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其の伍 紡ぐ思い、解ける時間(とき)
一
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梅雨の季節は、瞬く間に過ぎ去った。今は時折、名残を惜しむように降る雨と、夏を呼び寄せようとしている太陽の陽光が、空の上でせめぎ合っている。
ただ、それは空の話。
初名たち人間、それも大学生にとっては、学生の本文とも呼ばれるイベントが迫っていた。そう……”試験”である。といっても、試験期間はまだ先、7月下旬だ。
今はまだその前段階。あらゆる授業でレポートを課せられる期間だった。
授業中に、無事にレポートを提出し終えて、初名はほっとした。今日出したものが提出予定分の最後のレポートだ。
初名は授業を終えると電車に飛び乗り、まっすぐに涼しい地下へと向かった。ふと、ガラス張りの向こうでいくつもいくつも並ぶ丸いシュークリームの姿が見えた。全国にいくつもチェーン店を構える有名なシュークリーム専門店だ。
東京にいた頃も見かけたが、口にすることはあまりなかった。だが今はいいだろうと、思った。
「すみません、パイシュークリームください」
これは手土産だ。これから向かう場所は、美味しい紅茶を出してくれる。お茶請けのお菓子を持って行けばちょうどいい。
ついでに一個(できれば二個)だけ、お零れにあずかれればなお嬉しい。
そう思いながら、受け取ったシュークリームの箱を傾けないように気を付けながら、道を急いだ。
向かう先は、このきらびやかな地下の街の、さらに地下。あやかし達の住まう、横丁だった。
******
横丁の店は和風の建築物が多い。それも全体的にレトロな趣を持つものだ。
そんな並びにあって、例外と言える店がある。今、初名の目の前に建つ、ブックカフェ「Dragoste」だ。
北欧風の佇まいで、シンプルに白を基調としている。ちなみに向かい側は琴子たちの営む「ことこと屋」なのだが、印象としてはほぼ真逆だ。
現代っ子の初名にとっては、こちらの店の方が僅かに興味を惹かれる外装だった。そして中に入ってみると、内装もまた好みだったのだ。
「こんにちは、ラウルさん」
この店の戸は、いわゆるドアになっている。それもまた、他の店と違う印象的な点だった。声を掛けると、店の奥に座っていた店主がこちらを振り向いて、にこりと笑った。
「いらっしゃい、初名ちゃん」
ラウルと呼ばれた店主は、読んでいた本を机に置き、立ち上がった。
立ち上がると、初名より頭一つ以上に上背がある。だが見下ろされているような印象を受けない、穏やかな笑みを向けている。
年の頃は三十代後半ほどに見え、髪色はプラチナブロンド、瞳はアメジストのような澄んだ紫、西洋人のくっきりとした目鼻立ちをしていた。まるで人形のようだと、初名は会うたび思う。
そんなこの店主、名は『ラウル・クリステア』。ルーマニアからやってきたとのことだ。だが日本にやって来たのはもう随分と昔らしく、流暢な日本語を話す。ついでに言うと、流暢な大阪弁も話す。
にこりと笑う口元には、他の歯とは違う牙があった。
彼もまた、ここの住人たちと同じく人ならざる者……西洋から渡ってきた吸血鬼だった。
だが、初名は不思議とまったく怖いと感じていなかった。
「お借りしてた本をお返ししに来ました。あとこれは、お礼です」
「いやぁありがとうなぁ。美味しそうや。長いこと生きとっても、こういう美味しいものはやっぱり欠かせへんわ。今、紅茶淹れるから待っとってな」
吸血鬼だというのに、生きている人間である初名よりも、こうしてお菓子の方に目を輝かせる。初名にとっては親近感の方が大きい人だった。
ラウルはシュークリームの箱を持って、奥に引っ込むと、初名は手近なテーブルに掛けた。
店内を見回すと、四方が本棚で埋め尽くされている。店の中に仕切りのように配置されているのもまた本棚だ。この店は、本で溢れかえっていた。すべて、ラウルの蔵書だ。
