恋情を乞う

乙人

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貴人

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 他の妃に遅れをとって入宮したのは、黎氏という女だった。歌舞音曲が特技の、幼さを少し残した、華やかな美人だった。
 彼女は貴人という位を与えられた。徳妃や賢妃が正一品なのに対し、貴人には品位が無い。
 身分が低い黎貴人だが、一つ武器があった。旲瑓や永寧長公主の古い知り合いだったのだ。
「ご機嫌麗しゅう。お久しゅう御座います。」
 丁寧に挨拶をし、顔を上げた。久しぶりに見る懐かしい顔は、面影をそっと残し、更に美しさを増していた。
「久しいな。」
 旲瑓はその黎貴人の顔を覗き込んだ。
「そうね。久しぶりだわ、黎貴人。懐かしいわね。覚えている?」
 隣に座っていた永寧長公主も口を挟んだ。
「お前は歌舞音曲が得意だったね。今度、私の宮に来なさい。久しぶりにお前の歌が聴きたくなったよ。」
 朗らかに旲瑓が笑った。永寧長公主も似た顔をしている。
 穏やかな、昼の頃だった。

「見て、あれよ。」
「まぁ。あれが。」
 早速、貴人は噂になってしまったらしい。
「身分が低いのに、また出しゃばってるわ。身の程知らずなのね。」
 妃嬪に笑われている。
 圓氏はそれをいつもの顔で見ていた。
 榮氏は無表情ポーカーフェイスでいた。何を考えているのか、読み取れなかった。
 今、一番後宮で身分の高い女は、徳妃である榮氏である。彼女はまた昇格の噂がたっていた。賢妃である圓氏が二番目に高く、それに九嬪達が続く。
 四夫人という、高い身分で地位が約束されている榮氏と圓氏よりも、地位は危ういことになるやもしれないのに。

 約束通り、旲瑓に招かれた貴人は宮に参上した。同時に、格上の才人が二人招かれた。
 二人の才人もやはり、歌舞音曲の得意な人で、好敵手ライバルどうし、仲が悪かったようだ。
 格上ということもあって、先に披露するのは才人であった。貴人は今、最下位の位だった。
 二人の才人は、確か、リー才人とユー才人と言っていた。名前と声がそっくりで口も速く、聞き分けるのは大変だった。
 先に俐才人が舞った。嫋やかな舞姫だと思った。
 瑜才人は面白くなさそうに、二胡を弾いていた。後ろでは、黎貴人が琵琶を弾こうとしていた。
 -ピッ。
 琵琶の弦が切れ、貴人の頬を掠り、傷をつけてしまった。
(確か、この琵琶は、俐才人のもの。)
 嫌なものを見た。
 俐才人は笑っていた。歪んだ笑であった。どうやら、俐才人が謀ったことらしい。
 すぐに舞いは終わり、瑜才人が次に舞った。瑜才人は美しかったが、俐才人には劣った。
 瑜才人が舞っている間は、何も怒らなかった。瑜才人はホッとしていた。俐才人はぶうたれた。
 最後は黎貴人だった。地味な格好をしている黎貴人に、旲瑓は一本、笄を挿してやった。
 貴人が舞おうとしているのに、楽は聞こえてこなかった。才人達が謀ったことだ。仲の悪いくせに、こういう利害関係は一緒らしい。
 仕方なく、黎貴人は口遊みながら舞っていた。裱をふわりと舞わせていた。途中で、来る時に瑜才人に衣裳を汚されたのを思い出した。後戻りは出来ないので、裱でそれを隠しながら舞った。
 シャリン、と髪飾りが音を立てて、揺れる。終わりは天を見上げ、静止した。手を見える月に添えた。雲から漏れる月の光に照らされ、艶やかに美しかった。
「見事だ。」
 旲瑓は手を叩いた。隣の榮氏も渋々叩いていた。彼女もまた、腕のいい舞姫であるから。
 黎貴人は丁寧に礼をした。
 才人達は、それを悔しそうに見ていた。

「何よ!わたくしよりも位が低いくせに!」
 宮を一歩離れると、俐才人に突っかかられた。
「そうよ!大して舞いも上手くないくせして!」
 瑜才人もそれに続く。
 嫉妬は恐ろしい。滅茶苦茶でも支離滅裂でも、相手を貶そうとする。
 二人の才人が言っていることは滅茶苦茶だ。よく、後宮の妃嬪が言っているようなことではあるが、やはり、女が集まれば、生まれるのは嫉妬や嫌悪らしい。
「わたくしの方が上よ。だって、主上様はわたくしを見て、にこりとしてくださったわ。」
「いいえ、それはあたしに向けてよ。何であんたに!」
 俐才人と瑜才人はいつのまにか貶し合いをし始めた。黎貴人は呆れた。
「おやめ下さいませ。」
 凛とした声だった。二人は振り返って、睨みつけてきた。
「どういうことよ!」
「何方の花が美しいなぞ、優劣を決めてどうするのですか?意味の無いことです。」
 黎貴人にとって、こんな諍いは汚らわしいものだった。
「何方が上。何方が下。それを決めてしまうのは、下衆な話ですわよ。」
「分かってないわね!」
 俐才人が叩こうとしてきたので、ひらりと軽々避けた。
「立場が分からないなんて、まあ、厭らしい。分からせてあげないと駄目みたいだわね。」
「いいえ。その必要はありませんわ。」
 はぁ、と瑜才人。怖い。
「私は幼い頃から後宮で暮らして参りました。これは、貴女方を思って申しておりますのに。」
「何よ。」
「後宮に居られる妃嬪達は、どうしても優劣をつけたがるのですね。妃に、己に自身を持っていたのに、下と評価され、屈辱のあまり自害した者を知っておりましてよ。だから、下衆なのだと申しましたわ。」
 それだけ言い残すと、黎貴人は背を向けて、自分の殿舎に引き返してしまった。

「賢妃様。」
 白い衣装に、青い薄絹の裱を召した妃が待っていた。圓氏だった。
「お久しゅう御座います。」
「ええ、そうね。御機嫌よう。三年ぶりかしらね。」
 圓氏は珍しく人の様な顔をしていた。血色が元通りになったのだろう。
「おかしな話ですわ。わたくしが此処に参りますのも。」
「そうね。貴女にとって、私は仇だわね。……………兄君の。」
 俐才人には、一人の兄がいた。その兄は、大貴族に殺されてしまった。
リー家には悪いことをしたわ。私のせいで。そうね、全て私のせい。」
 涙ぐんだ圓氏は、そっと袖で顔を拭った。思い出してしまったのだろう。
「月が美しい日は、また、あの人を思い出してしまうの。貴女と私が喪った、あの人を。」
 圓氏は月を恨む。人が幻想的だと褒めるその美景も、彼女にとっては、奈落の景色だ。
「本当なら、私も貴女も、此処に居るべきではないのでしょうね………」
 俐才人は圓氏をそっと見つめた。とても、美しい人なのに、何故それを隠してしまうのか。それを、知っていた。
 腰に結んである、翡翠の玉飾りを見た。兄が、大切にしていた物だと分かった。大好きな人が下さったと言っていた。
「淋しくなって来るわね。妹妹メイメイ。」
 圓氏が心を預けたあの少年は、俐才人の兄だった。
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