となりの天狗様

真鳥カノ

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四章 鞍馬山の大天狗

十四

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 現代の鞍馬山を登ったことはない藍だったが、それでも、今下っている山道が険しく、人の通る道から外れているだろうことはわかった。おそらく獣道というやつで、鞍馬寺への参拝者はもう少しはマシな道を通ってきているに違いない。この道は、案内を買って出てくれた遮那王のものなのだろう。 
 遮那王は話しながらも、急な斜面や足下が険しいところを注意してくれ、するすると流れるように下っていくのだった。
(さすが、ここを遊び場にしている人は違うなぁ)
 藍だって昔から武道を習って、人並み以上の身体能力が身についていると、天狗のお墨付きを頂いているのだが、それでもこんな稽古……いや修行はしたことがなかった。
(太郎さんや治朗くんは、こういう修行をしていたのか……今度聞いてみよう)
「おーい、遅いぞ」
「ごめんなさい! 今追いつきます!」
 遮那王は、急かす割にはよく待っていてくれる。何故かと思ったが、藍にはすぐにわかった。藍と一緒に歩いている遮那王は、どこか嬉しそうだった。
「お前は、消えないんだな」
「え?」
「さっきも言っただろう。皆、いつの間にか姿を消すんだ。別の暗い場所に閉じ込められたり。でも、お前はそんなことは全くないんだな」
 嬉しそうにはにかむ遮那王の笑みに、藍は胸が痛んだ。
(僧正坊さんが言っていたのは、このことだったんだ)
 遮那王は藍と同じ。身に余る力を持って生まれたせいで、自らの力を持て余している。藍は無差別にあやかしを引き寄せてしまっていたが、この遮那王は違った。
 おそらく、周囲との間に壁を作ってしまうように力が働いていたのだろう。だから自分でも意図せず、どこにいても、誰といても、その繋がりを阻む壁が出来てしまう。
 それゆえに、孤独だったのだ。
(気付いたら誰もいないから、自分から誰かを求めることもなくなって……だから、結界の向こう側に誰かがいてくれるって信じることを知らないんだ)
 藍の場合は、既にいた・・。だが、この遮那王にはいないのかもしれない。幼い内に同じことを経験していれば、藍も同様に思ったかもしれないのだ。
 そして、藍は思い至った。あの重く寒い真っ暗闇を、太郎も経験していたのだろうかと。そして、遮那王同様、向こう側に誰もいてくれなかったのだろうかと。
(きっと、その誰か・・が姫だったんだ)
 そう、思っていたその時、ふいに前を歩く遮那王が立ち止まった。ふと見ると、目の前には人里がある。村や田畑があり、大きな神社があった。不思議と、人影はなかったが。
「ここから先に行けば、きっと家族に会えるぞ」
「あ、ありがとうございます」
 藍はぺこりとお辞儀をしたが、繋いでいた手が離れようとしないことに気付いた。
「また……来るか?」
 藍を見上げる遮那王の瞳が、ほんのり潤んでいた。この手を離したら、文字通り今生の別れになる。
 だからといって、このまま手を取り続けるわけにはいかない。藍の会いたい人はこの結界の外にいる。遮那王の求める人もまた、本来別にいるのだ。
 藍は、ゆっくりと遮那王の手から自分の手を引き抜いた。
「ごめんね。私は、もう来られないの」
「そう、なのか」
 傷ついたような遮那王の瞳に、胸が痛んだ。だが今かけるべき言葉は、うわべだけ取り繕ったものであってはいけない。そう、思った。
「あなたは、いつかきっと、お兄さんたちに会える。絶対に」
「またそれか……それはいったいいつの話だ? 明日か? 一月後か? それとも何年も後か?」
「……何年後だったかな……えーと、今が何年で、源氏の挙兵が何年て言ってたっけ……?」
 せめて和暦のままでも覚えていれば良かったと、藍は今更ながらに深く反省した。
「た、たぶん何年か後! 時間はかかるけど、絶対そうなるから! 信じて」
 藍が強くそう言っても、遮那王の目はじっとりと懐疑的だった。当然だろうが。
 だがため息交じりにくるりと踵を返しながら、言った。
「わかった。そう言っていたことだけは、覚えておく」
「うん。そうすればきっと、一人になることはもうないから」
 去り際、遮那王は小さく笑っていた。
(良かった、寂しそうな顔がちょっとでも消えて。僧正坊さんの授業が役に立ったんだ。戻ったら、お礼を言おう……!)
 そう、思った瞬間、藍の目の前が急に暗闇によって遮られた。森の木々が、人里の風景が、去りゆく遮那王の姿が、すべて真っ黒に塗りつぶされていく。
 本当に、お別れの時が来たのだと、悟った。

 すると、今度は別の音が聞こえた。凜として、澄みきった、鈴の音だ。
 音の聞こえた方へと、藍は我知らず手を伸ばした。

******

「それでも、また来たら今度は……」
 振り返った遮那王の前には、誰もいなかった。また、突然姿を消してしまった。
「……いや、違うか」
 不思議と、今までとは違うのだと思った。
 あの奇妙な格好をした女は、鞍馬山の毘沙門天の遣いなのだろうか。だから、還って行ったのか、と。
「源氏の挙兵と言っていたが……まさか、そんな……な」
 遮那王は奇妙な女の奇妙な言葉を笑い飛ばしながら、再び山道を登った。
 史実では、この後に頼朝が関東で挙兵し、世に言う源平争乱が勃発する。だがそれは数年後。今は未だ、平清盛が健在であり、平家が権勢を誇る世だった。
 見知らぬ女が告げた馬鹿げているほどの壮大な言葉は、若き遮那王の心を、いずれ来る戦いに向けて、一歩、突き動かした。
 あくまで、史実の遮那王では、ないのだけれど。
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