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0話 何でこうなったんだろう
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「アン、起きろ」
それは甘さを含んだ、愛しい相手に向けるような優しい青年の声だった。
その人は光を受けて煌めく銀髪を持ち、その瞳はルビーのように紅く澄んでいた。
「アン」
青年は未だ眠りから覚める様子のないベッドの主の名を呼び、そのまま寄り添うようにゆっくりと腰を下ろす。
寝返りをうったのだろう、乱れた茶色の前髪を優しく整えると、青年は指の背でゆっくりと女性らしい柔らかい頬を撫ぜた。
「なぁ、本当に俺じゃ駄目なのか……?」
小さく呟いた青年の声は誰にも届かず静かに落ちた。
その呟きに返事がある訳もなく、ただ何も知らずに眠り続けるベッドの主の寝息が聞こえるだけだった。
◇◇◇
アンが眠りから覚めた時、まず聞こえたのは小気味の良い包丁の音だった。
ベッドから体を起こし、両手を挙げぐっと伸びをするとすぐにアンの名前を呼ぶ声がした。
「アン、おはよう」
「……おはよう」
寝る前にはいなかった青年の存在に驚くことも無く、アンは挨拶を返すとよろよろと立ち上がる。欠伸をしながら洗面台に向かう姿に、キッチンで包丁を握る青年は満足そうに目を細めた。
ここはアンが一人で暮らす家であり、間取りは1LDK。リビングと部屋の間の仕切りは常に開いており、キッチンからもアンのベッドはよく見えた。
青年は切った野菜を手馴れたように器に盛ると、事前に火にかけてあったやかんに手をかける。
そして茶葉を入れたティーポットにやかんからお湯を注ぎ、手早く用意した朝食をテーブルに並べていく。
「凄く美味しそうな香りだけど……うわぁ、フレンチトースト!?」
テーブルに並べた料理を見た瞬間のアンの跳ねるような声に、青年は可笑しそうに笑い、どちらともなく向かい合わせの席に着く。
「夜中に来て仕込んだからな、しっかり中まで染みてるぞ」
「夜中に来たの? 忙しいんだから、たまの休み位しっかり休みなっていつも言ってるでしょう」
「俺はアンに会うために働いてんだけど?」
「またそういうことを……で、ちゃんと休めたの? 眠れた?」
クマができていないかどうか、アンは両手を伸ばすと青年の頬に触れる。
青年にとってアンの翡翠色の瞳がじっと自分を捉えて離さないのは嬉しいと思えど、このまるで庇護対象だと言わんばかりの扱いは面白くない。
「眠れなかったって言ったら、同じベッドで寝てくれるのか?」
青年はアンの両手を掴むと、見せつけるようにその掌に唇を落とす。
「だから、こういうのはやめなさいって何度言えば分かるの?」
大きくため息をついたアンは乱暴に青年の手を振り払うと、彼にキスされた所を乱暴に袖で拭った。
「あのね、家族愛と恋愛は別なの。同じ愛でも別物。分かる?」
「俺はアンのことを家族だって思ったこと、一度もないけどな」
「あぁもう、はいはい。エルヴィンも本当に好きな人……運命の人に会えば分かるよ」
「…………」
不服そうな視線を向ける青年ーー……エルヴィンにため息をつき、アンはティーポットの中身をカップに注ぐ。
途端ふわりと立ち上がったフルーツの香りに、アンの表情は一気に華やいだ。
「いい香り! これ、どうしたの?」
「お土産。こういう紅茶、好きだろ?」
「ありがとう! うわぁ、香りだけでこんなに幸せになれるなんて……私って本当に安い女……」
「俺なら高く買わせてもらうけど」
「私は出品してません」
軽口を交わしながら、アンはゆっくりと紅茶を口に含む。
すぐに口いっぱいに広がり、そして鼻に抜けていく甘い香りがなんとも言えない。
「美味しい?」
「すごく」
「そうか。……なら良かった」
エルヴィンはほんのりと頬を赤らめ、嬉しそうに笑った。すっかり表情も体格も大人びてしまったエルヴィンがたまに見せる幼いその表情に、アンは心臓が音を立てるように縮んだ気がした。
「(あぁもう、美形の笑顔は心臓に悪い!! こうやって笑うと未だ可愛いんだから……!)」
アンは荒ぶる心を押し殺し、いつも通り平然を装ってフォークを手に取ると1口大に切られたフレンチトーストを口に運んだ。
「んっ……!」
ふわり、とろり。
時間をかけたフレンチトーストならではの食感と、バターに混ざる優しいバニラの香り。
