となりの天狗様

真鳥カノ

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壱章 愛宕山の天狗様

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「ありがとう、ございます」
 反射的にお礼を言うと、太郎坊は嬉しいのか、妙にくすぐったそうな顔をしていた。そして、静かに藍の方を指さした。
「……て」
「て?」
「手、怪我してる」
 言われて見ると、手のひらから血が流れていた。驚きの連続で気付いていなかった。気付いてしまうと、急にジンジンと痛みだす。
「落ちた時に木の枝にひっかけたかな。手当しとこうか」
 太郎坊は落ち着いた様子で懐から真っ白な布を取り出した。
「大丈夫です! ちゃんと救急セット持ってきてますから……あれ?」
 藍は太郎坊に先んじてリュックから取り出そうとしたが……その手は空を切った。
「リュックなら、上の休憩所じゃない?」
「そうでした……」
 リュックを下した状態で落ちたのだと思い出した。つまり今、藍は身一つの状態だ。ますます絶望的だ。
 落ち込む藍に構わず、太郎坊は布を二つに裂き、腰から下げていた竹筒の水を布にかけている。
「手を出して」
 それ以外、応急手当の方法はない。藍はおずおずと太郎坊へ向けて手を出した。掌には大きめの切り傷があった。太郎坊はその傷口を、濡らした布でゆっくり、優しく拭っていった。血と泥が払われると、案じたほど傷が大きくはないことがわかった。
 太郎坊は懐から小さな貝殻を取り出し、蓋を開けた。中には白いどろっとした塊が入っていた。
「ちょっと沁みるよ」
 薬のようで、太郎坊は指で塊を掬い取ると、そっと傷口に塗った。塗られた箇所から、ピリピリと痛みが走る。そしてまだピリピリする傷口を、別の布で覆ったのだった。
「あ、ありがとうございます。この布、洗濯してお返しします」
「一枚や二枚、気にしなくていいよ。それより気を付けないといけないよ」
「はい、それはもう……! 転ばないように注意します」
「そうじゃなくてね」
 きゅっときつめに布を結ぶと、太郎坊の視線が藍の瞳に向いた。隈を作ってどこかぼんやりしたような瞳だが、視線だけは藍の全身を縫い留めてしまうほどに鋭かった。
「君、ああいうのに狙われやすいんじゃない? あんなことも初めてじゃないでしょ」
「は、はい。ごめんなさい」
 厳しい声に、藍はわずかに竦んだ。誰にも言われたことのないことだから、余計に。だが太郎坊は、藍が肩を竦めていると、そこにふわりと触れた。固くなっていた体から力が抜けた。
「叱ってるんじゃないよ。気を付けてねって言いたいだけ。たぶんこれからも、危険なことは多くあると思うから」
「あの……どうして、そう思うんですか?」
「君は強い気を秘めているから。その気を、ああいった”あやかし”たちはすごく好むんだ」
「”あやかし”?」
 藍が尋ね返すと、太郎坊はうーんと唸って空を仰いだ。
「そうだなぁ……妖怪や精霊って言えばわかりやすいかな。生き物は器に魂が宿るけど、そういった器を持たずに生れたモノ、もしくはそこから別の器に入り込んだモノ」
「器を持たずに……ですか?」
「そう。前者は主に精霊、後者は妖怪って呼ばれることが多い。まぁ色々いて一概には言えないんだけど。そこからさらに色々いてね、神の眷属もいれば、悪さばかりするのもいる。さっきの黒い奴みたいに」
「さっきの……そういえば、昔からああいう黒い塊によく声を掛けられたり、追いかけられたりしました。もしかして、ああいう黒いのは、悪いモノなんですか?」
「まぁそういうことが多いね。器を持たないモノの見た目は、纏う気に影響されやすいから。神聖な気は白いことが多いし、邪悪な気はだいたい黒い」
「じゃあ……黒いのからは逃げて、白いのは近寄っても大丈夫ってことですか?」
「一言では言えないけど、まぁそういうことが多いとは思うよ」
「そう、なんですね」
 太郎坊の話を聞いて、藍は胸をなでおろした。決して安心できることではないのだが、不気味なモノの正体が少しでも明らかになって良かった。避ける基準が明白になったのもいい。これからはよくわからないけれど逃げた方がいいかもしれないという曖昧な判断をしなくてすむ。
ーーと、そんな話をしていてようやく思い至った。自分の周りには今、あの黒い靄がいないということに。
 落ちていた時は確かに全身に纏わりつかれていた。自分の手足が黒く塗りつぶされていく様が見えていた。
 だが今は、シミ一つ見えない。理由は、今となっては一つしか思い当たらなかった。
「あの……さっき落ちてた時にいた黒いのって、どうなったんでしょうか?」
「ああ、あれなら一応引き剥がしたよ」
「引き剥がした?」
「まだ残ってるかもしれないけど」
 太郎坊は事も無げにそう言った。あまりにもさらりと言うものだから、藍は理解するのに時間がかかった。
「もしかして……そっちの意味でも助けてくれたんでしょうか?」
「そうだよ」
 これもまた、さらりと言った。
 その様子に、藍はようやく、自然と頭が下がったのだった。深々とお辞儀をして、心の底から、その言葉が滲みだした。
「ありがとう、ございました」
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