西翼の鴉~神は沈黙したもう~

雨丹 釉

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一章 聖典楽師

1話

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 昨晩の大風で、〝リィンの竪琴〟の弦が切れてしまった。朝方になってそのことに気がついたのは、まさにその失態を犯した者たちだった。

「どうする、俺たちじゃ修理できないぞ」
「師の誰かに頼まないと……」

 少年たちが掃除中を装いつつ、こそこそと通路の隅で顔をつきあわせている。そこにひとりの男が靴音高く通りかかったので、彼らは蒼い顔になって物陰に引っ込んだ。彼らにとってその者は厳格で気難しい監督者であったので、特に今は見咎められたくなかったのだ。
 男は少年たちの横を通り過ぎながら、ひときわ大きな咳払いをした。その声に少年たちはうっと首をすくめる。

「あれはもうばれてる。どうしよう」
「あ、ミィラス師のへやに行ったみたいだぞ」

 男が立ち止まった場所を見て、彼らは少しだけほっとした。その師は少年たちにとってはまだ親しみやすい者であったからだ。他の師であったらならば、拳骨のひとつでも食らうかもしれなかったが、ともかくその心配はなくなった。

 ここは聖ドリード教団の総本山、通称〝大聖堂〟である。唯一にして全能の神〝ドリード神〟を崇めるこの国においては、重要な信仰の中心地であった。
 この場所には大きな本堂の他に、四つの高い塔が存在していた。それぞれ名がついており、このように呼ばれている。

〝竪琴の塔〟〝笛の塔〟〝太鼓の塔〟〝踊り子の塔〟

 これら塔の屋根上には、象徴と呼ぶべき像が掲げられており、〝竪琴の塔〟の上には〝リィンの竪琴〟という巨大な楽器が鎮座する。
 これには実際に弦が張られていて、まさに楽器なのである。
 ゆえに、悪天候や夜間には、備え付けられた滑車を使って屋内に格納することになっているのだが、昨日の当番班──先ほどの少年たちである──が失念し、そのまま誰も気づかなかった。その結果、十本の弦のうち三本が強風で切れてしまった──というのが顛末だった。

      * * *

 ドンドンと扉を叩く音に、ミィラスは跳ね起きた。朝焼けに似た緋色の髪はくしゃりと乱れ、孔雀色の瞳には眠気が漂っている。さきほどまで見ていた夢はおぼろに消え去り、そのかわりにかすんだ視界には夜明けの仄明るい光が差し込んだ。
 まだ本来の起床には早い時間だが。
 ミィラスはそう思ったが、だからこそ無遠慮に扉を叩く者はひとりしかいない、とも思い至った。
 彼は寝具をさっと押しやると、軽く伸びをして身体をほぐしてから、へやの扉を開けた。

「おはよう、ミィラス」

 薄暗い通路に立っていたのはやはり、〝竪琴の塔〟の監督であるカトゥス塔長だった。

「おはようございます、塔長」

 ミィラスは挨拶したが、このとっつきにくい塔長が、はたして早朝に何の用かと身構える。それは相手からもたらされる内容に対してではなく、これから話されるであろう言葉への読解に対してであった。彼は注意深く「どうしましたか?」と尋ねた。

「〝リィンの竪琴〟の弦が切れた。昨晩の悪天候だな」

 そう塔長が口を開く。
 ミィラスは〝リィンの竪琴〟という予想外の単語に、おやと思った。

「昨日の当番班は見習いの者だった。今日も別の見習い班だ」
「ええ、そうですね」

 ミィラスは頷いた。
 そのあと塔長は、〝リィンの竪琴〟はこの塔の象徴であり、いかに我々にとって重要なものかということを長々と述べ始めた。その回りくどい言い方は、好意的に解釈するならば婉曲丁寧である。しかし実際のところ多くの者は彼に対し「さっさと本題を言え」と、口には出さずとも思っていた。

 最近の見習いたちはたるんでいるのではないか──日々の修行のみならず生活態度は──リィンの竪琴は見習い期間のうちに触れられる唯一の楽器であるからして貴重な学びの機会を──他の塔では滞りなく昨日のうちに当番の者が格納を済ませていたが──誇りある竪琴の塔の立場としては──云々。

 ミィラスは徐々に塔長の言いたいことを理解した。つまり、竪琴の修繕は見習いの者には荷が重いので、ミィラスがその仕事を請け負うべきである、さらには他の塔の者に馬鹿にされぬよう完璧に仕上げろということだ。

「午前のうちには終わらせます」

 ミィラスの言葉に、塔長は満足したようだ。

「切れたのは二番、五番、七番の弦だ」と言い置いて、通路を下って行く。その後ろ姿を見送っていると、物陰から見習い少年たちがこわごわとこちらを窺っているのに気がついた。

「あのう……」

 塔長が去ったのを確認し、見習い少年たちが忍び足で駆け寄ってくる。

「ごめんなさい、ミィラス師。俺たちが当番を怠ったせいで……」

 彼らは手に持った箒や雑巾をもじもじといじりながら、自分たちのやらかしに巻き添えを食ったミィラスに頭を下げた。
 ミィラスはしょげきった彼らの様子に、淡々とした口調で、しかし顔は微笑みながら言った。

「次からは忘れないように気をつけなさい。あの様子だとカトゥス塔長から罰則もあるだろうから、掃除は早めに切り上げてよろしい」
「はい……」

 少年たちはげんなりとうなだれた。
 各塔長によって課す罰則は様々だったが、カトゥス塔長の場合は決まって教本の内容を延々と書き写す、恐ろしく退屈な作業なのである。それも長時間に及ぶあまり、書き写すうちにペンを握る手の感覚も、時間の感覚もなくなってくるという。
 ミィラスは軽く眉を上げて、「ちなみに私のときは」と言った。

「班のみんなでこっそり書き写し紙を貯めておいて、罰則者が出た際に有効活用していた」

 少年たちが「なるほどその手が」という顔をしたところで、ミィラスは身支度のためにへやの扉を閉める。
 件の〝リィンの竪琴〟はとても大きく、人の背丈ほどもある。だから長くて特別な弦が必要で、調達するには都度、街の工房に赴かなければならない。

 ミィラスは顔を洗い、服を着替え、髪に櫛を通した。そうして身なりを整えると、彼は大変さっぱりした青年である。「師」とは呼ばれるが、塔の中ではかなりの若年だ。
 最後に、彼は桑の木で作った竪琴を小脇に携え、へやを出る。階段を掃除している別班の見習い少年たちの間を抜け、外に向かった。

 門を出て後ろを振り返ると、高くそびえる四つの塔の屋根瓦が、朝日を受けてきらきらと輝いていた。聖ドリード教団は、カミル香国の王都に本拠を構えており、この立派な大聖堂は古《いにしえ》の時代に、民たちがみずから石材やレンガを運び、建立したものであった。はじめは本堂のみであったが、のちの時代に四つの塔が建てられた。ミィラスはそのうち〝竪琴の塔〟にへやを賜っている〝聖典楽師〟のひとりなのだった。

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