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壱章 愛宕山の天狗様
八
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「あの……許嫁って……?」
「結婚の約束をした男女のこと」
「そうじゃなくてですね……」
「君は覚えてないみたいだけど、確かに約束をしたんだよ。ずっとずっと昔にね」
柔らかい笑みを浮かべてそう言われてしまって、藍の中にかすかに罪悪感が芽生えた。「違う」と、強く言えなくなってしまった。
「あの……ごめんなさい。私、本当に覚えてなくて……子供の頃とか、でしょうか?」
「ううん。千年くらい前」
「そんなの知りませんよ!」
罪悪感なんて覚えたことを後悔した。だが太郎坊は、罪悪感をさらに煽るように、眉を下げて悲しそうな顔になった。
「君は覚えてなくても、そうなんだよ。千年前、君が亡くなる直前に約束したんだよ。生まれ変われたら、今度こそ一緒になろうって。だからずっと待ってたんだけど、まだ思い出さないみたいだし……」
「そ、そう言われましても……前世なんて全く記憶がないですし。だいいち、どうしてその生まれ変わりが私だって思うんですか」
「え? それはわかるよ。だって気が同じだもの」
けろりと言う太郎に、藍はもはや首をかしげることすらできない。この場を押されないためにも、努めて冷静に、尋ね返した。
「あの……”気”とは?」
「うーん、この世に存在するモノが身の内に宿す力で、生命エネルギーって言えばわかりやすいかな? で、指紋みたいに一人ひとり微妙に違ってね……」
「わかりました。要するに、私とその『前世の人』は、見た目以外の何かがすごくよく似てるってことですね?」
「見た目も似てるよ……ちょっとだけど」
親指と人差し指で、”ちょっと”を作って太郎坊は言う。要は直感であり、誰もが納得できる確たる証拠はないということだ。
「やっぱり、人違いじゃないですか? そんなこと言われても、さっぱりです」
「まぁそんなにとんとん拍子にいくとは僕も思ってないよ。一緒にいるうちにゆっくり思い出せばいいじゃない」
優しい表情と口調ではあるが、内容が聞き捨てならない。今日何度目か知れない、今何と言ったか、という言葉が浮かんだ。
「い、一緒に……!?」
「うん、せっかくまた会えたんだしね。さあ、行こうか」
そう言って、太郎坊は手を差し出した。ほんの5分前なら、この手を取っていたかもしれない。だが、今はできない。
助けてもらったが、手当てしてもらったが、気遣ってくれたが、それでもこの人を信用することなどできないのだと、思い出した。
この人は、名乗る前から藍のことを把握していて、人間ではなくて、しかも藍を千年前からの許嫁と呼んで、どこかへ連れて行こうとしているのだから。
「あの……私、このへんで失礼します」
「え、一人で帰れるの?」
「か、帰れます帰れます。あっちの方ですよね」
「あっちは崖があるよ。こっちから行った方が……あ、いやでもなぁ……」
「じゃあ、そっちから行きます! 失礼します!」
藍は大袈裟にお辞儀をして、脱兎のごとく駆けだした。一刻も早く、少しでも遠く、この人から逃れるために。
幸い足には自信がある。スポーツ選手でもない限り、そうそう追いつかれはしないはずだ。
でも、と頭の片隅で思った。先程のように、空を飛んで来られたら、神通力とやらで追いかけられたら、そもそも人間離れした身体能力だったら、どうしようと。
考えたら背筋を冷たい汗が伝った。そして、ぶんぶんと頭を振って、そんな考え事振り払った。
(逃げなかったら、何されるかわからない……!)
今はただ、あの場から逃げることしかないのだ。
藍はこれまでの人生で経験したことがないほど息を切らせて、全速力でとにかく走り続けた。
「結婚の約束をした男女のこと」
「そうじゃなくてですね……」
「君は覚えてないみたいだけど、確かに約束をしたんだよ。ずっとずっと昔にね」
柔らかい笑みを浮かべてそう言われてしまって、藍の中にかすかに罪悪感が芽生えた。「違う」と、強く言えなくなってしまった。
「あの……ごめんなさい。私、本当に覚えてなくて……子供の頃とか、でしょうか?」
「ううん。千年くらい前」
「そんなの知りませんよ!」
罪悪感なんて覚えたことを後悔した。だが太郎坊は、罪悪感をさらに煽るように、眉を下げて悲しそうな顔になった。
「君は覚えてなくても、そうなんだよ。千年前、君が亡くなる直前に約束したんだよ。生まれ変われたら、今度こそ一緒になろうって。だからずっと待ってたんだけど、まだ思い出さないみたいだし……」
「そ、そう言われましても……前世なんて全く記憶がないですし。だいいち、どうしてその生まれ変わりが私だって思うんですか」
「え? それはわかるよ。だって気が同じだもの」
けろりと言う太郎に、藍はもはや首をかしげることすらできない。この場を押されないためにも、努めて冷静に、尋ね返した。
「あの……”気”とは?」
「うーん、この世に存在するモノが身の内に宿す力で、生命エネルギーって言えばわかりやすいかな? で、指紋みたいに一人ひとり微妙に違ってね……」
「わかりました。要するに、私とその『前世の人』は、見た目以外の何かがすごくよく似てるってことですね?」
「見た目も似てるよ……ちょっとだけど」
親指と人差し指で、”ちょっと”を作って太郎坊は言う。要は直感であり、誰もが納得できる確たる証拠はないということだ。
「やっぱり、人違いじゃないですか? そんなこと言われても、さっぱりです」
「まぁそんなにとんとん拍子にいくとは僕も思ってないよ。一緒にいるうちにゆっくり思い出せばいいじゃない」
優しい表情と口調ではあるが、内容が聞き捨てならない。今日何度目か知れない、今何と言ったか、という言葉が浮かんだ。
「い、一緒に……!?」
「うん、せっかくまた会えたんだしね。さあ、行こうか」
そう言って、太郎坊は手を差し出した。ほんの5分前なら、この手を取っていたかもしれない。だが、今はできない。
助けてもらったが、手当てしてもらったが、気遣ってくれたが、それでもこの人を信用することなどできないのだと、思い出した。
この人は、名乗る前から藍のことを把握していて、人間ではなくて、しかも藍を千年前からの許嫁と呼んで、どこかへ連れて行こうとしているのだから。
「あの……私、このへんで失礼します」
「え、一人で帰れるの?」
「か、帰れます帰れます。あっちの方ですよね」
「あっちは崖があるよ。こっちから行った方が……あ、いやでもなぁ……」
「じゃあ、そっちから行きます! 失礼します!」
藍は大袈裟にお辞儀をして、脱兎のごとく駆けだした。一刻も早く、少しでも遠く、この人から逃れるために。
幸い足には自信がある。スポーツ選手でもない限り、そうそう追いつかれはしないはずだ。
でも、と頭の片隅で思った。先程のように、空を飛んで来られたら、神通力とやらで追いかけられたら、そもそも人間離れした身体能力だったら、どうしようと。
考えたら背筋を冷たい汗が伝った。そして、ぶんぶんと頭を振って、そんな考え事振り払った。
(逃げなかったら、何されるかわからない……!)
今はただ、あの場から逃げることしかないのだ。
藍はこれまでの人生で経験したことがないほど息を切らせて、全速力でとにかく走り続けた。
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