上 下
194 / 228

豊潤な郷【42】

しおりを挟む
 初心うぶな反応に、澪は思わず声を上げて笑った。しんみりとした空気が消し飛ぶかのように、明るくなった。
 あの時は生死がかかっており、澪も必死だったのだ。嘔吐物さえも一緒に口に含んだ。ただ、そんな事など気にも止めない程、澪は琥太郎を救いたかった。
 今ではあのか弱さすら感じさせぬ程逞しくありながら、反応はまるで子供のようでその相違が微笑ましくもあった。

「ごめん、ごめん。私もあの時は急いで何とかしなきゃって思ってたから。あ……もしかして初めての接吻だった?」

 それは悪い事をしたと澪は口元を覆って息を止めた。
 琥太郎は更にこれでもかというほど顔を紅潮させた。

「せ、せせせせせ接吻なんて、そんな、そんな……」

 琥太郎はその場に背を向けて踞り、膝に額を押し当てた。五平は必死に笑いを堪え、澪は慌てて「ご、ごめん……そんなに気にするなんて思わなくてっ……本当にごめん」と琥太郎の横に並んでしゃがんだ。

 琥太郎は口元を膝に押し当てたまま、目線だけを上げ、覗き込む澪の眼を捉えた。その刹那、ばっとまた顔を伏せ「き、ききき気に
してません!」と声を張った。

「気にしてるじゃない……」

 そっと背中を擦れば、琥太郎はびくりと体を跳ねさせた。耳から首元まで夕焼けのように真っ赤に染まり、澪の手のひらにもドッドッドっと激しい鼓動が伝わった。

「き、気にしてません!」

「ごめんって……そんなに嫌がるなんて思ってなくて」

 澪は眉を下げ、申し訳ないと顔を伏せた。しかし琥太郎は、ばっと顔を上げ「い、嫌だなんて思ってません! 寧ろ、姫様なら全然っ……」と声を上げたが途中ではっと我に返り、下唇をぐっと噛み、口を噤んだ。

 澪はきょとんと目を瞬かせると、ふっと笑みを溢し「嫌でないならよかった」と言った。

 琥太郎が羞恥心に耐えている内に、辺りが騒がしくなった。遠くでバタバタと足音が聞こえたのだ。

「あ……歩澄様かもしれない」

 顔を上げた澪は城門の方角へ目を向けた。五平も同じように目を向けると「行って来いよ。俺たちは汗を流して身なりを整えてから出迎える」と言った。

 澪は強く頷き「ごめん、先に行く!」そう言って立ち上がると、直ぐに駆けていった。
 その後ろ姿を見送った五平は、立ったまま琥太郎を見下ろし「おい……お前、澪に惚れてるだろ」と言った。

 琥太郎は今にも泣き出しそうな顔を上げ、「ち、違いますよう……」とか細い声で言った。

「嘘をつけ。どんなに俺が鈍感でもわかるぞ」

「ち、違いますってば! ぼ、僕は……側にいられるだけで満足なんです。……姫様が嬉しそうに笑っていてくれるだけで僕は幸せなんです……」

「ばーか。惚れてんじゃねぇか」

 ざっと勢いよくその場にしゃがみ込んだ五平は、ぎゅっと琥太郎の鼻を摘まむ。

「んーーーっ!?」

 驚いた琥太郎は目を見開き、涙を浮かべる。声にならない声を上げ、五平の腕をパシパシと叩いた。

「歩澄様に知られたら事だぞ。絶対悟られるなよ」

 ぱっと五平が手を離すと、琥太郎は鼻を両手で押さえながら「わ、わかってますよ! 歩澄様は勘が鋭いから、僕も極力姫様には近付かないように……」と途中まで言って、はっと墓穴を掘った事に気付いた。
 またその場に踞り、声にならない声を圧し殺した。
 五平は肩をすくめ、大きな溜め息をつくと「わかったからもう立て。瑛梓様も梓月様も帰ってきたはずだ。俺達が出迎えないわけにはいかない」そう言って琥太郎の腕を掴んで立ち上がらせた。

 琥太郎は、己の両頬を手で二度叩くと「頭を冷やしてから行きます」と言った。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

きむらななの波乱万丈な日々

エッセイ・ノンフィクション / 連載中 24h.ポイント:1,029pt お気に入り:0

家飲み?宅飲み?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:362pt お気に入り:6

【R18】落ちた時から運の尽き

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,263pt お気に入り:41

平凡OLとイケメンドクター 

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1,388

飽き性

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:816pt お気に入り:0

純白のドレスを脱ぎ捨てて

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,001pt お気に入り:21

7人のイケメン兄弟に、求愛されて眠れません。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:248pt お気に入り:104

新しい母娘の在り方

恋愛 / 完結 24h.ポイント:646pt お気に入り:15

処理中です...