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ep6
ep6『さよなら小泉先生』 初恋
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黒い本体の古びたミシンを抱いて小泉は微笑んだ。
「最近、体重が増えてきたんですよ」
俺は戸惑いを隠せなかった。
普通、こういうシチュって─────乳母車の中に入ってるのは人形かぬいぐるみなんじゃねぇの?
どうして壊れたミシンなんだよ?
せめてもうちょっとマシな──────赤ん坊や生き物に近いフォルムの物なんていくらでもあっただろ?
スエカ婆ちゃんの家から持ち出したんだろうか?
半世紀以上前の物と思われる骨董品のようなミシン。
小泉はこれを──────赤ん坊だと思い込んでいるっていうのか?
だけど。
『赤ん坊』を抱いている小泉の表情があまりにも穏やかで──────幸せそうに見えたんだ。
───────存在しない記憶の中でだけ生き続けている幸せな家族。
俺はもう隠すことなんか出来なくなってその場で泣いた。
自分ではどうすることも出来なって啜り泣く俺を心配そうな目で小泉が見る。
「どうか……されたんですか?」
いえ、と返事をすることすら出来なかった。
小泉は『赤ん坊』を乳母車に戻し、俺の顔を覗き込んだ。
「お仕事が……お辛いんですか」
小泉は医者が持っているような古い鞄からレースのハンカチを取り出した。
黒い鞄は朽ち果てていて金具は錆びて革の部分はあちこち破れていた。
この鞄も何処かから拾ってきたんだろうか?
けれど、差し出されたハンカチだけは真っ白で─────とても綺麗だった。
俺にはそれが──────歪んだ世界で唯一残っている小泉の“微かな記憶”のように思えたんだ。
俺は俯いたままそれを受け取った。
「……泣かないで」
小泉が俺の頭をそっと撫でる。
そうだ、と呟いた小泉はさっきの黒い鞄をもう一度開けた。
「……疲れた時には甘いものがいいんですよ」
よかったら食べてください、と小泉が差し出してきた物を見て俺は固まった。
─────それは、カントリーマアムの大袋だった。
未開封のままなのに、ずっと長い間鞄に入れられビニールがしわくちゃになったカントリーマアム。
「……これって」
涙を拭きながら俺は尋ねた。
「……このお菓子、主人の大好物なんです」
だからいつでも食べられるように鞄に入れてて、と小泉はどこか嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう……ございます」
中のクッキーも砕けてボロボロになってるんだろう。
俺はそのカントリーマアムを大袋ごと受け取った。
自分だってズタズタの状態なのに、どうして“見ず知らず”の俺に優しくしてくれるんだ?
俺はガリガリに痩せ細った小泉のその身体を思い切り抱きしめたい衝動に駆られた。
─────だけど。
俺は臆病者なんだ。
『他の男の妻』になった小泉を抱きしめる勇気が俺にはなかった。
こんなに側にいるのに、俺には何もしてやれることがない。
本当に真横に居るのに。
何もかもを捨てて小泉と何処か遠くに逃げる事が出来たらどんなにいいだろう、と俺は思った。
だけど、きっと小泉はそれを望まないだろう。
これ以上一緒に居ると取り返しのつかない何かをやらかしてしまいそうだと思った俺は─────その場を逃げるように離れようとした。
「……ご協力ありがとうございました。書類はこちらで提出しておきますので」
ではこれで、と俺が会釈をすると小泉はゆっくりと手を振った。
「……あまりご無理をなさらないでくださいね」
“初対面”の俺に対する気遣いを見せた小泉の─────その変わり果てた姿を見るのが恐ろしくて俺は振り返らずに早足で歩いた。
角を曲がり、小泉の姿が見えなくなった位置までくると俺は走った。
どこへ行こうという訳でもない。
ただひたすら走った。
滅茶苦茶に走った末に俺は、河川敷に横たわっていた。
闇雲に走った末にすっ転び、草むらの中を転がって落ちてきたのだ。
何もかも取り返しがつかない。
小泉。
もう二度と俺の知ってる小泉には会えない。
それを他でもない小泉本人から突きつけられたんだということを悟った。
胸の奥が焼けるように熱く、痛かった。
痛みで呼吸が出来ない。
今はただ、『いつもの小泉』に会いたかった。
締め付けられるような苦しさで気が狂いそうだった。
こんな感情ってなんて呼べばいいんだろう?
