となりの天狗様

真鳥カノ

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弐章 比良山の若天狗

二十二

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「俺のことは『治朗』と呼んでいい」
「……は?」
 また頭ごなしに何か言われると思って構えていた藍は、思わず間の抜けた声を出してしまった。この人は、何を言い出すのかと。
「ついでに言えば、俺を敬う言葉遣いも態度もいらん。これからは対等な物言いでいい。兄者の仰せだからお前の身を守ることに全力を費やす所存だが、気にするな」
「はぁ……」
「その代わり、俺に払う分の敬意すべて、兄者に払え。もっと兄者を崇め敬うんだ、いいな」
「……はぁ? 敬意なんて払ってませんが」
「なに?」
 治朗の眉が、急にぴくんと跳ね上がった。だが藍は怯まなかった。
「何で、あなたに、敬意を払わないといけないの。いきなり現れて敵視されて偉そうに言われて迷惑しか被ってないのに!」
「迷惑だと? 昨日今日と護衛についていただろうが」
「それで何かしてくれたの? 結局守ってくれたのは太郎さんだし! あなたはただご神木を倒して騒ぎを起こしただけでしょ!」
「ああ、そうだね。あれはちょっとやり過ぎだったね」
「う……!」
 そう。実は太郎が倒れたのとほぼ同時に、近隣住民が集まり始めたのだった。大木が根本から倒れるような音が響いたのだから当然だろう。
 一人来たら十人集まってくるのは容易に想像できた。大騒ぎになることなど明白だった。
 治朗と藍は太郎を連れて、近隣住民に見つかる前にその場を後にしたのだった。
 太郎にまでそれを言われてしまって、治朗は言葉を失った。
「も……戻せば、いいんだろう」
「戻すって、どうやって?」
「それぐらい造作もない!……皆が寝静まった後にやるがな」
 本当にそんなことができるのか、いぶかしげに見ていたが、治朗はやると言ったきり、口を引き結んで黙りこんだ。どうやら、これ以上は追求できないらしい。
 そんな二人の間からひょろひょろとのんきな声が聞こえた。
「ねえ、ちょっといい?」
 気づくと二人の鼻先まで、太郎は近づいていた。
「藍、治朗のこと、なんて呼ぶの?」
「じ……”治朗くん”でしょうか。さすがに呼び捨ては……」
「敬語もやめるの?」
「ご本人がそう仰って……言っているので」
「……ズルい」
「へ?」
 太郎は、布団から抜け出して藍にすり寄った。あまりにも動きが機敏で、逃げられなかった。
「治朗には敬語やめるのに、どうして僕にはまだ敬語で話すの? 僕の方が治朗より長く一緒にいるのに。最初から友好的だったのに。藍のことちゃんと守ったのに! ねぇどうして?」
「助けてもらったからこそ、敬意を持ってるから……かな?」
「こんなにも心の距離が開くなら敬意なんて持ってくれなくていいよ! それより僕も呼び捨てがいいよ!」
「何なんですか、いきなり」
「ほらまた敬語使った。ズルいよ、治朗ばっかり……! せめて『太郎』って呼んでよ」
「嫌ですよ!」


 こうして、山南家には店子が一人とペット(?)が一匹増え、今までの三倍以上うるさくなったのだった。

 ちなみに、翌日、ご近所ではとある奇妙な噂が立った。

 いきなり轟音と共に倒れたご神木が、翌朝にはすっかり元通りになっていた。百年以上の間、台風にも地震にも少しも揺らぐことのなかった巨体が。
 これは、寂れたかの神社の神による何かの啓示か、はたまた……妖怪変化による悪戯か。

 当然、真相は闇の中である。 
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