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弐章 比良山の若天狗
一
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トントントン、と軽快な音が響く。ジュウジュウと勢いのいい音も、ぐつぐつと静かな熱の籠る音も、そしてそれらを生み出す人物がパタパタと走り回る音も。
それはこの山南家の娘・藍のものではない。藍は壁際で所在なさげに立っていた。
その目の前を忙しなく走り回る人物。それは髪はぼさぼさで、目の下に隈があり、緩んだ甚兵衛を着ていかにもこの家に馴染んでいる、下宿人・愛宕太郎……またの名を愛宕山太郎坊……愛宕山に棲む、天狗だ。付け足すならば、藍のことを『許嫁』と称して、愛宕山からこうして追いかけてきた天狗だ。
山南家の離れをシェアハウスということにして店子募集をしたところ、いの一番に手を挙げて入居してきたのだった。
入居当日に『母君は店の切り盛りで忙しいんだから、炊事洗濯切合切はお任せください』と言い切ってしまった”優良物件”だ。実際、藍たち親子よりもずっと手際よく、上手だった。
「藍、もうちょっと待ってね。すぐに朝ご飯ができるから」
「……はい」
太郎は朝の陽ざしのように爽やかな笑顔でそう言うのだが、藍はどうしても手放しでは受け入れられなかった。理由はいくつかあるのだが、そのうちの一つは、藍が太郎に毎朝言っていることに関わっている。
「太郎さん、こんなところにいていいんですか?」
「いいに決まってるよ。どうして悪いの?」
「悪いに決まってるでしょうが。だって太郎さんは、て……!」
大声で言ってしまいそうになり。太郎にそれを止められた。
藍は慌てて、事情を知らない母・優子が近くにいないか確認してから訴えた。
「太郎さんは、天狗……それも大天狗なんでしょ」
「大天狗なのはうちの頭領。僕は部下の平天狗」
「何ですか、その平社員みたいな言い方……平でも幹部でも同じですよ。お役目があるんですよね。登山者の警護って言ってたじゃないですか。ここは愛宕山どころか平地ですよ」
「いやいや、お役目は他にもいっぱいあるし。藍が見てないところでちゃんとやってるから、心配いらないよ」
しているのは”心配”と言うよりも”敬遠”なのだが、どうも通じていないようだ。太郎はさらに藍の顔近くまで近づいて、囁いた。
「あとは、君へのアフターケアかな」
「あ、アフターケア?」
「あんなに危ない目に遭ったんだから、しばらく傍で見守った方がいいかと思ってね」
「結構です」
藍は太郎の顔をぐっと押し返した。話している間も着々と料理を仕上げている手際の良さが、また小憎らしかった。
「だいたい何でこんな春先に甚兵衛なんて……あのぼんぼりみたいなのとかついた服はどうしたんですか?」
思えば、初めて会った時は全身がやる気に満ちていたようにも見えた。今の格好は、服装からしてやる気を感じない。太郎の言うことをいまいち真剣に受け取れない理由はそこにもある。
「ぼんぼりって梵天房のこと言ってる? あれはいわゆるユニフォーム。警護の時以外は誰も着てないよ。今は家だし」
「ユニフォームって……」
「だって皆、天狗と言えばあの装束って思ってるから。でもここではねぇ……悪目立ちするし」
そこまで聞いて、確かに、と藍は思った。山であの格好に遭遇すれば恐れと敬意を抱く気もするが、この近隣で見かければ即通報するだろう。時と場を考えていたのは太郎の方だったようだ。
「藍が着てほしいなら着るけど」
「いいです。仕舞っといて下さい。あの服の代わりが、黒スーツってことなんですね……あれも目立ちますけど」
「え? 人里ではスーツが標準だって聞いたよ? しかも黒はどんな場面でも通用するって……」
「はい、そうです……その通りです……」
藍はもはや言葉を失くしていた。太郎の言うことはいちいちもっともすぎるのだった。ただ、藍の考えるテンポと合わない、ただそれだけなのだ。
現に母は太郎を気に入り、うまく付き合っている。今も、通りすがりに台所に顔を出してにこやかに挨拶を交わしている。
「あら太郎さん、おはよう。今日の朝ご飯は何?」
「おはようございます、母君。今日は焼き魚と小松菜の煮びたしです」
「嬉しいわぁ。太郎さんの煮びたし好きよ。でも無理しないでね」
「恐縮です」
