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深淵の瞳
しおりを挟む[その昔。この世には【世界】と呼ばれる広大な土地が存在した。
溢れる事の無いしお水のたまった海。一滴の水も貯えない土壌・砂漠。色彩は我らの物だと言わんばかりの自然が確かにそこに在った。
だが、それらの殆どは消え去った。
今や残された動植物は人の管理下でなければ容易に絶滅し、我らが共にする自然の産物よりも人口物の方が割合を増した。
けれど。今でこそ口伝や残された数少ない遺産を元に推測するしか出来ないかつての【世界】は、しかし失われたわけではない。
彼らは姿を変えてしまっただけに過ぎない。
遺された少数の人々を救いーー或いは冒す【マブツ】となり今も深淵に呑まれたその先で過去の名残を残したままそこに存在する。
故に我々は進まなければならない。
例えこの身が魅入られ、あらざるべき姿に果ててしまったとしても。
我々は明かさなければならない。
僅かに残されたこの土地と我々以外の全てが深淵に呑まれた理由を。
深淵を払った先にある世界の全てを。
かつての姿を再びその瞳に映す為に]
ーーそれが僕の見た最初の深淵だった。
【瞳】
僕らはそう呼称される探検隊だ。
遥か昔に世界の九割以上を覆った原因不明の闇。
文字通りの【深淵】はそれまでの歴史と、土地と、人間を含むあらゆる[動]・[植]・[物]を飲み込み、まるで別のモノへと変質させてしまった。
深淵が世界を飲み込み、文明を支配し、ありとあらゆるモノを冒した先に産まれたモノーー【マブツ】。
かつての名残を残したまま、けれどまるで別モノのように変わり果てたそれらマブツを瞳は深淵に潜って回収し、唯一残された人の町を維持・発展させるのが仕事であり使命だ。
いつか闇を払った時に再び文明を築き、自由を謳歌する為に。
例え深淵に魅入られ己がマブツ同様変質し【異形】と呼ばれる全くの別のモノに変わってしまってもその使命だけは変わらない。
その身が果てようと、次の世代へ繋がる何かを必ず……
「……おいってばー!!」
「うわ!?」
突然聞こえた大声と共に肩を引かれ、されるがままに動いた視線の先。底には一人の少女が少しご立腹気味に僕を見下ろしている。
「まーーた洗脳書読んでる。ちゃっちゃと捨てっちゃいなよそんなのー」
「せ、洗脳書って……」
探検家……瞳なら誰もが持つ卒業の証【遺志の書】を自室の机で読んでいた僕の名前はカルルカン。
五年も瞳をやっているのに未だに新米と先輩達に弄られているセンスのない男だ。
「ほーらー!早く捨てろってーーのーー!!」
「や、ちょ!?」
対して、見下ろしていた少女……僕の身体を揺すりじゃれてくる彼女は二年目にして僕よりも信頼されている瞳の少女・レンス。
年齢こそ十六歳と若いものの白くきめ細かい肌や透き通ったセミショートの金髪は女性の目をも惹き、紅い瞳はマブツに向けられる彼女の意志を表すかの如く煌めいている。
見た目や爛漫な性格だけを見れば正直な所死と隣り合わせの瞳にしておくには惜しい人物だ。その気になればモデルのような職にだって就けるだろう。
けれど、彼女にはそれ以上の才能があった。
外見的要素とは比べ物にならないほど瞳としての適性が高かった。そして彼女はそれを愛し、命が果てようとも立ち止まる事の無い探求心を持っている。
故に僕は彼女を天才だと称している。
実際、新人枠の瞳の中では頭二つ抜けた探索成果を挙げているし、大半の瞳達がそう考えているだろう。
足を引っ張ってばかりだった当時の僕とは大違いだ。
なのに、同じ瞳なら間違いなく重要視している遺志を『洗脳行為だ!』といって否定している問題児でもあるんだから世の中信じる心だというかそういうのは能力に関係ないんだなとため息が出てしまう。
遺志は誰もが最初に受ける瞳としての心構えの授業。それを洗脳だなんて言った日には誰からも相手にされないくらいには重要なモノなのに。
でもそうなっていないって事は恐らく僕にしか洗脳がどうのと言って無い事になるんだけど、その理由は謎。
遺志についての考え方は瞳以外にも浸透していて幾つも本が出ているからそれを読むのが趣味な僕としては手にしている度に高確率で絡まれるのはちょっと面倒だったりする。
……今みたいに。
「ほれっ!」
「ぎゃ!?」
一際強く身体を揺すられ思わず手を放してしまい床へと落ちていく遺志の本。
「ほいっと!」
「ああっ!!」
それが床に着くか否かの隙にレンスに拾われ瞬く間に部屋の扉まで逃げられてしまう。
「こ、こら!返しなさい!!」
「いいよー!でも、師匠の発見力の秘密と引き換えねーー!」
「はぁ!?」
「ばいばーい!」
駈け寄る暇もなく部屋を出て行ってしまうレンス。
慌てて後を追いかけても身を乗り出して確認した廊下には既に存在せず。
「どーせ読むならもう一個の方にしなよー!」
からかうような声だけが残響していた。
恐らく彼女はリビングを挟んだ先にある自分の部屋に籠ってしまったんだろう。
ーー[万物の書(ワールド・オブ・アイズ)]。
彼女が勧めたのは深淵に存在するあらゆるマブツが記された、瞳ならば誰もが手にしているマブツの一つの事だろう。
それは史上初めて発見された[ワールド]のクラスを持つマブツ。
それまでの刻まれてきた数百年の瞳の在り方を驚くほど変えてしまい、これから先に生まれるだろう瞳全ての指針となる最も重要な存在だ。
同じくワールドのクラスを持つ、完璧な複製を作成できるマブツ[溢れ続ける水(ディス・ワールド・クラフト)]の回収によって瞳見習いにまで行き渡るようになったから当然僕も所持しているが……。
「なんだって今日は激しかったなぁ……」
僕はその本を穴が開くほど読んでいるのを彼女は知っているにも関わらず、半ば強制する形で進めて来た。
「そんなに遺志が嫌いなのかなぁ」
嫌いな事柄を聞くのは余計な辛さを思い出させると思って興味の無いフリをしてきたけれど僕意外の誰かに強要する前にそろそろ聞いた方がいいんだろうか?
「……はぁ。頭が痛い」
僕に威厳が無いのを抜きにしても問題児な彼女はそれでも天才。
【白眼】【碧眼】【灼眼】そして【千里眼】。
瞳の養成学校を卒業して正式に認められた瞳は認められた功績によって位が上がっていくシステムになっている。
二年目のレンスは最下位にあたる白眼の一人。当然経験値は無いに等しく、殆どの場合は一年をかけて深淵に慣れていく。
三年先輩で瞳として目立った功績を上げられず五年目に入った僕もまだこの白眼だ。同期の優秀な人は碧眼になってたりする。
しかしレンスは初めての探索でも臆する事無く進み、結果を残した。そしてそれはビギナーズラックのようなオカルト的理由が呼び寄せた幸運などではなく、以降も一度深淵の中へ探検へ出かければその功績は同世代……下手をすれば見守りの為に同行していたベテランすら凌ぐほどとなっていった。
正に天才的と言える彼女の活躍は瞳の間だけならず町の人々にも伝わって行き、付いたあだ名は【光明の瞳】。
このまま何の問題も無く成果を挙げ続ければ来年には碧眼。果ては現状四人しか存在しない、万物の書のように[ワールドのクラスを持ったマブツ]を見つけなければ与えられない瞳としての最高称号・【千里眼】の一人として数えられるかもしれないとさえ噂されている。
………そんな彼女は何の気の迷いか僕に弟子入りを志願して来た。
まず間違いなく多くあっただろう有名どころの勧誘を断り、僕のもとへ直々にわざわざ頭まで下げて。
「……本当に、何を考えてるんだろう。天才の考える事はまるで想像できないよ……」
知らずに出て来たため息を従えて部屋の中に戻る。
レンスに盗られた遺志の書については少し心残りはあるけれど意見の違いがあるからといって勝手に燃やしたり棄てたりするような子じゃないのは確かだ。今は一先ず彼女に預けて明日の探検の準備をしないと。
なにせ明日の探検は瞳一年目の子達が最初にぶつかる難関・[開眼]なんだから。
「深淵距離950の探検……。探検の距離としては比較的近いけれど、異形化に対する耐性が低い子は魅入られてしまう可能性が高い期間移動しなければならない距離。これを耐えられれば大半の深淵距離は問題なくなるんだけど…」
机に戻って椅子に腰を下ろし、机の上に載っている明日行く場所までの地図を手に取る。
開眼はそれまで深淵距離800までしか経験させてもらえなかった新人の瞳達が初めてその距離を超えて深淵探索を行い、深淵に魅入られるか否かーー異形化してしまうか否かを試す試験だ。
ーーそうだ。彼女がどれだけ優秀だろうとそれは深淵距離800以下までの話。なんなら前回の開眼を辞退して、二年目の今日まで引き延ばしているくらいだ。相当の覚悟がつきまとっているに違いない。
全ての瞳には体調の問題に応じて一度だけ回避する権利が与えられるけど、二度目は無い。
分かっている探索に向けて隊長の管理を行えない物はそもそも瞳としての適性が無いものとして処理されてしまう。
詰まり、レンスがどんな夢を抱いて瞳になったとしても、その才能がどれだけ素晴らしく秀でていたモノだったとしても、今回を逃せば二度と叶う事は無く日の目を見る事は無い。
正真正銘、瞳として最初に訪れる大一番だ。
……と、言っても。なんてところに僕の心配事は無い。
ここ数日彼女の体調は安定しているし精神状態も良好。食事もトレーニングも僕以上だし、回避というのはまずあり得ないだろう。
僕が心配しているのはそんな事前に対応できる問題じゃない。
「……魅入られるかどうかは探検の才能と何一つ関係性はない。僕の代に有望視された人達も何人かここで瞳を辞めるしかなくなったんだ。もしもレンスがそうなってしまっても対応できるように僕は……」
そう、明日当日にしか分からない異形化についてだ。
問題点があるとはいえ、出来損ないの僕に自ら志願してくれた初めての弟子。
出来る事なら……いや、絶対に、名実共に瞳になってレンスに夢を叶えて欲しい。僕は既に諦めてしまった、瞳になるきっかけとなった夢を、彼女には叶えて欲しい。
……けれど、現実と理想はいつだって乖離している。
瞳にはなれても夢を諦めるしかなくなった僕のように、理想はいつだって遠い。
でももし……。考えたくはないけれど、そのスタート地点にすらレンスが立てなかった時。少なからず瞳やそれ以外の人達とツテのある僕は、夢に置いていかれてしまった彼女が求めるかどうかは別にしても瞳や深淵と関わりのある職に就ける準備をしておかなくちゃならない。
それが師匠としての役目だと遺志の書に教えてもらったし、僕自身そうしてあげたい。
「……深淵渡りの恐怖も無くて仲間も沢山いる。だから普通よりも安全なのは間違いない。けど、やっぱり気は抜けないよな」
出来る事ならあんなにもキラキラと輝く目の彼女を抜け殻のようにはしたくない。
一瞬だろうと一生だろうと絶望と切望の淵に沈めておきたくない。
でもそれを決めるのは僕でも彼女でもそれ以外の誰でもなくて、深淵のさじ加減一つだ。
僕は兎に角、どんな事になってもレンスが生きる希望を失わないようにサポート出来る準備をするしかない。
「…そんなのが師匠としての最後の仕事にならなければいいけどな……」
恐らくは不安から漏れてしまった自分の声。
それが耳に届いた時、ふと思った。もしかして彼女も不安なんじゃないかと。
弟子入りされた後にレンスと同期の子に聞いた話では、彼女は遺志の授業以外は全て率先して受けていたらしい。
必修科目だけでも十はある瞳としての授業の全てに憧れを持って臨んでいた彼女の、もしかしたら最後になるかもしれない明日の探検……。
そんなの、怖くて仕方ないに決まっている。
ーーそうだ、そうだよ。僕だってそうだったんだ。彼女は例外だと言えるわけがない。
僕だって通った道だ。その時の恐怖は今でも忘れてない。
普段とはまるで違う緊張感の中、縋るモノが叶うかも分からない夢だけで臨む闇。
それは酷く心細くて、いつ『自分に叶えられる夢など無かった』と言われるか分からない恐怖が、始まっても、始まるまでもずっと付き纏う。
人によっては開眼の何日も前に吐くほどだ。
そんなものを感じて平気でいられるはずがない。
「……さっきのあれ、もしかしたらそれの裏返しだったのかもな」
事実、彼女は一度だけ行使できる不参加の権利を行使して二年目の明日に伸ばしている。
どういった理由でなのかはデリケートな部分だ。聞きはしなかったけど、これでもう次のチャンスはない。
それは僕も感じた事の無い恐怖と緊張感🅂で、してあげられるアドバイスは無い。
だけど……、もしかしたらただのお節介でうっとうしい行為かも知れないけど。
「…たまには可愛い弟子の部屋にでも行ってみようかな」
一緒に明日の計画を練る為にレンスの部屋へと向かった。
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まぁ、結論から言えば『スケベ!』と言われて追い出されたわけだけど。
わけを話せば快く会話の席に立ってくれた。……当初の予定とは違いリビングだったけど。
ーーまぁ、いきなり部屋の扉を開けるのは良くなかったよね。そりゃ着替えてる可能性だってある。……ちょっと、いやかなり、いくら自分の考えに酔ってた部分を鑑みてたとしても非常に軽率だった。今後は気を付けよう。
そんな昨夜の事件は置いておいて、一晩明けた今日は[開眼]の日。年一回の運命を決める日だ。
「新人諸君。及びその師や相棒達よ。まずはこの晴れた日に感謝しようじゃないか」
人と深淵の世界を隔てる大壁。その中で唯一深淵と繋がる大鉄扉の前に立つのは超一級の瞳ーー十数人しかいない灼眼の一人・キュル。
その中でも特に功績が高く、やがては千里眼にさえ至れるだろうと噂されるほどの実力者の一人だ。
……そんな人ですら噂されるのに三十数年。
「…ん?なにー師匠」
今更だけど、レンスが如何に規格外が思い知る。
「今日という日、君達の中から少なくない瞳達が夢や憧れを諦める事になるだろう。しかし、そんな日は上を見上げて欲しい。人の一生とは深淵を覗き込む事ばかりじゃあない。この蝕みを知らない空の下で人以外の生き物や植物を支え、維持しながら生きる事もまた人の生を捧げるに足る営みだと私は思う。それは瞳には決して真似出来ない尊ぶべき在り方だ」
大鉄扉の広間に集められた数多くの瞳達が彼の話を真剣な面持ちで傾聴している。
……いや、恐らく話し自体はそこまで重要視していないのかもしれない。
彼という偉大な存在を見てーーもしかしたら朝起きたその時から。
今日までの全てを思い出して、人生がまるっきり変わってしまう瞬間を想像しているのかもしれない。
夢を抱えたまま歩けるか、夢を捨て新しい夢を持つか、自暴自棄になって深淵に消えるか。
そんな瞬間を想像しているのかもしれない。
今日という日はそれだけ大切で残酷なんだ。
……本当に、僕の隣で話を聞いているレンスにはそんな悲しみを味わってほしくない。
「(……なんて。そればっかりだな、僕は)」
「……師匠?」
「ん、なんでも無いよ。独り言」
思わずこぼれてしまった考えをレンスに聞かれてしまいそれとなく否定する。
小首を傾げて不思議そうな顔をしたレンスは再びキュルの方を向き話に耳を傾けるとその紅い目をもう一度輝かせる。
深淵探索に対する期待に満ちた侵し難い輝きを。
「……以上の項目を守り、探索に当たってくれ。目的は区間の往復であり、その際に可能な限りマブツを集める事。まぁ、などとは言ってもこれはあくまでも最終適性試験であって本来の業務ではないからな。気楽にやってくれて構わない。何、この一年間やって来た通りにすればいいだけさ」
短くも要点のまとめられたキュルの話が終わり、十人前後の碧眼によって地響きをたてながら彼の背後にある大鉄扉が開き始める。
「さ、いよいよ本番だ。意気込みは大丈夫かい、レンス」
「もっっちろん!!のそのそやってると置いてっちゃうからね、師匠!!」
「うん、その意気だ」
大鉄扉の開かれた先に見えるのは光を飲み込むほどに蟠った闇ーー深淵。
それを前にして僕の一番弟子・レンスは晴天にも負けない透き通った笑顔を見せ、僕の手を取って歩き出した。
例え生を吸い込んでいるとしても止められない探求心に引き込まれるように。
覗き込み、覗き込まれる深淵へ。
「皆、健探を祈る」
見送りのキュルの声は残響のように耳に残り、扉の締められた音でかき消される。
最早広がるのは闇だけだ。
ーーーー
片道がおおよそ二時間に及ぶ探検。
暗黒のような暗がりにも関わらず良好な視界を保てるここは深淵。
周囲にはかつての世界を支えていた道や、家や、家具や、娯楽品の名残が散らばっている。
そのどれもが風化、或いは変質しマブツと変わっている。……現状、確認出来るのは使用可能な状態とは言い難い物ばかりだが。
ーー……何度見ても痛ましい光景だな。
開眼には押し殺せていた不安感を正直に吐き出せる最後の場としての意図もある。
まるで大災害が起きた町が復興されずそのまま残されているようなこの景色は、僕ら瞳が知る限りでは深淵の中で果てる事無く続いている。西に行こうが東に行こうが散らばる物が変っただけで深淵の世界の惨状は変わらない。
つまりは、深淵に尋常な人間は住んでいない事になる。
こんな人の歴史を冒涜するような空間だ。深淵の中は[かつての世界だった]という現実を直視できない人もいるし、我慢できたところで受け入れられない人も多い。
いつか、自分達の住んでいる深淵の外もそうなってしまうんじゃないだろうか、と。
それだけじゃない。深淵はかつてそこに住んでいた生き物達が丸ごと飲み込まれた場所でもある。
時には異形と化した彼らと出会い、戦闘になったりもする。
単なる動植物や虫だけでなく人間だった生き物達とも。
そんな存在と金輪際目を背けられる機会を貰える最後だ。今回も、既に何人かがリタイアしている。
いくら夢や憧れや理想を信じ続けたとしても人間は所詮人間。本能に訴える恐怖には抗えない。
そんな人を僕らは責められないし、寧ろ正しいとまで考える人が大半だ。
目の前に人だった異形が現れた時にはやっぱり吐くほど恐怖を感じるし。
……とは言っても、大鉄扉から出て深淵距離1000までの異形達はほぼ駆逐され比較的安全に探検が出来るようになっている。
全くいないわけではないので鼠や飼い猫のような小動物の異形もいるにはいるが鍛えていればただのナイフでも討伐出来ない事は無い相手なのでそれほど気を張る必要はない。
故にこの探検では新人の適性のみを図る事が出来る。
本当、この地盤を作り上げてくれた四人の千里眼達には頭が上がらない。
お陰で節操なく走り回るレンスが危ない目に合わずに済むんだから。
「師匠!見て見て師匠!!白き天使(ホワイト・アイス)があっちにもあるよ!!」
どんなに鍛えたところで緊張に苛まれる新人には二時間の探索は充分に酷……。
な、はずなのに。僕の弟子はまるで疲れた様子もなくマブツを見つけては駆け出していき、僕の頭を悩ませてくれている。
「お、おいレンス!みんなから離れ過ぎたら駄目だって!!」
「師匠も来てくれれば問題ないって!」
「あ、あのねぇ!!」
そりゃあ気負い過ぎているのも良くはないけど、だからって暴れ回ってたら嬉しいわけじゃない。
興奮するなとは言わないけど、せめて列から離れ過ぎないで欲しい。
「わ!こっちには抹殺の使徒(ダーク・エンジェル)もある!!やっぱり病院だったんだね、こっちの方って!」
そんな僕の思いとは裏腹に、更に列からはみ出たレンスは建物が倒壊したらしき瓦礫地帯を機動力高く散策してはマブツを拾い上げ僕に喜びの声を上げる。
……彼女の考え通り、この辺りは以前病院かそれに準ずる施設があったとされる地区だ。
初めに拾った白き天使は伸縮性が高くあらゆる外傷に適応して応急処置的な効力が見込める包帯で、次の抹殺の使徒はどんな悪性の細菌だろうと殺す事の出来る超強力な消毒液。
