』ことが、真悟に一つの満足感を与えていたのだろう。ただそれは許されただけであって、相手への信用や信頼という関係性の問題ではない。
 自己を承認されたいという欲求は誰にでもあるものだ。それが認め難いものであればあるほど、与えられる安心感は大きなものである。
「心配をかけてすまなかった」
真悟は頭を下げた。自分をここまで思ってくれている友人がいるということが、本当に嬉しいと思った。
「……詩然先輩と会うのは、明日で最後にする」
彼女の好意が真実であったとしても、今の真悟にはそれを受け入れることは出来ない。
恋愛の前に信頼がある。信頼のために友情があるのだ。今は慧花と共に、その道を進んでいくしかない。最初から分かっていたことだ。
「馬鹿だな、俺は」
「気にすることはない。自分の事は、自分では中々気付けないものだ。何のために僕がいると思っている。僕も同じように君に助けられているのだ。お互い様ではないか」
 慧花は真悟の肩に手を置いて言った。
「僕らも年頃の男だ。そうした悩みにぶつかることもあるだろう。ムラムラしたら、適当に発散させてしまえばいい。スッキリしてしまえば、あの女のことなど気にならなくなるはずだ」
 好きなときに言ってくれれば席を外すぞ、と慧花はニヤニヤしながら言う。
「お前は、そういうことを言うな」
「いいではないか、友人なのだから。友情ノートにも【川原に落ちていたエロ本を拾って帰って一緒に読む】という試練があるぞ。どうだい、これから一緒に探しに行こうか」
「なぜ川原なのだ」
「それがロマンだから……と言うのは建前で、白瀬に『まだ早い』と断られてしまったのだ」
 それはそうだ、と真悟は笑った。
「まあ心配するな、君には僕が最も相応しい女性を探し出してやる。ただそれは、もう少し先の話だ」
「そこまで気を使わなくてもいい」
「参考までに君が好きなタイプの女性を聞いておこうか。【好きな人を教え合う】という試練があるが、これは当分の間は無理だろう。【好きなタイプを教え合う】ということで、レベルを下げてノートに書いておくことにする」
 慧花は友情ノートを開き、さらさらと新たな試練を記入した。
「さあ、話したまえ」
「別に好みなどはない」
「隠さなくたって良いのだ。言いにくいのなら質問形式にしよう。胸は大きい方が良いか」
「どうでもいい」
「賢明なことだ。胸の大きな女は罪悪を貯め込んでいる。御鐘詩然という女も大概だった」
「そこは関係ないだろう」
「大いにあるとも。巨乳は罪悪だぜ、君」
 取りとめのない雑談が、真悟には心地よく感じられた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   第6章
 
 
 
 詩然はいつもと変わらぬ表情で、「わかりました」と答えた。
 彼女であればそうするだろうと、真悟は思っていた。
「すいません」
「高月君が謝ることはありません。短い間でしたが、私は高月君とお話が出来て嬉しかったです」
 居た堪れなくなり、背中を向ける真悟を、詩然が呼びとめた。
「高月君、お別れにはまだ十分ほど時間がありますよ。約束は守って頂かないと」
柔らかな笑みを浮かべる詩然からは、やはり内心を探ることは出来なかった。
「私の事が嫌いになってしまいましたか」
 コーヒーを注ぎながら、詩然は言った。甘い物が苦手な真悟のコースターには、ミルクだけが乗せられている。
ここで過ごす時間が最後だと思うと、真悟は少し寂しいような気持ちがした。
「いえ、そういうことではありません。今の俺には、恋愛のことを考えている余裕がないのです」
「余裕が無いとは……どういうことですか」
 詩然の問いに、こうなってしまった以上は、きちんと理由を伝えるべきだと真悟は考えた。
表面に出してはいないものの、詩然とて思うところはあるはずだ。理由を告げることなく一方的に別れることは、自分を好きだと言ってくれた相手に対して、誠意に欠いた行為だろう。
 真悟は詩然に、これまでの自分の境遇を話した。遺産相続を巡って親戚に裏切られ、人に不信を抱いたこと。進学をせず家を出て働こうと考えていたこと。そんな折に慧花と出会って、この高校へ入学したこと。
 詩然は目を伏せ、時々頷きながら、真剣な表情で真悟の話を聞いていた。
「……お二人の友情には、そういった理由があったのですか」
「俺はまだ、人を信じることができません。それは先輩に対しても、慧花に対しても同じことです。そんな俺が、恋愛など出来るはずもありません」
「高月君。私、思うのですが……」
「はい」
「そうまでして、人を信じることに意味があるのでしょうか」
「……どういうことでしょうか」
「式原君と高月君の友情は、本当に尊いものだと思います。まるで幼い子ども同士が、打算も疑いもなく、純粋な好意を向け合うように。でも、それは――」
「……詩然先輩?」
 詩然は次の言葉を躊躇っているようだった。小さく首を振って、口を閉じた。
「ごめんなさい。私が口を出すようなことでは無かったですね」
「続きを……先輩の考えを教えて頂けませんか」
「でも、それは……」
「お願いします。話を聞かせてください」
 幼い子ども同士の友情。
 その言葉を聞いた真悟の心臓は、いつの間にか激しく打ち鳴っていた。
詩然が発しようとしていた言葉に、自分が無意識に気付いていた不安が隠されているような気がした。
「お願いします」
 背中を不快な汗が流れていた。しかし、聞かなければならないという確信があった。
「……わかりました」
 詩然は真悟を見据えて言う。
「生まれ育った環境のせいでしょう。式原君はまだ子どもで、貴方に依存しているように見えます。畢竟友情という目標を掲げて、絆を深めるために困難を乗り越えていこうという姿勢も良いでしょう。しかしそれは、あるレベルを越えてしまったら、考えることや自分と向き合うことを放棄してしまおうということでもあります。果たしてそれが、何処まで続くのでしょうか」
 これは真悟が、慧花に警告したことと同じであった。
「周りに迷惑を掛けないことと、最低限のプライバシーを守るという約束をしました。後は少しずつ、段階を追って考えていけばいいと思っています」
「私もそれが一番良いと考えるでしょう。しかし目標が同じであっても、成長する速度はそれぞれ違います。いつまでも手を握り合って、並んで歩いていけるという訳ではありません。お二人を遠くから見ていた私には分かります。その変化は確実に、お二人に訪れています」
「はっきり言ってください」
 責めるような口調になってしまったことを、真悟は慌てて謝罪した。詩然は、明らかに真悟と慧花の何かを否定しようとしている。 その確実な予感が、真悟の心を揺さぶっていた。
「高月君は、式原君が自分に似ていると言いました。確かに求めているものは同じだったかもしれません。お互いに信頼し合える人間が必要で、お互いにその一人になろう。今もその思いは変わらないはずです。しかしお二人には、明確な違いがあります。高月君も、気付いているのかもしれませんが……」
 続きを話してください、と真悟は詩然に求める。
 意を決したように、詩然は口を開いた。
「式原君は、人を信じることが出来る人間です。高月君は、人を信じることが出来ない人間です。同じ『信じられる相手』を探しているといっても、その違いは決定的な差となって現れてくるでしょう。いえ、私が見るところ、既にそれは明らかな違いとなっています」
 思い当たる節はあった。しばらく前から感じていた。
 ただそれを、無意識に押し隠そうとしていた。詩然にそれを暴かれて、 心臓を握り潰されたような心地がしていた。冷や汗が全身から吹き出し、内臓を震わせる。
「慧花は……」
真悟は残酷な事実を自分に突き付けざるを得なかった。
「俺がいなくても生きていける」
 慧花は着実に成長を続けていた。
当初、式原の屋敷以外の人間とは話したこともないと言っていた彼は、今では真悟が居なくても、他の生徒と雑談できるようになっていた。
一時は不安だからと、手を握るようにせがんできたが、最近ではそれも無くなっている。体を寄せてくるようなことも無くなっていた。
 もちろんその成長過程では、真悟という存在は必要不可欠だったのだ。いや、今現在でも、慧花が真悟の手を離れて完全に自立できるかと言うと、そうではないように思える。ただそれが、一ヶ月、半年、一年と過ぎていく中でどう変容していくのか。
「式原君が友情を求める動機は、彼の境遇による未熟・未経験さが大きな要因となっているのです。式原の屋敷を出て、平穏な学校生活を送る中で、それらは満たされていきます。式原君はそれでもなお高月君と『同じもの』を求めることが出来るのでしょうか。彼は高月君のように、人に不信を持っているというわけではありません。式原君は『信じられるもの』を探していますが、『信じられない』わけではないのです。そこが、『信じることができない』高月君との大きな違いです」
 真悟は今、自分が抱えていた不安の正体を理解した。
 しかしこれも、最初から分かっていたはずだった。
慧花と出会った日に、彼が言っていたではないか。
『君が僕を信じるのではない。僕が君を信じるのだ』と。
 
 俺はいつになったら、慧化を信じることが出来るのだろうか、
 慧花はいつまで、俺を信じてくれているのだろうか。
いつか、慧花に裏切られるかもしれない。
いつか、慧花に愛想をつかされるかもしれない。
いつか、慧花が他の人間に友情を求めるかもしれない。
 
