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其の陸 迷宮の出口
十二
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絵美瑠の言葉が、にわかには理解できなかった。
彼女のせいで試合に出られなかったことが、今までにあっただろうか。ずっと東京と大阪、離れて過ごしていたというのに。
記憶を遡り、彼女の言葉の意味するものを探った。そして、一つだけ、心当たりに行き着いた。
「もしかして、あの……最後の試合?」
絵美瑠は、罪悪感に押しつぶされそうな面持ちで頷いた。やはり、と初名は思った。
それは初名がまだ小学生で、両親の仕事の都合で大阪に住んでいた頃だ。絵美瑠と同じ剣友会に所属し、剣道に精を出していた。関西弁にはなかなか馴染めなかったが、一生懸命稽古に打ち込んでいれば、皆認めてくれた。
兄の後ろに隠れてしまいがちな、少々引っ込み思案気味だった初名にとって、初めて手に入れたコミュニケーションツールでもあった。
だが両親の仕事の都合というものはいつも突然変わった。あの時も急な転勤が決まり、ようやくこちらに馴染み始めたという頃に再び転校しなければならなくなった。
初めて、寂しくて泣いた。
こちらで知り合ったクラスメイト、友達、特に剣友会の仲間……皆と離れたくないと思った。そんな様子を見た周囲は、転校前最後の試合のメンバーに初名を推してくれた。先生も、快諾した。
無論、初名の実力もあってのことだが、それ以上に大阪での短い時間の思い出を残してあげたいと、皆が思ってくれた結果だった。
だが、直前でそれは不可能になった。稽古で足を傷めてしまったからだ。試合は三日後。怪我は全治2週間。怪我をした当日は歩くことすらままならなかった。
あの日、悔しくて悔しくて泣きはらしたことを、今でも覚えている。
「あの時、うちと地稽古してて……そのせいで小阪さん、転んで……」
地稽古……試合に一番近い形式の稽古では、ぶつかることも転ぶことも珍しくないのは確かだ。それで怪我をする者も。
「稽古で転ぶなんてよくあることだよ。私が下手な転び方したせいであって、都築さんのせいじゃないよ」
「うちのせいや! うちが下手やからって何回も何回も体当たり練習させてもろて……転びそうになったら、小阪さんが庇ってくれてん。だから変な転び方になったんや! だから小阪さん、最後の試合に出られんかったんや!」
拳を握りしめていたかと思うと、肩をふるわせて泣いている。そんな絵美瑠を見ると、初名はかける言葉が見つからなかった。
愕然としていた。
絵美瑠がずっと、そんな思いを抱いていたと言うことに。そして、そのことにまったく気付かずに過ごしていた自分に。
絵美瑠の言葉には、まだ一つ、疑問点がある。今それを尋ねれば、この子が抱いている罪悪感は、晴れるだろうか、そう思った。
「あの……都築さん、あの最後の試合……見てなかった?」
「あの試合の時……うち熱出して行かれへんかった。どうせ団体も個人も出る予定なかったし」
そうだったのだ。初名にとって最も印象深いはずの、大阪最後の試合。そこに絵美瑠はいなかった。だからと言ってはいけないが、それが、絵美瑠の印象が薄かった原因だったのだ。
初名はこほんと咳払いをして、しっかりと絵美瑠の顔を真正面から捉えて、告げた。
「あのね、私あの最後の試合……出たんだよ」
「……え、うそ……?」
「本当」
涙を浮かべて真っ赤になった目を一杯に開いて、絵美瑠は初名を見つめていた。
彼女は、知らなかったのだ。
初名があの試合に出場したこと。そして有終の美を飾ったと言うことを。
「な、なんで? だって2週間は治らへんて……」
「まぁ、ちょっと不思議な奇跡のおかげで治ったんだ……それよりも、先生や他の子たちに試合のこと聞かなかったの?」
「団体も個人も優勝したとは聞いたけど、代理の子が出て、そうなったんやと思てた……うそ、小阪さんやったん……」
「そうだよ」
「そうなん? 怪我、治ったって……」
普通、優勝などしたらトロフィーがもらえるが、そこに名前は刻まれない。大会の名称と、受賞した順位くらいだ。
つまり絵美瑠は、同じ剣友会の誰かが優勝した、としか認識していなかったのだ。
それまでの認識とほぼ真逆と言って良い事実にぽかんとしながら、絵美瑠はそろそろと初名の両手に、自分の手を添えた。もじもじしていたが、思い切ってぎゅっと握ったかと思うと、再び頬を真っ赤に染めながら、絵美瑠は大きな声で言ったのだった。
「小阪さん……ううん、初名ちゃん、ホンマにおめでとう!」
その言葉が、初名の胸にすぅっと沁み込んでいくのがわかった。『ごめんなさい』と言われるのかと思っていた。そうしたら、いや絵美瑠がそう言う前に、自分から言おうと思っていた。
完全に意表を突かれた。だが、嫌な感じは全くしない。驚きも何故か少ない。むしろ、それらをすべて凌駕するような、喜びがあった。
『ごめんなさい』よりも、『おめでとう』……この方がずっとずっと嬉しくて、そして心が軽くなった。
「うん……ありがとう、絵美瑠ちゃん」
そう、自然に言えた。ようやく前を向いて、そう言えた。
同時に、自分がもう一つ言わなければならない言葉も、自然に言える気がした。
「あのね、絵美瑠ちゃん」