どちらも本来の包帯や消毒液の性能を飛躍的に向上させたマブツであり、僕ら瞳だけでなく日常生活でも重宝されている道具だ。
が、この辺りでも取れるという事は別段珍しいモノというわけでもなく、その上深淵に呑まれる以前の世界は余程病院があったのかあちこちに転がっているので希少価値は殆どない。
学校卒業後の瞳が真っ先に依頼を受けて拾ってくるアイテムだ。
「分かったから!早く戻って来て!うろうろ跳ね回って拾ったばっかりのマブツに厄介にはなりたくないだろ!?」
「うーん!」
だから出来ればさっさと戻って来て安全に開眼を済ませて欲しいんだけど、僕の呼びかけに元気に返事を返してくれたレンスに戻ってくる様子は無い。
……ああいうのを水を得た魚って言うんだろうか。
悔しくなるくらい、レンスは目をキラキラさせながら瓦礫の下やら砂の中を漁ってる。
「……ま、気持ちは分かるけどさ」
この辺りはまだ深度距離800を超えていないのだからさほど珍しい物はないはずだ。
でも、だとしても。
僕ら瞳は見慣れたマブツでさえやっぱり見つけると嬉しくなってしまう。
それが実質新人ともなれば尚更だし、深淵に憑りつかれている彼女には凡人の僕では計り知れないワクワクがあるんだと理解できる。
けど、だ。
「……ほら、こっちには抹殺の使徒よりもう少しだけ貴重なのがあるよ」
「え!?」
辛うじて壁だった頃の名残を感じ取れる場所の地面から覗いていたマブツを掘り出し、遠くにいるレンスの目にも入るよう掲げる。
「うっわホントだ!!繋がれる魂(ノット・ハンズ)じゃん!!」
その途端レンスは飛ぶように傍までやってくると一瞬で繋がれる魂を僕からひったくった。
「これ、どーやって見つけたの!?」
「どう、って言われても……。普通に置いてあったし」
「さっきくまなく探したところから出て来てるの!!置いてあったわけないでしょ!」
「えぇ……。じゃあ節穴だったんじゃない?レンスの目が」
「何おう!?」
繋がれる魂は決して切れる事の無い紐のマブツ。それをレンスは強度を確かめるように柱に巻き付けて引っ張ったりしながら怒っている。
「なんにしても流石師匠!私の背丈と同じ長さの見つけちゃうなんて凄い!大体十とか二十センチしかないのに!」
僕に馬鹿にされた事に起こったかと思えば素直に褒めてもくれるレンス。
彼女のこういう爛漫さというか素直なところは恐らく美徳なんだけど、それが行動として示されるのは深淵の中では全くもってよろしくない。
「……ところで、繋がれる魂の主な用途ってなんだか知ってる?」
だから、今日という日は少々対策を取るべきだろう。
「そりゃあ重い荷物を固定したりとか、建築の重要な箇所でも使われてると思ったけど」
「うん。でも紐ってそれ以外の用途もあるんだよね。……こんな風に」
「え?」
レンスに警戒されないよう話しかけながら近寄り、繋がれる魂を奪い取る。
そしてそのまま彼女の腰の辺りに素早く、手際よく巻きつけ。
「言う事を聞かないペットのリードとか、ね」
「あ!?!?」
飼い犬よろしく首輪ならぬ腰輪にして文字通り彼女の手綱を握った。
「この、師匠め!!!人権団体が黙って無いぞ!こんなの横暴だ!暴力だ!!」
切れない紐で繋がれるという事は解かないと逃げられない事と同義。でもかなりの堅結びで結んであげたから僕の目を盗んで解くのはまず不可能。その事を瞬時に理解したレンスは紐を引きながら僕に挑んで不満を吠える。
「残念。僕も不本意なんだけど、深淵探検で言うことを聞かない仲間にはリードを付けてもいい事になってるんだ。はぐれたりして死ぬよりはマシだからね。これは確か……遺志の授業で習ったはずだけど?」
「ぐぅっ……。聞いて無いから知らない!ノーカン!!」
「それは聞いて無いじゃなくて聞かなかっただ。自分のさぼり癖を棚に上げるな」
「うーー!探索させろーー!!」
立ったまま手足をばたつかせて要求を口にするレンスだけど僕が聞く耳を持つはずもない。
大型犬を引っ張る飼い主のような格好で彼女を開眼の列へと連行しようとした。
……時に。
「あれ、師匠?なんかこの道、おかしくない??」
「……ど、どうして」
レンスを引っ張り進んだ先に居たのは列の最後尾ではなく、見知らぬ土地。ーー荒野。
辺りを見回しても直前まであった瓦礫や何やらはどこにも一切ない。
「……やっばいぞこれ。深淵渡りだ」
深淵渡りーーそれは深淵距離1000メートルを超えた辺りから見られるはずの転移現象。
極端な表現をすれば山の頂上から深海までの道中を飛ばして移動するような、俗に言うワープだ。
しかもたちが悪い事にこの転移現象は全くの無作為で行われるため、僕らの住む外の世界に帰るためには深淵渡りを警戒しながらマブツ化した方位磁石だけを頼りにする以外に手段が無い。
これらを総括し、簡単にまとめれば……僕らは……。
「遭難、しちゃったの?師匠……?」
「そうなる、ね」
広大な深淵の世界のどことも分からない場所に放り出された事になる。
ーーーー
深淵渡りによって遭難してからおおよそ一時間。
僕らは互いに繋がれる魂で繋がる事によって最悪の遭難だけは可能性から排除し、マブツ化した方位磁石[暗き導(ディナイアル・デス)]を頼りに深淵の中を進んでいた。
「……師匠、お腹空いたね」
「だね。次に休めそうな場所を見つけたら食事にしようか」
しおれたような声で話しかけてきたレンスは深淵渡りが発生してからは探索に走ったりせず、おとなしく僕の進む帰路に従ってくれている。
幸いにも彼女は状況を理解し、見境なく探索に走るタイプの子ではなかった。お陰でお互い余計な体力を消耗せずに済んでいる。
更なる深淵渡りの脅威、無視される体力調整、興奮による盲目さやそれぞれがそれぞれに抱えてしまうだろうストレス……。それらは全て探索に於ける最悪の味だ。
これでもしもレンスが未明の地に対して興奮を示し跳ね回っているようなら深淵の外に出る事は殆ど不可能だっただろう。
その心配をしなくて済むのは本当に幸いだと言える。
……その代わり。
「ねぇ、師匠……。大丈夫かな、私達」
「何とも言えないね。でも、暗き導の発見で深淵渡りからの生還率は飛躍的に向上した。今じゃ失踪の方が珍しいくらいだ」
「……そっか、そうだよね。授業で習ったし」
「うん、そういう事」
先行して歩く僕の腰から伸びている繋がれる魂から伝わる震え。
それは怯えているレンスから伝わってくるもの。
「……早く、帰りたいな」
深淵渡りによって生まれた不幸な点は単なる遭難だけではなく、彼女から元気が無くなってしまった事だ。
ーーこんなにしおらしくなるレンスは初めて見る。遭難しているのだから当然ではあるんだけど、この姿を見続けるのは思っていたよりも辛いな……。
レンスから元気を奪っているのは遭難という事実だけではなく、恐らくはこの広がる光景も原因の一端かもしれない。
なにせ、ここは荒野か何かだったらしくまるで何も見当たらない。
ひたすらに広く、無表情に広がる大地。
砂漠のような特徴は無いからほぼ間違いなく荒野なのだろうけど、そのわりにはサボテンや枯れ木のマブツ化したモノや名残は見当たらない。
……はっきり言ってしまえばまるで変り映えがしない風景だ。
僕らはそこを既に一時間は歩いている。
逆にその点だけ考えれば、瞳二年目のレンスが変わらない風景と遭難したという現状に当てられて気が狂ってしまっていないだけマシなのかもしれない。
「……あ」
「…どうしたの、師匠?」
そんな、思考と呟きによる会話しかない酷な行軍は、どうやら一先ずの終わりを迎えるらしい。
「……建物だ。意外としっかり残ってるみたいだし休めるかもしれない」
「ほ、本当!?どこどこ!!」
僕の言葉に目を輝かせて辺りを見回すレンス。
「……無いよ?」
「まぁ直ぐ近くじゃないよ。もう少し歩いた先にあるからね」
それでも見つけられなかったのか彼女は潤ませた目をこちらに向けくる。
どうやら昨日彼女の言っていた『発見力』が上手い事発揮できたらしい。少なくとも彼女の目じゃ見つける事の出来ないくらい深い深淵の中にある建物を見つけられたのだから。
「……また師匠だけ。ずるい」
「ず、ずるいって……。君より三年は長くやってるんだし、経験の差でしょ?」
「そーいうのじゃない!……と思うけど」
「まぁ、何にしてもハードルの低い目標が見つかったんだ。素直に喜んだら?」
「……はい」
余程その発見力というモノに執着というか、憧れというか持っているらしくレンスは渋々といった感じで頷く。
……正直、発見力と言われてもよく分からないんだけどなぁ。
ーーーー
「つ……着いた!やっと!!」
建物を発見してから約一時間半。幸いにも二度目の深淵渡りに遭遇しなかった僕らはその建物へと到着する。
しかも建物は一つだけでなく幾つも点在していて、中には驚くほど無傷の家もいくつかあった。
恐らくは村か何かだったのだろうか、パッと見た感じビルや巨大施設のような代物は見当たらない。
「意外と近くて良かった」
「えぇ!?かなり歩いたはずなんだけど!!」
「いやいや、何度か深淵渡りに遭遇している身から言わせてもらうとかなり幸運は方だよ?異形化してしまった生き物にも合わなかったし」
「う……。流石師匠。五年は伊達じゃないね」
「まぁね。レベルってヤツだろうね」
小群だったとしても建物があれば瞳が訪れる可能性は充分ある。開眼は中止になってしまうけど、捜索隊を期待して何日かはここで待つのはありだ。
なによりここは長期探索を行う瞳達が訪れる可能性が極めて高い【居住区】だ。何処なのか分からない以上過信は禁物だけど発見してもらえる可能性は非常に高くなった。一先ず安心していいだろう。
開眼に関してだけ言えば予定されていた深淵探索時間の四時間を経験しても平気だったレンスは適性試験はクリアだと考えていい。
深淵渡りという前例は無いにしろ単純に迷って帰探が大幅に遅れた瞳が認められた事はある。僕も一緒に証言すればこの点についての問題は無い。寧ろ深淵渡りから返って来た新人としてちょっとした英雄扱いになるかもしれない。
……それに。
「うー、疲れたぁ……。お腹も減ったし、早くいこー」
「そうだね。今日はもうゆっくり休もうか。今後の事も考えて装備の再確認もしなきゃいけないしね」
開眼という大事の最中に起きた深淵渡りという異常事態。
そんな状況でもレンスは諦める事無くよく頑張ってくれた。彼女の元気を戻す事も考慮して長めの休みを取るべきだろう。
……と、思っていたんだけど。
「え?ご飯食べたらすぐ探索するに決まってるじゃん!」
「…は?」
どうやら、彼女の元気の無さの原因は僕の予想していた所とは少しズレた位置にあったらしい。
「拠点は見つかったんだし、もう我慢しなくていいよね!よっしゃー!!我慢した分掘り当てるぞォ!!」
「あ……え…?」
状況が飲み込めずにいた僕を引っ張るように近くの家へと駆けていくレンス。
彼女の顔はさっきまでのしおらしさが嘘のように明るく、えがおと喜びに満ちている。
……どうやらレンスの元気の無さは深淵渡りにあった不安から来たわけではなく、安心して探索が出来なかったからだったらしい。
確かに、地に足の着いた探索と遭難状態の探索ではまるで安心感は違うし、長期探索の場合は今の僕達のように深淵の中の居住区を拠点にして行うのは基本中の基本だ。
でもそれはあくまでも外の世界に帰れるという確信と万全の準備があった初めて生まれる安心感のはず。
ーー………助かったって決まったわけではないんだけどなー。
立ったまま引きずられる現状を意識の外に出して、嬉しそうに走るレンスの背を見つめる。
ーー[光明の瞳]、か。彼女は…レンスは、深淵の中だったとしても住む場所さえあればそれでいいんだ。それさえあれば、彼女は自分を満たす[探索]に没頭が出来るんだ。
そんな彼女の才能が僕には少し眩しく見えてしまう。
「師匠!この家が一番綺麗そう!!ここでいいよね!」
「……うん。それなりに広そうだし、いいんじゃないかな」
「やったー!じゃあすぐご飯ね!!」
「うん」
彼女の言葉に違わず特に保存状態の良い一軒家の扉を明けて中へと入る僕達。
「おほー!すんごい住みやすそう!!」
中を見回した途端、条件の良さに喜びを示したレンスとは裏腹に僕は妙な不安を覚えてしまう。
どういうわけか外見のわりに部屋を仕切る壁は軒並み壊れている事に。
ーーなのに壁や天井はしっかりとしていて数日どころか数週間は住めそうな場所だな……。
ここまで住むのに適した場所は深淵の中じゃ滅多にお目にかかれない。最早誰かの意図まで感じる。
ーーでも異形が家に住むなんて話は聞いた事が無いし、狩りに住んでいたとしても家の扉の意義を理解できる知性があるのは恐らく間違いない。
冷害によって問題の渦中にいる僕らだ。これから先どんな例外が起きても不思議じゃない。
そう考えると不安は増していくばかりだけど……。
「私の発見力も中々でしょ、師匠!」
「…え?あ、うん、そうだね。多分そうなんじゃない?」
「むー。煮え切らない!!」
やっぱり裏腹な感情を持っているレンスの爛漫な表情を見ると自分の臆病さに嫌気がさしてくる。
ーー本当に僕は駄目だな……。これだけいい家を見つけられたのにまだ怖くて震えそうなんだから。
「師匠!?シースルーだけどお風呂もあるよ!!水!!」
良い師弟関係は弟子からも教わると聞いた事があるけど。
レンスは僕の無い才能を持っている。いつかはそれを少しでも教えてもらえるんだろうか。
「[絶えぬ水(オープン・ピトス)]なら持ってきてるよ。距離的に[柔らかな灯火(インデヴァー・シン)]は必要ないと思って置いて来ちゃってるから水浴びくらいしかできないけど」
「じゅーーぶん!これなら本腰入れて探索できるぞぉぉぉ!!」
「はは、気合入れるのは構わないけど、繋がれた魂があるのは忘れないでね」
「あーー!」
「あはは」
水を得た魚のように元気にーー寧ろ喧しいくらいになったレンスを見て僕は笑う。
ーー僕にも、このくらいの盲目さと覚悟があれば、な。
時分には無くて彼女には有る才能を本人に気が付かれないために。
「さーご飯!!」
「はいはい。分かったからお風呂行ってきちゃいなよ」
「あ、繋がれる魂はどうする?」
「流石に平気だと思うけど念のため着けとこうか。数件だけど過去に例が無かったわけじゃないし」
「はーーい!」
明るく笑って水浴びの用意を始めるレンス。
その間に僕は探索用完全栄養食のフレンドカロリーを取り出してそれぞれの皿に乗せる。
棒状の食べ物だから飾り気も食欲促進も皆無でそもそも味はしない。
一応数種類の風味・味はあるんだけど不測の事態……丁度今回のように深淵渡りに遭遇したりして精神状態が不安定な中でも食さなければならなかった場合、味があるせいで吐き出すなんて事も珍しくない。
それらを考慮して瞳の殆どは味のしないタイプを少し余分に携帯するのが主流になっている。
まぁ、風味や味付きのは美味しい事は美味しいから手抜きの食事として重宝するけど。
「あ、師匠!覗いたらひっぱたいて蹴り上げるからね!」
「分かってるよ!」
「え~ホント~?昨日着替え覗いてきたから油断ならないなーー」
食事を用意している最中に聞こえたのは僕を小馬鹿にするレンスの声。
昨日の件を余程根に持ってるのか、それとも単に僕を弄って楽しんでいるだけなのか。彼女はまたも覗き云々の話を持ち出した。
「覗きたかったわけじゃないっての!!いいから入ってきなさい!」
「は~い♪」
およそ師匠を師匠とも思わない様子で軽口を叩いているレンスは妙に上機嫌だ。
状況や思惑が何であれ着替えを覗いた事実は変わらない。悪いのが僕である以上あまり強気に出れないけど、いい加減しつこくも感じる。
……いや、やった事がやった事だし『師匠』と慕ってくれてるままでいてくれるだけマシなんだろうか。
「あ、でもトクベツ音は許してあげるから。感謝してねししょー」
それともおもちゃとしてしか思われていないのか……。
ーー許すも何も距離制限がある上に壁も何もないんだから怒られても困るんだけど。
いや、もうこの事を考えるのは辞めよう。今は助かった事にだけ感謝して、生き残る事だけを考えよう。
どうせ言ったところで無駄だし。
「んふふ~」
ジャバジャバと水を浴びるレンスの鼻歌が聞こえてくる。
……それは僕らが五体満足で安心できる場所に到着したからこそ聞ける鼻歌だ。
ーーそうだ。僕もレンスも無事だ。それだけで今はいい。
そうと考えを決めれば話は早い。
インスタントコーヒーなんかも用意して、身体を温められるようにしておかないと。これでもし風邪でも引いたら堪ったモノじゃない。
幸い燃えそうな木片は散らばってるし、マッチも紙屑も用意してあるから火起こしは簡単に済む。
レンスには悪いけど木片を集め終えるまでは繋がれる魂のせいで生まれる行動制限による不自由は我慢してもらおう。
「あっ!?ちょ、動かないでよ師匠!!」
「ちょっとぐらい我慢して。火を起こすのに木片集めるだけだから」
「あーー!そうやって裸の私を外に……」
「水浴びだけじゃ風邪引くでしょ。だから我慢して」
「……うー」
案の定出た不満だけどこればっかりは協力してもらわないと駄目だ。
最悪の最悪は過去に数件の室内深淵渡りが起きて僕らが分断される事だし。
「分かったけど、どのくらいかかりそうなの?時間とか移動距離とか」
「どっちも大して。大丈夫、浴槽からは出ないように頑張るから」
「頑張るじゃなくて絶対!」
「……はいはい」
諸々仕方が無いこととは言えやってる事はかなり酷い。お陰で滅多に聞けない強い口調で約束を取り付けられてしまった。
なんかいつも怒られてるな僕。どっちが師匠か分からないなこれじゃ。
「…………なんて、考えてる間に終わった」
単純作業をする時は考え事をしながら……なんて前に聞いてたけど、本当に苦も無く焚火の土台と数回の燃料分を集めるのが終わってしまった。
「ホント!?じゃあ戻って!」
「ぐえっ!?」
なんて、呟いたが最後。今度はレンスに繋がれる魂を利用され思いきり引っ張られてしまった。
ーー流石は有望視されている瞳。腕力は既に僕より強いかもしれない。
瞬間的に下半身を襲う浮遊感と、即座にお尻に訪れた強い痛み。
けどそれ以上に効くのは腹部で円状に広がっている圧痛。
下手に殴られるより涙が出てくる。
「うぅ……。もっと師匠を思いやって……」
「エッチな事しないならっ!」
何とか吐き出せた言葉に対して返って来たのはまぁまぁ心に響くお怒りの声。
裸の状態で意図しない方向に移動させられるわけだし気持ちは理解できるけど、それはそれとしてもう少し優しいお言葉が欲しかった。
「……おい」
そんな風に弱音と涙を浮かべつつ身を起こしている最中の事だった。
「ここで何してる」
ーー僕らの拠点に、何者かが家の入口から入って来たのは。
「…お前ら、瞳だな」
およそ人間とは思えない両腕を持った、人の姿をしている男が。
「しっ、師匠……?」
「伏せて!!」
腹部の痛みなんて掻き消すほどの焦りが僕を襲う。
「お前、まさか異形か!?」
即座に立ち上がり、咄嗟にとれた臨戦態勢の状態で話しかけるが男には動きはない。まるで像のように立ち尽くし、僕を見据えている。
マズい。家に入った時に感じた違和感は正解だった。
僕の失態だ。自分の感情や休息を優先して事実を無視するなんて間抜けにもほどがある。
どうする……?考えろ。深淵渡りで助かっても異形に殺されるんじゃ一緒だ。
ーー近くに持ってきた武器はない。一番近いリュックは歩いて数歩。飛び掛かれば何とか届く範囲の壁にもたれさせて入るけど繋がれる魂が枷になってる。こんな状態で飛び掛かれば反動でレンスが浴槽から出てくるのは確実。普段ならまだしも裸の状態じゃまともに戦える訳が無い。絶対に避けないと。
それが駄目なら足元にある木片や食べ物を蹴り上げて眼暗ましにするか?
