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其の伍 紡ぐ思い、解ける時間(とき)
二十一
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針が血管も肉も貫き通すほどの力で、針を振り下ろした。
だが、どうしてか痛みは感じなかった。代わりに感じたのは、誰かに強く掴まれている圧迫感だった。
「やめんか、アホ」
そう言って、銀色の影が、初名を見下ろしていた。
「風見さん……」
風見は初名の手のひらから針を引き抜くと、腕を掴んだまま奥へと向かった。
「風見さん、ありがとう……ホンマ、無茶する子やわ」
「ホンマにな」
百花と風見は、揃って顔を見合わせて、苦笑いを浮かべた。
「だ、だって……」
「ホンマにやめて。うちは……あんたの血や肉なんて、食べとうないねんから」
そう、きっぱりと百花は言い放った。同時に、体を引きずりながら起こした。
細く青い腕を見せないよう努めながら、凜とした佇まいを見せている。
「さっき、えらい嬉しそうやったねぇ。なんや、ええことがあったん?」
百花は、優しい声音で、鈴を転がすようにそう尋ねた。ちらりと風見を見ると、風見もまた、小さく頷いて見せた。
初名は、改めて百花の正面に座り直した。
「はい。あの子に、会えることになったんです。今度、そうしてくれるって、笹野さんが……」
「笹野さん……そうか、ええ人と知り合えたなぁ」
「はい……!」
「気持ち、通じるとええなぁ……」
「は、はぃ………」
頷くと同時に、初名の声は震えてかすれた。視界がぼやけて、目頭が燃えるように熱かった。
「百花さん、血を、飲んで下さい。私なら大丈夫です」
だが、百花は頭を振った。
「どうしてですか。私は、もっとお話がしたいんです。あの子のことも聞いて欲しい、おばあちゃんのことも聞きたい、お裁縫も教えて欲しいし、お化粧も……まだまだたくさん教えてほしいことがあるんです。だから……ちょっとでも、生き延びてほしいんです」
「……それでも、あかん」
鮮やかな花のように真っ赤な襦袢が、初名の方に近寄ってきた。百花は、袖で初名の頬を拭うと、初名の手をそっと握った。
「うちは、あんたと友達でいたいんや」
「百花さん……」
「お願い」
悔しくて悲しくて、固く握りしめていた手のひらが、じんわり温かくなって、解けていくようだった。
初名は、そっと握り返すしか、できなかった。
だが、そっと触れた指先から、ぬくもりがぽろぽろとこぼれ落ちていった。
こぼれていったのは、百花の肌だった。
「ああ……やっぱり、もうアカンかなぁ」
人ごとのようにそう言って笑う百花は、崩れ落ちていく自分の体をぼんやりと眺めていた。
「だ、ダメです! まだ……ダメなんです!」
「うふふ。うち、あんたのおばあちゃんよりもずっと年上なんよ? あんたのおばあちゃんが亡くなってんから、うちの番が来てもなんもおかしくないわ」
「それでもダメなんです……!」
こぼれ落ちていく百花を引き留めようと、初名は必死にその体を抱きしめた。だが、空しく崩れていくだけだった。
百花の真っ赤な襦袢に、涙がしみこんでさらに赤いシミを作っていく。
それがどれほど幸福であるか、そしてその幸福を二度も得られたことがどれほどの僥倖か。それを考え、百花は最期の時に恍惚の笑みを浮かべていた。
だが、その百花の前に影が差した。
あらゆる光を受けて様々に色を変える、銀色の影……風見が。
「百花、ええのか?」
「ええに決まってます」
「ホンマに、そう思うか?」
風見の言葉は、どこか鋭かった。百花に最期の瞬間を、問うていた。
「……ホンマは、良うない。もっとここに居たかったけど……しゃあないやないの」
「……そうか。”ここに居たい”か」
