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豊潤な郷【23】

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 澪は顔をしかめ「そうではありません。歩澄様は刀を返してくれましたし」と言った。

「そうか……」

 そのまま伊吹は黙って水汲みを行い、終えると澪と共に荷台をもとの場所まで運んだ。家来や民達が水を使えるよう樽を降ろすと、二人は伊吹の自室へと向かった。

 潤った郷ではないとはいえ、統主の自室である。中は広く、豪華な作りであった。伊吹が向かった先にあったのは、やはり葉月である。
 己が鍛刀したものだ。見間違える筈などない。

「……この刀です」

「やはりそうであったか」

「……二千両ですか?」

「ああ。それ以上はまけられぬ」

「どうしてもだめですか?」

「いや……どうしてもと言うのなら、譲ってやらぬこともない」

「ほ、本当ですか!?」

 澪は顔を上げ、目を大きく見開いた。伊吹は視線を反らし「ここで思う存分刀を振るといい」と言った。

「え?」

「潤銘郷に持ち帰ることは許さぬ。翠穣郷にいる限りは好きに使って構わぬ」

 伊吹の言葉は、翠穣郷に留まることを要求していた。自分でも馬鹿げたことを言っているとわかっていた。然れど、少しでも望みがあるのならば賭けてみたいと思ったのだ。

「そ、それでは……潤銘郷に帰る時には持っては行けないということですか?」

「ああ。持って行くのであれば二千両。ここで扱うのならば金はいらぬ」

「ですが……」

「そなたの刀だ。好きなだけ扱うといい。手入れもしてある」

 伊吹はそう言って葉月を手渡した。受け取った澪は、そっと刀を抜き、刃を眺める。皇成が持っていた万浬を見た時のような切なさはなかった。しかし、歩澄の持っていた華月を見た時のような感動もなかった。
 目の前に葉月があるのに持っては帰れぬ喪失感にも似た感情を抱いていた。

 刀を鞘に収めると澪は瞳を揺らした。伊吹であれば快く葉月を返してくれるような気がしていたのだ。歩澄が利き手でようやく振れる華月と対の刀である葉月を伊吹が扱えるとは到底思えなかった。
 使っておらぬのならば譲ってくれてもよさそうなものを、出鱈目な値段を要求する伊吹に澪は不信感を抱き始めていた。

 二千両などという大金はとても払えぬ。かといって、払わなければ潤銘郷には持って帰れぬ。葉月の在処がわかっただけでも収穫があったと思うべきか、と澪は小さく息をついた。

「……仕方がありませんね。大切にして下さっているようですし、私にはそのような大金はとても払えません。今回は諦めます」

 澪は葉月を伊吹に返した。その時の澪の顔といったら、今にも泣き出してしまいそうだった。その表情にはっとし、伊吹は慌てて「け、決して意地悪で言ったわけではない。もう一振りは歩澄から返してもらったのだろう? 澪さえよければその刀をここへ持ってきてこの刀と共に翠穣郷に留まればよいではないか」と言った。

「……翠穣郷に?」

「あ、ああ……。大切な刀なのであろう? ならば、譲ってやる。その代わり、ここにいろ」

「……落様、それはできませんよ? 私は、歩澄様と共に潤銘郷に帰ります。……帰していただけるとお約束しましたよね?」

「ああ。確かにした。その約束は果たそう。歩澄と共に帰りたいのであれば帰るといい。然れど、刀は持たせてやれない」

「……私に、歩澄様か刀かを選べとおっしゃるのですか?」

 澪は、伊吹の言わんとしていることをようやく察し、下唇を噛んだ。
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