真悟の心に根付いた不信は「いつか」に集約されていた。今現在に、慧花から向けられた信頼を疑っている訳ではないのだ。
しかし「いつか」、あの親戚達と同じように、慧花もまた変容してしまうかもしれない。そうと疑ってしまえば、そうではないと否定することなど出来るはずもないのだ。
自分がどれだけ慧花に依存していたのか、真悟は思い知った。二人は対等な立場などではなかった。
手綱を握っているのは慧花の方だ。
慧花が居なければ、真悟は生きていくことが出来ない。
しかし真悟が居なくても、慧花は生きていくことが出来る。
今はそうでなくても、「いつか」はそうなるのだ。
慧花が自立し、自分から離れていく日が必ず来る。
それを笑って見送ることが出来るのか。
良かったな、と祝福することが出来るのか。
慧花を失った自分はどうなってしまうのか。
どれだけの痛みに耐えなければならないというのか。
詩然は優しく、真悟を慰めるように言葉を続けた。
「人が人を信じる。理想ではありますが、それは限定された範囲内で成り立つものです。無制限に人を信じることなど、出来ようはずがありません」
大きな劣等感が、真悟の中を満たしていた。それは慧花に対する負い目であり、嫉妬であり、切望だった。
「でも、それが人間というものではないですか」
 詩然の指が、慈雨のように真悟の頭を撫でる。
「高月君は潔癖すぎるのです。式原君は純粋すぎるのです。どちらも人間として尊い精神ではありますが、それが未来永劫、平行して続いていくわけではありません。お二人にとって今この時は、将来振り返った時に、素晴らしく輝ける宝物になることと思います。でもそれは、どこかの時点で、お二人の手から離れなければならないものです。そしてそれは、大人である高月君の役割です。そうでなければ、式原君は大人になることは出来ません。いつまでも子どものように、高月君に依存し続けることになるでしょう」
 詩然の言葉を聞いて、真悟は夢から覚めたような気分だった。
「高月君。貴方は式原君のために、何をするべきかを考えなくてはなりません。それが友人としての貴方の務めであると、私は思います。そして貴方になら、それが出来るということも」
 分かっている。
自分を信じてくれた、こんなにも思ってくれた慧花の成長と幸せを、友人として願わない訳が無い。
 ただそれでは、誰が俺を救ってくれるというのか。こんなことであれば、最初から慧花になど会わなければ良かったではないか。
 心に落ちる黒い雨が、空洞のような水たまりを作っていた。
「真悟君には私がいます」
「……先輩」
「無理に人を信じる必要はありません。信じようとするから辛い思いをするのです。誰もが本音だけで生きていける訳ではありません。人間の優しさは建前にこそ出るのです。私は高月君に嘘を付きます。だから高月君は、私の嘘を信じてください。私が頑張って付いた嘘を、真悟君は褒めてください。真悟君が頑張って付いた嘘を、私は褒めてあげます。本当を信じて傷つく貴方を、私は見ていることができません。一緒に、人を信じなくても生きていける練習をしていきませんか」
 十五分を過ぎたことを知らせるアラームは、大分前に鳴らなくなっていた。しかしそれは、もうどうでも良いことのように思えた。
「俺には、分かりません」
 喘ぐように真悟は言葉を漏らす。
「何も分からないのです。慧花のことも、先輩のことも、自分が何を求めているのかということも」
「焦る必要はありません。ゆっくりと探していけばいいのです」
「……先輩は、俺の話を聞いてくれますか」
「高月君が望むのであれば」
 
 部室に戻ってきた真悟を見て、慧花は戸惑うような表情を浮かべた。お茶会は既に終わっていて、甘い茶菓子の香りの中に、慧花一人だけが座っていた。
「どうした、具合でも悪いのか」
 慧花は不安そうに言った。
「少し気分が悪い」
 そう言った方が、慧花が安心するだろうと思った。
「すぐに帰ろう。医者へ行くか」
「いや、それ程ではない」
 寮までの帰り道は無言だった。慧花は色々と聞きたそうにしていたが、言葉にするのを躊躇っているようだった。
 真悟は困惑する慧花を見て、心の底から申し訳ないと思う。同時にある種の安心感や、居心地の良さというものを感じていた。
 寮に戻り、ベッドに横になった真悟に、慧花は甲斐甲斐しく世話をした。
 何か欲しい物はないか。何か食べたいものは無いか。
 慧花は濡れタオルを作ってきて、横になった真悟の額に置いた。
「体調を崩すと気分も落ち込むものだ。病は気から、気は病からという。今はしっかりと休むといい」
 怯える小動物のように落ち着きのない慧花は、最近真悟が見慣れていた、誰とでも堂々と会話が出来る慧花ではなかった。タオルを一つ、真悟の頭から取るにしても、腫れものに触るように注意を払っているように見えた。
 慧花をそうさせているのは、真悟の心であることは間違いなかった。慧花は式眼を開いていなくても、少しであれば人の感情が見える。ただ、式眼を開いたとしても、記憶や思考までを読むことは出来ない。慧花は、どう真悟に接すれば良いのか分からず、困り果てているのだ。
 そんな慧花を見ているのは、とても辛かった。
「真悟、何かして欲しいことはあるか」
「……少し、一人にしてくれないか」
 居た堪れなくなった真悟が言うと、慧花は瞳を泳がせながら「わかった」と答えた。
「では買い物に行ってくる」
 真悟から拒絶された動揺を隠せないままに、慧花は立ち上がる。
「それならバナナを買ってきてくれ。出来ればヨーグルトも」
 本当に欲しい訳ではなかった。しかし今は、無理にでも頼みごとをしたほうが良いことのように思えた。
真悟が思った通り、慧花は不安そうだった顔を綻ばせて、何度も頷いた。
「僕に任せてくれ。他に欲しい物があれば、携帯で連絡するのだ」
「わかった」
 幾分、元気を取り戻したように、慧花は寮を出て行った。
 
 音のしなくなった部屋の天井を見上げながら、真悟は自分の中に渦巻いている、様々な感情を冷静に眺めていた。
 心の中の一部分が大きな壁で堰き止められ、ぽっかりと出来た空のダムには、やるべきことを務めるべきだという機械的な義務感があるように思われた。
 慧花が自立できるように支え、ゆっくりと突き放し、お互いの強い依存から脱却していく。それが正しい道であることは間違いない。真悟の強い理性と自尊心は、その道を選択するべきだと答えを出している。
 しかし一方で、心の別の部分から、酷く残酷で、甘く幸せな衝動が流れ込んでいた。真悟はその発想が脳裏に浮かんだ時、自分が自分でなくなったような恐怖を感じた。
今ならまだ、慧花を自分だけのものに出来る。
 彼が精神的に自立し、自分の手から離れて行く前に――――。
 その衝動には、罪悪感すら背中を押しているように思えた。手の中から飛び立とうとする美しい小鳥を、真悟はその気になれば、永遠に籠の中へ入れておくことが出来るのだ。
 なんと醜い感情だろう。自分はこのような浅ましい精神を持つ人間だったのだろうか。
 真悟は布団を頭から被った。
 自分をこのように変容させたのは何か。
 いったいどんな罪悪が、俺を責めたてているのか。
 答えは分かっていた。
「確かにそうだ。間違いない」
――――恋愛は、罪悪だ。
 その晩、真悟は熱を出した。夜中になると更に熱が上がった。
 朦朧とする意識の中で、真悟は何度も慧花の声を聞いた。その度に、吐き気を催す多幸感に胸を締め付けられていた。そんな苦しみから真悟を救うのも、やはり慧花の声だった。
 
 翌日は学校を休んだ。熱はだいぶ下がっていたが、大事を取った方がいいと慧花が勧めた。
「お前まで休むことはないだろう」
「君を残して学校になど行けるか」
 真悟は慧花が作った粥を食べて、薬を飲み、また眠った。
 昼過ぎに目を覚ますと、熱は完全に収まったようだった。体の節々にあった痛みも消えている。胸に閊えていた澱みのような感情も、嘘のように消え去っていた。
 そんな真悟を見て、慧花は安心したようだった。
「しかし油断はするなよ。病み上がりこそ気をつけなくては」
 慧花は小さく欠伸をして、目元に浮いた涙を袖で拭った。
「お前こそ無理をするな。少し休んだらどうだ」
 真悟はおぼろげながら、慧花は付きっきりで看病してくれたことを覚えている。タオルを何度も交換し、真悟がうなされればすぐに近づいて大丈夫かと声を掛けていた。
「なに、これも友人としての務めだ」
 薄く隈の出来た瞳で、慧花は笑った。慧花の手は、何度もタオルを絞ったせいか、痛々しい赤色に染まっていた。
「手は、大丈夫か」
「君の痛みに比べれば、たいしたことはない。そんなことより……」
 慧花は友情ノートに手を伸ばした。
【病に伏した友人を寝ずに看病する(レベル20・必須)】
「これもクリアしたぞ。また一歩、僕らの友情は成長したのだ」
 無邪気に笑う慧花を見て、真悟は胸の奥が痛んだ。昨晩の衝動は、体調のせいばかりとは言えないようだ。
「僕は反省している」
 真悟の手を取って、慧花は言った。
「毎日毎日、君に負担をかけっぱなしだった。僕は友情を深めることに夢中で、君の気苦労にまで考えが回らなかったのだ。その結果、君をこうして倒れさせてしまった」
「負担など感じていない。季節の変わり目は体調を崩しやすいだけだ」
「……君は相変わらず優しいな。そんなところが好きだ」
好きだと言われ、真悟は体温が上がるのを感じた。それは喜びであり、苛立ちであり、怒りだった。
「だから君からも、僕にもっと要求をして欲しいのだ。今までは僕が君に無理難題を押し付けてばかりいた。だから、どんなことでもいい、君に僕の友情を試して欲しい」
「試せと言われてもな」
「何でもいいのだ」
「……では、水が飲みたい」
「任せてくれ!」
 慧花は嬉々として立ち上がり、台所へ駆けて行った。
「持ってきたぞ」
「助かる」
「どうだ、美味いか」
 まるで主人に忠実な犬みたいだと、真悟は苦笑した。慧花に尻尾がついていれば、さぞ勢いよく動いていることだろう。
「さあ、次の願いを言いたまえ」
「ランプの魔人か」
「願い事の数を増やせ、という願いでも叶えてやるぞ。まあ元より制限などない」
 それで慧花が喜ぶのなら、何でもいいかと真悟は思った。
「風呂を沸かしておいてくれ」
「よしきた」
「リモコンを取ってくれ」
「まかせろ」
「洗濯も頼んだ」
「心得た」
 真悟の頼みを、慧花はテキパキとこなしていく。共同生活を始めた時の、世間知らずの頼りなさはもう感じられない。
「さあ君、何でも言ってくれ」
「いや、もう頼みごとはない」
「小さな雑用ばかりでなくても良い。もっと大きな事でも構わないのだ」
「何でもと言われても、本当に何でも言うわけにはいかない」
「何でもやってやるぞ」
「何でも出来るわけがない」
「何でも言って欲しいのだ」
 これでは、俺が要求されているのと変わらないではないかと、真悟は思った。そして昨日の詩然の言葉を思い出す。
 ――式原君は貴方に依存しています。まるで子どものように。
 無制限に人を信じることなど、出来るはずもない。要求がエスカレートしていけば、それは精神的な自立から離れて行く一方となる。
「……また、辛そうな顔をしているな」
 慧花の不安そうな目に気付いて、真悟は「いや」と首を振った。
「慧花。お前の気持ちは嬉しいが、何でもすると言っては駄目だ。せめて出来る限りのことをすると言え。お前は本当に、俺が何でも頼んだらどうするつもりだ。一緒に死ねと言ったら死ぬのか」
 慧花はおかしそうに笑う。
「君がそんなことを言う訳がない」
「その信頼が検討違いだったらどうする。俺の信頼を拒絶する覚悟があるのか。そうでなければ言葉を慎め。言葉には責任が伴う」
「そう難しく考えるな。君が僕にしてもらいたいことを言えばいいだけだろう。何を遠慮する必要がある」
「お前は何も分かっていない。それではただの子どもだ」
 慧花はむっとして、子どもではないと答えた。
「僕は君に何でも言ってもらいたいのだ。それでこその友人だろう」
「友人だから、何でも言えるというわけではない」
「それでも言ってもらいたいのだ」
この真っすぐな好意と純粋さが、どうしようもなく真悟を苛立たせ、不安にさせた。慧花を打ちのめしたい、困らせてやりたいという醜い衝動が、心の中で大きくなっていった。
一方でそれは、大きな安心感となっている。真悟が慧花を突き離すほどに、慧花は真悟に近づいてくるのだ。
 