ーー駄目だ。僕だけならまだしもレンスを抱えて逃げるほどの余裕を作り出す威力は期待できない。無謀をするほどの切迫状態になるまでは考慮に入れない方がいい。
……そうだ。あくま今はあくまでも緊迫状態。異形化した人間には話を出来る知性を残したままの個体もいる。その手の異形は手を出さなければどこかへ消えるとも聞いた。
兎に角まずは戦闘行動どころか回避行動にすら支障が出てるレンスを逃がさなければ。それが安全に出来る可能性があるまではこちらから手は出したら駄目だ。
「答えろッ!!」
再度、呼びかけても男の反応はない。
ーー戦うか?この状態で?相手は多分僕よりも大きい相手だ。武器は……持っていなさそうだし、誘い出して投げ飛ばすなりなんなりして隙を作るか?駄目だ。失敗したらそれでおしまいだし、そもそも腕力で勝てるとは思えない。今さっきレンスに負けたかもと思ったばかりだ。
変わらず像のように不動で立ち尽くしている男の格好は簡素だ。
一目でわかる上等な素材で出来た服装に、同じ生地で造られた様子のマント。
それらはよく使いこまれているし、大昔の瞳の標準装備していた探索服にも見える。
だからもしかしたら捜索隊や、或いは探索中の瞳なのかもしれないと思わなくもないけど。
ーー腕が、明らかに人の物じゃない。
黑く、蟠るようにして形成された両腕。気体と固体の特性を同時に持っている物質で構成された、空間とも思えるアレは間違いなく異形化した生物のモノ。
ーーそれにあの目。どこかおかしい。僕らを見ているのに違いはないけど、どこか焦点が合っていないような気がする。それが意味するところが分からない。
これ以上現状から得られる情報は恐らくない。だからこそ思考は既に堂々巡りになってきている。
このままじゃ切り抜けるなんて無理だ。
せめて、男にどの程度の知性があるのかが知りたい。
「答えろと言ってるッッ!!!」
再三の呼びかけ。
これで反応が無ければ彼には【話せる知性】は有っても【会話する知性】は無いとして行動するしかなくなる。
ーーそうなった場合は……
一瞬だけ視線を落とし、足元の木片を確認する。
会話する知性が無いと判断した時、この緊迫状態は切迫状態に引き上げないといけなくなる。
それに裸のまま水の中にいるレンスの事も心配だ。低体温症になるほど絶えぬ水から溢れているとは思えないけど、一度も見ていない状態を憶測で考えちゃいけない。
たった三年だとしても先輩の僕は常に最悪を考えて行動しなければ後に付いて来てくれてるレンスの事を護れるはずがないんだから。
ーーどちらに重きを置くにしても今の状況はそう長く保てないぞ……!
爆発的に速さを増した鼓動に鼓膜を殴られ続けながら相手の反応を待つ。
ーー頼む。何とか言ってくれ……!
時間の感覚が精神に支配される。
一秒が……長い。
巡る思考全てに意識が向いているせいで呼吸さえままならない感覚だ。
その中で。空気さえも重りに感じる緊張感の中で、やっと声が響く。
「……そうか。忘れていたよ。今の自分の事を」
男の、声だ。
「……どういう事だ?」
「深淵渡りを喰らって数十年。俺はすっかり異形に成っちまってたんだって事にだよ」
「……な」
低く、男らしさの中に哀愁を覚えるその声は確かに口にした。
『深淵渡り』、と。
「……じゃあ、お前…あ、いや、貴方は……?」
「ああ。お察しの通り瞳だった男だよ。……お前らと同じな。ま、先輩ってところだ。あんま怖がらなくていい」
「……うそ」
僅かに視線を伏せた男はその後名を名乗った。
【バスル】。
千里眼の一人・紅きミールレッドの妹とコンビを組んでいた優秀な瞳だった男だ。
ーーーー
「……バスル。八十年程前に巨躯の少女・紅きミールレッドの妹のナルーカさんとコンビを組んで数多くの新種の異物を発見し、碧眼から灼眼に上がるとされていたとても優秀な瞳の一人だった人」
「ああ。けど俺はナルーカと共に深淵渡りにあってここより遥か遠い地に飛ばされた」
焚火揺らめく廃屋の中、僕とレンスはバスルさんと炎を挟む形で座っている。
レンスの着替えが終わり一呼吸吐けた僕らがお互いを知るために設けた会話の席だ。
より明るい場所でみたバスルさんの姿はやはり人外の特徴を持ち合わせていて、疑問に感じていた目ーー両目もやはりおかしかった。
「この目は代替眼(ディメンション・ルック)って異物……今はマブツだったか?どちらにしろようは義眼だ。元の目は何十年も前に腐り落ちてる。多分異形化が原因だろうな」
「……そうだったんだ」
パッと見は精巧に出来た義眼だが眼球は動かず瞳孔は変化せず、色は本来白いはずの部分が燻んだ灰色の目。
あの時僕が感じた違和感はその生物らしからぬ見た目と様子だったんだろう。
「といってもそれ程不自由ってわけでもない」
バスルさんの話に萎縮してしまっていたレンスに向け彼は優し気な声色で語り掛ける。
「元の目ん玉よりもよっぽど遠くを見られるしまばたきをする必要もねぇから待ち伏せや索敵なんかには有効でね。今じゃ欠かせない能力だ」
「……成る程。流石マブツ」
しかしレンスの顔に笑みは浮かばず、僅かに僕らの身を包む空気に重みが生じた。
「んな事よりだ。お前らも深淵渡りにあったのか?」
けれどバスルさんは空気感なんてまるで意に返さず話を本題に移した。
「はい。僕らは[開眼]試験中でしたが、本来起こらないはずの地点で深淵渡りにあい、ここから二時間半ほど遠い地点に飛ばされました」
「開眼…か。そいつはまた難儀なタイミングだったな」
「ええ。異形化に対する耐性を測るはずの試験で飛ばされたものですから弟子が……レンスが変ってしまわなくて本当に良かった」
「だな。……異形化しちまったとはいえ弟子をってのはどうしたって寝覚めがわりぃ」
「……え?」
自分が原因ではあるけれど、逸れた話の中でバスルさんの言葉が引っかかる。
寝覚めが……?
「………そうか。いや、今のは忘れてくれ。こいつぁ悪習ってヤツになったんだな」
聞き返した途端にバスルさんは言葉を濁した。
「師匠……?」
……でも、それだけで僕には充分な答えだった。
「いや、何でも無いよ。話しを戻しましょうか」
「ああ、だな」
口ではそう言いつつも頭の中にはバスルさんの言葉が今も引っかかっている。
異形化した弟子を……殺す。
気が遠くなるほど昔から行われている開眼試験だって、今でこそ殆ど十全に組み立てられた行程だったとしてもどこかに必ず事の始まりがあるのは間違いない。
[弟子が異形化した場合は師が引導を渡す]それがきっとバスルさんの生きていた時代では普通だったんだろう。
けれどそれを当たり前にしたくなかった先駆者達は途方もない努力と時には犠牲を払って改善し、そしてここ八十年の間に禁忌として伝えるのを止めた。そういう事なんだろう。
「………師匠?」
「ん、風邪でも引いた?」
「…違う、けど」
どこか上の空だったのだろうか。レンスは心配そうな表情をして覗き込むようにして僕を見上げている。
ーー考えたくも無いな。もしも彼女に異形化の耐性が無く、その上で深淵渡りをしていた場合の事なんて。
レンスの頭に手を置き、まだ水で湿っている頭頂部を撫でる。
「いいかいレンス。助かった後に考えるのは駄目だった時の事じゃなく、次にする事だ。不安に駆られるのは全部終わってからでも遅くない。この仕事は生き急ぐくらいで丁度いいんだ」
昔、初めて深淵渡りを経験した時に自分に言い聞かせていた言葉を彼女に伝える。
「……分かった、師匠」
そしてレンスは不安そうな顔を引っ込めて、いつも通り……とはいかなくても、さっきまでに比べれば充分に明るい表情に戻ってくれた。
「見た目の割に肝が据わってるな、お前。案外灼眼か?」
「まさか。碧眼の目処も立ってない白眼ですよ」
「……っは。なら、俺達のしてきた事は無駄じゃなかったみてぇだな。あいつも……喜んでくれるだろうよ」
少し嬉しそうに僕を評価してくれたバスルさんは僅かに視線を落とし、右の方へと微かに瞳を向ける。
そこにあるのは壁だけ。けれど、彼はその先に何かを描いたように遠くを見ていた。
「…余計な話になっちまったな。本題に戻るか」
何を見ていたのか……。僕がそれを尋ねるよりも早く、バスルさんは再び口を開いた。
この拠点ーー今はバスルさんの住処となっているここから、深淵の外までがどのくらいの位置にあるのかを。
ーーーー
結果的に言えば、僕らの置かれた状況は苛烈ではあったけれど苛酷というほどではなかった。
『休みなく歩いて二週間。人らしく進む事を考慮すれば少なくともその倍の四週間は必要だろうな。そこに異形化した動植物との戦闘も含めるとすれば……早くても一か月以内に着ければ御の字だろうよ』
酷い時は一年以上歩かなければならない場合もある深淵渡りにしてみれば色々勘定に含めて最速一か月で帰れるというのは十二分に幸運な部類だろう。
ただ、問題なのは装備と食料だった。
元は半日もあれば終わるはずの開眼しか予定していなかったせいで食料は普通に食べれば二日分、装備は最低限より少し優秀な程度。
幸い僕もレンスも深淵探索用防護服【真なる友(トゥルー・ラブ)】や、彼女の拾った医療品があるから異形化に襲われても簡単に死ぬ事は無いはずだ。
けど、武器はお互いただのサバイバルナイフだけ。マブツ化した銃どころかただの剣すらない。これじゃ死なないだけで倒せない。
食料に関してもマブツ化して栄養価の上がった缶詰を常備しておいたお陰で最低限の摂取を心がければとりあえずは平気だろうけど、流石に一か月は不可能だ。それでも絶えぬ水のお陰で最低限の生存率は確保できているけど、だとしても空腹の中で深淵を進むのはリスクが高すぎる。
異形を捉えて食べる手段もあるにはあるがまともな栄養が無いヤツらを口にしたところで意義は薄い。下手をしたら捉える事の方がエネルギーを使う可能性だってある。栄養が確保できている状態で捉えようにも運よく弱い奴が出て来てくれるとも思えな。これは最終手段だろう。
等々。総じて僕らは崖っぷちにいると考えていい。
だから、彼に申し出るのは必然だった。
「バスルさん、最後までとは言いません。途中までで構いませんからついて来てくれませんか?」
一目で分かる屈強な肉体と異形化した状態でも意思疎通が可能な知性。そしてなにより僕らに対して敵意が最初から無い。
これらを併せ持つ彼なら僕らの今の装備じゃ到底立ち向かえない異形に出くわしたとしても対処ができるようになるかもしれない。
更に言えば彼は八十年はこの深淵で生活していた。一緒に行動出来れば僕らだけでいるよりも生存率は間違いなくグンと上がる。
また深淵渡りに遭遇してより遠方に飛ばされるとも限らないわけだし。
……でも。
「…悪いが、そこまでは付き合ってやれないな」
バスルさんは是非もなく首を振った。
「それは、何故?」
「答えてやる義務も義理もない」
「そう……ですか」
さっきまでと這って変わった取り付く島も無い返答に胃が重くなる。
けれどそれも仕方が無い事だろう。バスルさんの時代は異形を見つけたら先手必勝で殲滅。今回の僕のように意思疎通を図ったりはしていなかったと学んだ。
実際今でもそういう手段を取る瞳は多い。特に、灼眼に上がっている者は全員と言っていいだろう。
それだけ異形と接触するのはリスクが高い事だ。異形化してしまったバスルさんを連れて行ったとしても英雄の凱旋になる事はまずない。自分の身の安全を考えれば当然だ。
「……けど、ま。滞在はいつまでしてくれても構わない。俺としても久しぶりに人の言葉を話したからな。ノスタルジーってのに駆られてるんだ」
「バスルさん……。ありがとうございます」
それらを鑑みればいつ追い出されてもおかしくない滞在は、けれどバスルさんの好意によって許してもらえた。
「…あー。けど近くにある二階建ての家にだけは入るなよ」
「二階建て?」
ふと思い出したように口にしたバスルさんにレンスが首を傾げる。
「ああ。あそこは今俺の食糧庫になってる。ま、異形化した動物の家畜小屋って感じだな。襲われたくなきゃ行くのは止めとけ」
恐らく家のある方を顎で指したバスルさんは驚かせるようにレンスに言った。
「え!?そうなの!!」
そしてそれに違う事無くレンスは目を大きく開いて驚きの声を上げる。
僕自身そうしたくなるのを抑えて。
「おう、そうだぞ。この家とよく似てるからな、気ぃ付けろよ」
「分かった!……けど、聞いてた話と違うな」
「……そうなのか?」
「うん。異形化した生き物は何も食べないって聞いてたから」
僕とレンスが驚いた理由。それは彼女の言ったように異形化した生物は食事を摂る必要は無いからだ。
正確に言えば栄養摂取が必要なくなる。本能の名残や半端に知性が残っているタイプは物を口に入れたりするがそこに意味は無く、知性が高くて長期間異形として生活している場合は無意味さにどこかで気が付き口に運ぶという行為をしなくなると聞き及んでいる。
バスルさんの反応を見る限りどうやら今までずっと食事を続けていたらしい。彼ほどの知能の高さなら早々に気が付いていてもおかしくはないはずなんだけど……。
「……へぇ。他には?」
「他に?」
「生理現象とかが止まるとかそういうのだよ。知性が消えたり身体が異形化したりそーいうのは知ってるんだが、他には無いのか?」
「……うーん?」
それが余程気になったのかバスルさんはいくつかの質問を始めた。
「確かトイレに行かなくなったり呼吸をしなくなったりだっけ、師匠?」
「だね。異形化のイコールの存在はほぼゾンビだと考えていい。ただ、ゾンビと違って腐らないし異形化の程度にも個体差があって知性の有無も確認できる。だから食事は勿論呼吸も水分補給もいらないし、トイレなんかにもいかなくなる」
「…………。成る程な。俺の頃に比べてかなり研究が進んでるみたいだ。他には何かあるか?」
「そうですね……。傍から見て異形化している部分が無くて知性が高ければそれは不老不死と言えます。なので、一部のカルト達は完璧な異形化を研究している、とは聞いた事があります」
「また突飛もねぇ事を考える奴らがいたもんだな。人体実験でもしてるのか?」
「どうでしょう。そこまでは何とも。ですが、これまで瞳達が遭遇した異形の中に不老不死と呼べる個体はいなかったはずですね。どころか、バスルさんほどの人間らしさを残した異形化は僕の知る限りでは聞いた事がありません」
「じゃあバスルンは不老不死?」
「完璧を求めなければそうなるかもね。バスルさんの外見から分かる異形化した部分は両手と両目。でもその両方ともその気になれば隠しながら生きていけるだろうから現状は完璧な異形ーー不老不死だと思う」
「……分かった。助かったよカルルカン、レンス。教えてくれてありがとう」
知りたかった情報を聞けたのか僕らがそこまで話すとバスルさんは立ち上がり家の出口へと振り向く。
「総合すると、どうも俺は異形化に失敗したみたいだ」
「…え?」
そうして、僕らに背を向けたままの彼は静かに話し始める。
「汚い話だが俺は便所に行く。それはつまり飲食をしているからだ。意識するまで気が付かなかったが呼吸もしているし、話には出なかったが睡眠も摂るには摂る」
「そ、そうなの?」
「ああ。当てはまってるのは老化が進まず死んでいないって事だけだな」
異形化してしまった手をゆっくりと上げてバスルさんは拳を握りしめる仕草を繰り返す。
その度に蟠りの塊と呼ぶにふさわしい彼の手は微かに腕の増縮を繰り返している。
「それらを鑑みれば俺は恐らく異形化しきれていない。偶然が当然の殆どを消したんだ。だとすれば俺はその枠組みに入っていないと考えていい」
何度か感触を確かめたらしいバスルさんはそう言う歩き出し。
「……つまり、俺はまだ半分人間だ」
家の出口に着くとバスルさんは振り返る事も無く扉を開けて家を出て行った。
およそ無視できない発言を残して。
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バスルさんが出て行ってから数時間が過ぎた。
その間に僕らは中断していた水浴びと食事を行い、今後の計画を立てながら彼を待っていた。
しかし、再三の見直しを終えてもバスルさんが帰ってくる気配はなく。
「ししょー……眠い」
恐らくは深淵に潜ってからの疲れが出たんだろう。強烈な眠気が僕らを襲っていた。
「レンスは先に寝てていいよ。バスルさんには僕からお礼しておくから」
「やだ……。私もバスルンにお願いする…」
「やだ…って。ていうか、バスルンは失礼だからやめなさい」
「やだー……」
僕の右隣りに座っているレンスは瞼を落としては上げてを繰り返しながらしどろもどろで話しかけてくる。
現在の家主であるバスルさんには既に滞在の許可はもらえている。けど、どこかなぁなぁになってしまっているし出来ればもう一度ちゃんとお礼を伝えておきたい。
そう僕が言い出したらレンスも『付き合う』と言い出して無理にでも起きていると始まった。
「ししょー………」
「ん?」
念のためそのままにしてある繋がれる魂を力なく何度か引いてくるレンス。
引く力からは既に普段の力強さは無く、行為そのものも緩慢で今にも眠りに落ちそうな彼女は大きく舟を漕ぎながらもなんとか起きていようとしている。