そして絶妙に絡んだメイプルシロップ。
まさに、絶品。
「なにこれ……!」
「美味い?」
「美味しすぎる!!」
アンの素直な賛辞に、エルヴィンはまた嬉しそうに笑う。
「練習したからな」
「これ、どうやって作ったの? 材料は?」
「秘密」
「お願い! このフレンチトースト、毎日でも食べたいくらい美味しいよ」
「アンには一生教えねぇよ」
「何それ、反抗期?」
くすりと笑うアンの言葉で、上機嫌だったエルヴィンの眉間には深い皺が刻まれる。
「俺がいつでも作ってやるって意味なんだけど?」
エルヴィンはその紅い目でアンの視線を捉えて離さない。
「……そんな困った顔すんなよ」
「あのね、エルヴィン。何度も言っているけど……」
「俺のことは弟としか見られない、だろ」
「……」
「俺、結構優良物件だと思うんだけど。家事もやるし、稼ぎもいい」
「エルヴィンは、私には勿体ないよ」
「俺がアンに見合わないんじゃなく?」
どう切り抜けたものか、アンは困ったように笑うことしか出来なかった。
エルヴィンは100人が100人振り向く程の美貌を持ち、その身体にはすらりと長い足だけではなく、無駄の無い筋肉もしっかりとついている。
そして光を受けて煌めく銀色の髪と紅い瞳は、エルヴィンの中に魔人の血が混ざっている証拠だった。
元々差別の対象であった銀髪と紅い瞳も、エルヴィンの圧倒的な美しさの前では誰もが息を飲み、差別どころか崇拝に近いものを寄せる人々まで増えている。
エルヴィンが持つのはその美しさだけではない。
幼い頃より傭兵として最前線に立ち続けたエルヴィンは、22歳の現在既にディアナ王国の誇る最強の戦士の一人に数えられるほど。
そんなエルヴィンが唯一執着し、決して離れようとしない相手。
それが「アン」だった。
アンは一見何処にでもいる普通の町娘である。
肩の下まである栗色の髪は少しだけウェーブを描き、普通より少し短い前髪が特徴と言えるかもしれないが、それ以外は至って普通の26歳だった。
奥二重の目は大きくもなく小さくもなく、翡翠色の瞳もこの世界ではありふれている。
可愛くない訳ではないが、特別可愛い訳でもない。
美人と賞賛されるほどでは無いが、不細工と罵られる程でもない。
身長、体重、スリーサイズ、どれをとっても全て平均値で、普段は街のパン屋でパン職人として働いている。
特記することも特になく、平凡を絵に書いたような存在。
しかし、アンは決して『普通』では無かった。
なぜならアンは、『異世界転生』をしてこの世界にいるのだから。
「(あぁもう!! 何でエルヴィンの矢印が私に向いたの!? どこで間違えた!?)」
アンには幾つか秘密がある。
まずは『異世界転生』をしてこの世界にいるということ。
「(私は夢女子じゃないのよ……腐女子がなりたいのは推しカプちゃんの周りに漂う空気とか壁とか木とかそっちなのに……!)」
そして、自身が腐女子であるということ。
「(なんと言っても、ここはBLゲームの世界なんですけど!!)」
ここが、アンの大好きだったBLゲーム、『愛の華』の世界だということ。
「(あーーーもう!! エルヴィンを助けつつエルタツちゃんルートを完遂して、推しに幸せになってもらうはずだったのに……!)」
エルヴィンはBLゲームのメインキャラクターの1人であり、お相手は勿論ゲームの主人公・タツミ(男)である。
そして、エルヴィンはアンの『推し』であり、エルヴィン×タツミはアンの『推しカプ』だった。
「(エルヴィンがちゃんとメインキャラクターとして動いてくれないと、この世界は滅びるんですけど……! 私のせいでこの世界が滅びるとかやめてよ!?)」
目の前の推し・エルヴィンはこの世界を破滅から救う鍵となる存在、という設定なのだ。
「……困らせて悪い」
いつも通り内心の騒ぎを表情には一切出さず、ただ困ったように黙り続けるアンを前に、エルヴィンは諦めたように口を開いた。
「弟扱いでいいよ、こうして家の合鍵を俺にくれて、俺の作ったご飯を食べてくれるだけでいい」
「…………」
「今はまだ、な」
その含みを持たせた言い方に、アンは内心がっくりと肩を落とす。
「(だから、ここはBLゲームの世界なんだってば! 私は攻略対象じゃないの!!)」
アンの心の叫びは届かないまま、エルヴィンは何事もなかったかのように朝食を再開する。
「(エルヴィンと出会って10年……そろそろ主人公のタツミが召喚されるはず。タツミと会えばエルヴィンも変わるよね……エルタツちゃんは運命だもんね……! ね……!?)」
