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五章 天狗様、奔る
四
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「さて、これでお嬢もちょっとは気が紛れるかな」
元気よく駆けていった後ろ姿を見送り、三郎は呟いた。管狐たちもいなくなった部屋の中は、しんと静まりかえっていた。
三郎は特に賑やかな空気を好むわけではないが、こうも急に静かになると、さすがに物寂しいと感じていた。
「早く目ぇ覚ましてくれねえかな。一時的に気を消耗しすぎただけなんだから、もうそろそろ回復するだろに」
いつもなら、飄々とした顔でチクリと嫌みを言われる。藍に見せる親切な顔が嘘であるかのように、三郎たちには冷徹なのだ。この、太郎という男は。
冷徹ではあるが、有能で、心の底には誰よりも熱く深い愛が眠っている。それがわかっているから、三郎は………いや、他の天狗たちも、太郎を憎めないでいる。
そんな関係が、千年ほど続いていたのだが、この数ヶ月ほどで、変わった。
「正直、俺も他の奴らと同様、お前は馬鹿だと思っていたよ。叶う訳のない願いを千年もの間ずっと抱き続けて、本当に叶えちまったのかと思ったら相手は何も覚えてなくて、しかも好意も持たれてない。それでも、諦めてないなんてな……とっとと忘れちまえばいいって思ったもんだが、あの顔を見ちまうとなぁ」
最初は、三郎も藍にそれほど良い印象を抱いていたわけではなかった。待ち続けていた太郎を袖にする酷い女だと、そう思っていた。
だが今、三郎の脳裏に、藍の様々な顔が思い浮かんでいた。初めて会った時の呆けた顔、管狐たちに親切にする顔、彼女らを必死に探す顔、太郎を案じて憔悴した顔……万華鏡のように表情がくるくる変わる。
「少なくとも、暗い顔だけはさせたくないって思っちまったなぁ……参った」
不思議と、太郎が頷いたように見えた。身動き一つしていないが、そんな気がした。
「美味いメシを作って戻って来たときに、太郎が起きていたら……お嬢、どんな顔をするかな」
三郎はそう言うと、そっと布団をめくり、太郎の腕を掴んだ。
******
「さて、何を作ろうかな」
エプロンをかけて、袖をまくった藍は冷蔵庫を開けた。中には食材がぎっしり詰まっている。太郎がいつも管理していたおかげで、冷蔵が空になることなどない。大所帯で料理を作っていた時の癖だと太郎は言っていた。
もう少し自重するとも言っていたのだが、こういう時には助かる。
「あ、狐ちゃんたちならお菓子の方が喜ぶのかな。でもやっぱり、まずはご飯かな。お米炊かないと……」
米びつを引っ張り出し、他の調味料などを見回して、はたと気付いた。位置が、少しずつ変わっている。
三月までは、藍と優子が使いやすい並びになっていたのに、今は少し違う。お山でたくさんの天狗たちの賄いを作っていた太郎がやりやすい導線に変わっていた。たった一月ほどで。三日間、太郎が何も触れていなくても、藍にとって違和感を感じるような台所になった。
「すっかり太郎さんの台所になっちゃったんだなぁ」
これまでずっと、優子と二人で頑張ってきた。そこに急に入り込んできた太郎という存在に戸惑った。ほんの少し、嫌悪してしまったこともあった。
だが今では、太郎の料理が懐かしく思えた。彼がコロコロとめまぐるしく調理しているところを早く見たいと、思っていた。
そして、もう一つーー。
「今度こそ、私の料理も食べて貰いたいな」
この料理を作り終える頃には、目を覚ましているだろうか。淡い期待が胸に湧いた。
メニューの一つは、おにぎりにしよう。そう思い、米びつの蓋を開けた。
その時、ふと勝手口の方に目を向けた。
音がしたわけでもない、何か見えたわけでもない。ただ、どういうわけか、戸の向こうに何かを感じたのだった。
その”何か”という直感を無視してはいけない。そう思い、藍は勝手口から外に出た。勝手口を出ると、そこは庭になっている。隣にある居間の縁側や、その向こうにある離れがすべて見える。
庭の中央には、ぽつんと松の木が植わっている。亡くなった祖父が植えたものだ。それらはすべて見慣れたいつも通りの庭の風景だが、ひとつだけ、見慣れないものが紛れ込んでいた。
「あなた……!」
藍の声に、それはピクリと反応した。くるりと振り返ったその姿は、藍の想像したとおりだった。