か細いため息をこぼす百花を、風見は真夏の陽光のような視線で見下ろしていた。どうしてか、うっすら笑みを浮かべている。
だが、どうしてか痛みは感じなかった。代わりに感じたのは、誰かに強く掴まれている圧迫感だった。
「やめんか、アホ」
そう言って、銀色の影が、初名を見下ろしていた。
「風見さん……」
風見は初名の手のひらから針を引き抜くと、腕を掴んだまま奥へと向かった。
「風見さん、ありがとう……ホンマ、無茶する子やわ」
「ホンマにな」
百花と風見は、揃って顔を見合わせて、苦笑いを浮かべた。
「だ、だって……」
「ホンマにやめて。うちは……あんたの血や肉なんて、食べとうないねんから」
そう、きっぱりと百花は言い放った。同時に、体を引きずりながら起こした。
細く青い腕を見せないよう努めながら、凜とした佇まいを見せている。
「さっき、えらい嬉しそうやったねぇ。なんや、ええことがあったん?」
百花は、優しい声音で、鈴を転がすようにそう尋ねた。ちらりと風見を見ると、風見もまた、小さく頷いて見せた。
初名は、改めて百花の正面に座り直した。
「はい。あの子に、会えることになったんです。今度、そうしてくれるって、笹野さんが……」
「笹野さん……そうか、ええ人と知り合えたなぁ」
「はい……!」
「気持ち、通じるとええなぁ……」
「は、はぃ………」
頷くと同時に、初名の声は震えてかすれた。視界がぼやけて、目頭が燃えるように熱かった。
「百花さん、血を、飲んで下さい。私なら大丈夫です」
だが、百花は頭を振った。
「どうしてですか。私は、もっとお話がしたいんです。あの子のことも聞いて欲しい、おばあちゃんのことも聞きたい、お裁縫も教えて欲しいし、お化粧も……まだまだたくさん教えてほしいことがあるんです。だから……ちょっとでも、生き延びてほしいんです」
「……それでも、あかん」
鮮やかな花のように真っ赤な襦袢が、初名の方に近寄ってきた。百花は、袖で初名の頬を拭うと、初名の手をそっと握った。
「うちは、あんたと友達でいたいんや」
「百花さん……」
「お願い」
悔しくて悲しくて、固く握りしめていた手のひらが、じんわり温かくなって、解けていくようだった。
初名は、そっと握り返すしか、できなかった。
だが、そっと触れた指先から、ぬくもりがぽろぽろとこぼれ落ちていった。
こぼれていったのは、百花の肌だった。
「ああ……やっぱり、もうアカンかなぁ」
人ごとのようにそう言って笑う百花は、崩れ落ちていく自分の体をぼんやりと眺めていた。
「だ、ダメです! まだ……ダメなんです!」
「うふふ。うち、あんたのおばあちゃんよりもずっと年上なんよ? あんたのおばあちゃんが亡くなってんから、うちの番が来てもなんもおかしくないわ」
「それでもダメなんです……!」
こぼれ落ちていく百花を引き留めようと、初名は必死にその体を抱きしめた。だが、空しく崩れていくだけだった。
百花の真っ赤な襦袢に、涙がしみこんでさらに赤いシミを作っていく。
それがどれほど幸福であるか、そしてその幸福を二度も得られたことがどれほどの僥倖か。それを考え、百花は最期の時に恍惚の笑みを浮かべていた。
だが、その百花の前に影が差した。
あらゆる光を受けて様々に色を変える、銀色の影……風見が。
「百花、ええのか?」
「ええに決まってます」
「ホンマに、そう思うか?」
風見の言葉は、どこか鋭かった。百花に最期の瞬間を、問うていた。
「……ホンマは、良うない。もっとここに居たかったけど……しゃあないやないの」
「……そうか。”ここに居たい”か」
か細いため息をこぼす百花を、風見は真夏の陽光のような視線で見下ろしていた。どうしてか、うっすら笑みを浮かべている。
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