となりの天狗様

真鳥カノ

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参章 飯綱山の狐使い

二十三

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 皆が寝静まった後、藍は自分の部屋で一人机に向かっていた。試験まで日がない。試験範囲とされている問題と唸りながらにらめっこをして、どれくらいの時間が経っただろうか。
 机の脇では、クッションを敷いた籠の中で、呼子が丸くなって寝息を立てている。呼子の寝息とノートの上を走るシャープペンの音だけが響く中、ふいに藍が大きく伸びをした。
「ちょっと休憩……」
 息をつくと、サイドテーブルに置いてあった皿に目がとまった。皿には小さめのおにぎりが置かれている。遅くまで試験勉強をする藍に、太郎が作った物だ。
 そのうちの一つを手にして、ぱくりと頬張る。
「美味しい……」
 おにぎりは、冷めていても美味しかった。先ほど食べた晩ご飯も、美味しかった。そうなると、先ほど太郎が訴えた言葉が自然と思い浮かんだ。
『なんで毎日藍のために美味しいご飯を作ってる僕よりも、たった一回借りた物を返しに来ただけの猪の方が評価が高いの!』
 言われてみればもっともだ。そんなことにも気づかなかったことが、情けなくて仕方なかった。
 ふと、カーテンと窓を一気に開いた。すると少し離れた場所でぼんやりと明かりが見えた。離れの、太郎の部屋だ。
(また遅くまで起きてる。お仕事かな? でも天狗の、夜なべする仕事って何なんだろう)
 そういったことも、三郎に聞いておけば良かったと、少し後悔した。
 感謝をしていないわけではないのだ。
 あんなに遅くまで仕事をして、その上で自分たちにこんなに良くしてくれて、ありがたいに決まっている。だけどどうしてか、それを言葉にしようとすると踏みとどまってしまう。「ありがとう」の言葉は言うものの、きちんと心のこもった言葉かと問われると、困る。
 一度、「許嫁なんだから当然だよ」と嬉々として言われたことが原因ではあるが。
(何か、ないのかな。感謝の気持ちを示せて、でも直接言葉では言わなくて、あの大変そうな日常を労えるもの……)
 うーんと唸っていると、ひんやりした夜風が頬を撫でた。
「あ、そうか。これなら……」
 独り言で考えをまとめると、藍は部屋を出て階下へ走った。こんな夜中には、1階には誰もいない。真っ暗な中、手探りで明かりを点けると、袖をまくって、手を洗った。
「よし、ちゃちゃっと作っちゃおう」
 藍が向かった先は、台所。冷蔵庫の横に置かれた炊飯器は保温になっており、まだたくさん炊いた米が残っていた。明日の朝食と、藍のお弁当の分だろう。
 だがほんの少しぐらいなら、今使っても大丈夫だろうと思えた。今、ほんの少し、おにぎりを作るぐらいには。
 藍は湯気の立ち上るご飯をよそい、塩を手に取って、熱いご飯を一気にその手で握った。

******

 真っ暗な渡り廊下を抜けると、更に真っ暗な離れが見えた。当然だが、夜中は明かりをすべて消すので、一寸先も見えないほどになっている。藍は手探りで、だが手に持った皿は落とさないように、慎重に歩いた。
 母屋よりは新しいとはいえ、築年数はかなり年季の入った建物だ。歩くたび、ぎしぎしと不気味な音がする。
 不気味であることと、上の階にいる二人に気づかれないかということが気になって仕方がない。
 藍はそろりそろりと、いつも以上にゆっくりと階段を上り、ようやく2階に到着した。
 だがここもまた暗がりであるため、手探りだ。そろそろと、太郎たちの部屋がある側の壁を伝い、取っ手を探り当てた。
(ここか……!)
 ようやく扉を見つけた。
 藍は扉の前に、音を立てないようそっと皿を置いて立ち去った。帰りもまた、忍び歩きの行程ではあるが、目的を達成した高揚感からか、どことなく足取りは軽かった。
(これで感謝の気持ちは表したし、邪険にもしてない……と言えると思う……たぶん)
 誰にともなく呟きながら、藍は自分の部屋へと戻っていった。
 自分もまた、太郎の作ってくれたおにぎりを食べて、もうひと頑張りしようと思っていた。
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