平静を装い噛み締めたフレンチトーストは、砂の味がした。
それは甘さを含んだ、愛しい相手に向けるような優しい青年の声だった。
その人は光を受けて煌めく銀髪を持ち、その瞳はルビーのように紅く澄んでいた。
「アン」
青年は未だ眠りから覚める様子のないベッドの主の名を呼び、そのまま寄り添うようにゆっくりと腰を下ろす。
寝返りをうったのだろう、乱れた茶色の前髪を優しく整えると、青年は指の背でゆっくりと女性らしい柔らかい頬を撫ぜた。
「なぁ、本当に俺じゃ駄目なのか……?」
小さく呟いた青年の声は誰にも届かず静かに落ちた。
その呟きに返事がある訳もなく、ただ何も知らずに眠り続けるベッドの主の寝息が聞こえるだけだった。
◇◇◇
アンが眠りから覚めた時、まず聞こえたのは小気味の良い包丁の音だった。
ベッドから体を起こし、両手を挙げぐっと伸びをするとすぐにアンの名前を呼ぶ声がした。
「アン、おはよう」
「……おはよう」
寝る前にはいなかった青年の存在に驚くことも無く、アンは挨拶を返すとよろよろと立ち上がる。欠伸をしながら洗面台に向かう姿に、キッチンで包丁を握る青年は満足そうに目を細めた。
ここはアンが一人で暮らす家であり、間取りは1LDK。リビングと部屋の間の仕切りは常に開いており、キッチンからもアンのベッドはよく見えた。
青年は切った野菜を手馴れたように器に盛ると、事前に火にかけてあったやかんに手をかける。
そして茶葉を入れたティーポットにやかんからお湯を注ぎ、手早く用意した朝食をテーブルに並べていく。
「凄く美味しそうな香りだけど……うわぁ、フレンチトースト!?」
テーブルに並べた料理を見た瞬間のアンの跳ねるような声に、青年は可笑しそうに笑い、どちらともなく向かい合わせの席に着く。
「夜中に来て仕込んだからな、しっかり中まで染みてるぞ」
「夜中に来たの? 忙しいんだから、たまの休み位しっかり休みなっていつも言ってるでしょう」
「俺はアンに会うために働いてんだけど?」
「またそういうことを……で、ちゃんと休めたの? 眠れた?」
クマができていないかどうか、アンは両手を伸ばすと青年の頬に触れる。
青年にとってアンの翡翠色の瞳がじっと自分を捉えて離さないのは嬉しいと思えど、このまるで庇護対象だと言わんばかりの扱いは面白くない。
「眠れなかったって言ったら、同じベッドで寝てくれるのか?」
青年はアンの両手を掴むと、見せつけるようにその掌に唇を落とす。
「だから、こういうのはやめなさいって何度言えば分かるの?」
大きくため息をついたアンは乱暴に青年の手を振り払うと、彼にキスされた所を乱暴に袖で拭った。
「あのね、家族愛と恋愛は別なの。同じ愛でも別物。分かる?」
「俺はアンのことを家族だって思ったこと、一度もないけどな」
「あぁもう、はいはい。エルヴィンも本当に好きな人……運命の人に会えば分かるよ」
「…………」
不服そうな視線を向ける青年ーー……エルヴィンにため息をつき、アンはティーポットの中身をカップに注ぐ。
途端ふわりと立ち上がったフルーツの香りに、アンの表情は一気に華やいだ。
「いい香り! これ、どうしたの?」
「お土産。こういう紅茶、好きだろ?」
「ありがとう! うわぁ、香りだけでこんなに幸せになれるなんて……私って本当に安い女……」
「俺なら高く買わせてもらうけど」
「私は出品してません」
軽口を交わしながら、アンはゆっくりと紅茶を口に含む。
すぐに口いっぱいに広がり、そして鼻に抜けていく甘い香りがなんとも言えない。
「美味しい?」
「すごく」
「そうか。……なら良かった」
エルヴィンはほんのりと頬を赤らめ、嬉しそうに笑った。すっかり表情も体格も大人びてしまったエルヴィンがたまに見せる幼いその表情に、アンは心臓が音を立てるように縮んだ気がした。
「(あぁもう、美形の笑顔は心臓に悪い!! こうやって笑うと未だ可愛いんだから……!)」
アンは荒ぶる心を押し殺し、いつも通り平然を装ってフォークを手に取ると1口大に切られたフレンチトーストを口に運んだ。
「んっ……!」
ふわり、とろり。
時間をかけたフレンチトーストならではの食感と、バターに混ざる優しいバニラの香り。
そして絶妙に絡んだメイプルシロップ。
まさに、絶品。
「なにこれ……!」
「美味い?」
「美味しすぎる!!」
アンの素直な賛辞に、エルヴィンはまた嬉しそうに笑う。