「ししょーって、どうして瞳になったの?」
「……夢って事?」
「う~ん?うーん……。うん」
「そうか……。そうだね。弟子にくらいは話してもいいのかな」
もしかしたら寝言かも知れない。彼女の眠たげな返答を聞いてそう感じつつも、寝物語の意味も込めてこれまで一度も話した記憶の無い僕の[夢]について語りだした。
忘れるようにして久しい夢を。
「僕はね、千里眼になりたかったんだ。今ある人の世界を変えてしまえるマブツを発見し、持ち帰って来た者の一人にね」
「そーなの……?知らなかった」
自分で言うのもなんだけれど、レンスの飛びつきそうな話題にも関わらず彼女の眠たげな表情はあまり変わらない。
思った通り、既に寝言なのかもしれない。けど、僕にしてみたら好都合だ。
師と慕っている相手のただの負け言なんて聞いても嬉しくないだろうから。
「そりゃあね。友人どころか親にすら言った事が無かったから当然だよ」
「へぇ~。なんで?」
「身の程知らずだから、かな。…正確には『だった』だけど」
「……?」
「僕には荷が勝ち過ぎてた夢だったんだ。…有り体に言えば才能が無かった。ただそれだけなんだ」
見上げた天井に蘇るのは今日までに過ごしてきた五年間の記憶。
深淵の中で何かを見つける事自体は確かに得意だった。けれどそれだけじゃ瞳としては役不足だ。
瞳に求められているのはマブツの発見と回収。そしてそのどちらが重要視されているのかと問われれば当然回収。
マブツを見つけるのがどれだけ上手くたってそれを回収できないんじゃ見つけていないのと同じだ。だから手柄はいつも一緒に居る別の瞳の誰か。横取りと言えばそうだろう。
けれどそんな人達を責める権利は僕には無い。
彼ら彼女らは確かに手柄を奪ったと言える形でマブツを回収していったけれど、その分……いや、それ以上に命を張っていた。
異形化した木を倒して足元から回収したり、一歩でも踏み外せば奈落へと落ちていく崖の際に埋まっていたマブツの回収をしたり。時には異形化した生物が飲み込んだマブツを回収する為に死にかけた瞳もいた。
他にもあらゆる状況で命を危険に曝し、マブツを回収していた。
つまるところ僕は臆病だったんだ。
深淵の支配する時代にも関わらず、ましてや瞳を生業として生きているにも関わらず、僕は死ぬのが怖かった。
そんな人間は千里眼にはなれない。
死んだ方が楽な場所にしか存在しないワールドのクラスを持つマブツを発見・回収するなんて夢のまた夢だ。
勇敢で臆する事を知らず、己の探求心と好奇心の為になら無条件で命を張れるーー。そんな人物でなければ千里眼にはなれない。
それがこの五年で僕が思い知った事実。
天から二物を与えられない限りは叶えるのが不可能な夢。
……だから。
「でも、レンス。君は多分違う。君には千里眼なんて夢じゃないほどの才能がある」
だから、彼女は天才なんだ。
深淵の中でも臆せず先へ進もうと出来る探求心とマブツを拾う事にためらいを覚えない勇敢さ。
これらは僕の求め続けていた二物そのものだ。
今の彼女に足りないモノがあるとすればそれは経験だけ。
その隙間を埋められれば、深淵渡り程度ではレンスの探求心や好奇心を抑えられはし無くなるだろう。
「だから。今の僕の夢は君を一人前に育てる事かな。……少しだけ、残念な師匠だけどね」
己の情けなさの余り自虐的な笑いを被せてレンスに新たな夢を語る。
弟子の前ですら胸も張れない僕だけどこの言葉に嘘は無い。
僕はレンスの力になりたい。彼女の目指すモノが何なのかは知らないけれど、その時が来た時に彼女の助けになる事を教えてあげたい。
所詮は五年程度の経験しかない新参者だ。でも、いつか何かの役に立つと思ってこれまで学んできた瞳達の歴史ーー遺志は頭の中に入ってる。
洗脳と言って嫌っているからきっと自分で学びはしないだろう。でも僕がフィルターになればレンスも素直に受け入れてくれると思う。
そうすれば彼女は、これまでいた事の無い瞳に……深淵を払う瞳になれるかもしれない。
「……そんな事、無い……よ」
そんな風に考えているといきなり強く身体を引かれてに右に姿勢が崩れてしまう。
「どうしたの、レンス」
右手で体重を支えつつレンスの方を向くとそこには彼女の顔があった。
眠気に襲われながらも僕を心配するような視線を向けてくれる彼女の顔が。
「ししょーには…発見力が、あるし……。だから、絶対なれるよ……り…がん……に…」
どうにかして振り絞った力だったのか、そう言いながらレンスは眠りに落ちた。
僕の肩に寄りかかるようにして頭をもたれさせ、年相応の寝顔を浮かべ、寝息を立てて。
それは確かに愛らしく、新しく抱いた自分の夢の正しさを確信させると共に。
「………それだったら、どれだけ良かったかな」
己の無力さを心底から理解するのに足る一言だった。
ーー本当に……情けない。
たった一年も一緒に居ない弟子に気を遣わせてしまうなんて、なんて僕は情けないんだろう。
「……師匠になる夢は、諦めたくないなぁ…」
「遭難中に泣くなんざさっきと言ってる事が違うな、カルルカン」
込み上げてくる虚しさを圧し潰すようにして突然男性の声が耳に入ってくる。
「…バスルさん」
「ああ。さっさと寝てりゃあ良かったのに」
それは数時間前に家を出て行ったバスルさんのモノだ。
どこに行っていたのか、彼の服やマントは薄っすらと砂埃で汚れていて心なしかその顔色は良くない。
「お邪魔させてもらう立場ですから。もう一度しっかりお礼を言っておきたくて」
「律義だな」
何処か棘を感じる口調で返答しながらバスルさんは僕から少し離れた場所まで行くと立ったまま壁によりかかる。
「……さっきの話だけどな」
「え…。聞いてたんですか?」
「偶々な。中に入ろうとした時に扉越しに聞こえたんだ」
さっきよりも強く棘の含まれた口調で話し出すバスルさんの目からは異様なまでに嫌悪感が読み取れる。
……いや、もしかしたら嫌悪感じゃないかもしれない。
ーーこれは多分、……恐怖?
「お前の言ってる事は間違っちゃねぇ。けどな、それを人に押し付けるってのはちょっと違うんじゃねぇのか?」
……それは、彼がさっきまで何をしていたのか考えていた僕の思考を釘付けにするほど酷く胸に突き刺さった。
「押し付けてなんかないですよ。そもそも……レンスは多分聞こえてなかったでしょうし」
確かにレンスなら千里眼になれる才能があると思った。けれど彼女には彼女の夢があるはずだ。それを僕が取り上げて自分の捨てた夢と挿げ替えるなんてあっちゃいけない。
僕はただ、彼女の力になれればいい。それだけだ。
「聞こえてるかどうかなんざ関係ねぇんだよ。……千里眼なんざ目指すな。目指させるな。命はもっと意味のある事に使え」
そこからの彼の言葉は、どれも僕の神経を殴りつけてくるモノだった。
「それは僕が決める事じゃない。レンスがなりたいと言うのなら僕はサポートするだけです」
「だから、それを止めろって言ってんだよ。夢なんぞが命より大切か?大事な人を危険に晒す免罪符になるのか?名声や憧れを追っかけたところでその先にあるのはより高みを目指そうとする傲慢な悪魔だけだ」
「それは…!そんな言い方は無いんじゃないですか、バスルさん」
彼の価値観は合理的で、正しさは間違いなくあちらにある。
燻りを強めていく怒りの中でもそれは分かっていた。でも、そんな言い方はあんまりじゃないか。
「どんな言い方もこんな言い方もねぇんだよ。ありゃしねぇんだ。そこにある命を、それの為に使えたはずの命を、闇の底に食わせてやれるほどのお人好しなるつもりかよお前は」
『夢の為に命を賭けるのは愚かな行為だ』。彼はそう言いたいのだろうし、実際地に足を付けて行動している瞳ほど生存率は高い。
だけど、それが彼女が持っているだろう夢を、僕の今までの葛藤を否定する材料には成り得ない。
「何様なんだ!貴方は!!」
血が沸き立つほどの怒りが僕を襲う。
拳を握りしめようと腕の筋肉が強張っていく。
……けれど。
ほんの微かに残っている理性が僕に訴えていた。彼の言葉にはどこか違和感がある、と。
「何様でもねぇよ。だからここに八十年もいるんだろ。それとも何か?お前とそいつは何様かになれるってのか?今さっきお前は何様どころか何者にもなれないって言ったばかりなのに、そいつを何様かにしてやれるって言うのか?」
「ッッ!!」
「出来ねぇんだろ。即答もしてやれねぇんだろ?だったらそんな夢諦めちまえ。自分の分を分かるくらいには賢いんだからよ」
彼の言葉は確かに正しい。だからこそ憤りは増してしまう。逆上して今すぐにでも殴りに行きたい感情が脚を動かそうと逸ってしまう。
けれど、その矛先はすぐに自分の方へ向けられた。
僕が今彼に感じているこの感情は、僕が棄てたはずの自分の夢を諦め切れていないからこそ湧いて来たのだと理解してしまったから。
だってそうだ。僕はまだ彼女の夢を聞いてもいないのだから。なのにこれほど憤りを感じるとは思えない。
そしてそれは僕に冷静さを教えてくれて、少しずつでも収まっていく興奮の中でついさっき彼に感じた違和感の正体に気が付く手助けになってくれた。
「………誰か、そういう人がいたんですか?僕のように無謀な夢を持って深淵に沈んでいく人が」
強張っていた腕の筋肉を意図的に解す事で怒りを抑え、感情に振り回されないよう理性が示した考えを彼に投げかける。
そうして。
「……だとしたら、どうする」
彼の目が持っていた恐怖に初めて触れられた気がした。
「…分かってます。僕の持つ夢がどれだけ彼女の命を危機に曝すのか。日常化した死の上に立つ事で成り立つのかは。でも、僕ら瞳はそれを承知の上で最初に持った夢の為に深淵に踏み入った。……貴方だってそうでしょう?」
「どうだろうな。もう忘れちまったよ」
僕の問いに、バスルさんは視線を逸らして柔らかな否定を苛立ちの混じった鼻笑いと共に口にする。
けれどそれは最早答えにしか聞こえない。
「そんなはずない」
「……何?」
「僕の記憶が正しければその服装は貴方が活動していた時期の瞳の標準的な装備に酷似している」
「だから、なんだ」
「八十年も一人で彷徨い、その中で異形化したにも関わらず初心を纏っている貴方が始まりを忘れているはずがない」
「何故そう言い切れる。単に着る物が無かっただけだろ?それを何故そう断言できる」
緩やかに語気が強くなるバスルさんの言葉は、けれどどこか虚しさを孕んでいるように聞こえる。
その理由は、ふと。…いや、これまでの話を思い返せば。思い当たる節は一つしかなかった。
「………貴方の話、なんですか?」
視線から感じた恐怖。所詮は他人事でしかないのに言い合いに発展しても語気を緩めない姿勢。そして今感じた怒りの中に示された虚しさ。
どれも、不器用な優しさから僕らを止めようとして出て来た感情だとは思えない。
それは何故なのかを改めて考えれば答えは明白だった。
「……触れたな」
「はい。恐らくは誰にも触られたくない傷に」
それまでの勢いや怒りが嘘のように辺りが静まり返る。
「……なら見せてやるよ。お前と同じ夢を、お前と同様に歩んだ結果が産んだ傷を」
その静寂を吸い込んだかのように話すバスルさんの声は凍てつき、命を感じられなかった。
半分が人間だと口にしていたのにまるで死人の声を聞いているようだった。
「来い」
そう言って扉の方へと歩き出すとバスルさんは振り向く事無く家から出て行く。
「そいつは連れて来るなよ。寝起きに見るもんじゃねぇからな」
背を向けたまま一度だけ立ち止まって。
「……ごめん、ちょっと行ってくるね」
右肩で眠ったままだったレンスを、目が覚めないように優しく横たわらせてから繋がれる魂を解き、彼の後を付いていく。
「こっちだ」
暗闇の中で立っていたバスルさんは僕が来たのを確認すると歩き出す。
付かず離れずの距離を保ちながら進む事数分。
「ここだ」
バスルさんが住んでいるあそことは違う二階建ての家の前に着いた。
「正面からは入れないようにしてある。お前らみたいなのが逃げ込まないようにな」
僅かに振り向き、視線で僕に入り口を示唆したバスルさんは家の裏に回るようにして歩き出す。
そうしてすぐに見えたのは二階のベランダにまで繋がっている長い紐だ。
「異物・中級・繋がれる魂と異物・上級・死なずの円盤(リマインド・フォーエヴァー)で造った自動滑車だ。紐を掴んで軽く引けば後は上まで運んでくれる。……腕力は?」
「自分の体重くらいなら一時間は支えられます」
「なら上等だ。落ちるなよ」
今では使われなくなったマブツの階級分けと共に教えてもらった使い方を元に、バスルさんの後に続いて二階のベランダに足を運ぶ。
「……ここから先は妙な気を起こしたりするなよ。冗談じゃ無く死ぬからな」
「襲ったりしませんよ。あれだけの言い合いはしましたけど、貴方を尊敬し、助けてもらった事に感謝しているのは変わりませんから」
「なら、いい」
一瞬だけベランダから見た深淵の景色は心の臓を吸い込むほど暗く、恐ろしく映り。
「なにしてる。こっちだぞ」
バスルさんの呼びかけが無ければ暫くの間そこに立ち止まっていたかもしれないと思うほど僕の中の何かを惹き付けた。
「……ナルーカは、姉を千里眼にするのが夢だと言ってた」
「ミールレッドさんを?」
「ああ。仲の良い姉妹だったからな。助けてもらった分恩が返したいと言ってたよ」
バスルさんの家に比べ薄暗さの増している二階を進みながら話し始めたのは彼の相棒だったナルーカさんの所謂身の上話だった。
「つってもその頃は千里眼なんて言葉は無かった。[深淵を払う瞳]……。お前も聞いた事くらいあるだろ」
「はい。今でもよく耳にします」
深淵を払う瞳ーー。
世界が闇に覆われてから暫くした頃、瞳と呼ばれる探検組織が発足した。当初は合言葉として使われていたそれはやがて一種の才能のように扱われ始め、いつしか深淵を本当の意味で払う救世主としての意味を持つようになった言葉だ。
今は称号と化したその言葉は訪れる救世主の為にそこかしこで噂されている。
「この世から深淵を払う存在の、いわば真なる瞳だ。あいつは姉をそれにしたがってた。勿論アテが無かったわけじゃねぇ。さっきお前が話してたワールドのクラスの異物…マブツってのは丁度俺らの頃に噂され始めたんだよ」
「らしい、ですね。千里眼もその頃活躍した人が殆どで一人だけ世代が違います」
そして、バスルさんの言うようにワールドのクラスは約七十年ほど前から万物の書を皮切りに計四つ見つかっている。
それら全ては世界を変えてしまうほどの力を有し、他のマブツとは比較にならない効力を発揮する。
千里眼と一部の灼眼だけが携帯を許されている、深淵に置いては老化を否定し異形化さえも拒む[死を拒む時計(スロウリィ・ワールド)]が特に分かりやすい。
「そうかい。なら、ナルスの辺りが見つけたりしたのか?」
「え、ええ。まさしくその人が最初にワールドのクラスを見つけました」
「っは。野郎ちゃっかりしてやがったからな。じゃあ弟子のハフルハット辺りもか。口が達者でどうもいけすかねぇ奴だったが実力は本物だ。おかしくはなさそうだ」
何かヒントを出したわけでもないのにワールドのクラスを見つけた二人を連続して言い当てるバスルさん。
佇まいや経歴からしてただ者ではないと感じていたけど、まさかあの二人と知り合いだなんて思いもしなかった。
「はい。他にはナルーカさんの姉のミールレッドさんと、その五十年後にワールドのクラスを見つけたアンワルトさんがいます」
「なに!?」
残りの二人の名を上げた途端、バスルさんは僕の方を振り向き両肩を強く掴んできた。
「どうやって見つけたんだ!」
「ど、どうって言われても、目付きが変るくらい恐ろしいところで回収してきたって事しか……」
「……そうかい」
背筋が凍りだす痛みに耐えながら答え、バスルさんは少しだけイラつきを交えた声と共に傍から離れる。
捕まれていた方が恐ろしく痛い。恐らく、彼の指の形で内出血するのは確実だろう。
ーー……当たり前だけど、よっぽど気になったんだな。ミールレッドさんがどうやって千里眼になったのかが。
彼が多少以上に力むのも当然だろう。
相棒だったナルーカさんの夢が知らない所で叶っていたんだ。聞き逃せるはずがない。
「……なれたんだな、あいつは」
僕が痛みで顔を歪めている中、一階へと続く階段の前で下を見つめながらバスルさんはそう言った。
見下ろす目に強い悲しみを帯びさせて。
自分がしていた想像なんて遥かに超える悲痛を教えるほどに青く、深く。
「……無駄話が過ぎたか。全部話す前に到着だ。下に行ってもお前は覗き込むだけにしておけ」
「……はい」
一瞬のうち、バスルさんが目に帯びていた青さが消える。
一歩踏み込むだけで軋む音を立てる木製の階段を降りながら告げられたのは有無を言わせぬ警告。
ついさっきまでの感情は一切入っていない。それだけでこの先に尋常じゃない何かが待っていると分かった。
「何が、いるんですか?」
「異形だよ」
「…………え?」
降りる階段の中程でこの先に待っている何かを尋ね唖然とする。
異形が……なんだって?