翌日の放課後、真悟は詩然がいる生徒指導室に向かった。
慧花は「わかった」と答えて、それ以上のことは言ってこなかった。真悟は今、慧花に対する主導権が自分にあることを感じていた。
詩然はまだ来ていないようだった。
真悟は椅子に座り、周囲を何となしに見まわした。棚の下に紙の束が落ちている。原稿用紙だ。枚数にしては三十枚程度だろう。習字の手本のような、柔らかくも美しい字で綴られたそれは、恋愛小説のようだった。やることのない真悟は、しばらくそれを読み耽っていた。
 やがて、生徒会室と繋がっている扉が開く。
「こんにちは、真悟君」
真悟が顔を上げると、御鐘詩然はいつものように微笑んでいた。
「お加減はいかがですか。私も心配しておりました」
「大丈夫です。少し風邪を引いただけです」
 呼称が高月君から真悟君に変わっている。真悟はそれに気がついて、
少し気恥ずかしくも、嬉しいような心地がした。
 真悟は落ちていた原稿用紙を詩然に渡す。
「これは……ど、どこで?」
「棚の下ですが」
 詩然は珍しく慌てている様子だった。普段の立ち振る舞いが安定しているだけに、その僅かな差異が際立って見える。
「いけませんね。私としたことが、預かっていた原稿を置き忘れてしまったようです」
「そうですか」
「……中は、お読みになられたのですか」
「ええ、まあ少し。不味かったでしょうか」
「そ、そんなことはありません」
 平生とは違う態度に、もしかしたらこれは詩然が書いた作品だったのではと真悟は思った。こほんと咳払いをした詩然は、柔らかなポーカーフェイスに戻っている。
「実は私、文芸部の友人から感想を求められておりまして……真悟君の意見も聞かせてくれると、参考になります」
「ですが俺は、普段そういった物を読まないので、役に立たないと思います」
「普段読まない人だからこそ、というものありますでしょう」
 そう言われても、本当に何を言っていいのか分からない。真悟は詩然に求められるままに、書きだしが綺麗で引きこまれただとか、会話が少し固く感じたなどと、素人丸出しの感想を述べていった。
 詩然は熱心にそれを聞いているようだった。
「あら、もうこんな時間ですわね」
 詩然が時計を指さした。十五分になるということだろう。
「ごめんなさい、せっかく来てくれたのに、私の都合に付き合わせてしまいました」
「それはもう、気にしなくて良いです」
「ですが、式原君が」
「俺がそうしたいから、ここに居るのです。慧花は関係ありません」
「……そうですか」
 慧花と距離を置こうとする真悟の意図を、詩然は汲み取ったのだろう。
「辛いでしょうが、正しいことだと思います」
 詩然の言葉は真悟を励ました。自分は間違ったことをしているのではないという勇気が湧いてくる。
 しかしその意図は、慧花を自立させるためだという、詩然が想定している目的だけではないことを真悟は自覚していた。
 慧花を精神的に束縛して、自分だけのものにしておきたい。
その醜い衝動を抑えるために、真悟は更に、慧花との距離を置くべきだと考えていた。しかし距離を置く程に、慧花は心細そうな顔をして、自分の後を追いかけてくる。その背徳感が、真悟をたまらなく高揚させていた。
もはや真悟は、自分がどうしたら良いのか分からなくなっていた。
分かっていることは、大きないくつかの嘘を吐きつづけなければならないということだった。それが出来なければ、慧花との関係が終わってしまうということだった。
嘘を吐くこと、誤魔化しをすることは、真悟が最も疎んじている行為だった。しかし今は、そうでもしなければ一番大切な物を失ってしまうのだ。
だから真悟は、詩然に惹かれていた。詩然は嘘をつくという罪悪感を、唯一許してくれる存在だった。
「私と真悟君は、よく似ていると思います」
 不意に詩然が言った。
「他人に優しく、誠実であろうとする。それに応えられない悩みに苦しみ抜いて、それでも表には出さない。相手からの信頼を守ろうと努力を続ける」
「俺は、そんな立派なものではありません」
「分かっています。どんなに善良に見える人間も、純粋そうに見える人間も、心の皮を一枚剥げば本能に従う動物に過ぎません。しかし、だからこそ、それを覆い隠して分別を持とうとする人間は素晴らしいのではありませんか。人間は本質から善いものに変わることは出来ません。善いもので在ろうとする真面目な姿勢こそが、尊敬されるべきものです」
 詩然の言葉は、真悟の乾いた心に慈雨の如く降り注いだ。
「先輩は立派な人間です。みんなが尊敬しています」
「私はそんな人間ではありません。善く見られようと振る舞っているだけです」
「だからこそ、立派なのだと思います」
「ふふ、少し照れてしまいますね。真悟君の前では、あまり格好悪いところを見せたくないのですけれど」
 決まりの悪そうに笑う詩然を、真悟は愛おしく思った。彼女の優しさがとても嬉しかった。
「こんな言葉があります。『恋愛は向かい合わせで嘘を語る。友情は背中合わせで真実を語る』」
 真悟はこの言葉を繰り返した。そして、自分と慧花の関係がいずれにも属さないことを思った。
 慧花が目覚ましく成長していくように、真悟もまた、自分が少しだが変わっていくことを感じている。真面目であり、誠実であることを自他に求めていた自分は、御鐘詩然によって許されようとしていた。
人間は心より真面目であることは出来ない。だから嘘を吐く。自分を着飾る。その罪悪感に苛まれたとしても、そんな自分を認めてくれる誰かがいたら、生きて行けそうな気がした。
「俺も、先輩のようになれるでしょうか。自分の嘘に、他人の嘘に寛容になって、それでも真面目で居続けることが出来るのでしょうか」
「出来ますよ。真悟君には、私が付いています」
「……ありがとうございます。俺はこれから、大きな嘘をつきたいと思っています」
 決意を込めた表情で、真悟は詩然に言った。
「全てが上手くいったら、先輩は俺を褒めてくれますか」
「はい。その時は貴方を、抱きしめて差し上げます」
 慧花を好きになってしまったこと。
 慧花を束縛したいと考えてしまったこと。
 真悟は己の心を隠し通すことを決めた。慧花が自立し、自分の元から離れられるように手助けをしていくことこそ、自分の役割であると考えた。
「慧花は俺の大切な友人だ」
「お二人を羨ましく思います」
 真悟は扉に手を掛けて、振り向いた。
「あの恋愛小説は、詩然が書いたのか」
 詩然は微笑んで、「違いますよ」と答えた。
 
 畢竟友情部へ戻ると、慧花が一人で座っていた。放課後のお茶会は中止にしたと言う。
 詩然に会いにいっていた時間が、十五分をとっくに越えていることについても、何も言わなかった。ただ心配そうに側に来て、「帰ろう」と手を握ってきた。
 真悟は慧花の手を、そっと振り払う。悲しそうな表情をする慧花を見て、真悟は心が痛んだ。もう優越感のようなものはなかった。
 ただ慧花のために、自分たちの関係をあるべきものに変えるために、慧花とは友人でなければならないと自分に言い聞かせた。
「慧花、お前に言っておくことがある」
 真悟が言うと、慧花は救いを求めるような目で真悟を見た。
「詩然と正式に付き合うことにした。お前には友人として、応援してもらいたいと思っている」
「……」
 慧花は絶句していた。
その後に「そうか」と静かに言った。
「君が決めたのなら、僕は何も言わないよ。友人に恋人が出来たのだ。こんなに喜ばしいことはない」
 
 夕食時、慧花は機嫌が良さそうに見えた。
畢竟友情部のお茶会で知り合った何人かと、夏休みに遊びに行こうかという話があると言った。
「君は行きたいところがあるか。海でも山でも」
 真悟は考えてみたが、慧花以外の生徒たちと出掛けたところで、面白い事があるとは思えなかった。
「いや、俺は行かなくていい。皆に気を使わせてしまう」
「おい、何を言う。君が居なかったら、僕はまともに話せないではないか」
「そんなことは無い。お前は随分と成長している。現に俺が居なくとも、お茶会でそういう話になったのだろう。俺を必要としてくれることは嬉しいが、いつまでもべったりという訳にもいくまい」
「だが、しかし……」
「お前は俺以外にも、多くの友人を作るべきだ」
 作り笑顔を浮かべていた、慧花の顔がすっと青ざめた。
「冗談を言うな。僕には君さえいればいい。畢竟友情部の活動も、全て君との友情の為に始めたことだ」
「最初はそうだったかもしれん。だが、お前を傍で見てきた俺には分かる。お前なら、もっと多くの人間と良い関係が築けるはずだ」
「……恋人が出来たから、もう僕は用済みだと言うのか」
「そうではない。俺とお前の友情は、これから先も続いていく。だが、俺だけが特別な友人だと決めつけるなということだ」
「君は僕にとって特別な人間だ。他に変わりが居るはずもない。そうでなければ、ここで一緒に居るはずが無いではないか」
「お前があの日、俺を見つけたのは偶然だ。俺が通りがからなければ、別の誰かに声を掛けたことだろう。そしてお前であれば、きっとその誰かとも信頼関係を築けたはずだ」
「僕は君でなくては嫌だ。君でなければ駄目なのだ」
「ずっと二人だけで生きていくという訳にもいかないだろう」
「君は、僕が居なくても平気だというのか。人に不信を抱えながらも生きていけるというのか」
「世の中の全てに、誠意と真面目を求めても仕方が無い。いつまでも純粋な子どもで居続けるわけにはいかないのだ。俺はあまりに子どもで、潔癖過ぎた。親戚の変容振りを見て、彼らの様には成りたくないと思った。だが、善良で在り続けられるほど俺は強くなかったのだ。俺ばかりではない、人間であれば誰だって同じなのではないか」
「僕を信じることを、諦めるというのか」
「人を心の底から信じることなど出来やしない。それはもう、友情と呼ぶべきものではない」
「違うぞ、真悟。僕と君が目指すのは普通の友情ではない。誰にも到達できない、その高みを目指しているのだ。だから僕らは共にいる。僕らになら畢竟友情を為せるはずだ」
「その気持ちは嬉しい。しかし誰にだって、越えられたくない一線というものがある。お前にもあるはずだ。俺には言えないことの一つや二つ。その内心に隠れた、嘘や虚構が無いとは言わせないぞ」
「それは……」
「その全てを、俺にさらけ出せるというのか。俺にさらけ出せというのか。どの道、最初から限界があったのだ」
「……」
「俺たちは子どもだった。ただ一時、誰よりも美しい夢を見ていたのだ。慧花、お前は俺の最高の友人だ。これからもそれは変わらない。だからこそ俺は、お前の幸福と成長を願っている」
「僕の、幸福……」
 それきり慧花は黙り込んでしまった。
 真悟もまた、病み上がりで気疲れが溜まっているようだった。いつもりより早い時間に電気を消して、布団の中に潜り込んだ。
 二人の部屋を隔てる三枚の障子から、ぼんやりとした光が漏れている。
 その光を眺めながら、いつの間にか眠っていた真悟は、はたと目を覚まして、慧花の部屋の明かりがまだ点いていることを不審に思った。
「……慧花、まだ起きているのか」
 返事はない。電気を付けたまま眠ってしまったのだろうか。
 真悟は身を起こし、襖を開けた。
 明かりの中で、綺麗に敷かれた蒲団だけがあった。慧花の姿はそこにはなかった。
 真悟は携帯電話で、慧花の番号を鳴らした。呼び出し音は聞こえてくるが、応答はない。単調な電子音を聞くごとに、真悟の胸中に不吉な予感がせり上がってきた。
 真悟は慧花のクローゼットを開けた。荷物入れをあさるが、その中に入っているべき道具が無いことに気が付いた。
生々七碌。式術士である慧花が使用していた、人間の感情を切るための宝剣である。
 真悟はもう一度、携帯電話を起動させた。これにはGPS機能がある。慧花が設定をして、これでお互いの場所が確認できると言っていた。
 画面には、慧花の現在地が示されている。そう遠くはない距離だ。
 真悟は雨の降る暗闇へと走り出た。
 