「はい!」
「……あの時……去年のあの試合の時のこと……本当に、ごめんなさい」
彼女のせいで試合に出られなかったことが、今までにあっただろうか。ずっと東京と大阪、離れて過ごしていたというのに。
記憶を遡り、彼女の言葉の意味するものを探った。そして、一つだけ、心当たりに行き着いた。
「もしかして、あの……最後の試合?」
絵美瑠は、罪悪感に押しつぶされそうな面持ちで頷いた。やはり、と初名は思った。
それは初名がまだ小学生で、両親の仕事の都合で大阪に住んでいた頃だ。絵美瑠と同じ剣友会に所属し、剣道に精を出していた。関西弁にはなかなか馴染めなかったが、一生懸命稽古に打ち込んでいれば、皆認めてくれた。
兄の後ろに隠れてしまいがちな、少々引っ込み思案気味だった初名にとって、初めて手に入れたコミュニケーションツールでもあった。
だが両親の仕事の都合というものはいつも突然変わった。あの時も急な転勤が決まり、ようやくこちらに馴染み始めたという頃に再び転校しなければならなくなった。
初めて、寂しくて泣いた。
こちらで知り合ったクラスメイト、友達、特に剣友会の仲間……皆と離れたくないと思った。そんな様子を見た周囲は、転校前最後の試合のメンバーに初名を推してくれた。先生も、快諾した。
無論、初名の実力もあってのことだが、それ以上に大阪での短い時間の思い出を残してあげたいと、皆が思ってくれた結果だった。
だが、直前でそれは不可能になった。稽古で足を傷めてしまったからだ。試合は三日後。怪我は全治2週間。怪我をした当日は歩くことすらままならなかった。
あの日、悔しくて悔しくて泣きはらしたことを、今でも覚えている。
「あの時、うちと地稽古してて……そのせいで小阪さん、転んで……」
地稽古……試合に一番近い形式の稽古では、ぶつかることも転ぶことも珍しくないのは確かだ。それで怪我をする者も。
「稽古で転ぶなんてよくあることだよ。私が下手な転び方したせいであって、都築さんのせいじゃないよ」
「うちのせいや! うちが下手やからって何回も何回も体当たり練習させてもろて……転びそうになったら、小阪さんが庇ってくれてん。だから変な転び方になったんや! だから小阪さん、最後の試合に出られんかったんや!」
拳を握りしめていたかと思うと、肩をふるわせて泣いている。そんな絵美瑠を見ると、初名はかける言葉が見つからなかった。
愕然としていた。
絵美瑠がずっと、そんな思いを抱いていたと言うことに。そして、そのことにまったく気付かずに過ごしていた自分に。
絵美瑠の言葉には、まだ一つ、疑問点がある。今それを尋ねれば、この子が抱いている罪悪感は、晴れるだろうか、そう思った。
「あの……都築さん、あの最後の試合……見てなかった?」
「あの試合の時……うち熱出して行かれへんかった。どうせ団体も個人も出る予定なかったし」
そうだったのだ。初名にとって最も印象深いはずの、大阪最後の試合。そこに絵美瑠はいなかった。だからと言ってはいけないが、それが、絵美瑠の印象が薄かった原因だったのだ。
初名はこほんと咳払いをして、しっかりと絵美瑠の顔を真正面から捉えて、告げた。
「あのね、私あの最後の試合……出たんだよ」
「……え、うそ……?」
「本当」
涙を浮かべて真っ赤になった目を一杯に開いて、絵美瑠は初名を見つめていた。
彼女は、知らなかったのだ。
初名があの試合に出場したこと。そして有終の美を飾ったと言うことを。
「な、なんで? だって2週間は治らへんて……」
「まぁ、ちょっと不思議な奇跡のおかげで治ったんだ……それよりも、先生や他の子たちに試合のこと聞かなかったの?」
「団体も個人も優勝したとは聞いたけど、代理の子が出て、そうなったんやと思てた……うそ、小阪さんやったん……」
「そうだよ」
「そうなん? 怪我、治ったって……」
普通、優勝などしたらトロフィーがもらえるが、そこに名前は刻まれない。大会の名称と、受賞した順位くらいだ。
つまり絵美瑠は、同じ剣友会の誰かが優勝した、としか認識していなかったのだ。
それまでの認識とほぼ真逆と言って良い事実にぽかんとしながら、絵美瑠はそろそろと初名の両手に、自分の手を添えた。もじもじしていたが、思い切ってぎゅっと握ったかと思うと、再び頬を真っ赤に染めながら、絵美瑠は大きな声で言ったのだった。
「小阪さん……ううん、初名ちゃん、ホンマにおめでとう!」
その言葉が、初名の胸にすぅっと沁み込んでいくのがわかった。『ごめんなさい』と言われるのかと思っていた。そうしたら、いや絵美瑠がそう言う前に、自分から言おうと思っていた。
完全に意表を突かれた。だが、嫌な感じは全くしない。驚きも何故か少ない。むしろ、それらをすべて凌駕するような、喜びがあった。
『ごめんなさい』よりも、『おめでとう』……この方がずっとずっと嬉しくて、そして心が軽くなった。
「うん……ありがとう、絵美瑠ちゃん」
そう、自然に言えた。ようやく前を向いて、そう言えた。
同時に、自分がもう一つ言わなければならない言葉も、自然に言える気がした。
「あのね、絵美瑠ちゃん」
「はい!」
「……あの時……去年のあの試合の時のこと……本当に、ごめんなさい」
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