「何だ、もう忘れたのか?ちょっと前に言っただろ。ここがその家畜小屋だよ」
「な……」
……言っていた。確かに彼は『二階建ての家畜小屋』があると話していた。
でも、それがここだとは思いもしなかった。
そんな場所で僕に何を見せるって言うんだ…?
「つっても、ここに誰か連れてくるのは初めてだからな。何があるかわかんねぇが、自分の身は自分で守れよ」
「も、勿論です。これでも瞳ですから」
「よく言った」
かなり衝撃的な発言があった事はさておき、とうとう一階に到着した。
ーー成る程。確かに妙な音が聞こえる。
完全に崩壊した部屋の扉の壁に忍者さながら身を寄せ、不安が残るまま中を覗き込む。
「よぉ。今日は二度目の稽古だ。まだバテてねぇよな?」
途端、僕の目の前には壁があった。
いや、それは壁じゃない。黒いマントを翻しながら部屋に飛び込み仁王立ちに立ったバスルさんだ。
「いつも通り、殺す気でかかってこい」
そして正面にいるのだろう異形に向けて言い放つ。
その、瞬間だった。
全身をぶち抜かれたと勘違いするほどの突風が僕を襲う。
耳に鈍く響く床の軋む音と鉄同士がぶつかり合ったかのような金切り音が破裂する。
それは爆薬の破裂音のように全身をつんざき、僕に信号が駆け巡る。
『逃げろ』と。『ここは危険だ』と。
「どうしたぁ!久々の連チャンはキツイか!あぁ!?」
突風の原因は異形の振り下ろした尋常ではない太さと大きさの腕のせいだ。
バスルさん同様気体とも個体つかない蟠る闇が彼を押し殺そうと強く、刹那の火を幾つも飛ばしながら強く鍔ぜっている。
そう、鍔ぜっている。
「いつも言ってんだろ!俺の腕は特注の剣だ!そんなもんじゃ押し切るどころか刃欠けすらできねぇよ!」
刃を剝き出しに食いしばりながらも啖呵を切り続ける彼の手には身の丈を大きく超える大剣が握られている。
そしてその大剣が握られているのではなく、生えているのだとーー正確には形作られているのだと、気が付くのにそう時間は掛からなかった。
「そらッ!はじき返されたらどうする!?」
言うが速いか。およそ人の力では押し返せないだろう異形の大腕を漆黒の大剣が押し返す。
弾けるような金属音が響く。かと思えば、一瞬の音の明滅は刹那の内に爆竹を彷彿とさせる激しい打ち合いに挿げ変っていく。
「オラオラどうした!そんだけでけぇ図体になったくせにこんなもんか!?そんなんでねーちゃんの助けになれると思ってんのか!?」
薄暗い室内に鉄同士の打ち合いのような、鼓膜を破壊しようとする音が絶え間なく響き、火花が飛び散っては消えていく。
ーーまともじゃない。これが異形の力を持った者の戦い方なのか……?
打ち合いの刹那は一秒の間に何度も訪れる。それを視て、僕は数えるのも嫌になるくらい自分がそこに居る時を想い、同じ数だけ死ぬ姿を想像している。
この深淵の中でもしも目の前の異形のように巨大な異形に出会った時の事を想定して。
ーーこれが、これが彼の見せたかったモノ……?
当然僕にはこんな強さを持った異形には逆立ちしたって勝てはしない。
そんな己の無力さを教えたくて僕をここに呼んだんだろうか。だとすればその効果は十二分なほどにある。
だって、あまりの恐ろしさに立っていられない。
そもそもが臆病者な僕にとってこんな常軌を逸した戦いは恐怖以外の何物にも映らない。出来る事なら今すぐにでも逃げ出したいくらいだ。
ーー……でも、それだけじゃ僕は諦めたくない。師として、レンスの夢を支えたいと願う気持ちは変わらない。
だから多分違うんだ。
バスルさんが僕に見せたいのは、こんな瞬間的な恐怖じゃない。
永続的で根幹に響くような恐怖や諦め、或いは絶望。そうでもなければ人が腹に決めた志は砕けない。
それがもしもこの場にあるとすれば……。あると、すれば……
「オラァ!!ケツ回り込まれたらどうするんだ!?おとなしく蹴り上げられるわけじゃねぇよなぁ!!」
幾度となく死を押し付け合う打ち合いを繰り返していたバスルさんは一瞬の隙を突いて異形の後ろに回り込む。
だから、顔が見えた。
間髪入れずに背後のバスルさんに振り向きなら飛び退く異形。
……いや、僕はもう彼女を異形と呼びたくない。……呼べはしない。
ーー考えてみればこんなのは必然だ。謎にすらなっちゃいない。
人間の頃の面影の無い何者かだった者の顔。紅い触手の髪をかき分けるようなしぐさで見えた顔は人姿かたちに違わず人ではないけれど。
人の顔の形の上で開かれた目はバツ印を模していて、瞼にあたるモノはギザギザの歯がサメのようにびっしりと生えている。
身体は大柄な熊を想起させ、バスルさんの腕のように全身を闇の蟠りが形作っている姿。
そしてその身体の中央には大きな口が付いていて。けれどその表情は決して何かを襲おうと狂気に満ちているわけじゃない。
寧ろ、己が境遇を理解し、悲嘆を覚えながらも受け入れているかのような複雑な感情を示している。
「分かってんじゃねぇか!でもおせぇなぁ!周り込まれると思った瞬間に行動しなきゃ切られるか食われるかしておしまいだ!!」
言うや否やバスルさんは黒い大剣を肩越しに掲げて距離を一気に詰め、勢いのままに斜めに振り下ろす。
それを難なく彼女は受け止めた。
爆発にも似た鉄の音共々髪の毛らしき紅い触手を腕に巻き付けて。
「やっと本気出したか!?勿体ぶりやがって!ザコ助のくせによぉ!!」
ーー知っている。あの紅い髪を僕は知っている。
今までに何度か、僕は千里眼の姿を見た事がある。
深淵の全てが記された[万物の書]を見つけた最初の千里眼・千里を見渡す瞳のナルス。
罪を裁く絶対の天秤[偽りなき受け皿(ザ・ワールド・ジャッジメント)]を見つけたナルスの弟子・人誑しのハフルハット。
あらゆる物を完璧に複製する[溢れ続ける水]を見つけた展望を見つめし者・世間知らずのアンワルト。
そして、深淵に於いては事実上老化と異形化を克服するマブツ[死を拒む時計]を見つけた巨躯の少女・ミールレッド。
現状四人しか存在しない千里眼の彼らでも、死を拒む時計の所有が許されているこの四人でも、時には深淵の外に帰って来た。だから彼らを目にした事のある人は多く、僕も例に漏れていない。
そのうちの一人・ミールレッドは、名前の通り紅い髪を持っていた。
丁度、目の前の異形と同様に美しい紅い髪を。
そしてそれは彼が『相棒』と口にしていた名前とすんなり結びつく。
「……バスルさんの相棒で、ミールレッドの妹。彼女が、ナルーカさんだったんだ」
同時に。気が付いたのはバスルさんの見せたかったモノ。
「なっちゃうのかな、深淵に潜り続けていたら。レンスもナルーカさんのように」
彼女は、僕が知る中でも特に悲しい異形化を経てしまっている。
大半は人の形で闇が蟠り、顔のパーツなんかは薄っすらとしか見て取れないのっぺらぼうのようになる。
それ以外の所謂例外だとしても腕の形や全体のバランスが悪い程度で殆どは彼女のように化物と呼ばれてしまう姿になるケースはまるで少ない。
確率だけで言えば万分の一とかだろう。
……でも。
「いいぞ!やっと本調子だ!!ったく、身体冷やしやがって!俺達瞳はいつだって臨戦態勢だって教えたのによぉ!!」
事実として目の前に存在している。
人だった頃の名残を感じられる状態で求めてもいない奇跡によって異形になってしまったナルーカさんが確かにここにいる。
「……あんな、風に」
ーーバスルさんが見せたかったのはこれだ。僕に、ナルーカさんと同じ道をレンスに辿らせるつもりなのかと伝えたくて彼女を見せたんだ。
「僕は、間違っているんだろうか」
とっくに抜けていた腰に変わって肩が落ちる。
「異形化は可能性として考えていなかったわけじゃない。寧ろ一番危惧していたくらいだ」
その肩は、腕は、こんなにも重かったのかと思うほど僕の姿勢を崩し、頭から前のめりに倒れてしまう。
「でも、こんな風になるなんて考えもしなかった。確率がどうこうじゃない。考えないようにしていたんだ」
剣戟の音も、火花の散る音も、バスルさんの激しい声も息遣いも全てが遠い。
目の前には床しかない。
無惨に荒れた床しかない。
「……僕は、師にすらなれない」
なんて、なんて身勝手な人間なんだ僕は。
あれだけ彼女の気持ちが大事だとのたまっていたくせにいざ真実を見せつけられたら止めたくて仕方が無くなっている。
どんな夢を持っていても叶えるだけの才があると称していたのに、次にレンスの顔を見た時に言う言葉は背中を押す言葉じゃなくなっている。
『化物になる前に、違う夢を見つけて欲しい』。
そんな、利己的で浅はかで身勝手な反吐の出る言葉だ。
「そんな人間が師であっていいはずがない。身を案じるのと庇護しようとするのは全く違うのに、僕には見守ってあげるなんて出来ない……!」
鼓動が、鼓動だけが聞こえる。
今にも破裂しそうなくらい早鐘を打つ心臓の音だけが聞こえる。
焦りと、恐怖。その二つが巻き起こしている動悸だ。
ーー早く、早く深淵の外に帰らないと。一刻も早く深淵の外に……
「おい!聞こえてんのか!!おい!!」
鼓動の音ばかりが聞こえる中で、バスルさんの声が少しずつ頭に流れて来る。
「……なん」
「ッと返事したかこの野郎!!」
顔を上げて、絶句した。
「馬鹿が!ちったぁ周り見ろ!それでも瞳かよ!」
眼前にはバスルさんの背があった。
そして彼を挟んだ先には当然ナルーカさんがいる。
彼は、僕を庇うようにして大剣でナルーカさんの腕を受け止め、余儀なくされている後退を寸でのところで堪えている状態だった。
「だっ、大丈夫なんですか!?」
「知るか!つーかテメェ、そこどくなよ!!俺の気合が減って押し込まれちまうからなぁ!!」
「な……はぁ!?」
気迫を直に感じられる距離で飛ばされた檄に身震いが起きる。
この人は今、僕の命を支えに自分の命を保たせようとしている。
あまりにも、あまりにも恐ろしい立ち回りだ。自分が死ねば後ろにいる僕も漏れなく巻き添えだ。幾ら昨日今日出会った相手だからってそんな戦い方普通しない。
「俺のやり方がおっかねぇって顔してやがんな!あぁ!?」
「そりゃあそうですよ!僕の為にここに来たとはいえ巻き添えまでお願いした覚えは無いんですから!!」
「っは!そりゃあそうだ!けどなぁ、そうでもしなきゃこーいう時俺はやれねぇんだ!勘弁……しろよ!!」
言い終わると同時、大剣が大きく前方に弾ける。
鈍く重い音が床に突き立ち、それに見合った衝撃がナルーカさんの巨体を襲い、後退させている。
「俺ァこいつと違って死線を潜るセンスがねェからな。後に引けない状況を作んねぇときっちり命を張れねぇんだ。背水の陣って奴だな。無い無い尽くしで情けねぇったらねぇよ」
大剣を肩に乗せ、バスルさんはナルーカさんと見合う。
「だからな、俺は落とし前をつけなきゃなんねぇ」
一歩、ナルーカさんが大きく踏み込む。
対してバスルさんは剣先を地面すれすれまで下げて構えた。
「こいつがこうなっちまってから、俺はそれだけ考えて生きて来た」
一瞬の風が僕を襲う。
それが彼の踏み込みによるものだと分かったのは二人が剣を交えてからだ。
「なのにどうしても決心がつかなかったんだ。でもその理由はお前らが教えてくれた」
大砲の音を想う激突音が室内に響き渡る中で、バスルさんの言葉が妙にはっきりと聞こえる。
「俺は、まだこいつと一緒にいたかったんだ。人と異形じゃ無理だとしても、同じ異形同士ならってな。……勝手だったんだよ、要するに俺は」
……同時にその声は。
「悪かったなぁナルーカ。俺の弱さに付き合わせちまって」
酷く、酷く。上擦っていて。
「お前の言った通り俺はまだ人間だったらしい。意地張ったの、謝んねぇとな」
とても聞いていられなかった。
「……あん時のお前の願い、やっと叶えられるよ」
それまで鳴っていた鉄同士の擦れる音が一際大きくなったかと思うと一瞬のうちに止む。
そして。
「向こうに行ったら呪ってくれ」
似た一陣の風の後、何かが切れ、何かが噴き出す音が僕らの聴覚を奪った。
ーーーー
「……悪かったな。余計なモンまで見せちまった」
「そんなことありません。…僕も、自分と向き合えたと思いますから」
バスルさんに切られたナルーカさんは跡形もなく消えた。
異形は、元が何であれ最後は塵の一つも残らず消える。
それは最悪の奇跡に見舞われたナルーカさんも例外じゃなかった。
何も残さずに。紅い触手ごと跡形も無く。
けれど、一つだけ安らぎがあったとすれば。
「……気にしなくたっていいのによ」
闇色の靄と消えていく中であの口が、少しだけ弛んでいるように見えた。
ほんの数秒で何もかも全てが消え、バスルさんは大剣を元の腕に戻した後も少しの間何かに耽るようにそこに立っていた。
けれど。一度だけ俯くと踵を返し、僕に「帰るぞ」と言って階段を登り始めた。
何かを背負った顔をして。
「で、実際どうするんだ。散々色々言ったし実力行使に近い事もやったが、結局決めるのはお前らだ。上っ面で返事して実は考え変えてませんでしたってのは辞めろよ。あいつが最後に関わった問題だ。しっかり白黒つけて欲しい」
「それは……」
二階へ登りながら先を行くバスルさんの背を見つめて言葉が詰まる。
「……分かりません。正直僕としてはもう自分の考えに自信は持てないですけど、レンスがこれまでの話を聞いてどう思うかは断言できないです」
「……そうか」
「はい。勝手ですいません」
「気にすんな。最後に白黒つけてくれりゃそれでいい。どっちの道を進もうとそれはお前たちの自由だ」
「……ありがとう、ございます」
自動滑車の紐を握り、降りながら答える。
……そうとしか答えられなかった。身勝手な僕は、身勝手にも彼女に答えを託すしかなかった。
ーーそうだ。僕はもう自分に自信は持てない。でもレンスがそれでも夢を叶えたいと言うのならば僕は……。
「…ん?」
「どうかしたのか?」
下に降り切り紐を上に戻そうとした時、視界の端に何かが入った気がして後ろを振り向く。
「………あれは?」
「こっちから引くぞ?」
バスルさんの声を他所に何かを見たかもしれない辺りを注視する。
辺りはまばらに建った崩壊気味の家屋とアスファルトで舗装された地面のみ。草木のような自然物は見当たらず、人工的に作られた公園なんかが遠くには見えるんだけど……。
……いや、ちょっと待て。
「レンス!?」
「なに?」
そんなはずは無いと思い紐を放り投げて急いで駆け寄る。
けれど、寄れば寄るほど僕の見間違いの可能性は消えていってしまう。
「レンス!?何でここで倒れてるんだ!!レンス!!」
バスルさんの家とナルーカさんの家、その対角線から少し離れた位置でレンスはうつ伏せで倒れていた。
最低限の装備も身に付けてはいない。恐らくは僕らを探そうとして家を出て来たんだ。
でも、今はそんな事どうだっていい。どうだっていいんだ!!