藍の目の前で子猫を救い、ハンカチを返しに来た、あの大きな猪だった。
元気よく駆けていった後ろ姿を見送り、三郎は呟いた。管狐たちもいなくなった部屋の中は、しんと静まりかえっていた。
三郎は特に賑やかな空気を好むわけではないが、こうも急に静かになると、さすがに物寂しいと感じていた。
「早く目ぇ覚ましてくれねえかな。一時的に気を消耗しすぎただけなんだから、もうそろそろ回復するだろに」
いつもなら、飄々とした顔でチクリと嫌みを言われる。藍に見せる親切な顔が嘘であるかのように、三郎たちには冷徹なのだ。この、太郎という男は。
冷徹ではあるが、有能で、心の底には誰よりも熱く深い愛が眠っている。それがわかっているから、三郎は………いや、他の天狗たちも、太郎を憎めないでいる。
そんな関係が、千年ほど続いていたのだが、この数ヶ月ほどで、変わった。
「正直、俺も他の奴らと同様、お前は馬鹿だと思っていたよ。叶う訳のない願いを千年もの間ずっと抱き続けて、本当に叶えちまったのかと思ったら相手は何も覚えてなくて、しかも好意も持たれてない。それでも、諦めてないなんてな……とっとと忘れちまえばいいって思ったもんだが、あの顔を見ちまうとなぁ」
最初は、三郎も藍にそれほど良い印象を抱いていたわけではなかった。待ち続けていた太郎を袖にする酷い女だと、そう思っていた。
だが今、三郎の脳裏に、藍の様々な顔が思い浮かんでいた。初めて会った時の呆けた顔、管狐たちに親切にする顔、彼女らを必死に探す顔、太郎を案じて憔悴した顔……万華鏡のように表情がくるくる変わる。
「少なくとも、暗い顔だけはさせたくないって思っちまったなぁ……参った」
不思議と、太郎が頷いたように見えた。身動き一つしていないが、そんな気がした。
「美味いメシを作って戻って来たときに、太郎が起きていたら……お嬢、どんな顔をするかな」
三郎はそう言うと、そっと布団をめくり、太郎の腕を掴んだ。
******
「さて、何を作ろうかな」
エプロンをかけて、袖をまくった藍は冷蔵庫を開けた。中には食材がぎっしり詰まっている。太郎がいつも管理していたおかげで、冷蔵が空になることなどない。大所帯で料理を作っていた時の癖だと太郎は言っていた。
もう少し自重するとも言っていたのだが、こういう時には助かる。
「あ、狐ちゃんたちならお菓子の方が喜ぶのかな。でもやっぱり、まずはご飯かな。お米炊かないと……」
米びつを引っ張り出し、他の調味料などを見回して、はたと気付いた。位置が、少しずつ変わっている。
三月までは、藍と優子が使いやすい並びになっていたのに、今は少し違う。お山でたくさんの天狗たちの賄いを作っていた太郎がやりやすい導線に変わっていた。たった一月ほどで。三日間、太郎が何も触れていなくても、藍にとって違和感を感じるような台所になった。
「すっかり太郎さんの台所になっちゃったんだなぁ」
これまでずっと、優子と二人で頑張ってきた。そこに急に入り込んできた太郎という存在に戸惑った。ほんの少し、嫌悪してしまったこともあった。
だが今では、太郎の料理が懐かしく思えた。彼がコロコロとめまぐるしく調理しているところを早く見たいと、思っていた。
そして、もう一つーー。
「今度こそ、私の料理も食べて貰いたいな」
この料理を作り終える頃には、目を覚ましているだろうか。淡い期待が胸に湧いた。
メニューの一つは、おにぎりにしよう。そう思い、米びつの蓋を開けた。
その時、ふと勝手口の方に目を向けた。
音がしたわけでもない、何か見えたわけでもない。ただ、どういうわけか、戸の向こうに何かを感じたのだった。
その”何か”という直感を無視してはいけない。そう思い、藍は勝手口から外に出た。勝手口を出ると、そこは庭になっている。隣にある居間の縁側や、その向こうにある離れがすべて見える。
庭の中央には、ぽつんと松の木が植わっている。亡くなった祖父が植えたものだ。それらはすべて見慣れたいつも通りの庭の風景だが、ひとつだけ、見慣れないものが紛れ込んでいた。
「あなた……!」
藍の声に、それはピクリと反応した。くるりと振り返ったその姿は、藍の想像したとおりだった。
藍の目の前で子猫を救い、ハンカチを返しに来た、あの大きな猪だった。
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