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四章 鞍馬山の大天狗
八
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それまで浮かべていたにこやかな顔は鳴りを潜め、今はただ、僧正坊の顔には憤りが浮かんでいた。
何が原因か、咄嗟に考えると、思い浮かぶことは一つだけだった。
太郎の気持ちを、ほんの一瞬でも、利己的なものだと思ってしまったことだ。
「君には、心底がっかりしたよ」
僧正坊のその声は、落胆したというよりは、やはり怒っていた。深いため息をついた後に藍に向けた視線は、研ぎたての包丁よりも鋭く感じた。
「太郎が君の元にいる理由など、誰が見ても明らかだろうに。よりにもよって、君がそれに気づかないとは……なんと愚かな」
「き、気づいてないって何を……」
訪ね返そうとしたが、僧正坊の瞳がそれを許さなかった。太郎の様子を見て理解しようとしないこと、それそのものが許せないのだ。
「私はね、彼が天狗として愛宕に召し上げられた時からずっと彼を知っている。太郎がどれほどの想いを抱いてきたのかも。誰にどう諭されようと、太郎は姫を待つことをやめなかった。いや、やめることができなかった。それほどの深い想いなのだと、呆れを通り越して感服した。だが……彼がそうまでして千年もの長い年月待ち続けた結果が、これとはね……」
そう、吐き捨てるように言った。僧正坊が向ける視線は、今や蔑みに満ちていた。
藍はそれに反論することができなかった。自分が、あまりにも彼らのことを知らないせいだから。
「正直、待ち侘びている姿を見ている時は彼を愚かだと思ったこともあったが……今となっては、哀れだな。待ち侘びた結果現れたのが、こんな女だったとは……かの姫とて浮かばれまい」
僧正坊の視線が、藍に突き刺さり、抉るように寄って来る。藍はただ、その見えない痛みに耐えるほかなかった。
「山南藍、私は君を認めない。できることなら、今後一切、太郎の前に姿を見せないでほしいくらいだ」
「そ、それは……難しいです」
「そう。ここは君の家だしね。太郎も、出ていくとは言うまい」
じゃあどうすれば、と問う前に、藍の目の前に僧正坊の腕が伸びてきた。その手は、実際の大きさ以上に大きく感じて、まるで夜の闇のように藍の視界を覆った。
「今できるのは、これぐらいだな。太郎の苦しみを、ほんの僅かでも知るがいい。その上で、先程と同じ言葉を言えるか、よくよく考えてみるんだな」
「ど、どういう意……!」
藍の声は、言い終わるよりも先に掻き消えた。どこかに吸い込まれてしまったように。
そして、居間には僧正坊ただ一人が残されていた。
机の上には先程まで使っていた教科書や参考書が開きっぱなしで放り出されている。僧正坊はそれらをそっと閉じて端に置き、既にぬるくなった湯呑のお茶をすすった。
******
藍は目を開いた。だが、まだ閉じたままなのかと錯覚してしまった。
目の前は、先程と同じく真っ暗だった。
「これっていったい……」
どういう状況なのか、まったくわからない。
耳に残っているのは、目を閉じる寸前に僧正坊に言われた言葉のみ。
『太郎の苦しみを、ほんの僅かでも知るがいい』
この暗闇と、太郎の苦しみというのは、いったいどういった繋がりがあるのか。今の状況ではわからない。
ただ、今感じることは、暗くて、重くて、寒い。心が凍えていきそうな感覚だけだ。
「だ、誰かいませんか!?」
叫んだが、声は反響すらしない。見えない霧に吸い込まれていくようだった。だが、手を伸ばすと、藍を取り囲んでいるのは霧ではないことがわかった。
固い。こつこつと叩いてみたが、脆い感じはしない。分厚く、重厚な壁のように感じた。 こんな状況には、不思議と既視感を覚えていた。
「そうだ……朝の、夢……!」
今朝、夢で見たあの真っ暗な空間そのものだと、気付いた。
何が原因か、咄嗟に考えると、思い浮かぶことは一つだけだった。
太郎の気持ちを、ほんの一瞬でも、利己的なものだと思ってしまったことだ。
「君には、心底がっかりしたよ」
僧正坊のその声は、落胆したというよりは、やはり怒っていた。深いため息をついた後に藍に向けた視線は、研ぎたての包丁よりも鋭く感じた。
「太郎が君の元にいる理由など、誰が見ても明らかだろうに。よりにもよって、君がそれに気づかないとは……なんと愚かな」
「き、気づいてないって何を……」
訪ね返そうとしたが、僧正坊の瞳がそれを許さなかった。太郎の様子を見て理解しようとしないこと、それそのものが許せないのだ。
「私はね、彼が天狗として愛宕に召し上げられた時からずっと彼を知っている。太郎がどれほどの想いを抱いてきたのかも。誰にどう諭されようと、太郎は姫を待つことをやめなかった。いや、やめることができなかった。それほどの深い想いなのだと、呆れを通り越して感服した。だが……彼がそうまでして千年もの長い年月待ち続けた結果が、これとはね……」
そう、吐き捨てるように言った。僧正坊が向ける視線は、今や蔑みに満ちていた。
藍はそれに反論することができなかった。自分が、あまりにも彼らのことを知らないせいだから。
「正直、待ち侘びている姿を見ている時は彼を愚かだと思ったこともあったが……今となっては、哀れだな。待ち侘びた結果現れたのが、こんな女だったとは……かの姫とて浮かばれまい」
僧正坊の視線が、藍に突き刺さり、抉るように寄って来る。藍はただ、その見えない痛みに耐えるほかなかった。
「山南藍、私は君を認めない。できることなら、今後一切、太郎の前に姿を見せないでほしいくらいだ」
「そ、それは……難しいです」
「そう。ここは君の家だしね。太郎も、出ていくとは言うまい」
じゃあどうすれば、と問う前に、藍の目の前に僧正坊の腕が伸びてきた。その手は、実際の大きさ以上に大きく感じて、まるで夜の闇のように藍の視界を覆った。
「今できるのは、これぐらいだな。太郎の苦しみを、ほんの僅かでも知るがいい。その上で、先程と同じ言葉を言えるか、よくよく考えてみるんだな」
「ど、どういう意……!」
藍の声は、言い終わるよりも先に掻き消えた。どこかに吸い込まれてしまったように。
そして、居間には僧正坊ただ一人が残されていた。
机の上には先程まで使っていた教科書や参考書が開きっぱなしで放り出されている。僧正坊はそれらをそっと閉じて端に置き、既にぬるくなった湯呑のお茶をすすった。
******
藍は目を開いた。だが、まだ閉じたままなのかと錯覚してしまった。
目の前は、先程と同じく真っ暗だった。
「これっていったい……」
どういう状況なのか、まったくわからない。
耳に残っているのは、目を閉じる寸前に僧正坊に言われた言葉のみ。
『太郎の苦しみを、ほんの僅かでも知るがいい』
この暗闇と、太郎の苦しみというのは、いったいどういった繋がりがあるのか。今の状況ではわからない。
ただ、今感じることは、暗くて、重くて、寒い。心が凍えていきそうな感覚だけだ。
「だ、誰かいませんか!?」
叫んだが、声は反響すらしない。見えない霧に吸い込まれていくようだった。だが、手を伸ばすと、藍を取り囲んでいるのは霧ではないことがわかった。
固い。こつこつと叩いてみたが、脆い感じはしない。分厚く、重厚な壁のように感じた。 こんな状況には、不思議と既視感を覚えていた。
「そうだ……朝の、夢……!」
今朝、夢で見たあの真っ暗な空間そのものだと、気付いた。
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