その名前を俺はまだ知らなかった。
「最近、体重が増えてきたんですよ」
俺は戸惑いを隠せなかった。
普通、こういうシチュって─────乳母車の中に入ってるのは人形かぬいぐるみなんじゃねぇの?
どうして壊れたミシンなんだよ?
せめてもうちょっとマシな──────赤ん坊や生き物に近いフォルムの物なんていくらでもあっただろ?
スエカ婆ちゃんの家から持ち出したんだろうか?
半世紀以上前の物と思われる骨董品のようなミシン。
小泉はこれを──────赤ん坊だと思い込んでいるっていうのか?
だけど。
『赤ん坊』を抱いている小泉の表情があまりにも穏やかで──────幸せそうに見えたんだ。
───────存在しない記憶の中でだけ生き続けている幸せな家族。
俺はもう隠すことなんか出来なくなってその場で泣いた。
自分ではどうすることも出来なって啜り泣く俺を心配そうな目で小泉が見る。
「どうか……されたんですか?」
いえ、と返事をすることすら出来なかった。
小泉は『赤ん坊』を乳母車に戻し、俺の顔を覗き込んだ。
「お仕事が……お辛いんですか」
小泉は医者が持っているような古い鞄からレースのハンカチを取り出した。
黒い鞄は朽ち果てていて金具は錆びて革の部分はあちこち破れていた。
この鞄も何処かから拾ってきたんだろうか?
けれど、差し出されたハンカチだけは真っ白で─────とても綺麗だった。
俺にはそれが──────歪んだ世界で唯一残っている小泉の“微かな記憶”のように思えたんだ。
俺は俯いたままそれを受け取った。
「……泣かないで」
小泉が俺の頭をそっと撫でる。
そうだ、と呟いた小泉はさっきの黒い鞄をもう一度開けた。
「……疲れた時には甘いものがいいんですよ」
よかったら食べてください、と小泉が差し出してきた物を見て俺は固まった。
─────それは、カントリーマアムの大袋だった。
未開封のままなのに、ずっと長い間鞄に入れられビニールがしわくちゃになったカントリーマアム。
「……これって」
涙を拭きながら俺は尋ねた。
「……このお菓子、主人の大好物なんです」
だからいつでも食べられるように鞄に入れてて、と小泉はどこか嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう……ございます」
中のクッキーも砕けてボロボロになってるんだろう。
俺はそのカントリーマアムを大袋ごと受け取った。
自分だってズタズタの状態なのに、どうして“見ず知らず”の俺に優しくしてくれるんだ?
俺はガリガリに痩せ細った小泉のその身体を思い切り抱きしめたい衝動に駆られた。
─────だけど。
俺は臆病者なんだ。
『他の男の妻』になった小泉を抱きしめる勇気が俺にはなかった。
こんなに側にいるのに、俺には何もしてやれることがない。
本当に真横に居るのに。
何もかもを捨てて小泉と何処か遠くに逃げる事が出来たらどんなにいいだろう、と俺は思った。
だけど、きっと小泉はそれを望まないだろう。
これ以上一緒に居ると取り返しのつかない何かをやらかしてしまいそうだと思った俺は─────その場を逃げるように離れようとした。
「……ご協力ありがとうございました。書類はこちらで提出しておきますので」
ではこれで、と俺が会釈をすると小泉はゆっくりと手を振った。
「……あまりご無理をなさらないでくださいね」
“初対面”の俺に対する気遣いを見せた小泉の─────その変わり果てた姿を見るのが恐ろしくて俺は振り返らずに早足で歩いた。
角を曲がり、小泉の姿が見えなくなった位置までくると俺は走った。
どこへ行こうという訳でもない。
ただひたすら走った。
滅茶苦茶に走った末に俺は、河川敷に横たわっていた。
闇雲に走った末にすっ転び、草むらの中を転がって落ちてきたのだ。
何もかも取り返しがつかない。
小泉。
もう二度と俺の知ってる小泉には会えない。
それを他でもない小泉本人から突きつけられたんだということを悟った。
胸の奥が焼けるように熱く、痛かった。
痛みで呼吸が出来ない。
今はただ、『いつもの小泉』に会いたかった。
締め付けられるような苦しさで気が狂いそうだった。
こんな感情ってなんて呼べばいいんだろう?
その名前を俺はまだ知らなかった。
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