「なんだよこれ、何で異形化が始まってるんだ!?」
見間違いなんかじゃない。仰向けにすればより明確に分かる。
ーーなんだよこれ……!これじゃまるで本当に……!
確認出来る手、覗き見えた首、表に出ている顔。
脱がせるまでも無く確認できた三か所の内、顔以外の全てが黒く闇に侵食されていた。
「おい!すぐに俺の家につれてこい!こいつぁ俺達が経験したのとおんなじだ!!」
「バスルさん!?レンスが、レンスが!」
「ごちゃごちゃうるせぇ!!運べ!!」
「は、はい!」
後から駆けつけて来たバスルさんに言われるがまま、レンスを抱え上げ、急いで駆け出す。
「吹きっ晒しよりはマシなはずだ!なんか薬とかねぇのか!?」
「無茶言わないで!あったら貴方に渡してるんだから!!」
鬼の形相をしたバスルさんの後に続いて家の中に入り、少しでも安静になるように彼女が寝ていた場所に寝かせる。
ーー呼吸が少し荒い?人じゃなくなるんだから当然なのか?それとも進行の段階で変わっていくものなのか!?
異形化の進行状態を確認するため急いで服を脱がせ、下着の状態にする。
そうして分かったのは仰向けで見えるレンスの身体の大部分が……恐らくは六割程度が既に異形と化している事だった。
「なん……!クソ!!開眼の期間は耐えられたのに!」
「落ち着け!ありゃあくまで一つの目安だろうが!開眼を耐えられたからって一生深淵に潜ってられるわけじゃねぇ!こいつはせいぜい二日が限界だった、それだけだろうが!」
「ぐっ……!そんな理屈!!」
着実に肉体が蟠る闇に変わっていく中でバスルさんの答えが僕の胸に突き刺さる。
ーー駄目だ、冷静になれ。レンスの持っていた抵抗力じゃ二日しか持たない、バスルさんの言う通りだ。だから異形化は有り得ない話じゃなかった。そうなんだろう。そうなんだろうけど!
記憶が、僕を襲う。
彼女が胸に抱いているだろう夢と、彼女そのものが行動で示してくれた深淵探索に対する興味と感心。
それらが一気に僕の中に流れ込んでくる。
ーー冗談じゃない!レンスの一生をこんなところで終わらせて堪るか!!
「バスルさん!貴方の時はどうでした!?貴方とナルーカさんで何か違う所とか!」
分からない。何も分からないけれど幸か不幸か目の前には異形化を見て、それどころか経験している人までいるんだ。止める手段は無くても、進行を遅らせる方法を聞けるかもしれない。
進行を遅らせられれば、その手段さえ分かれば町まで帰れるかもしれない。
「俺とあいつの時……?そう言えばあいつが異形化しきるのには時間がかかってたな」
探せ。
「どのくらい!?」
探すんだ!
「……十分かそのくらいだ」
可能性ならあるはずなんだ!!
「それじゃあ間に合わない!」
異形化を止める手段は一つだけ。八割以上が異形になる前に深淵の外に連れていく、ただ事だけ。
最短で一か月だぞ。ナルーカさんの症例じゃ十分しかないのに町まで行くのなんて間に合う訳が無い!
他には何かないか……!
「バスルさんはどうでした!?」
「俺は、俺は……。俺はあいつに比べて異常に進行が遅かった。眼が腐り落ちちまったのも異形化が始まったのが分かってからかなり時間がかかった。下手すれば年単位だったかも知れない。最初は指先だったがそれも驚くほど変化が遅くて拍子抜けしたくらいだった」
「それです!!」
確かに異形化の進行速度には個人差がある。それが事実なのは今の話でより強い裏付けが取れた。
個人差は机上の空論やまとめた結果を平均化した統計的側面から見たモノじゃない、事実なんだ。
問題は何が原因で個人差が出るのか。
単なる個人差で年単位の差が出るとはとても思えない。
「なんでだ?なんでナルーカさんはすぐだったのにバスルさんは全身の一割にも満たない範囲が異形化するのに長期間かかったんだ?」
元の抵抗力は関係ない。一年近く活動できる瞳でも一瞬で異形化する事もあれば、一時間しか耐えられない瞳が半日近く経っても異形に成り切らなかった事だって沢山ある話だ。
性別が原因じゃない。一分で変わった男の人が居れば、一週間近くかかっても変わらなかった女の人もいる。年齢だってその例に漏れてない。
場所がどうって言うのも考え難い。バスルさんとナルーカさんは一緒に行動していたはずだし、どちらかの異形化が始ったから一時的にこの家かあっちの家に留まったんだ。だからナルーカさんが異形化しきったにも関わらず家の中に留めて置く事が可能だった。
ーー違いは、違いはなんだ……!?
必ずあるはずだ。ナルーカさんとバスルさんで違う理由が。
「……おい、カルルカン」
「なんです!?」
「こいつ、見てみろ」
切迫する中で呼びかけられ苛立ちと共に彼の視線が示す先に向く。
そこに居るのはレンスだ。
「レンスが、レンスがどうかしたんですか?」
「よく見てみろ。何か妙じゃないか?」
「妙?…呼吸が戻り始めた事とか?」
言われて呼吸が戻り始めている事に気が付く。
呼吸が落ち着いたのは服を脱がせて圧迫感を少しでも取り除いたから?もしそれが異形化と関連性があるとすれば個人差を分けるのは……。
いや、レンスの服装は一般的に瞳が着る探索服だ。多少好みに変えていたとしても大きく逸脱はしてないし、バスルさんとナルーカさんの時だって僕らの服とは違くても二人の服は殆ど同じでそこまで違いはないはずだ。
「それもあるが、手だよ」
「……手?」
否定を示す思考を放棄して視線をバスルさんの刺した指先に向け、気が付いた。
「進行が……遅い?いや、これは……」
「止まってるように見えないか?」
異形化がピタリと止まっていた事に。
「と、止まってる!?じゃあ本当に服が……!?」
「いいや多分違う。あいつが異形化した時、すぐ近くにあった二階建ての方に連れてって服を脱がせたが進行は止まらなかった」
「じゃあ何が!!」
そりゃあそうだ。そもそも異形化が起きた際に上着を脱がせるのは進行度合いを見るために行う初歩中の初歩。そこが違いになるわけも無い。
けど、異形化が完全に停止するなんて聞いた事だって無い。
深淵に魅入られ、異形化が辿る道は二つに一つ。進行か後退か。悪化か改善かの二択しかないはずだ。
何故なら深淵の中での異形化は薪をくべられ続ける焚火で、深淵の外に出るのはその火に水を永続的にかけ続ける行為と同等だから。
勿論手遅れか否かの違いはある。でもそれだけだ。例外なんて……。
「例外……なんて」
「……どうした?」
思い出した。
いいや違う。知っていた。
「分かった、分かりました」
「何がだ?何が分かったんだよ」
「バスルさん!その手はなんにでも変身出来ますか!?」
「ど、どういう事だ?」
「できますか!!」
「ま、まぁ、左手は大体の物に変えられっけど」
「ならシャベルです!!」
なんて馬鹿なんだ僕は。こんな大事な事にも気が付かないなんて。
「……出来たぞ。少し大きめにしといた方が良かったか?」
あったじゃないか。それまで不可能だった事を可能にする革新的で廃退的の権化のような物が。
なんならすでに見つかっているじゃないか!類似品が!!
「完璧です!そしたら直ぐにレンスの下を掘ってください!」
「ほ……!?木の板だぞここ!シャベルじゃきつくないか!?」
「なら大剣で割ればいいでしょ!とにかく早く!!」
「あーもう分かったよ!!ならさっさとそいつどかせ!!」
言われるがままにレンスを抱きかかえ、バスルさんから大きく距離を取る。
「ちゃんとそいつ護れよ!お上品に何かできねぇんだからな薪割りは!!」
「分かってます!いつでもどうぞ!!」
下着姿のレンスを庇うように僕の身体で覆い、来るだろう衝撃に備えて全身に力を籠める。
「行くぞ!……オラァッ!!」
掛け声が聞こえたかと思うと次の瞬間には爆発音とも聞きまごう破壊的な大音が家屋を揺らす。
「なんて馬鹿力だ……!これじゃ下にあるかもしれないのまで壊しかねないぞ!!」
飛んでくる木片で背中や後頭部が痛い。
けど、薄眼で見えたレンスの身体には何も当たっていないようだ。
代わりに分かったのは異形化が緩やかに進行している様子だけ。
ーー……本当なら由々しき事態だけど。
でも、今だけは違う。
希望的憶測が、完膚無き確信に変わった証拠だ。
「おい!カルルカン!!」
「はい!!」
一通りの木片の雨が止み、埃ばかりが舞うようになった室内にバスルさんの驚愕する声が届く。
「お前、コイツがあるって目星がついてたのか……?」
「賭けに近い憶測でしたけどね……。底にあって本当に良かった」
逸る気持ちを抑え、レンスが苦しくならないようにゆっくり歩いてバスルさんの元へと向かう。
その間に彼は両手を元に戻し、場所を空けるように一歩後ろに下がった。
粉砕された床。その下の土の地面には大きな窪みがある。
「お前らと違って万物の書の中は拝見出来ちゃいないが、俺にも分かる。こいつぁ最上特級の異物だ」
窪みの中で土を被っているのは少し大きめの砂時計。
それを僕は知っている。
「……『振っても、逆さにしても、決して落ちない砂の時計。それは闇の満ちた深淵でのみ意味を成す。運命は停止し、非ざる時の中で人の理を保つだろう』。……万物の書にはそう記されていました」
「…どういう事だ?」
砂時計を拾い上げ、レンスの傍に近づける。
すると思った通り異形化の進行は止まった。驚くほどぴったりと。
「分かりません。でも、既に見つかっている[死を拒む時計]にはこう記されていました。『運命は常に懐にある。生も死も、人の理も獣の理も。全ては運命の行軍だ。けれど時計は。その針は。運命の足止めを知っている』」
「……一致している部分があるな」
「はい。だから分かったんです。この砂時計は……[果てぬ時計(ワールド・ロスト)]は、異形化を完全に停止させるワールドのクラスを持つマブツです」
バスルさんの気が付いた通り、同じ時計の名を持つ者同士だからなのかこの二つには類似の文言があった。
そしてその二つから出来る憶測は異形化の停止だ。
「運命は死。人の理は人間か否かを表していて、獣の理は恐らく異形化を指しています」
「ならそのうちの二つと似てるこいつは……」
「……書き方的に多分、異形化の完全な否定を示唆しています」
「………の割には浮かない顔してるな、カルルカン。……何かあるのか?」
「……はい。一つだけ」
バスルさんの声が遠くで聞こえる気がする。
傍にいるのは分かってるんだ。でも、これから自分がしようとする事を考えるとどうしても意識が遠のきそうになる。
……けど、もう決めたんだ。彼女を救うためならなんだって背負う。
それが師にすらなれなかった僕の唯一出来る覚悟だ。
それが、心底から身勝手な行為だと分かっていても。
才があり、それを愛しているレンスの生をここで終わらせるわけにはいかない。
異形化という最悪で終わらせたくない。
「…このマブツは、他のマブツと違ってもう一行説明が書かれていたんです」
彼の言葉から意識を切り離すようにレンスに近づけていた果てぬ時計が一人でに震えだす。
徐々に震えが増す果てぬ時計を握りしめて動きを抑えようとしても、けれど尋常じゃない力で拳がこじ開けられてしまう。
「もう一行?なんて書いてあったんだ」
「……これしかなかった。こうするしかレンスを異形化から救えなかった」
小刻みに震えながら宙に浮く果てぬ時計は、にも関わらず中の砂に動きは無い。
やがてそれはレンスの胸部上空に来たかと思うと震えの一切が止まった。
「……何で浮いてるんだ、それ」
「『されど世界と交わりし人は最早人に非ず。闇の世の永遠を知る者は拭えぬ闇を纏う者ーー故に深淵である』」
レンスの胸部上空で止まった果てぬ時計は数秒の後、目の前から消える。
いや、正確には消えたわけじゃない。転移したんだ。
深淵渡りのように、移動する事無く距離を一瞬で。レンスの胸の真上に。
「………大丈夫だ。君から離れる事は絶対にないよ。レンス、僕は意地でも君の隣にいてみせる」
やがてレンスの地肌に触れた果てぬ時計は、彼女の胸の中に吸い込まれるように、埋め込まれるように胸内に消え。
レンスと一体化した。
……そこで僕の意識は途絶えた。
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「よう、起きたか」
……目が覚めた時、私の傍の壁際にバスルンが座っていた。
「起きるなら静かにだ。隣で寝てる奴がいる」
全身くまなく痛い身体を何とか起こしてバスルンの視線の先を見る。
そこには確かに横になってる師匠がいた。
何だろう、凄く顔色が悪く見える。
「……どうしたもんか迷ってたんだがな」
何か言い辛い事があるのかバスルンは視線を逸らした後、私に何かを放り投げる。
「どうせいつかは向き合う事だ。なら早い方がいい。……腹が決まる」
布の被った太腿の上にポスンと落ちたのは私の手鏡。
マブツでも何でもない普通のだけど、昔からずっと使っていた思い入れのある手鏡。
だから何ってわけじゃない。警戒なんてなくて、そうするのが普通のように、自分を映してみた。
なのにそこには……私はいなかった。
「な、何……これ?バスルン、ねぇ……?」
「…落ち着け。お前を助けた時の副作用だ。異形化したりなんかしねぇよ」
握っていた手鏡が太腿の上に落ちるのが分かる。
嫌な事に鏡側が上で落ちている。それを視なければいいのに、思わず見下ろしてしまった。
「身体も……?身体も変だよこれ?人なのに、人じゃないみたい」
「大丈夫だ。お前は人だ。姿形はちっとも変ってねぇだろ?だから落ち着け」
「どこが!?」
息が、息が入ってくるだけで出て行かない。肺が少しずつ苦しくなる。
どうしよう、どうしよう。吐き方が分からない。息の吐き方が分からない。
吐こうとしても、吐こうとしても吐こうとしても吐こうとしてもせき止められたみたいに息が出て行かない。なんで?吸うのは簡単なのに吐くのは全然できない。
苦しい、苦しい、苦しい。このままじゃ、私、私……!
「おい、こっちを向けレンス」
「……!!」
目の前にバスルンの顔がある。
さっきまで見ていたはずの鏡は無くて、私じゃない私もいない。
「焦るな。深く息を吸ってゆっくり吐け。つっかえる感じがあるかもしれないが大丈夫だ。人は呼吸が出来るように作られてる」
何も分からないまま言われた通りに呼吸をする。
深く吸って、ゆっくり吐いて……。
肺の中に新鮮な空気が入ってくるのが分かる。
「う……、ふ…ぅぅ……」
「そうだ、それでいい。もう二回ぐらい繰り返せ。そうすりゃ安心だ」
「は…い……」
肺の根っこを掴まれるような違和感に耐えてもう一度同じ事をする。
肺を満たす空気を吐こうとすると抵抗感が生まれる。でもそれを優しく下から押し出すようにすれば……。
「……はぁ、はぁ…。ありが、とう」
何とか元通りの呼吸が出来るようになった。
「……決まりだな、どうも」
「決ま……り?」
少しずつはっきりしていく頭の中でバスルンの言っている意味を考えてみてもまるで分らない。
ーー私が今分かるのは……。
「うっ…!」
思い出してしまった[鏡に映った自分の姿]に呼吸がまた苦しくなる。
「すぅー……はぁーー……」
同じ目に合う前に。
バスルンが教えてくれた方法で呼吸を整えられたから何とかなったけど、こんなの全部分かってる上で冷静じゃないと対処なんかできない。
「お前の師匠も似た症状になってたよ。お前がそんな風になったのを見た瞬間にな」
「……え?」
バスルンの言葉に耳を疑う。
少し離れた位置で横になってる師匠も私と同じように?
私を見て息が出来なくなって倒れた……?
「なんで私を見て?」
訳が分からなくて視線を落として。
落ちてる手鏡を見て気が付く。
ーー……私の顔と身体のせいだ。
「ねぇ、バスルン。……私の身体、どうなっちゃったの………?」
悪くなる気分を押し留めて鏡に映った自分を思い出す。
ただ思い出すだけなのに私の呼吸をこんなにも苦しませる自分じゃない自分を思い出す。
私の顔と身体に浮き出てるおかしな紋様に溢れた私を。
「……異形化しかけてるお前を外で見つけたカルルカンはこの家の床下に隠れてた異物……マブツを見つけた。それの特性を使ってお前を助けたんだ」
私の質問にバスルンは一瞬考えたように左目を瞑ると、どこか言葉を選びながら教えてくれる。
「でも、さっき副作用がどうの、って……」
「詳しくはわからねぇ。俺は万物の書を読んじゃいねぇからな。けど、何かしらの副作用が出るのをあいつは知ってたみたいだ」
「………そんな」
師匠が、こうなるのを分かってて私に使ったって事?
こんな、意味の分からない状態になる事を知ってて?
「言っとくが副作用があるのは知っててもどうなるかまでは知らなかったっぽいぞ。なにせ対策の一つもしてないからぶっ倒れたわけだしな」
「そんなの……言われたからって」
そうだ。どんな理由があったとしても私がこうなったのは、師匠の……。
「間違えるなよ。結果こそ最善じゃなかったがあのまま放っておけばお前は間違いなく異形になってた。深淵の外に向けて歩き出す間もなくな。あの時の最善は間違いなくマブツを使う事だ」
「そんなの、そんな事……」
言われなくたって分かってる。
意識を失う前、私は師匠達が何処にいるのかを探すために外に出た。でも少ししたら急に身体が思い通りに動かなくなって。
少しずつ襲ってくる頭の片隅が黒くなっていく感覚で『これが異形化なんだ』って分かった。そう思っているうちに意識が無くなっていった。
そんな風になって次に意識が戻ったら今度はこんな訳の分からない紋様があって。
だから異形化から助けてくれるために何かしたからこうなったんだって分かってる。
だけど、だけど。
「ホントになんなの、この、紋様……」
「……その紋様はな」
恨み言みたいに出て来た言葉。
それをバスルンは知っていたみたいで話し始めてくれた。
「幾何学的紋様っつってな。滅びる前の世界じゃ宗教的意味合いも持ってた紋様だ」
『しゅうきょう』?聞き覚えの無い単語だけど、何だろう?