 
 
   第7章
 
 
慧花は少しずつ移動しているようだ。全力で走る真悟とは、見る間に距離が縮まっている。
 傘を持って出なかったのは失敗だった。シャツもズボンも泥水にまみれて、水滴で反応し辛くなった携帯電話の画面を拭える場所も無くなっていた。
 慧花が向かう先には、思い当たる場所がある。東征第一高等学校『桜花寮』。そこには御鐘詩然が住んでいた。
 ただの話し合いに向かったのではないだろう。そうであれば、生々七碌を持っていく理由がない。
 雨は勢いを増し、いくつもの水溜まりをアスファルトに作っている。真悟の足は立ち止ることを許さなかった。
 やがて煌々と照りつく街灯の下に、場違いなピンク色の傘が見えた。
 こちらを振り向いたのは、御鐘詩然だった。
「真悟……君?」
 詩然は薄い黄色の寝巻きの上から、シャツを一枚羽織っているだけの格好だ。
 そして詩然の向こう側に、赤と白の装束をまとった慧花が、傘を差さずに立っていた。顔には二枚の札が貼られている。その手には生々七碌が握られていた。
 詩然は真悟の元に駆け寄り、傘を真悟の上にやった。ハンカチを持っていないことに気が付くと、羽織っていた上着を取って、タオル代わりに真悟の顔を拭いた。
「どうして、詩然がここにいる」
「えっ……私は式原君から、真悟君と一緒にいるからと電話で……」
 真悟の携帯電話には、詩然の連絡先が入っている。慧花はそれを見て、詩然に電話を入れたのだろう。
「下がっていてくれ」
 詩然の傘を押し退けて、真悟は慧花の前に立った。慧花は真悟から顔を逸らす。式眼で真悟を視ないという約束を守っているのだろう。
「慧花、これはどういうことだ」
「君は僕が守ってやる」
 札に隠された慧花の表情は見えない。
「今し方、式眼でその女を視たところだ。僕が察していた通り、その女には君を愛する気持ちなどはない。在るのは虚構と情欲だけだ。意のままに君を転がし、支配することに快感を覚えている」
 慧花は感情を押し殺すように笑った。
「黙って寮を出て悪かった。しかし言えば、きっと君は僕を止めただろう。僕はどうしても確認したかったのだ。御鐘詩然に、少しでも君を真から想う心があれば、見逃してやっても良いとさえ思っていた。だが結果はこの通りだ。真悟、君は彼女に騙されている」
「騙されているかいないかは、問題ではないのだ。詩然が俺を騙そうが、裏切ろうが、一向に構わないと思っている」
「何を言う!」
 慧花は咄嗟に真悟に向き直った。そして式眼を開いていることに気付き、また顔を伏せた。
「真悟、僕を信じてくれ! 僕は君の為を思って……」
「お前が嘘を言うだなんて思っていない。式眼を使ったお前が言うのなら、間違いなくそういうことなのだろう」
「だったら、何故――」
 真悟は口を噤んだ。
慧花の自立を願うのであれば、真悟は他人を信じられなくても生きていけるようになる必要があった。詩然はそのためのパートナーなのだ。真悟は彼女の本心に惹かれているのではない。本心がどうであれ、建前を貫いてみせるという自尊心に共感を抱いているのだ。
そう思うようになった理由は、慧花に対する感情である。それを慧花に打ち明けることなど出来るはずもない。今は歯を食いしばってでも慧花に対する嘘を貫き通さなければならなかった。友情を守らなければならなかった。
「――そうか、分かったぞ」
 俯いたまま、慧花は言った。
「君は何か、その女に弱味を握られているのだな。だから騙されていると分かっているのに、別れることが出来ないのだ」
生々七碌を握る慧花の手は、怒りで震えていた。
「なんて汚い女だ! 僕の大切な友人を、たった一人の友人を陥れようとしている! 真悟は誰にも渡すものか! 真悟は僕が守るのだ!」
 慧花は叫び、顔に貼ってあった二枚の札を剥がした。
「詩然、逃げろ!」
 咄嗟に真悟は叫んだ。
以前に慧花は言っていた。強力過ぎる彼の式眼に見つめられた者は、己の醜い心を突き付けられ、ついには発狂してしまったと。その力を抑えるための札を、慧花は自ら剥がしたのだ。
「いったい何を――」
 訝しがる詩然が真悟の後方を見た瞬間に、その体は雷に打たれたように跳ね上がった。詩然は崩れ落ちるように地面へと倒れ込む。
「詩然!」
詩然の瞳は色を失い、肌からは血の気が失せていた。
「慧花、何をした!」
 真悟が振り向くと、慧花は剥がした札を目に当てて、生々七碌を中空へ差し向けていた。
「見たまえ、この女の醜き心を。僕は幾度となく施術をしてきたが、これほどまでに汚れきった心は見たことがない」
 慧花の刃が指し示した先には、恐ろしいまでの悪意を感じさせる影が浮いている。見ている程に心を蝕まれ、叫びだしたくなる衝動に駆られた。これが本当に、御鐘詩然の心だというのか。
「これだけの悪意を抱えながら、平然と生活を送ることが出来るとはな。僕も正直、驚いている。その一点においては、この女を認めざるを得ないだろう」
「お前、直接式眼で……」
「心配するな。僕も日々、式眼の扱いには慣れてきている。逃げられないように強めの麻酔を掛けたまでだ。それに己の悪意を突き付けられたとしても、これだけ神経の図太い女であれば何の問題もあるまい」
 慧花は生々七碌を構えた。柄についた、音の鳴らない七つの鈴が揺れている。
「何をするつもりだ」
「決まっている。君への恋愛感情を切り伏せるのだ。どうせそれらは、真から成る感情ではない。切り捨ててしまえば、明日からは声を掛けられることも無くなる。以前に僕らが見た、木村多恵子と同じように」
「……それは駄目だ」
 真悟は倒れた詩然を庇うように、慧花の前に立った。
「一体どうしたというのだ。君はこうして、彼女の醜い心を目の当たりにしているではないか。僕の言うことを信じてくれているのだろう」
「詩然の心に、様々な汚いものがあったとしても、彼女にはそれを覆い隠して微笑むだけの自尊心がある。他人から愛され、尊敬される人間でいることが出来る。俺は詩然の、そんな強さに惹かれているのだ。それを切り捨てることは、詩然の自尊心を貶め、汚すことに他ならない」
「そこをどくのだ、真悟!」
「詩然を元に戻せ。さもなければ……俺はお前と、友人でいることは出来ない」
「なっ――」
 絶句する慧花の手から、生々七碌が落ちた。
 同時に詩然の上に浮いていた影は、詩然の体内へ吸収されていく。
「あ……私は……」
 詩然の目が開いた。
「大丈夫か、詩然。俺が分かるか」
「はい……真悟君」
真悟は安堵のため息をつく。
振り返ると慧花の姿はなく、抜き身の生々七碌だけが雨に打たれていた。
 
詩然は目覚めたものの、まだ意識が朦朧としているようだった。
真悟は詩然を桜花寮まで連れて行き、非常用のインターホンで寮長を呼んだ。
寮長の女性は詩然の姿を見て、細かい追及はしなかった。詩然を自室へと連れて行き、真悟には着替えとタオルを用意する。
清田寮へ戻ろうとする真悟を寮長が止めた。こんな時間に、学生を一人で出歩かせるような真似は出来ないと言った。只でさえ、詩然が門限を破って外出したのだ。これ以上に事を大きくして、寮長に迷惑を掛けるわけにもいかなかった。
真悟は桜花寮の空き部屋で一晩を過ごし、翌朝早くに清田寮に戻ることにした。
 
真悟が清田寮に戻ると、弐壱号室の鍵は閉められていた。
昨晩は扉を開け放したまま飛び出してきたので、慧花が部屋に戻っていることは間違いない。
慧花に会って何を話せばいいのか、真悟には分からなかった。ただ今は、早く慧花の顔を見て、何でもいいから話をしたいと思った。
「俺だ。開けてくれ」
 真悟は扉を叩く。しばらくして足音が聞こえた。それを聞いて、真悟はどれだけ安堵したか分からない。
 扉の向こうから、慧花の声が聞こえた。
「すまない、真悟。今はちょっと開けられないのだ」
「どういうことだ」
 真悟はドアノブに触れていた手を離した。
「どうも風邪をこじらせてしまったらしい。君に移すわけにもいかないから、治るまで一人でいようと思う」
「風邪って……それこそ、俺が――」
「心配は要らない。必要なものは白瀬が取り寄せてくれた。君の荷物は既に、別の場所へと運んである。郵便受けに地図を入れておいた」
「慧花、開けてくれないか。お前の顔を見て話がしたい」
「……すまない。友情部のお茶会は、しばらく中止にすると皆に伝えておいてくれ」
 それきり、いくら話しかけても慧花の返事は無かった。
 