「練習したからな」
「これ、どうやって作ったの? 材料は?」
「秘密」
「お願い! このフレンチトースト、毎日でも食べたいくらい美味しいよ」
「アンには一生教えねぇよ」
「何それ、反抗期?」
くすりと笑うアンの言葉で、上機嫌だったエルヴィンの眉間には深い皺が刻まれる。
「俺がいつでも作ってやるって意味なんだけど?」
エルヴィンはその紅い目でアンの視線を捉えて離さない。
「……そんな困った顔すんなよ」
「あのね、エルヴィン。何度も言っているけど……」
「俺のことは弟としか見られない、だろ」
「……」
「俺、結構優良物件だと思うんだけど。家事もやるし、稼ぎもいい」
「エルヴィンは、私には勿体ないよ」
「俺がアンに見合わないんじゃなく?」
どう切り抜けたものか、アンは困ったように笑うことしか出来なかった。
エルヴィンは100人が100人振り向く程の美貌を持ち、その身体にはすらりと長い足だけではなく、無駄の無い筋肉もしっかりとついている。
そして光を受けて煌めく銀色の髪と紅い瞳は、エルヴィンの中に魔人の血が混ざっている証拠だった。
元々差別の対象であった銀髪と紅い瞳も、エルヴィンの圧倒的な美しさの前では誰もが息を飲み、差別どころか崇拝に近いものを寄せる人々まで増えている。
エルヴィンが持つのはその美しさだけではない。
幼い頃より傭兵として最前線に立ち続けたエルヴィンは、22歳の現在既にディアナ王国の誇る最強の戦士の一人に数えられるほど。
そんなエルヴィンが唯一執着し、決して離れようとしない相手。
それが「アン」だった。
アンは一見何処にでもいる普通の町娘である。
肩の下まである栗色の髪は少しだけウェーブを描き、普通より少し短い前髪が特徴と言えるかもしれないが、それ以外は至って普通の26歳だった。
奥二重の目は大きくもなく小さくもなく、翡翠色の瞳もこの世界ではありふれている。
可愛くない訳ではないが、特別可愛い訳でもない。
美人と賞賛されるほどでは無いが、不細工と罵られる程でもない。
身長、体重、スリーサイズ、どれをとっても全て平均値で、普段は街のパン屋でパン職人として働いている。
特記することも特になく、平凡を絵に書いたような存在。
しかし、アンは決して『普通』では無かった。
なぜならアンは、『異世界転生』をしてこの世界にいるのだから。
「(あぁもう!! 何でエルヴィンの矢印が私に向いたの!? どこで間違えた!?)」
アンには幾つか秘密がある。
まずは『異世界転生』をしてこの世界にいるということ。
「(私は夢女子じゃないのよ……腐女子がなりたいのは推しカプちゃんの周りに漂う空気とか壁とか木とかそっちなのに……!)」
そして、自身が腐女子であるということ。
「(なんと言っても、ここはBLゲームの世界なんですけど!!)」
ここが、アンの大好きだったBLゲーム、『愛の華』の世界だということ。
「(あーーーもう!! エルヴィンを助けつつエルタツちゃんルートを完遂して、推しに幸せになってもらうはずだったのに……!)」
エルヴィンはBLゲームのメインキャラクターの1人であり、お相手は勿論ゲームの主人公・タツミ(男)である。
そして、エルヴィンはアンの『推し』であり、エルヴィン×タツミはアンの『推しカプ』だった。
「(エルヴィンがちゃんとメインキャラクターとして動いてくれないと、この世界は滅びるんですけど……! 私のせいでこの世界が滅びるとかやめてよ!?)」
目の前の推し・エルヴィンはこの世界を破滅から救う鍵となる存在、という設定なのだ。
「……困らせて悪い」
いつも通り内心の騒ぎを表情には一切出さず、ただ困ったように黙り続けるアンを前に、エルヴィンは諦めたように口を開いた。
「弟扱いでいいよ、こうして家の合鍵を俺にくれて、俺の作ったご飯を食べてくれるだけでいい」
「…………」
「今はまだ、な」
その含みを持たせた言い方に、アンは内心がっくりと肩を落とす。
「(だから、ここはBLゲームの世界なんだってば! 私は攻略対象じゃないの!!)」
アンの心の叫びは届かないまま、エルヴィンは何事もなかったかのように朝食を再開する。
「(エルヴィンと出会って10年……そろそろ主人公のタツミが召喚されるはず。タツミと会えばエルヴィンも変わるよね……エルタツちゃんは運命だもんね……! ね……!?)」
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