となりの天狗様

真鳥カノ

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壱章 愛宕山の天狗様

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 どれくらい走っただろうか。
 息が切れて、頭がぐらぐらして、もう時間が分からない。とにかく木々の間を走り抜けることで精一杯で、果たして正しい道を進んでいるのかもわからない。
 今目指しているのは合流できる場所ではなく、あの太郎坊から少しでも離れた場所だから。
 後ろから足音は聞こえない。羽ばたきの音も聞こえない。つむじ風も起こる気配はない。藍は、ようやく立ち止まって、そろりと後ろを向いた。
「……良かった、いない」
 太郎坊は、ついて来てはいなかった。ほっと息をつくと、一気に力が抜けた。
「はぁ……怖かった」
 一見すると物腰柔らかく親切だが、よく考えればあの状況で少しも狼狽えずに冷静に対応できること自体がおかしい。先程も今も、思い返せば体の芯から冷えていく感覚がに襲われる。こんな思いをしたのは二度目だ。
 ずっと昔……まだ幼く、物心ついて少し経ったぐらいの頃、あの黒い塊に追いかけられたことがあった。いつ、どこで、何をしていた時だったのか思い出せないが、息もできないほど恐ろしい思いをしたことだけは覚えている。
 さっきの出来事のせいで、余計なことまで思い出してしまった。
「そうだ。さっきの登山道に戻らないと。お母さんと合流しなきゃ」
 そう思って立ち上がったが、歩き出せなかった。
 どっちへ行けばいいか、わからないのだ。
 周囲は同じような木々に囲まれ、緩やかな傾斜しかない。道筋どころか、どちらが上か下かの目安すらない。
 荷物はすべて休憩所に置き忘れてきた。地図もスマートフォンも方位磁針もない。頭上を見上げれば、太陽はちょうど真上。方向を調べることすらできない。
 万事休すーーそんな言葉が脳裏によぎった。
 このままでは合流も難しい。その前に先程の太郎坊に追いつかれてしまう。二重の最悪の予想が、ますます藍の頭を混乱させた。
 その時、肩にポンと柔らかな感触が走った。
「な、何!?」
 慌てて振り返るも、何も見えない。すると今度は、逆の肩を触れられた。また振り返るがやはり何も見えない。
 だが確実に、何かを感じる。ものすごく遠くか、背後か、すぐ耳元か。どこからか、クスクス笑う声が聞こえる。
 藍が怯えて竦み上がると、その声は更に大きく愉快そうになっていく。からかわれているようだ。さっき太郎坊に翻弄されたことに続いて、見えない相手にまでからかわれている。藍はいい加減、堪忍袋の緒が切れた。
「……もう、いい加減にしてよ!」
 見えない相手に向けて、とにかく腕をぶんぶん振り回した。すると不思議なことに感触があった。さっきまで藍の肩をポンポン叩いていたのだから自明の理ではあるのだが。
 小さな感触と共に、「ぴゃっ」といった小さな声が聞こえた。藍の、足元からだ。すぅっと足元に視線を落とすと……いた。全身真っ白い、小さなモノが。
 いた、と言うより転がっていた。藍が腕を振り回したせいで、振り落とされたのだろうか。見た目は赤ん坊より小さが、一応手足があって立っている。顔はないが、何故かこちらをじっと見ているのがわかる。全身が真っ白で、淡く光を放っているようにも見える。人間じゃないことは明らかだ。
だが太郎坊に感じたような畏縮も、黒い塊に感じたような不気味さも、この白いモノには感じない。どちらかと言うと、もっと良いもののような気がしている。
 そういえば、と太郎坊の言葉を思い出した。
『神聖な気は白いことが多いし、邪悪な気はだいたい黒い』
 目の前にいるモノは、前者にあたるのではないだろうか。そう思い、そろそろと手を伸ばしてみた。すると、白いモノは藍の手に飛びついた。
 襲い掛かられた感じはしない。ただじゃれついているように見える。
「か、可愛い……?」
 抱き上げてみると、大人しかった。褒められたのがわかったのか、恥ずかしそうにしている。
「うん、可愛い」
 藍は思わず白いモノを抱きしめていた。慣れない山で、道もわからない中一人きりで走っていた孤独が、ようやく解けていったように思えた。
「ねえ、お母さんと合流するまでの間、一緒にいてももらってもいい?」
 白いモノは、返事の代わりに藍の手を引っ張った。そして短い手で木々の向こうを指し示した。
「もしかして……ついてこいって言ってる?」
 藍が尋ねると、白いモノは頷いて、藍の手をさらに強くひっぱった。
 この不思議な白いモノは、まさか母の元へ連れて行ってくれると言うのだろうか。藍は淡い期待を抱いて、白いモノの導きに従って、歩き出した。
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