 朝のホームルームで、担任の教師は慧花が体調を崩し、しばらく学校を休むことになると説明した。
 慧花を心配する声があちこちで上がる。中休みには一人で座っている真悟に、慧花の様子を聞いてくる生徒が続いた。
 真悟は「たいしたことはないと聞いている」と答えたが、真悟の不安は周囲にも伝わっているようだった。それ以上のことは真悟にも分からないのだと察すると、早く回復すると良いなと言って、真悟から離れていった。
 昼休みには、真悟は孤立していた。真悟に気を使っているという訳ではない。元より慧花が居なければ、他の生徒との接点など無かったのだ。
 真悟もそれを分かっている。時折心配そうに真悟を見る彼らも、その隣にいるはずの慧花を探しているのだ。
 購買へ続く渡り廊下で、真悟は詩然とすれ違った。昨晩は衰弱している様子だったが、今はいつもと変わらぬ笑顔で友人らと談笑していた。
 真悟と詩然は、目を合わすことなく通り過ぎる。慧花との約束で、一五分の逢瀬以外では一切の接触はしないことになっていた。
二人が付き合っていることも秘密のため、この詩然の態度におかしなところはない。しかし真悟は、自分の隣に慧花が居ないせいで、詩然からも相手をされなくなったような不安を感じた。
 しかしそれは直ぐに打ち消される。携帯が鳴って表示を見ると、詩然からのメールが入っていた。
『いつもの場所で待っています』
 いまや御鐘詩然はただ一人、真悟の話を聞いてくれる人間だった。
 放課後、生徒指導室に入ると、詩然は平生と変わらぬ微笑みを浮かべながら昨晩の礼を述べた。
「悪いところはないのか」
「ええ、大丈夫です。ご心配をお掛けいたしました。ところで、式原君は……」
 詩然は真悟を気遣うように言った。
「風邪をこじらせて休んでいる。今朝、寮に行ったが、中へは入れて貰えなかった」
「……そうですか」
「俺がもっと、慧花と話が出来ていれば、あんなことにはならなかったと思う」
「いいえ、真悟君は悪くありません。それに喧嘩の一つや二つ、友達であれば誰にだってあることです。きっと直ぐに仲直りできますよ」
「……そうだな」
 誰にでもある、普通の喧嘩などでは決してない。詩然の言葉は、真悟の心に空しく響いていた。
 
 
 
 慧花が寮に閉じこもってから、二週間が経っていた。世間は例年より早めの梅雨明けを迎え、本格化な夏の兆しを見せ始めている。
真悟は毎日、清田寮を訪れていた。あの日以降、慧花の声を聞いていない。
しかし差し入れに持ってきた菓子をドアノブに掛けておくと、次の日には無くなっていた。真悟はそれが唯一の救いであるように感じられ、近隣の有名な菓子店を探しては、何種類かを見繕って持ってきていた。
「ケーキを買ってきた。明月堂という有名な店らしい。甘い物の味は、俺にはよく分からないが」
 真悟は扉に背中を寄り掛けて、独り言のように言った。今日も慧花からの返事はない。ただ、扉の向こうに、慧花が居るような気配は感じていた。
「何かあったら言ってくれ。俺に出来ることであれば何だってする」
 それもまた、いつものセリフだった。真悟は目を閉じて、ただじっと慧花の反応を待っていた。
 中に入ろうと思えば手段はいくらでもある。菓子を取る瞬間を待ち伏せすることも出来る。こんな古い扉など、蹴破ってしまえばいい。
 しかしそれでは何の意味もない。慧花自身の手で扉を開けて貰わなければ、話をすることは出来ない。
「悪い、そろそろバイトの時間だ」
 真悟は立ち上がった。
 学校もアルバイトも休んで、この場に留まっていたいと思うもが、かえって慧花に心配を掛けてしまうだろう。
「富永さん、娘の成績が上がったと喜んでくれている。葵も俺の教え方が良いと言っていた。先生と呼ばれるのは慣れないが、お前が言った通り、案外、俺に向いた仕事だったのかもしれないな」
 真悟は努めて明るく言った。
「では、また明日来る」
 真悟は清田寮を出て、後ろを振り返った。
 カーテンが締め切られた部屋は、外から見ても様子を窺うことが出来ない。日が落ちても、部屋の明かりが付けられることはなかった。
 
 
 
 さらに十日が経った。
長引く慧花の欠席に、もしや重病なのではないかという噂が囁かれるようになっていた。
 真悟は寮へ通い続けていたが、相変わらず慧花の反応はない。次第に食事が喉を通らなくなり、傍目にも健康な状態とは言えなくなった。
 心配をした詩然が、生徒指導室に用意した食事も、一口食べて吐き出してしまった。
 詩然は真悟に、耐えていれば良い方向へ変わっていくと繰り返した。何の根拠もない気休めを、真悟は頼るしかなかった。
しかし、一体いつまで耐えなければならないというのか。自分も、そして慧花も。
詩然に当たることは筋違いだが、真悟は他に、心情を吐露出来るような相手はいなかった。
「俺はどうすればいい」
 何十とも繰り返した言葉を、真悟は今日も呟いた。
「式原君も苦しんでいるのです。今は彼を信じて待ち続けることです」
その言葉に真意など無いことを、真悟は理解している。
詩然は真悟が聞きたい言葉を語っているだけなのだ。もしくは、自分に都合の良い言葉を。
「それは本心から言っているのか」
 なんとも無駄な問いかけだった。
「ええ、もちろんです」
 詩然であれば、そう答えるに決まっている。いつと変わらぬ優しい微笑みを浮かべて、真悟の次の言葉を待つか、当たり障りのない会話を持ち出すのだ。
 しかし、今日の詩然は違った。
 目を伏せたまま、平生とは違ったやや低い声で言ったのだ。
「……私の本心が知りたいのですか」
 真悟は詩然の変化に気付き、顔を上げた。詩然は探るような表情で、真悟を見つめていた。
「それがどういうことか、真悟君には分かっていますよね」
 詩然の言葉には、張り詰めた威圧感があった。
 彼女の本音を知りたいと願うことは、彼女の信条である、建前と恋愛の尊さを否定することになるのだ。
「私もこれ以上、思い悩む真悟君を見ていたくありません。だから言わせて頂きます。実の所、私は式原君の秘密を知っています。彼が今、何に悩み、苦しんでいるのかも」
 椅子から立ち上がった真悟を、詩然は手で制した。
「ですが、これ以上のことは申し上げられません」
「なぜだ!」
「私が貴方の恋人だからです。私は偽ることでしか、貴方を愛することが出来ません。そうしなければ、貴方を失ってしまうと分かっているからです。それでも式原君を助けたい、その為に私の本心を求めようとするのであれば――」
 詩然の表情からは笑みが消えていた。
「この場で私と別れてください。恋人という関係を終わりにするのであれば、私は貴方に建前を使い続ける理由は無くなります」
 詩然の言葉は、真悟の喉元に突き付けられた刃だった。詩然と慧花のどちらを取るかという選択を迫ったのだ。
「なぜ、別れる必要がある」
「どの道、私が真実を語れば貴方は私から離れていくでしょう」
「どういうことだ」
 詩然は口を噤んだ。これ以上は話す気はないらしい。
 慧花を救えるという真実を、真悟は聞かない訳にはいかなかった。
 しかし詩然を失えば、真悟は嘘をつくことの正当性を認めてくれる存在を失ってしまう。真悟は慧花に対して、嘘を吐きつづけることが出来なくなるのだ。そして偽らざる本音をぶつけた時、真悟は慧花との友情の全てを失うだろう。
 だがそれでも、慧花を救うことが出来るのであれば良いと真悟は思った。
自分の想いの丈を全て曝け出せば、慧花は真悟を軽蔑し、友として相応しくない人間であると見切りを付けるだろう。慧花に否定され、嫌われることだけは絶対に避けたかった。だからこそ嘘をつき、真意を隠し通そうという決意をしたのだ。
 しかしこの期に及んでは、慧花が苦しむより、慧花に嫌われる方が遥かにましだった。こんな自分に、心の底から厚意を向けてくれた式原慧花という人間の為であれば、何を犠牲にしたって構わない。
「俺は、慧花を愛している」
 真悟は力強く言った。
詩然は目を伏せて、小さく息をつく。
「貴方に別れを告げられるのは、これで二度目ですね」
「……すまない」
「いいでしょう。最後に私からの餞別です」
 詩然は右足を下着が見えそうな程に持ち上げると、大胆にも左足の上に乗せた。両腕を胸の前に組み、背中を仰々しく後ろに逸らす。
 上品な所作を崩したことのない詩然が、初めて見せる格好だった。
「もう、君の前で格好付ける必要もないからね。気楽に話させてよ」
 くすくすと笑う、人が変わったような詩然の態度に、真悟は驚きを隠せなかった。そんな真悟を見て、詩然はまた可笑しそうに笑った。
「知っているとは思うけれど、私たち御鐘家もかなりの名家なのよ。式御三家ともビジネス等で交流があってね。式原君は知らなかったみたいだけど、私も式原の屋敷に行ったことがあるのよ」
 詩然が式原の屋敷に行っていたことなど、初耳だった。
「式原に男の子が居ただなんて知らなかったから、入学式の時は驚いたわ。まあ式原なら、隠し子の一人や二人いてもおかしくないけどね。色々とおかしな噂のある家だし。まあ、それで彼をしばらく観察していて、やっぱり疑問に思ったの。本当に男の子なのかなってね」
 詩然の瞳は、取って置きの秘密をばらそうとしている子どものように輝いていた。
「だってあの子、可愛すぎるんだもの。いくら美形だと言ったって、もう一五歳になるのに、普通に考えて有り得ないじゃない。貴方は疑問に思わなかったのかしら」
「俺だって、初めて見た時は女だとしか思えなかった。だが、慧花は間違いなく男だ」
「どうしてそう言えるの」
「身分証を見た」
「偽造なんて簡単よ」
「それだけではない。偶然に慧花の裸を見たことがある。しっかりとあれが付いていた」
「それも簡単に作れるわ」
「おい、馬鹿を言うな。あんなものを作ってどうする」
「じゃあ聞くけど、それ以降は何回彼のあれを見たのよ」
「……いや、見ていない」
「上半身の裸は」
「……見ていないが」
 人を騙すには、偶然の力を借りるに限る、と詩然は言った。
「式原君は最初から貴方にそれを見せるつもりだったの。人は偶然に見てしまった、聞いてしまったというものを信じやすいのよ。女の子であることを疑われたくないと思った式原君は、そうとは疑われない為の仕掛けを用意しておいたというわけ。他にも心当たりは無かったかしら」
 真悟は慧花と清田寮で初めて顔を合わせたとき、彼が『女の子のフリ』をしていたことを思い出した。髪を下ろして、自分は女だ、見ればわかるだろうと言って、それから冗談だと否定した。
「まあ、そういった小細工のタネを暴くまでもなく、既に調べは付いているわ。式原慧花は女性よ」
 真悟は言葉を失う。
「むしろ良く隠し通せると思っていたわね。世間知らずのお嬢様は、自分の周りで何が起きているのかも知らないみたい。くだらない冗談に無理やり付き合わされた人たちは、さぞ迷惑をしていたでしょうね」
 詩然は大声を上げて笑い、目元に浮いた涙を無造作に拭った。
「はい、これでタネ明かしは終了。式原君を女の子だと知らずに、悶々と悩んでいる君を見ているのは楽しかったわ。それももう最後だと思うと、少しだけ残念だけれど」
「詩然……」
「あ、もう私のことは詩然と呼ばないで。ここにも二度と来ないように。今後は余所余所しく他人行儀に、私を憧れの綺麗な先輩として見ていて頂戴。言葉遣いも敬語に戻してね、高月君」
「……分かりました、御鐘先輩。今までありがとうございました」
 真悟は立ち上がり、詩然に向かって深く頭を下げた。
 詩然が慧花の秘密を知っているということなど、彼女が言う必要性は無かったのだ。黙ってさえすれば、真悟は詩然から離れられなくなっていたはずだ。
「先輩との時間は、とても楽しかったです。俺は今でも先輩を尊敬しています」
「はいはい、そういうの良いから。幻滅してくれた方が、こっちも気が楽だし。あははは」
 詩然は机に置いてあったクッキーに手を伸ばし、ぼりぼりと音を立てて食べた。
「先輩、一つ聞いていいでしょうか」
「ああ、いいよ。この際何でも聞きなよ。君がこの部屋を出るまでは付き合ってあげる」
「あの恋愛小説は、先輩が書いたものですよね」
 真悟が言うと、詩然はクッキーを喉に詰まらせて、慌てて紅茶を流し込んだ。
「いや、それ、今このタイミングで出てくる話なの」
「ずっと気になっていまして」
「おかしな子だね、君も。まあ、その通りだよ。下手な小説を無理やり読ませて悪かったね」
「そんなことはありません。先輩らしい、素敵な小説だと思いました」
「まあ、嘘を作るのは得意だから」
はにかむように詩然は笑った。
「では最後に、私からも一つ問題だ。今から君はこの部屋を出る。一人きりになった私は、いったい何をすると思う」
「なにをって……」
「では選択肢を与えてあげよう。一番、実は私は強がりを言っていただけで、君が居なくなった部屋で一人静かに涙を流す。二番、君が遠くへ行ったのを確認して、腹いせに君が座っていた椅子を地面に叩きつける。三番、携帯電話を取りだして、君の知らない誰かさんに連絡を取り、冷静沈着にこの件を伝える。さあ、どれだと思う」
 詩然はカウントダウンしながら、生徒指導室の扉を開けた。真悟の背中を強く押して、廊下へと放り出す。
「時間切れ、終了ですね」
 詩然は柔らかく微笑んで言った。
「あの、答えは……」
「教えて差し上げませんよ。これは私から高月君へのプレゼントです。一生大切にしてくださいね」
 詩然は上品にウインクをすると、生徒指導室の扉を静かに閉めた。
 