図書館並みに様々な書物が並ぶ様は圧巻だった。
そんな中で、美味しい紅茶とお菓子を食べ、ゆったりと本を読む。
初名が微かに憧れていた風景が、今、目の前にあるのだった。
ただ、それは空の話。
初名たち人間、それも大学生にとっては、学生の本文とも呼ばれるイベントが迫っていた。そう……”試験”である。といっても、試験期間はまだ先、7月下旬だ。
今はまだその前段階。あらゆる授業でレポートを課せられる期間だった。
授業中に、無事にレポートを提出し終えて、初名はほっとした。今日出したものが提出予定分の最後のレポートだ。
初名は授業を終えると電車に飛び乗り、まっすぐに涼しい地下へと向かった。ふと、ガラス張りの向こうでいくつもいくつも並ぶ丸いシュークリームの姿が見えた。全国にいくつもチェーン店を構える有名なシュークリーム専門店だ。
東京にいた頃も見かけたが、口にすることはあまりなかった。だが今はいいだろうと、思った。
「すみません、パイシュークリームください」
これは手土産だ。これから向かう場所は、美味しい紅茶を出してくれる。お茶請けのお菓子を持って行けばちょうどいい。
ついでに一個(できれば二個)だけ、お零れにあずかれればなお嬉しい。
そう思いながら、受け取ったシュークリームの箱を傾けないように気を付けながら、道を急いだ。
向かう先は、このきらびやかな地下の街の、さらに地下。あやかし達の住まう、横丁だった。
******
横丁の店は和風の建築物が多い。それも全体的にレトロな趣を持つものだ。
そんな並びにあって、例外と言える店がある。今、初名の目の前に建つ、ブックカフェ「Dragoste」だ。
北欧風の佇まいで、シンプルに白を基調としている。ちなみに向かい側は琴子たちの営む「ことこと屋」なのだが、印象としてはほぼ真逆だ。
現代っ子の初名にとっては、こちらの店の方が僅かに興味を惹かれる外装だった。そして中に入ってみると、内装もまた好みだったのだ。
「こんにちは、ラウルさん」
この店の戸は、いわゆるドアになっている。それもまた、他の店と違う印象的な点だった。声を掛けると、店の奥に座っていた店主がこちらを振り向いて、にこりと笑った。
「いらっしゃい、初名ちゃん」
ラウルと呼ばれた店主は、読んでいた本を机に置き、立ち上がった。
立ち上がると、初名より頭一つ以上に上背がある。だが見下ろされているような印象を受けない、穏やかな笑みを向けている。
年の頃は三十代後半ほどに見え、髪色はプラチナブロンド、瞳はアメジストのような澄んだ紫、西洋人のくっきりとした目鼻立ちをしていた。まるで人形のようだと、初名は会うたび思う。
そんなこの店主、名は『ラウル・クリステア』。ルーマニアからやってきたとのことだ。だが日本にやって来たのはもう随分と昔らしく、流暢な日本語を話す。ついでに言うと、流暢な大阪弁も話す。
にこりと笑う口元には、他の歯とは違う牙があった。
彼もまた、ここの住人たちと同じく人ならざる者……西洋から渡ってきた吸血鬼だった。
だが、初名は不思議とまったく怖いと感じていなかった。
「お借りしてた本をお返ししに来ました。あとこれは、お礼です」
「いやぁありがとうなぁ。美味しそうや。長いこと生きとっても、こういう美味しいものはやっぱり欠かせへんわ。今、紅茶淹れるから待っとってな」
吸血鬼だというのに、生きている人間である初名よりも、こうしてお菓子の方に目を輝かせる。初名にとっては親近感の方が大きい人だった。
ラウルはシュークリームの箱を持って、奥に引っ込むと、初名は手近なテーブルに掛けた。
店内を見回すと、四方が本棚で埋め尽くされている。店の中に仕切りのように配置されているのもまた本棚だ。この店は、本で溢れかえっていた。すべて、ラウルの蔵書だ。
図書館並みに様々な書物が並ぶ様は圧巻だった。
そんな中で、美味しい紅茶とお菓子を食べ、ゆったりと本を読む。
初名が微かに憧れていた風景が、今、目の前にあるのだった。
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