「まぁ知らねぇのも無理はねぇ。なにせあの狭い外の世界でだからな。俺の時にもとっくに廃れちまってたし尚更だ。……ま、簡単に言や死ぬまでずっと神頼みする集まりの事言うんだ。良くも悪くもな」
顔に出ていたのか、疑問に思っていたしゅうきょうについてバスルンは教えてくれたけどいまいちピンとこない。
神頼みって、何もないところに対してお願いする事だし、そもそもお願いする時は多くても二、三人。それだって別々の事お願いしてたりするんだし、集まってバラバラの事お願いして何の意味があるんだろう?
「それが、私に関係あるの…?」
「分からねぇが多分関係ねぇな。そういう所にも使われてたってだけだ」
「……?」
自分から言い出した事なのに関係ないと言うバスルン。
言いたい事が掴めなくて混乱しそうになる。
「だから問題はそっちじゃねぇ。重要なのは紋様そのものだ」
でも、その後にしてくれた話はなんとなく理解できた。
私はもう、人じゃないんだって事が分かってしまった。
「人間ってのは二種類の恐怖に支配されてる生き物でな。一つは見える物。もう一つは見えないモノだ。前者は分かりやすいが後者はどうもよくねぇ。さっきのお前やカルルカンみたいに呼吸機能に支障を起こしたりする」
「……それって」
考える間もなく師匠の方に視線がいく。
薄っすらと顔色の悪いまま眠っている師匠に思考が奪われる。
ーー私が……師匠をあんな風にした?
「あくまで俺の予想だけどな。お前のその紋様、人が見ると息が出来なくなるほど恐ろしく感じる何かだ。……そういう意味で言やお前はまだ人間なんだろうな。俺と違ってしっかり恐怖に苛まれてた」
「ば、バスルンは違かったの?」
「俺も怖えと感じるがぶっ倒れるほどじゃねぇ。よくある怖気ってやつだ。場数踏んでりゃ耐えられる」
「そう、なんだ」
「あくまでも憶測だ」って言ってバスルンは話すのをやめたけど、多分それは正しいんだと思う。
私の身体中に浮かび上がっている紋様は人が見ると呼吸が出来なくなるほどの恐怖を植え付けて、師匠のように倒れるまで追い詰めてしまう。
……私はそういう怪物になってしまったんだ。
自分で自分を見る事すら許されない恐ろしい怪物に。半分異形のバスルンですら怖気づいてしまう怪物に。
じゃあ私は……私は……。
「……どこ行くんだ」
「外の空気を吸いにちょっと」
軋む関節から走る痛みを無視して立ち上がる。
真っ直ぐは歩けそうにないけど、身体を動かすのは何とかなりそうだし、きっと平気。
一歩、一歩。足を踏み出して確認する。
……うん、前と同じように歩けるし、ちゃんと人間だ。
……人間、なんだ。
「…バスルンもこんな気持ちだったの?」
「……さぁな。俺はずっと自分が異形だと思ってたからな。人は所詮人なんだと思ってたよ」
「そうなんだ」
また、バスルンの言ってる事が分かる。
人は所詮人……。姿形、あり方が変ってしまったとしても思考がある限り人は人。それまでの習慣や考え方は変わらない。
「……そうなれれば良かったな」
私もバスルンみたいに割り切って考えられる人にだったら良かったのに。
でもそんなの無理。
私は変わらないまま人じゃなくなったんだ。
バスルンみたいに見た目は人間だけど、バスルンとは違って誰も傍に来られない存在に。
「んな必要ねぇだろ。そこにお前を人間だと思ってくれる奴がいるんだから」
それまで壁に寄りかかっていたバスルンは私を止めるような言い方で話しかけてくる。
……でも、もう駄目。
「……無理だよ。だって私、なんにもしてないのに人を殺しちゃうもん」
そういう怪物になってしまったから。
「いつか……ううん、目が覚めれば今すぐにだって。きっと師匠を殺しちゃう」
もう、師匠の隣にいられないから。
「………まだ誰も殺しちゃいねぇだろ」
「今だけだよ、そんなの。殺しちゃう事くらい分かるよ。自分で自分の姿も見られないんだから」
「そいつぁ……」
口籠るバスルン。
どんな説得をされたって私には分かる。
この姿は人に闇を見せる姿なんだ。
呼吸も、意識も、最後には命さえも吸い取ってしまう闇なんだ。
そんな姿じゃ一緒に居られない。
師匠の隣になんていられない。
「…そんなにカルルカンが気がかりなのか?」
「…うん。だって、私の師匠だもん」
答えて、歩き出す。
これ以上ここにはいられない。
師匠が起きた時にまた私を見たら今度こそどうなるか分からない。
そうなる前に、……そうなる前に。
「…なら、最後に聞かせてくれよ」
「……?」
「お前の夢だよ。こいつが目を覚ました時の置手紙くらい必要だろ」
「置き、手紙?」
「ああ。ずっと気にしてたんだよこいつは。お前の夢を叶えてやりたいってな」
「……夢?」
視線が上を向く。
見ようと思って見たわけじゃない。ただ、身体が勝手にそう動いた。
涙が出るのも、同じ理由だと思う。
「夢、かぁ」
私はいつの頃からか深淵が好きになってた。
私達を助けてくれるマブツが見つかる深淵に心が惹かれてた。
もっと沢山の事が知りたくて、その為には瞳になるのが一番手っ取り早くて、だから瞳の学校に行っていっぱい学んだ。
別に志なんてなかった。だから人の遺志がどうのっていうのは苦手だった。
私の好きが侵されていくみたいで本当に嫌だった。
瞳とは切っても切れない関係の遺志はいつまでも私の好きを蝕もうとして来たけど、そんなモノの為に好きな事は諦めたくなくて、堪えながら勉強して。
そうしたらいつの間にか卒業出来るようになってて、瞳としてなんてどうでもよくて早く深淵の中に入りたくて。
それで深淵探索していたら師匠に出会った。
初めて会った時の事は師匠は多分覚えてない。
新米の瞳が深淵探索をする時の付き添いの一人でいただけの師匠は、私が目一杯探したはずの場所から幾つもマブツを見つけた。
凄いと思った。
夢中で探していたからって見落とすわけない物を師匠は簡単に見つけてた。
だから気になって調べて、それで分かった。
師匠は、マブツを見つける天才なんだって。
誰も師匠の事を瞳として全然褒めてなかったけど、でも、その事だけはみんな素直に感心してた。
発見力。
師匠にはそれがあるんだって。
だから、弟子になってそれが知りたかった。
それさえ知れれば私はもっと沢山深淵の事を知れると思って。マブツを見つけられると思って。
だから、だから私は……。
「師匠に、なりたかったのかなぁ」
師匠の発見力が欲しかったんだ。
師匠のようになれれば深淵の世界をもっと見渡せると思って。
「だけど、もう駄目なんだよね」
そう、駄目なんだ。
これ以上師匠と一緒に居たらきっと殺してしまうから。
私の憧れた人が、この世からいなくなってしまうから。
「私にはもう無理だけど、でも……」
そう言ってふと気が付いた。
私は今、誰かに後を継いで欲しいなと考えている事に。
こんなに嫌っている遺志を自分から願っている事に。
ーー最後まで私を苦しめる。
嫌だ。誰かが師匠のようになるなんて。
私じゃない誰かが師匠のように優れた発見力を持つようになるなんて。師匠の発見力を引き継ぐなんて。
その役は私がよかった。
他の誰かじゃない、私がよかった。
……でも。
「私はもう、駄目なんだよね……?」
私と同じ気持ちの誰かに、譲るしかないんだ。
そんなの……。なんで…。
死にたくなるくらい、悔しい……!
「だから、師匠にはもう会えないんだ」
「……会えない、ね」
「うん。……会えない」
そう。もう会えないんだ。
悔しくっても、辛くっても、もう師匠には会えない。
「……じゃあね、バスルン。置手紙も置いてったし、もういいよね?」
「……ああ。俺から言う事はもうねぇ」
師匠の方に振り向いて。
……眠ってるのが分かって。
少しだけしていた期待がキュって締め付けられる。
「………師匠の事、お願いね」
それがきっと最後のお別れだと思うともっと苦しくなったけど、バスルンの事を少しだけ見て……家を、出た。
ーーーー
……天井が見える。
「……僕は………?」
自分の背中に広がる弾力のある硬さ……。
これは、木だろうか?
さっきまで自分がいたところにある木は端材と床だけ。
だとすれば僕は寝ている事になる。
「……?」
「おい、無理して起きようとするなよ」
横になっているのだと理解した僕は身体を起こそうとするがどうにも上手く動かない。
それどころか全身の関節が軋んでいて痛みに顔を顰めてしまう。
「バスルさん、僕は……?」
起き上るのを諦め、何とか動く首で声の聞こえた方を見る。
そこには腕を組んで壁に寄りかかっているバスルさんがいる。
ずっと前から起きている様子だし僕の状態を何か知っているかもしれない。
「……レンスを助けた瞬間から気ぃ失ってた。受け身も何にもなく後ろにぶっ倒れたから身体はいてぇだろうな」
「ぶっ倒れた、って……」
バスルさんの話を聞いて少しずつ倒れる前の事が思い出されていく。
僕は確かに、レンスの異形化を止める為に果てぬ時計の特性を利用した。
恐らくは同系の死を拒む時計のように所持しているだけで特性を発揮する物なのか、他のマブツの一種のように同化や寄生するタイプの物なのかは分からなかった。けれど賭けてでも使わなければレンスの人としての命はあそこで終わりだった。
同化や寄生タイプだった場合何かしらの副作用は出る。部位の変容や身体能力の変動が一般的だけど特性そのものが規格外のワールドのクラスじゃそんな一般例、憶測の材料にすらならない。
予想もできない何かが起きる。それだけは……いいや、それしか分からなかった。
そんなレンスにばかり負担を掛ける代物かもしれないと分かっていたのに、本来ならするべきじゃない一縷の望みに賭けて僕は彼女に果てぬ時計を使った。
それで……僕が最後に視たのは……。
「……同化する、レンス?」
そうだ。レンスは確かに果てぬ時計と同化していた。
同化して、見る見るうちに異形化していた部分が元に戻っていった。だから、当初の目的は成功したんだ。
したはず、なんだ……。
なのに、次に思い出せたのは。
「……はぁ、はぁっ…!」
「深く息を吸え。過呼吸で死ぬぞ」
「わ、分かって……ます……!」
紋様だ。
幾何学的な紋様が幾つもレンスの身体に重なって、肌に定着していた。
それだ。それを視た途端僕は意識が……
「…つまり、僕は呼吸不全で倒れた?」
「ああ。その通りだ」
「じゃあ、それが果てぬ時計を使った時の副作用だっていうのか?」
「多分な。それで半分だ」
「半、分…?」
幾何学紋様の存在は事実なのは裏付けが取れた。けれどそれで半分?
他にも何か副作用が……?
「まさか!」
「……そのまさかだ。あの紋様は人に恐怖を見せつける」
「!!!」
ギシギシ五月蠅い関節を総動員して身を起こし、室内を急いで見回す。
けれどそこにレンスはいない。荷物はあるのに、どこにもいない……!
「冗談じゃない!!あの子にそれを言ったのか!!」
「言った」
「貴方は!!」
こんな事、今するべきじゃないのは重々承知だ。何の解決にもならない。
それでも、僕の身体は突き動かされるままにバスルさんの胸ぐらを掴み上げた。
「何で!止めなかった!!そんな事を言ったら出て行ってしまうに決まってるだろ!!」
「俺の問題じゃないからな。テメェのはテメェでどうにかする。違うか?」
「だとしても!!するべき事があるでしょ!!」
怒りのままに彼の胸ぐらに力を籠めるがまるでびくともしない。それどころか『当然だ』とでも言わんばかりの彼の表情を眉一つも変えさせられない。
当たり前だ。非力な僕じゃ彼のように大きくて強い人を後悔させる事なんて叶わない。
「………クソッ!!」
押し飛ばすようにして手を放して、それでもまるでバスルさんは不動。
……どこまでも僕は愚かだ。
「……すいませんでした。あたらせてもらって、助かります」
「…いい。俺が引き留めなかったのは事実だ」
情けない。
こんな、何の意味も無い事だっていうのに、衝動のまま動いて少し落ち着いてしまっている自分が情けない。
さっさと探しに行かなければいけないのに、どこに行ったのかを聞くより先に恨み言をぶつけている自分が情けない。
バスルさんがレンスに全てを伝えたのだって後を考えれば正しい。責めるべきじゃないんだ。
何も知らないまま爆弾を抱えて生きていくだなんて誰も幸せにはなれない。
寧ろ彼は本当なら僕がするべき事を引き受けてくれた。僕よりもレンスと近しい境遇である自分が説明すべきだと!
……何なんだ、僕は。どれだけレンスに情けない姿を見せれば気が済むんだ。
「……どこに行くか聞きましたか?」
「いいや、聞いて無い」
「そう、ですか。分かりました」
心当たりだけを尋ねて、いつでも出られる用意だけはしてあった二人分のリュックサックを拾い上げる。
「お世話になりました。また、機会があれば何処かで」
何の情報も無くたってやるべき事は一つだ。
レンスを探す。探し出して……。
ーー探し出して、どうする?
二人分のリュックの重みが背にのし掛かる。
ーー探し出してどうするんだ?叱りつけるのか?連れ帰るのか?誰が、どこに?
何か起きるのが予想していたのに背負わせた人間が叱る?真っ先に意識を失った僕が?
人に恐怖を見せる紋様が浮かんでしまった彼女を外の町に連れ戻す?深淵にいるよりも酷い目を受けるようになるかもしれないのに?
馬鹿げてる。それこそ冗談じゃない。
彼女がそれを望んでいるとでも?
「…僕は、何なんだ……!」
脚が動かない。
外に出てレンスを探す。そんな簡単な事すら僕は出来ない人間だったのか。
そんなの、師匠どころか瞳すら失格じゃないか!!!