 最終章 畢竟友情こころ主義
 
 藪の道を踏みしめると、土と草の薫りが色濃く匂い立った。額から落ちる汗を拭い、真悟は清田寮へと続く道を歩いている。
 やがて、今にも崩れそうな風合の建物が見えてきた。三ヶ月前、あえてこの寮を選んだという慧花は、青春という趣で良いではないかと笑っていた。子どもじみた発想だと呆れたものだが、今となってはそれも悪くないように思える。
清田寮での生活を思い出すと、どの場面にも慧花がいた。
 得意気に友情論を語ってみせる慧花。
 台所で鼻歌まじりに食事を作る慧花。
 挑戦的な顔で友情ノートを開く慧花。
 ただ幸せそうに菓子を口に運ぶ慧花。
 当たり前のように思えていた光景が、どれほど眩しくて幸福なものであったのか、真悟はその喜びを胸の痛みと共に噛みしめていた。
 
 古い木の香りが充満する玄関から、軋む階段を上がり、弐拾壱号室の前に立つ。表札には二人の名前が掛けてあった。
「慧花、話がある」
 真悟は扉に手を触れ、寄りかかるように額を当てた。目を閉じると、意識を扉の向こうへ集中させる。
 慧花の気配を感じると、真悟は胸の内を言葉にした。
「俺はお前に嫉妬をしていた。友情部の活動を通して、日々成長していくお前を眩しく思っていた。同時に、いつかお前が俺の隣から居なくなってしまうのではという不安を感じていた。お前は人を信じることが出来る人間だ。しかし俺は人を信じることが出来ない。その決定的な差が、いつかお前に裏切られてしまうのではという不信を生んでいた。それでも俺は誠実でありたいと思った。友の自立の為に、自分の身勝手な不安を抑えるべきだと考えた。だが、お前は俺が突き離す程に、必死になって俺にしがみ付いてきた。俺はお前の不安そうな顔を見ると、酷く安心したのだ。お前に対する負い目や劣等感が、何倍もの快感となって返ってきた。そして上手くすれば、お前を縛り付けて、自立をさせずに、俺だけの物に出来るだろうと考えた。なんと醜い心だろう。いつの間に俺は、そのような浅ましい精神を持つようになってしまったのだろうかと思い悩んだ。そして俺は、その答えを見つけてしまったのだ。知らぬ間に、俺の中に存在していた罪悪の正体を」
真悟はそこで言葉を止めた。全ての心情を、このまま吐露してしまいたいという衝動を抑え込む。自分の目的は、一方的に慧花に贖罪の言葉を述べることではない。
激しく脈打つ心臓とは対照的に、真悟の頭は冷静だった。
「俺はお前に、本心を告げようと思っている。それでお前が満足してくれるのであれば、その結果がどうなろうが、俺には悔いはない」
 決着を付けよう、真悟は言った。
 俺たちの友情に。或いは、それ以外の何かに。
「河川敷で待っている。鉄塔がある橋の下だ。何度か散歩に行ったから分かるだろう。日が沈むまでに来てほしい」
 
 
 橙色の夕陽が、土手に佇む真悟の影を長く伸ばしていた。
川面に揺れる光の波を、真悟は涼やかな風と共に眺めている。
「すまない、待たせた」
背後から声が聞こえた。何より聞きたいと願っていた声だった。
 真悟はその存在を確かめるように、その存在が消えてしまわないことを祈りながら、後ろを振り返った。
慧花はいつもの学ラン姿だった。黒いマントをたなびかせて、帽子を深くかぶっていた。二人の横顔を、同じ夕陽が照らしていた。
「君は、少し痩せたか」
 慧花の問いに、真悟は「わからない」と答えた。
「お前は元気そうだ」
「うむ。君が毎日、菓子を持ってきてくれたからな。もしかしたら、体重が増えてしまっているかもしれない」
 話したいことは多くあった。慧花を待っている間に、頭の中で何度もシミュレーションをしていたはずだった。
 しかし慧花を前にすると、描いていた筋書きは全て飛んでしまった。慧花がそこに居てくれるだけで満足だった。
「慧花。来てくれて良かった」
「あそこまで言われては、来ない訳にはいかない」
 慧花は微かに笑みを浮かべる。
「お陰で僕も吹っ切れた。君に隠していたことを、打ち明けなければならないという覚悟が出来た」
 土手を降りた二人は、川岸まで近づいた。慧花は小石を拾って、川面に投げた。石はそう遠くない場所で、小さな飛沫を作って消えた。
 慧花の秘密を真悟は既に知っている。慧花が女であることを。ただそれは、慧花自身から打ち明けて欲しいと思っていた。
 真悟は地面から平たい石を拾って、水の表面を走らせるように投げた。石はいくつもの飛沫を一直線に作った。
「先に、僕から話をしてもいいか」
 慧花の言葉に、真悟は構わないと答えた。
「ありがとう」
 川の対岸を、学校帰りの子どもたちがはしゃぎながら歩いている。慧花はその様子を見て、眩しいものを見るように目を細めた。
「僕は、君を愛してしまったのだ」
 慧花の視線は、依然として川の向こうに向けられている。その告白は、真悟が想定していた秘密とは異なるものだった。
「驚いたかい」
 慧花は表情を変えずに言った。
真悟は「ああ」と声を出すので精一杯だった。
自分が告げる筈だった言葉を、相手から先に言われてしまった。戸惑いと驚きがない交ぜになって、どう反応するべきか分からなかった。
「今から思えば、君が御鐘詩然と付き合い始めた頃には、僕は平生の自分では無くなっていたのだと思う。君を他人に取られてしまう気がして、不愉快で仕方なかった。僕は友人として、君に恋人が出来ることを祝福してやれなかった。御鐘詩然の内心に信頼出来ぬものがあったのは本当だ。ただ、君を止めたいと思った理由はそればかりではない。きっと御鐘以外の女が来たとしても、僕は同じように振る舞っただろう。その感情が友情ではなく、恋愛であったことに気付いたのは、御鐘詩然を呼び出した夜のことだ。あの夜、僕を動かしたのは、君を思う友情の心ではなく、君を奪われまいとする嫉妬の心だった」
 慧花は自嘲するように笑って、また小石を川へ投げた。
「恋愛と情欲は、僕が最も忌み嫌う罪悪だ。式原の屋敷では、毎晩違う女が父上の寝所に出入りをしていた。母上はいつも泣いていたよ。僕は父上を許せなかった。そして、父上の権力を目当てに近づいてくる女たちを侮蔑していた。しかし笑ってしまうよな。恋愛を否定しておきながら、僕もまたあの女たちと同じように、君を求めたいと思ってしまったのだから」
 隠していてすまない、と慧花は言った。
「僕は女なのだ。今まで君を欺いていた」
「……そうか」
「あまり驚かないのだな。怒りで声も出ないということか」
「そうではない。しかし何故、性別を偽ったのだ」
「決まっている。たった一人、信じられる相手が欲しかったのだ。友情こそが最も崇高な絆であると、僕は信じて疑わなかった。理想の友情を手に入れるためには、性別を偽る必要があった」
「女のままでは、理想の友情が手に入らないと言うのか」
「その通りだ。女の友情に対する意識は、男のそれとは異なるものだ。僕が求めている深い信頼関係は、女同士では得られそうになかった。男女の友情などは言うまでもない。だから僕には、性別を偽る以外の選択はなかった」
「いつかはバレると思っていなかったのか」
「もちろん思っていた。しかしそれは、君との友情が確固たるものになった時に自分から明かすつもりだった。君が僕の本当の性別を知ったとしても、変わらぬ友情を抱いてくれると確信出来るようになるまで、嘘を隠し通そうと考えていた。僕と君であれば、その高みにまで行けると確信していた」
「思い切った行動に出たものだ」
「そうだ。僕の覚悟は並大抵のものではなかった。君に男だと信頼してもらうために、色々と準備もした。だが君を好きになってしまった瞬間に、僕の中の友情は壊れてしまったのだと確信した。友人として君を騙していたという罪悪感と、女として君に触れられないという絶望に、身動きが取れなくなってしまった。どちらを選んだとしても、君との友情が終わってしまうのだ。だから僕は、せめて君だけでも失わないように――」
 慧花は腰元から生々七碌を抜き、自らの首筋に当てた。慧花の背後に黒い霧が浮かび上がり、それは人ならざる者の形を作った。
「僕は自分の恋愛感情を殺し続けた。毎日、毎日……こうして――」
 慧花が身を翻し、自らの感情へ剣を振るった。雲散霧消した黒い霧は、しかし元通りの姿を取り戻した。
「だが何度試みても、君への感情を消すことが出来なかった。僕の中にあるのは、おぞましいまでの執着だったのだ。そして僕はまだ、君に謝らなければならないことがある」
 慧花は生々七碌を鞘へ仕舞った。
「僕は君に、式眼を使わないと約束していたな。友人として心の中を覗き見るような行為はしないと誓った。しかし僕は、眠っている君に何度も式眼を使っていたのだ。君の真意を知りたいと思い、初めて出会った日から毎晩、君の心を覗いていた。だから僕は知っている。君が僕に欲情をしていたこと。恋愛感情を抱いていたこと。君が今日、僕に告白しようと思っていたことは、それだったのだろう」
 真悟は言葉を失った。
まさか慧花が、そんなことをしているとは思いもしなかった。
「君が僕に対して持っていた情欲は、決して小さなものではなかった。でも君は、友人として僕を大切に思い、それを隠そうと耐え続けていた。僕はそんな君の高潔な精神を知った上で、苦悩する君を見て快感さえ覚えていたのだ。君が僕への情欲に打ち勝ち、友情を大切に守っていこうとする姿に、その心を尊敬すると共に、何度もそれを試したいという衝動に駆られた。無邪気に君に擦り寄る振りをして、困惑する君の反応を確かめていたのだ」
 慧花の告白は、真悟の想像を超えるものだった。慧花は自分に拒絶されたことがショックで、部屋に閉じこもるようになったのだと思っていた。しかし慧花は自分に対して恋愛感情を持っていたばかりか、真悟の気持ちを前から知っていたのだ。
「軽蔑するだろう。僕は君の友人として相応しくないのだ。ましてや恋人になどなれるはずも無い。僕は最初から君を騙していた。性別を欺き、誠意を欺き、君の心を欺いた。僕が君を失うのは当然のことだ。それでも最後に、どうしても守りたいものがあった。それは、君の命だ。僕が今日、この場に来なかったら、君は僕の前から永遠に去っていたことだろう。僕に対して、そして自分に対して真面目であろうという君は、その高潔な精神を抱いたまま最後の選択をしたはずだ。僕は君に嫌われたって、罵倒されたって、それだけは何としても避けたかった。最後まで身勝手だけれど、君には幸福に生きて欲しいと思ったのだ」
 慧花は帽子のつばを手にして、目深に被った。頬には涙が伝っていた。
「僕は馬鹿だった。本当に取り返しのつかないことをしてしまった。自分がここまで弱く、情けない人間だったとは思わなかった」
 真悟は目を伏せて、慧花の言葉を受け止めた。
 慧花もまた、自分と同じように苦しんでいたのだ。友情という理想を掲げて、それを成し遂げる為にただ真面目で在りたかった。理想と現実の落差に戸惑いながらも、それでもなお足掻き続けた。しかし気が付けば、どうしようもない所まで自分を追い詰めてしまっていた。
 お互いがお互いのことを想っていた。だからこそ遠ざけ、嘘を付き、裏切り、騙し、傷つけざるを得なかった。
 自分と慧花は、どういう関係にあるべきなのか。お互いが相手の幸福を願い、自分もまた幸福であるためには、何が必要なのか。
 導き出された結論は、ごく単純なものだった。
相手を許すという、ただそれだけの行為だった。
 