この通り、わずか1週間でこの山南家の家長・優子の胃袋を掴んでしまった。料理人である優子があっさり陥落したのは藍にとって予想外だった。藍は誰にも頼らず、自らの立ち位置を奪還せねばならないのだった。
それはこの山南家の娘・藍のものではない。藍は壁際で所在なさげに立っていた。
その目の前を忙しなく走り回る人物。それは髪はぼさぼさで、目の下に隈があり、緩んだ甚兵衛を着ていかにもこの家に馴染んでいる、下宿人・愛宕太郎……またの名を愛宕山太郎坊……愛宕山に棲む、天狗だ。付け足すならば、藍のことを『許嫁』と称して、愛宕山からこうして追いかけてきた天狗だ。
山南家の離れをシェアハウスということにして店子募集をしたところ、いの一番に手を挙げて入居してきたのだった。
入居当日に『母君は店の切り盛りで忙しいんだから、炊事洗濯切合切はお任せください』と言い切ってしまった”優良物件”だ。実際、藍たち親子よりもずっと手際よく、上手だった。
「藍、もうちょっと待ってね。すぐに朝ご飯ができるから」
「……はい」
太郎は朝の陽ざしのように爽やかな笑顔でそう言うのだが、藍はどうしても手放しでは受け入れられなかった。理由はいくつかあるのだが、そのうちの一つは、藍が太郎に毎朝言っていることに関わっている。
「太郎さん、こんなところにいていいんですか?」
「いいに決まってるよ。どうして悪いの?」
「悪いに決まってるでしょうが。だって太郎さんは、て……!」
大声で言ってしまいそうになり。太郎にそれを止められた。
藍は慌てて、事情を知らない母・優子が近くにいないか確認してから訴えた。
「太郎さんは、天狗……それも大天狗なんでしょ」
「大天狗なのはうちの頭領。僕は部下の平天狗」
「何ですか、その平社員みたいな言い方……平でも幹部でも同じですよ。お役目があるんですよね。登山者の警護って言ってたじゃないですか。ここは愛宕山どころか平地ですよ」
「いやいや、お役目は他にもいっぱいあるし。藍が見てないところでちゃんとやってるから、心配いらないよ」
しているのは”心配”と言うよりも”敬遠”なのだが、どうも通じていないようだ。太郎はさらに藍の顔近くまで近づいて、囁いた。
「あとは、君へのアフターケアかな」
「あ、アフターケア?」
「あんなに危ない目に遭ったんだから、しばらく傍で見守った方がいいかと思ってね」
「結構です」
藍は太郎の顔をぐっと押し返した。話している間も着々と料理を仕上げている手際の良さが、また小憎らしかった。
「だいたい何でこんな春先に甚兵衛なんて……あのぼんぼりみたいなのとかついた服はどうしたんですか?」
思えば、初めて会った時は全身がやる気に満ちていたようにも見えた。今の格好は、服装からしてやる気を感じない。太郎の言うことをいまいち真剣に受け取れない理由はそこにもある。
「ぼんぼりって梵天房のこと言ってる? あれはいわゆるユニフォーム。警護の時以外は誰も着てないよ。今は家だし」
「ユニフォームって……」
「だって皆、天狗と言えばあの装束って思ってるから。でもここではねぇ……悪目立ちするし」
そこまで聞いて、確かに、と藍は思った。山であの格好に遭遇すれば恐れと敬意を抱く気もするが、この近隣で見かければ即通報するだろう。時と場を考えていたのは太郎の方だったようだ。
「藍が着てほしいなら着るけど」
「いいです。仕舞っといて下さい。あの服の代わりが、黒スーツってことなんですね……あれも目立ちますけど」
「え? 人里ではスーツが標準だって聞いたよ? しかも黒はどんな場面でも通用するって……」
「はい、そうです……その通りです……」
藍はもはや言葉を失くしていた。太郎の言うことはいちいちもっともすぎるのだった。ただ、藍の考えるテンポと合わない、ただそれだけなのだ。
現に母は太郎を気に入り、うまく付き合っている。今も、通りすがりに台所に顔を出してにこやかに挨拶を交わしている。
「あら太郎さん、おはよう。今日の朝ご飯は何?」
「おはようございます、母君。今日は焼き魚と小松菜の煮びたしです」
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「恐縮です」
この通り、わずか1週間でこの山南家の家長・優子の胃袋を掴んでしまった。料理人である優子があっさり陥落したのは藍にとって予想外だった。藍は誰にも頼らず、自らの立ち位置を奪還せねばならないのだった。
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