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即発キス
しおりを挟む暮れの空は曖昧だ。赤とも青ともつかない鈍い光が空をにじませ、その中を漂う重い灰の雲。景色はまるで別世界。僕の吐息は空へ消えた。足の進みは止まらない。コンクリートのひび割れを避けながら。
「俺のクラスさ、今度の文化祭で女装カフェやることになったんだよな。ほら、男がメイド服着るやつ。翠のトコはどうだった?」
「……」
「なあ、聞いてる?……翠?」
隣をせわしなく歩くのは天童 藍。僕より一つ年上なのに、まるで落ち着きのない大型犬のように構ってくる。幼馴染で兄弟のように育ってきたからか、藍は何かと僕を気にかける。その一環として、このように中身と脈略のないことばかり喋り散らすこともある。いい迷惑だ。僕のことよりも、制服のホコリを気にしたほうが良い。今も肩口に糸くずが引っ付いている。
けれど、僕は返事を一つも発さない。自分の名誉のために言っておくが、いつもなら「ああ」とか「うん」とか適当な相槌を返す。余裕が無いのだ。彼の瞳は訝しげに揺れていたが、その揺れすら煩わしい。
──疲れた。
そう思うと同時に、胸の奥がじくじく痛み始める。……今日の朝、家を出る前。ダイニングテーブルの食器を下げながら母はまた言ったのだ。『翠はもっと努力できるはず。姉さんを見習いなさい。』聞きなれた文句。けれど、今回は上手く受け流せなかった。呼吸が苦しく、心臓はきつく締め付けられた。『行ってきます』を言わないまま家を飛び出してしまった。日常的に小言を聞き流しているはずなのに、今日はおかしかった。
その間、父は新聞紙から目を離さなかった。これは普段のことである。仕事から帰ってきても書斎に籠りっきりで、僕との会話はほとんどない。視線を投げかけることも稀だ。そんな父だから、期待も何もしていない。僕が息をしていようがいまいが、あの人にとっては取るに足らないことだろう。
こうして饒舌な藍と一緒に帰っていることを選んだのは、僕の家庭からの逃避行動なのかもしれない。選んだ、と言っても、普段からあいつは当たり前のように僕のあとをついてくる。鼻が利くのか、第六感が働いているのか分からないが、僕の居場所をすぐに突き止めてくるのだ。校舎の屋上、体育館の裏、使われないトイレの個室。どこもダメだった。つまり僕が好むと好まざるとに関わらず、藍と過ごすことは多かった。幼稚園、小学校、中学校と進学しても、その性質はそのままだった。年齢の壁の厚みが増しても全く変わらない彼を辟易しても仕方ないだろう。むしろ、はっきりと邪険にしない僕に感謝してほしい。
「やっぱ、体調悪いのか?」
「……いつもの偏頭痛だろ。薬なら持ってるぞ?」
耳鳴りがひどく、彼の発言が明瞭としない。押し付けられるように頭が下がると、そこには水溜りがあった。泥に染まっているが、ある程度は光を反射できている。けれど、覗き込む必要は無かった。顔色が悪いのだろう。視界の端が白くちらつく。少しでも脚の力を抜けば倒れてしまう。けれど、どうしようもない。例えば今、藍に助けてもらったところで、苦しみが消えるわけではない。母の声も、父の無関心も、姉との比較も──全部、何一つ変わりはしない。
縋るように、視線だけを何とか横に向ける。藍がバックを前がけにし、その中身をゴソゴソ漁っているのが分かった。その必死そうな姿が、まるで爆弾を取り出すテロリストのように見えた。もちろん勝手な想像だとは自己理解している。けれど、行き詰まった現状を藍は全て破壊してくれるんじゃないかという無責任な願望があった。頭痛が激しくなり、息は荒くさらに項垂れる。水面を覗き込んでしまいそうになったので瞼を強く閉じた。少し経ってから、肩を揺さぶられた。顔を向ける。
「ほら、飲めよ」
僕に差し出されたのは、小さなピンクの薬と、黒光りする小形の水筒。それを一瞥した僕はおもむろに歩き始めた。その足取りはおぼつかない。
頬を撫でる風が冷たくなってきた。肺を突き刺す寒気が鼻から入り込む。けれども、僕の中には蒸し暑い苛立ちがこびり付いている。何もかも疎ましい。全てを投げ出してしまいたい。
──嫌いだ。
そう思った。何が嫌いなのか、自分でも整理出来なかった。ただ、母も、父も、姉も、家も、そして隣で様子を伺ってくる藍も。もしかして、僕を取り巻く全てに腹を立てているのかもしれない。なのに、その一部である藍に頼りたくなる自分が許せなかった。さらに歩幅を広げた。未だに頭は重い。
公園の横を通りがかる。薄暗がりの中、ベンチと街灯の輪郭は不鮮明だ。誰もいない。陽は完全には沈みきっておらず、まだ子供が何人かいてもおかしくないはずなのだが。人どころか、虫や鳥などの生き物そのものの気配すらも、全く感じなかった。
ふと立ち止まった。何かを言おうとしたわけではない。ただ、足が止まった。いつになく不安気な蒼も動きを止めた。
「やっぱ無理か?おぶって帰ってもいいけど」
うるさい。そう言いかけて、喉が震える。声が出ない。心がドロドロ溶けていくようで、いまにも涙が溢れてきそうだ。
次の瞬間、驚くほど短略的に、僕は彼の襟を掴んで引き寄せた。
藍の目が大きく見開く。
「な──」
言葉になる前に、僕は唇を押しつけた。少しだけ、汗の匂いがした。男の匂い。そんなことはどうでもよかった。ただ、粘着質な頭痛が、霧のように消え去った。
藍は固まっていた。ピクリとも動きはしない。それが1秒なのか、一分なのか、一時間なのか──ただ僕は、藍の襟をつかみ続けていた。
やがて、唇を離すと、藍の表情はやっと動き始めた。
「おっ……お前っ……何だよ今の……!」
僕は黙ったまま、自分の肘を擦った。藍の目が真っすぐ見れない。これは違う。嫌いなはずなのに。男同士のはずなのに。僕はあいつのことを迷惑だと思っていて、迷惑だと思い込んでいて、それでいて……
──何がしたかったのだろう。
藍はあきらかに動揺している。両手は頭を抱えていると思えば、次は膝に当て始めた。いつも自信満々で好意を押し売りしてくる彼の、そんな狼狽は見たことがない。それでも、僕から優越感は産まれなかった。
「は?……本当に、いや……なんか言えよ!」
藍がやっと言葉を吐き出したが、僕は唇をきゅっと結んだままだ。返事が出ない。答えられない。視界がブレる。心臓がうるさい。こんなことをしたのに、僕が求めるものを、未だに分かりたくない。
「翠、お前、俺のこと……」
「……」
藍はしばらく僕を凝視していたが、やがて何も聞き出せないと悟ったのか、困ったように息を吐いた。少しの逡巡の後、僕を抱きしめた。突然のことだったので心臓が口から飛び出そうになった。
それでも藍は何も言わなかった。言えなかったの間違いなのかもしれないが、事実としてそうなので、彼の本心はどうでも良かった。僕も、震える手で抱きしめ返す。
遠くから吹いてくる風が、かすかに生暖かい。僕らは黙って立ち尽くした。通り過ぎる夕陽が、寂しげに輝いていた。
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