「慧花、お前は一つ勘違いをしている」
 真悟は言った。
「お前は俺を騙し、裏切ったつもりでいるようだが、俺は最初からお前など信用していない。俺が他人に不信を抱いていることくらい、お前も知っているだろう。初めから信用していないのだから、騙されたも裏切られたもない。たしかに驚きはしたが、それでお前への気持ちが変わることもない」
 真悟は慧花の両肩を掴むと、真正面に見据える。慧花は涙で濡れる目を逸らした。
「慧花、俺を見ろ」
 真悟は強い口調で言った。慧花の惑う視線が、自分の元へ辿り付くまで待った。そして告げた。
「お前は、俺とどういった関係を望む。友人か、それとも恋人なのか」
「僕は君に相応しくない人間だ。そんなことを口にする資格はない」
「資格があるかどうかは、俺が決める」
 慧花の瞳から、また涙がこぼれた。
「……僕は君の、たった一人になりたい」
「それは友人としてか。背中合わせで真実を語り、互いの関係に一線を引いた上で、信頼関係を築きたいということか」
「……違う。君とは一線など引きたくない。誰よりも近い場所に居たいのだ」
「では恋人としてか。向かい合わせで嘘を吐き、誰よりも近い場所で、相手の為に自らを偽り続ける関係を築きたいということか」
「……違う。僕はこれ以上、君に嘘など吐きたくない。心の底から真実を語り合える仲になりたいのだ」
「それでは、俺たちが歩んでいる道は何も間違っていないではないか。お前が目指していた畢竟友情とは、そういうことではなかったのか。俺たちは友人にも恋人にもなれない。だからこそ、向かい合わせに真実を語り合うのだ。それこそが畢竟友情ではないのか」
「真実など語れるものか。僕の醜い内心を晒せば、きっと君に嫌われてしまう」
「であれば段階的に、少しずつレベルを上げていけばいい。お前が作った友情ノートのように、『本音ノート』を作るのだ」
「本音ノート……?」
「そうだ。まずはお互いに打ち明けたい本音を提案する。そしてそれを許すことが出来るかどうかのレベルを決めるのだ。例えばそうだな、『俺がお前に欲情している』という本音を打ち明けるとしよう」
「……提案をした時点で、打ち明けているのと同じではないか」
「いや、この時点では本当にそう思っているかは問わない。あくまで仮に、そう思っていたら許されるかどうかの検討をするのだ。さて、この提案はかなりハードルが高いだろうから、レベル50としておこう。さて慧花、お前は俺の本音を告白されたら、俺を許すことが出来ると思うか」
「そんなもの、何とも思わない」
「では、これはクリアだ」
 真悟は石を拾うと、地面に50と書き、横にチェックを入れた。
「さて次だ。お前が俺にこう提案する。『もし式眼を使わないと言いながら、こっそり毎晩心を覗いていたら』とな。実際にそうであるかは問わない。これはそうだな、レベル20くらいにするか」
「20ということはないだろう。君に嘘をついて裏切ったのだ」
「では25にしておく」
「低すぎる!」
「まあ今回は、騙された方が言っているのだから良いだろう」
 真悟は地面に25と書いて、チェックを入れた。
「それなら君が僕に欲情をした件も、レベル50ではなく5に変更したまえ」
「いや、流石に5は低すぎる」
「欲情された方が言っているのだから良いのだ」
 慧花は靴の裏で、真悟が書いた50の0の字を踏み消した。
 仮にでも良いと言ったな、と慧花は言った。
「もちろんだ」
「では仮に、僕が寝ている君にキスをしていたとする。レベルはいくつくらいだろうか」
「……仮に、だよな」
「そうだ、仮の話だ。これは告白どころではなく犯罪だからな。60くらいにしておこう。それで君は、僕を許すことが出来るのか」
「別に、問題ない」
 真悟は頷いた。
「ではクリアだな。凄いな君は」
慧花は地面に60と書いて、チェックを入れる。
すると真悟は靴の裏で、60の0を踏み消した。
「60は過大評価だ」
「なんだい、ただのレベル6だったのか。僕があれだけ罪悪感に苛まれたというのに」
 慧花は目に涙を浮かべて笑っていた。
「どうだ、簡単だろう。こうして、お互いに通せる本音のレベルを確認し合っていけばいい。クリアできない提案があったら、それをクリアするにはどうすればいいかを話し合うのだ」
「なんだか馬鹿みたいだ。これが僕らの畢竟友情なのかい」
「人間など、本質的な所ではみんな馬鹿だ。それを皆隠して、立派に見せようと努力している。その向上心こそが人間の素晴らしいところだが、それでも尚、馬鹿であることを誰かに許されたいのだろう」
「僕は世間知らずで、汚いことから目を背け過ぎていた。自分の心に、もっと正直に向かい合っていくべきなのかもしれない」
「俺も同じだ。親戚に裏切られ、彼らの変容振りをただ拒絶しようとしていた。彼らに向かい合って、自分が傷つく覚悟で話が出来ていれば、また違った結果になっていたのかもしれない」
「人の本音を聞く、人に本音を話すことの、なんと恐ろしいことか。大好きな君が相手だからこそ、言えないこともある」
「そうだな。一撃でお前に嫌われるような妄想を、俺はいくつも持っているぞ。さすがにそれを打ち明ける訳にはいかない」
「ほう、それは興味深いな。仮にでも良いから、言ってみせろよ」
「嫌だね、恥ずかしい」
 二人は笑いあった。
遠く山々の稜線を、沈みきった夕陽が赤く染めている。
「そうだ、良い方策を思いついたぞ。君と僕が、畢竟友情を深めていくための方策だ」
「どんなものだ」
「今は秘密にしておく。準備が整ったら教えることにしよう。ところで――」
 慧花は小指を下唇に当てた。この仕草を見るのも、随分と久しぶりだった。
「結局、僕と君は、どういった関係になるのだ」
「どう、というのは」
 慧花は少し照れくさそうに言った。
「だから……恋人なのか、友人なのかということだ。君には御鐘という恋人がいるだろう」
「ああ、御鐘先輩とは寮に向かう前に別れてきた。お前を愛していると、はっきりと伝えてきた」
「そ、そうか、愛しているのか。それはすごく嬉しいな」
 もしや、と慧花は不安そうな顔をする。
「僕が男だった方が良かったか。女と知って、気が変わったとか……」
「そんな訳があるか。男であろうが女であろうが、慧花であることに変わりはない」
「変わりはないというのも、何だか複雑な気がするが、こうなったのは僕の自業自得だな。となると僕らは、明日から友達以上、恋人以上の関係となるわけだ」
 慧花は嬉しそうに言って、真悟の両手を握った。
「僕は今、とても幸せだ。この世界に生まれてきて、本当に良かったと思っている。でも僕は、君との友情をこんなところで終わらせたくない。さらなる高みを君と共に目指したいのだ。僕と君だけの畢竟友情を、実現させようではないか」
 真悟は頷き、慧花を抱き寄せた。
 群青色の空の果てには、どれだけの闇が続いていることか。
どのような闇の中にあっても、慧花の存在だけは見失いたくないと、真悟は強く心に思った。
 