「……置手紙だ」
力無く折れる両膝が地面に付く中で、バスルさんはそんな言葉を口にする。
「レンスから、置手紙を預かってる」
「!!??」
跳ね上がったボールみたいに身体が動く。
バスルさんの元へ、さっきまでの不具合が嘘のように全身が活力を取り戻す。
「どこです!!」
「物はねぇよ。代わりに聞いといてやったってだけだ」
「じゃあ教えてください!」
縋るようにバスルさんの両肩を掴み、顔を覗き上げる。
「レンスは、レンスはなんて言っていたんですか!!」
僕の背を押してくれる。そんな言葉を待って。
ーーーー
走って、走って。
走って走って走って走って。
深淵渡りなんて気に掛ける暇も、極太の針が何本も刺さる肺に気を配る余裕も無く走り続けて。
ずっと走って、やっと追いついた。
「レンス!!!」
「!!」
バスルさんの住処からどのくらい走ったんだろう。
わりと早い段階から荒野から岩石地帯に変わっていたから最初に深淵渡りでレンスと飛ばされた先じゃないのは間違いないとは思うけど。
「師匠!!?」
「はぁ、はぁ……!はぁっ!やっと追いついた!」
でも、場所は何処だって構わない。やっとレンスに追い付けたんだから
「初めてだよ、自分に発見力があるかもなんて思ったのは」
「……!そんな、何でそんな……」
「だって、ずっと遠くから見つけてたのに、追いついたのは死ぬほど息が上がってからなんだもの。思い込みだって信じたくなるよ」
大小様々な岩が隆起する場所で、レンスは中くらいの岩に背を預けて座っている。
その姿を僕は結構遠くから確認していた。
俯いて、一人で寂しそうにしている彼女の姿を。
「…さ、帰ろう。レンス。こういう所は結構異形が…」
「帰らない」
あらかた息を整えて、一向にこちらに向こうとしないレンスの傍に寄って手を差し出す。
けれど彼女は決してこちらに顔を向けず、きっぱりと僕の言葉を拒否した。
「どうして?」
「……バスルンに聞いてるでしょ。だから」
尋ねても彼女は答えてくれない。
顔は変わらず俯いたままだ。
「……レンス、僕は」
彼女が背を預ける岩の反対側に腰かける。
ごつごつとしているけど意外に座り心地は悪く無い。
「僕は、君に会うまでなんとなく生きてた」
手持無沙汰で岩をなんとなく撫で、ほんの二年前の事を思い出す。
「寝ぼけてる時に言ったけど、覚えてるかな?千里眼になりたかったって言ったの」
「……覚えてる」
「だったら話は早いね。僕はね、結構早い段階でその夢を諦めたんだ。開眼が終わってからの大体ニ年間。いろんなところに行って、その度に死ぬ思いをして。……自分の無力さを知った。壮大な夢を抱くのも才能が必要なんだって、心底思い知った」
話しながら背負っていたリュックの内レンスの方を彼女の隣に置く。
それで何かなるわけでもないけど、元の持ち主に返すのがきっと正しい。
「それで、僕は逃げた。もっと安全な、新人の瞳達の探索に同行する役割を担うようにしたんだ。自分は夢を諦めたけど、新しい子達には叶えてもらえるように色んな事を教えよう。……そんな風に自分を言い聞かせてね」
「……そうだったんだ」
「うん。もしかしたらどこかで一緒だったかもね」
「………」
「そうやって一年近く過ごして、急に君が弟子入りに来た。正直驚いたよ。なんで君みたいな天才が、って」
「………別に、天才じゃ無いし」
「あはは。確かに、天才の人にしてみればそれが普通なんだからおかしく感じるかもね」
「………うん。ホントにおかしい」
「……それで、思ったんだ。最後まで見てあげる事の叶わない大勢の子に関わるよりも、一人だけだとしてもきちんと向き合ってあげた方が僕の行動は正しいんじゃないか、って」
続けて自分のリュックを足元に置く。
いつでも武器を取れるようにチャックを開けて。
「元は言い訳から始まったのにおかしな話だよね。その頃には本心になってたんだから」
「でも、だから私は弟子になれた」
「うん。だから僕は師匠になれた」
岩から降り、リュックからサバイバルナイフを取り出す。
何の変哲もない、本当にただのサバイバルナイフだ。手入れしているお陰で切れ味はいいだろうけど、異形相手にどこまでやれるかは正直分からない。
「……レンス」
「なに、師匠」
「もう少し、そこで待っててね」
ナイフの柄を何度か握りしめて握り心地を確かめる。
……悪く無い。久しぶりに使うけど、毎日手入れしていたお陰でへそは曲げていないみたいだ。
「……。師匠!?」
「座ってて!」
レンスがこちらを向いたのが分かる。
でも僕は今そっちを見るのは無理だ。
何故なら、さっきから殺気を放っていた相手がすぐそこに現れたから。
「二頭犬型の異形だ。総称は覚えてる?」
「お、オルトロス、だっけ。……じゃなくて!!」
「大丈夫。ちょっとくらい師匠らしい所見せないと」
僕らの視線の先にいるのはオルトロス。
頭が二つあればその名に分類される犬型の異形だけど、補足事項に[荒々しい]と[攻撃的]が書いてある、できれば会いたくないタイプの異形だ。
「でも、これでも僕はケルベロスと対峙した事もあるからね。頭が一個多い分あっちの方が怖かったよ」
ゆっくりと擦るようにしてほんの僅かだけ右足を前に出す。
同時にオルトロスの唸り声が静かに轟く。
徐々に剝き出しになっていく二頭の牙は鋭い犬歯をぬめりてからせ僕の持つ武器の非力さを思い知らせてくれる。
ーー[犬型は決して刺激してはいけない。噛まれればそこが千切れるまで絶対に離さない]か。
握りしめる柄に汗が染み込んでいく。
ーーレンスが後ろにいる以上突進は避けられないし、覚悟、しとくかな。
既に前に数ミリ僕は足を動かしてしまっている。
オルトロスにしてみればそれだけで僕を敵視するのに充分な行為だ。
ーー怖いな。……本当に怖い。
けど、僕はもう一度足を前に出す。
ーーでも、怖いだけだ。逃げる気になんてならないな。
「来い!!」
「「ヴォフ!!」」
弾丸のように真っ直ぐ。オルトロスは僕の首目掛けて双頭の牙を煌めかせる。
何もしなければ致命は必須。だけど避ければそのまま後ろのレンスを見つけて標的を変えるだろう。
なら、出来る事は一つだけだ。
「ぐぅ……!!この!!」
「ヴォフ!!」
「ヴヴフォッ!グウウウ!」
肉の喰われる生々しい音と共に血が噴き出し、同時に金属の弾ける音が響く。
「師匠!!」
「見てて!次は一緒にやるんだから対策を考えなさい!!」
左腕を片割れに喰わせ、もう片方にはナイフの刃を喰わせる。
これでこいつは僕の腕に首ったけだ。レンスに標的を変えるかもしれないって心配はしなくて済む。
「口裂けワンコにしてやるッ!!」
噛まれたナイフを上あごに突き刺し、噛みが甘くなった瞬間に刃を翻す。
「ヴォォォッ!?!?」
「このぉぉぉ!!」
再び強く顎が下ろされる前に。全力でナイフを押し出す。
まるで服を無理矢理破くかのような強い抵抗を拒み、可能な限り全力で、刃を押す。
「オオォォオオオッッ!!」
肉と筋肉の繊維の裂ける音が片割れの断末魔と交じり合っていく。
聞くに堪えない異常なそれは、それだけで終わりにしてはいけない。
「お前もだ!ハラペコワンコ!!」
「ヴォ、ヴルルルル!!」
ナイフを噛んでいた方は喉奥まで口が広がって最早何も噛めない。
残るのは腕に噛みついている片割れ。そいつの口端にナイフを突き立て、一気に差し込む。
「ヴォブ!?」
「もうちょっと噛んでろ!!!」
死を察したのかオルトロスは僕の腕を嚙み千切ろうと顎に力を籠める。
骨に亀裂が入るのが分かる。鈍いのに鋭い嫌な感覚だ。でも。
「おおおおお!!」
お陰で固定する手間が省けた。
ナイフを押し、肉を切るのには都合がいい。
「ヴォオオオ!!」
腕の骨を砕かれるよりも早く、千切られるよりも迅速に、口端を喉奥まで広げてやる。
「ヴッ……オオォォォ!」
きっとそれが断末魔だったんだろう。
オルトロスの身体には力が無くなり、軋んでいた骨が鳴りを潜める。
「……何とかなってよかった。意外とナイフでもやれるみたいだ」
足先から徐々にオルトロスが黒塵になって消えていく。
このまま待てば十数秒後には跡形も無くなるだろうけど、噛まれたままにしておくのもおかしな話だ。
「ぐっ……。…ふう」
突き刺さっていた牙を頭を掴んで引き抜き、オルトロスをその場にどうにか寝かせる。
「し、師匠!?」
「ん、レンス。怪我はない?」
名前を呼ばれて振り向き、けれどそこにあったのはレンスの後ろ姿だけ。
「……まだ、こっちには向けない?」
「そんなの、どうでもいいよ!それより大丈夫なの!?」
こちらを向かずに僕の心配をするレンス。
手を差し伸べもしない姿は傍から見れば心配しているようには見えないと思う。でも、何故そうしているのかはなんとなく分かった。
ーー背中からだと、紋様が見えない。
彼女なりにどうすれば人を恐れさせずに済むかを考えたんだろう。
確かに探索服は全身の露出を可能な限り減らしていて、当然髪さえ長ければ首は見えない。手だって前に隠せば、後ろからは完全に肌が見えなくなる。
顔に出ている紋様までも隠すには現状これしかない。
「……レンス。君は『師匠に、なりたかった』。そう言ったみたいだね」
「……!」
「でも、それは違うんだ。正しくない」
「ど、どういう事……?」
話をしながら視界に靄が生じていく。
ーーホント、どこまでいっても僕は情けない。
「……君が、僕を師匠にしてくれたんだ」
「…師匠?」
脚にまでふらつきが来た。
ちょっと、血を流し過ぎたんだな。
「レンス……。君が僕に、夢をくれたんだ」
「師匠!?」
視界が明後日の方へ飛んでく。
それから少しして身体に衝撃があったから、多分倒れたんだって分かる。
「君が、僕にもう一度夢を教えてくれたんだよ」
そこからは記憶が無い。
「師匠!?師匠!!起きて!!ねぇ!!」
何か言ったような気がするし、何も言っていない気がする。
声も、聞き取れない。何も、見えない。
ーーーー
天井が見える。
「……だから、師匠の事はお願いします」
今度は声も聞こえるし、噛ませた左腕が無茶苦茶に痛いのも分かる。
「ふざけんな。手当はしてやっても介護までしてやる義理はねぇ」
「でも……!」
「秘蔵の[巡る枷(オール・マルチ)]まで使って血ぃ増やしてやったんだ。これ以上面倒は見てやれないね」
「バスルン!!」
少し、離れた位置で言い合いをしているのが分かる。
バスルさんと……レンスだ。
「第一、死にかけなんぞ連れて来やがって。何が『白き天使と抹殺の使徒はあります』だ。それだけであんな重症どうにもできるわけねェだろ。裁縫の真似事までさせやがって」
「うっ……。だって!」
話の内容を聞く限り……いや、ここにいる時点で。
レンスが何とか僕をここまで連れて来てくれたんだと分かる。
……左腕は動かない。肩は何とかだけど、縫ったところに白き天使を巻いていたとしても治るのは相当先だろう。
「だって!放っておけるわけないじゃん!!」
「なんでだ?アイツから逃げたかったんだろ?二度と会いたくなかったんだろ?だったら見捨てっちまうのが一番いい方法じゃねぇかよ」
「馬鹿!バスルンホントバカ!!無理に決まってるでしょ!!」
「だからなんでだよ」
「師匠には生きてて欲しいから!!」
……声が、聞こえた。
「会いたくないのは嫌いになったからじゃない!私を見たら師匠が死んじゃうかもしれないから!!」
「へぇ?じゃあ本当は一緒に居たいってわけか」
「あったり前でしょ!!だって、師匠は私の憧れなんだもん!!」
レンスの、本当の声が。
ーーーー
「……だとよ」
「……?」
「泣かせた責任くらいとれよ、カルルカン」
重症の支障を連れて来てからずっと文句を言ってたバスルンは急に師匠の名前を呼んだ。
「全く、世話が焼けるコンビだよ」
意識を失ってるはずの師匠の名前を、まるで起きている人にするように呼び掛けた。
「……してやれないと後悔するぞ」
「…分かってます」
なのに、声が聞こえた。
「……何で?」
「なんでも何も、起きるでしょ、そりゃあ」
……声が、聞こえた
「僕は君の師匠だ。半人前の弟子を二回も独りで行かせるわけないだろ。一回目だって不本意だったのに」
師匠の声が、聞こえた。
「し、師匠……!」
振り向こうとする自分を、でもすぐに止めた。
ーー振り向けない。この顔を見せたら、師匠はまた……。
服を着てるから後ろから見られても平気なはず。でも、顔は剥き身だ。マスクも眼鏡も何もしてない。
そんなのを見せたらきっと同じ事の繰り返しだ。
「何で、戻ってこないんだい、レンス」
「だって、師匠、私……」
それなのに師匠は無理な事をしろって言ってくる。
「何があってもリュックは持っていく。そう教えたはずだし、一人で深淵探索に行くなんて駄目に決まってるだろ」
「だけど、私……!」
それをしたらどうなるのかを知っているはずなのに。
「理由があるならこっちを見て言って」
「でも……!!」
「こっちを見なさい!!」
師匠の怒声が聞こえた。その瞬間に考えるよりも早く身体は後ろを振り向く。
「……目を、開けなさい」
「……平気なの、師匠?」
「自分で確かめられるだろ?深淵を見るその瞳で」
自分でも分からない理由で強く瞑られていた目を、ゆっくり、ゆっくり開ける。
薄くぼやけてる世界が、少しずつはっきりしていく。
シルエットだけだった姿がきちんと見えるようになる。
ちゃんと開いた眼。その先には、師匠が立ってる。
私の事を、見ながら。
「たった三年だけど、新米だって揶揄されているけど、僕にだって先輩としての意地がある。それに約束だってした」
「…し、しょう?」
倒れずに、息も乱れないで、笑ってる。
「君を独りにはしない。僕が背負わせた深淵だ。何があっても僕だけは君の傍にいる」
「……ししょぉ!!」
身体が勝手に動き出す。
師匠の傍に行きたいって、勝手に動き出す。
勝手に、師匠に飛びついてしまう。
「……ごめんね。僕の勝手のせいで死ぬより、異形になるより辛い思いをさせて」
「そうだよ……!そうだよ……!師匠のせいでこんな、こんな!!」
頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
こんな姿の私でも受け入れてくれた事が嬉しくて、でもこんな風にしたのは師匠が原因で、なのに私はまだ師匠に憧れてる。
恨んでも、憎んでも足りない姿にされたのに、まだ、まだ……憧れてる。
「そうだね。……全部、僕のせいだ。レンスの人としての将来を奪ったのは僕だ。殺されたって仕方無い」
「そんな事しない!だって私、まだ師匠に教えてもらってないもん!発見力の事!!」
「それは……。本当によく分かんないから……」
「なら秘訣が分かるまで師匠は師匠でいて!私と、私と一緒に……!」
そこまで言って、顔を見上げて、気が付いてしまう。
笑っているはずの師匠の頬が引きつっている事に。
だから分かってしまった。
今この瞬間も……きっと意識が戻った時から。
師匠の身体は恐怖で震えている。
駄目だ。これじゃあまた同じ事の繰り返しだ。
「……師匠、ごめんね」
私が無理をさせてる。師匠に苦痛を押し付けてる。
私が私の望みを叶える為に、自分勝手に。
なのに。
……なのに。
「離さないよ」
身体から離れようとしても師匠は私を離そうとしてくれなかった。
「僕は僕の勝手で君を助けて、こんな姿にした。だからレンス、君には僕に自分勝手をする権利がある。自由がある。もしも君が本当に僕が嫌いで離れたいのなら受け入れる」
「でも」と。師匠は私の目を見て言う。
「さっきの笑顔が本心だって言うなら遠慮なんかしなくていい。さっきの言葉が真実だって言うなら我慢しなくていい。全部、僕に押し付けて欲しい」
あんまりにもずるくて勝手な言葉を。
「そのくらいの自分勝手を受け容れる甲斐性くらいならあるから」
「……ししょぉ」
ずるい。
そんな事言われたら嘘なんて付けなくなっちゃう。
優しさに甘えたくなっちゃう。
自分勝手で一方的な気持ちを……、感情を……!
「ししょぉ!私、元に戻りたい!!元に戻って、師匠ともっといっぱい探索したい!!!」
師匠に、押し付けたくなっちゃう。
ーーーー
「……行くのか?」
「はい。お世話になりました」
「ありがとね、バスルン!」
あの後、僕とレンスは話し合いをして今後の目的を決めた。
マブツと同化ーー万物の書の言葉を借りるなら深淵と化してしまったレンス。
彼女はもう、深淵の外には出られない。果てぬ時計と一体化した状態で陽の光を浴びた時どうなるのかは未知数だ。最悪、異形化が直っていくようにレンスが消えてしまうかもしれない。
例え外で暮らせたとしても、根本的な文様から生まれる恐怖を解決しない事には町の人もレンスも辛い思いをするだけだ。
だから僕らが目指すのはとあるマブツ。
「アレなぁ。そんな都合のいいマブツ、本当にあんのかよ」
「分かりません。僕も話を聞いただけですから」
[吐き出された世界(ダスト・アビス)]
それは何年か前、僕がまだ瞳の養成学校に通っていた頃に千里眼の誰かの後を付けていたら聞けた噂話。
深淵の全てのマブツを記したはずの万物の書にすら載っていないとされ、同化或いは寄生させなければ使えないマブツを所有者から取り除けるかもしれないというモノだ。
もしもそれが本当なら、例えワールドのクラスである果てぬ時計でもレンスから取り除けるんじゃないだろうか?
そんな記憶と憶測で成り立っている希望は一縷の望みにすらなっていないとは思う。
それでも答えがそれしかないと言うのであれば縋るしか道は無い。
昨日の夜に何とか調子が戻り、朝にはすっかり普段通りになったレンスを護るために。
「……ま、好きにやりゃいいさ。もう俺にゃ関係のねぇ話だしな」
そんな間抜けた道をバスルさんは馬鹿にする事無く後押ししてくれた。
……それがとても心強くて。
「どうせならバスルンも来ない?一緒に!」
「僕もレンスに同感です」
「……は?」
思わずレンスの言葉に続いてしまった。
「ちょっと待て。なんでとっくに廃業した俺がお前らと一緒に行かなくちゃならねぇんだ」
「だって、ねぇ?師匠」
実際悪く無い提案だと思う。
バスルさんは八十年深淵に住んでいた。それはつまり僕らが知らない深淵の事を知っている可能性があるという事。しかも腕っぷしも良いと来れば誘わない手は無い。
単に僕が恩を返せていないのもあるし。
「だね。ナルーカさんがいない今、理由は無いと思います」
「おまっ……!中々でかく出たな、おい」
途端にバスルさんの雰囲気が変わる。
……ナルーカさんと稽古をしていた時に似てる。
当たり前だ。あの件はバスルさんしてみれば百年以上の重みがある問題。終わったからって昨日今日で癒える傷じゃない。
でも、だからこそ。彼にはすべき事があるはずだ。
「バスルさんが言ってましたよね。『そんなんでねーちゃんの助けになれると思ってんのか』って」
「!!……そいつぁ」
「今がその時なんじゃないですか?」
ナルーカさんには未練があった。
それをバスルさんは忘れていなかった。
なら彼は拭ってあげたいと考えているはずだ。傷口から零れたまま拭えなかった血を、せめてもの手向けとして。
「だとしても、こいつは俺の問題だ」
例えどれだけ困難だろうとその手だけで。
「……考え方を変えて下さい。最新の知識を持っている本業の僕らと数十年も命がけの戦闘訓練を続けていたバスルさん。僕らが一緒に行動すれば大抵の事は簡単にこなせるはずです。それってお互いにとって一番の近道じゃないですか?」
「うんうん!私ももっとバスルンと話したいし!」
「…レンスのように難しく考えないって手もありますし」
「ちょぉ!!バカって言った!?」
「言って無いよ。……アホの子だとは思うけど」
「はぁ!?」
隣に立っているレンスは抗議の意味を込めて二度、三度と横っ腹を軽く殴ってくる。
四度目の拳が飛んできた時、僕はレンスの額に手を置いて優しく押し出す。
「結構痛いからその辺でお願いね?」
「ヤダ!お腹下るまで殴って後悔させてやる!!」
「ホンットにやめなさい」
なんて恐ろしい事を言うんだこの子は。深淵探索中にお腹を下そうものなら冗談にも洒落にもならない。
単に辛いだけじゃなく、最悪脱水症状や栄養失調にだってなりかねない上、そもそもが苛酷な深淵の中じゃ自然完治なんてまず見込めない。実質死の病だ。
瞳の学校で学んでいる以上知らないはずは無いのに言っているんだから末恐ろしい。
「………っは」
そんなわりと恐ろしい殺人計画を聞いて何を思ったのかは分からない。
けれどバスルさんの眉間からは既に皺が緩んでいて。
「確かにカルルカンの言う通りだし、レンスらしく考えれば八十年近い孤独は埋められてねぇ。ガラじゃねぇ理由だが、俺も付いてってやるよ。その旅」
「……バスルさん!」
「バスルン!」
薄っすらとだけど、初めてちゃんと笑ってくれた気がした。
「そうと決まれば早速出発だー!ちゃんと付いて来てねーー!」
「ちょ!まだ繋がれた魂巻いて……!」
「待て、お前も俺と繋いでねぇだろうが」
ーーそうやって、僕らの終わりがあるかも分からない旅は一先ず勢いよく駆け出したレンスを捕まえるところから始まった。
これがどれだけ辛い旅なのかは経験から来る想像や不安に駆られた妄想程度では測れない酷薄なモノになるだろうと予想は出来る。
その上、僕はレンスを見るだけで常に死を覚悟しておかなければならない。今だって気を抜けばすぐにでも倒れそうなくらい恐怖で怯えている。
けれど。そんなものは最初に決めた覚悟に比べれば取るに足らない薄っぺらな不安感でしかない。
旅の最終目標が叶うその日まで、この身はレンスの為に使う。……バスルさんの手伝いもしながら。
今の僕の夢はそれだけだ。
「ししょーー!早く来ないと深淵渡りにあっちゃうよー!」
「分かってるならやめなさい!!!」
「……これ、もしかして俺が世話係か?」
千里眼になる夢も、師匠でいてくれる夢も、彼女が叶えてくれた。
だから今度は僕の番だ。
僕が、レンスの夢を叶えるんだ。
END.
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