 
 
エピローグ
 
 
 生徒指導室の扉を開けると、中に居た御鐘詩然は何事かと目を丸くした。
「た、高月君?」
「僕もいるぞ」
 真悟の脇の下から、慧花が顔を出した。
「もう此処には来ないようにと……」
「さあ、何の事でしょうか」
 真悟は素知らぬ風に、座り慣れた椅子に腰を掛けた。
「おい、貴様は客に茶も出さないのか」
 腕を組んだ慧花は、尊大な態度で言う。
「こ、これは失礼を致しましたわ」
 作り笑いをしながら、詩然は奥へと引っ込んだ。
 まもなく机に湯のみが三つ置かれた。
「なんだ、これは。熱くて飲めたものではない」
 慧花は不満そうに、湯のみに息を吹きかけている。詩然は取りつくろうように、小さく咳払いをした。
「式原君、お加減はもうよろしいのですか」
「見ての通りだ」
「今日は一体、何の用でこちらに」
「真悟にフラれた馬鹿女の顔を見てやろうと思ってな」
 くくく、と悪意たっぷりの表情を浮かべる。
「それはそれは、お気遣いなく」
流石の詩然も表情が強張っていた。真悟を見るや、ほんの一瞬、鋭い眼光で睨みつける。
「慧花、冗談はそこまでにしておけ」
「ああ、わかった」
 慧花は立ち上がると、詩然の前に片膝を付き、頭を垂れた。
「先日の非礼を詫びたい」
 
「――それで、お二人はまた、畢竟友情を目指されることになったということですか」
 詩然の言葉に、慧花は頷いた。
「僕は間違っていたのだ。人間の高潔な部分だけを見ていては、畢竟友情は叶わない。僕らは人間の心の、浅ましい本質を知る必要がある」
「それはご立派なことですが……何故私に、そのようなことを」
「真悟が推薦したのだ。人の心の闇を知るために、打ってつけの人物がいると」
「俺たちは、先輩を畢竟友情部へ迎え入れたいと思っているのです」
「……はい?」
「分からぬ奴だな。貴様の醜く薄汚れた心が、僕ら畢竟友情部のサンプルとして都合が良いということだ」
「だ、誰が都合のよいサンプルですか。そんなことを言われて、はいそうですかと答えるわけがありません」
「無論、承知の上だ。しかしこれを見ても、お前はその態度を守れるのかな」
 慧花は口の端を歪めながら、大きめの茶封筒を取りだした。それを見た詩然の表情が、さっと青ざめる。
「そ、それは……まさか、あの女裏切っ――――」
「さあ、答えを聞かせてもらおうか」
「高月君には……」
「まだ見せていない。お前の返答次第だな」
 詩然を畢竟友情部へ誘うことに、慧花は反対しなかった。しかし、どうすれば入部をさせられるかという問題がある。慧花は任せておけと言ったが、この封筒に何が入っているのかを、真悟は知らなかった。
「卑怯ですわ。こんな、人を脅すような真似を……」
「何とでも言うがいい」
 慧花は封筒の中に指を入れ、挑発的な笑みを浮かべる。
「わ、わかりました。式原君の言う通りにします」
「それは何よりだ」
 慧花は封筒を詩然に差し出した。詩然は奪い取るように封筒を受け取った。
「これで今日から、お前も畢竟友情部のメンバーだ。放課後は部室に来るように」
「ですが、私には生徒会の仕事が……」
「何も常に拘束をしようという訳ではない。一日十五分でいい。畢竟友情部へお茶を飲みにこい」
 詩然は訝しげな表情を浮かべた。慧花の意図を掴めないのだろう。
「なぜ、私を」
 先輩、と真悟が声を掛けた。
「俺は御鐘先輩を尊敬しています。本音を隠して美しく着飾った、上品で優しい先輩を尊敬しています。でもそれ以上に、俺に本音を話してくれていた時の先輩は素敵だと思いました。俺はもっと、先輩の本音を聞きたいと思うのです」
「違います、私はそんな……」
「しかし妙だな、御鐘詩然。お前は既に、真悟に本音を吐露したのではないのか。それであれば、なぜこの期に及んで取り繕う必要がある」
 確かにそうだ、と真悟は思った。
「答えは簡単だ。御鐘は君に本音を話していなかったのだ。本音を話したということ自体が嘘だったのだ」
 慧花の言葉に、詩然は動揺しているようだった。
「これ以上は僕が言うことではないな。先に部室へ戻っている。真悟、後で御鐘を連れて来てくれ。今後について話をしたいことがある。ここでは落ち着かないからな」
「わかった」
 慧花が生徒指導室を出て、扉を閉めた。
「あれは、先輩の本音では無かったのですか」
 詩然は大きく息を吐く。
「まさか、このような結果になると思いませんでした。あの女が裏切ったのも、私に対する当てつけでしょうね」
 真悟は黙って、詩然の言葉を待った。
「今さら隠しても仕方がありません。式原君は全てを知っているようです。貴方と二人きりにさせたというのは、そういうことなのでしょう」
「先輩には、別の目的があったということですか」
「ええ。私の目的は、式原慧花を屋敷へ戻らせることでした。私は命令を受けていたのです。それはもう、とてもとても偉い人から。それだけの価値が彼女にはあるのです。でも、無理やりに引き戻すことは出来なかったようですね。その為には、彼女が持っている畢竟友情という理想を叩き壊してしまう必要がありました。そして、同じ高校に通う私に白羽の矢が立ったのです」
 真悟はさほど驚かなかった。慧花の周りで、式原が動いているということは想定していた。詩然に対しても、最初にそれを疑っていたのだ。
「高月君。今からでも遅くありません。彼女と距離を置くべきです。貴方は式原を敵に回そうとしているのです。命を狙われることになるかもしれません。貴方たちが想像している以上に、式原と式術を巡る闇は深いのです。私は心から、貴方たちのことを心配しているのです」
「俺は先輩の言葉を信じますよ。それでも、慧花の側を離れようとは思いません」
「……既に覚悟を済ませている、というわけですか」
 詩然は湯のみに口を付け、静かに置いた。
「分かりました。貴方たちだけでは心許ないですからね。それに本家の考え方には、前々から不満があったのです。これも良い機会なのかもしれません。どの道もう、私は巻き込まれてしまったのですから」
 詩然の言葉は断片的だった。その背景には、自分が想像もつかないような事情があるのだろうと真悟は察した。
「それでも先輩は、俺たちを助けてくれたのですね」
「そんなつもりはありません」
「ではどうして、俺に慧花が女であることを教えてくれたのですか」
「それは……ちょっとした気まぐれです。それでもきっと、貴方たちは別れてしまうだろうと思っていました。私は貴方が思っているような人間ではありません」
「分かっています。俺たちはそれでも、先輩と共に進みたいのです」
 
 真悟は詩然を連れて、畢竟友情部へ戻ってきた。
 式術士の装束を着た慧花は、「全員揃ったな」と言った。
「先程も言った通りだ。僕たちは畢竟友情を極めるために、人間の本質を見定めていく必要がある。それは困難な道のりだ。より大きな罪悪を前にしては、より強い心を持ち続けなくてはならないだろう。そこにいる腹黒年増なら兎も角、僕と真悟は罪悪への耐性がまだまだ低い」
「誰が腹黒年増ですか。百歩譲って、年増は訂正してください」
「いや失礼、つい口が滑ってしまった。その辺りのコツは、腹黒大先生にご教授願うこととして、僕は今後、式術士としての活動に力を入れていこうと思っている」
 慧花は生々七碌を構えた。
「人に憑くばかりが罪悪ではない。魑魅魍魎と化した感情が、世の中には蔓延っている。僕はこの力を、皆の為に使いたいのだ」
 真悟は詩然を見た。慧花の言葉を、既に予想していたという表情だった。
「式原君、本当に良いのですか」
「無論だ。多少の危険があろうと、僕と真悟なら乗り越えて行ける」
「そうではありません。私を畢竟友情部へ招き入れたことです。私がいつ、高月君を好きになってしまうか分かりませんよ。貴方から彼を奪おうとして、再び不和を生み出すことになるかもしれません」
「問題ない。畢竟友情は全てを越える。恋愛も嫉妬も、憎悪も情欲もだ。それに僕とお前だって、共に畢竟友情を目指す仲になるのだ。何を遠慮する必要がある」
「何をって……」
「今は黙って僕たちについてくればいい。畢竟友情の何たるかを、その身に教え込んでやろう。なに、三日もすれば、あの封筒の中身を自分から打ち明けられるようになるさ」
 詩然は顔を赤くして、慧花を睨みつけた。
 その時、慧花の携帯電話が鳴った。真悟は掛けていないので、それ以外の誰かからということになる。
「ああ、白瀬。ご苦労だった」
 電話の相手は、慧花の使用人の白瀬のようだ。何度も話題に挙がっていたが、一度も顔を見たことはなかった。本当に存在していたのだなと、真悟は何だか不思議な感じがした。
 慧花は携帯電話を切り、ポケットにしまった。
「では、行こう。白瀬の車が到着した。正門で待っているはずだ」
「行くって、どこへだ」
「人の心を知りに行くのだ。御鐘、お前はどうする。十五分は過ぎたから、好きにして構わないが」
「私も一緒に行かせていただきます。あの女に、一言文句を言って差し上げたいので……」
「それは結構なことだ」
 慧花は笑って、真悟の手を取った。
「付いてきてくれるよな、君」
「勿論だ」
 真悟は頷いて、より強く慧花の手を握った。
「……いちゃつくのであれば、どうぞ私の目の届かない所でやって頂けませんか」
「混ざりたいのなら、素直にそう言えばいい」
 慧花は空いている手で詩然の手を握る。
「いえ、私は別に」
「さあ、詩然」
真悟もまた、空いていた手で詩然の手を握った。
「し、真悟君……」
 慧花はその様子を見て、満足そうに笑った。
「畢竟、友情に優る絆など存在しない。僕たちはその高みを目指すのだ。不和と不信に溢れた世界で、信じられるものを見つけたいと願う。その覚悟はどんな罪悪にも負けはしない。心の闇に飲まれても、なお輝き続ける強い力を持つことを望むのだ。僕たちの幸福の為に。そして、人の心を知りたいと願う、全ての人たちの為に」
 
 
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...