西翼の鴉~神は沈黙したもう~

雨丹 釉

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一章 聖典楽師

4話

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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《エヌス司祭長》
聖ドリード教団の最高指導者



 室内には古い紙と蝋の匂いが充満していた。エヌス司祭長は正面にしつらえられた執務机で、ミィラスを待ち受けていた。

「掛けなさい」

 彼は机の真向かいに置かれた椅子を示した。ミィラスは言われたとおりに腰掛ける。ギシリと椅子がきしんだ音をたてた。

「〝リィンの竪琴〟の件は、ご苦労であった」

 司祭長が穏やかに口を開いた。白髭をたくわえたこの老人は、実はまだそれほど老いてはいないはずだが、実際の年齢よりやや老けて見える。彼は灰色の瞳でじっとミィラスを見つめた。

「さて、そなたを呼んだのは、あることを頼みたいからでな。と、その前に」

 司祭長は机の抽斗から、一通の書状を取り出した。

「そなたに手紙が届いている」

 ミィラスはまばたきした。

「私に手紙が。父母からでしょうか」
「そなたの御母堂の夫君からだ」

 その言葉にミィラスは戸惑い、問うような視線を司祭長に向けた。
 見習いとして教団に入って以来、取り決め通り、家族とは会っていない。俗世との繋がりを絶つことで、修行に専念するためである。
 だが年に一度の手紙のやりとりは許されていた。見習い期間など未熟なうちは厳しい修行の慰めに。もしそれで里心がついてしまったなら、教団にいるべきではない。
 正式に神職となり、ある程度の期間が経ったのちは、家族と会うことも許されるが、多くの者はそうしない。手紙を唯一の繋がりにしたまま、揺らがぬ心を養うのである。

「私の母の、夫、とは。父は?」

 困惑するミィラスに、司祭長は告げる。

「そなたの御尊父は、半年前に病で亡くなった。御母堂は大変な衝撃を受けられ、身体を壊してしまわれた。見かねた御尊父の友人が、御母堂を引き取ったようだな。それが便宜上、今の夫君だ」

 渡された手紙の差出人は、ミィラスの師でもあった。文面に目を通したが、にわかに告げられた内容が衝撃的だったため、ほとんど頭に入ってこない。だが、記されている内容の多くは、師から弟子への謝罪であるということは分かった。
 しばしの沈黙。
 ミィラスは手紙を折りたたんで懐にしまう。

「それで、私をお呼びになったのは、どのようなご用向きでしょうか」

 司祭長は探るようにミィラスの双眸を見つめていた。
 彼の深い孔雀色の瞳のなか、平らかに鎮められた精神の間に、ほんの僅かなさざ波が揺らいでいる。
 司祭長が気づかないはずはなかったが、彼はあえて何も言わず本題に入った。

「《西翼領》に赴き、ベトラ・スーム選王侯に会って欲しいのだ」
「選王候……」

 ここ、カミル香国には、四人の〝選王候〟がいる。
 文字通りこの国の統治者を選ぶ選挙権を行使できる諸侯のことである。この国は王政であったが、王家の血を継ぐ者には平等に、序列のない即位権があった。ゆえに、先王の子が即位するとは限らず、選挙で選ばれた者が玉座につく。

 選王候らの支持を得て即位したヴァスディ王は、大叔父であった先王の治世十九年を越えて、じきに治世二十年を迎える。さらに、今年はこの国の「改号百年」の年でもあった。王家にとっても、選王候らにとっても重要な節目である。

 王国が国号を「香国」と改めたのは、五代前のノアル王、晩年のことである。
 すでに国教として長い歴史を刻んでいたドリード教、その総本山である聖ドリード教団、当時の司祭長の発言がきっかけとなったのだ。

 いわく、「次代の王は、選王侯による選定のみならず、教団の『承認』を受けるべきである」と。

 その司祭長にしてみれば、世の安寧のために、君主に更なる神の威光を授けるのは当然のことであった。
 だがノアル王は「威光の濫用である」と大変立腹したという。
 よもや王に叱責を受けるとは思わず、教団の態度は硬化し、王家との関係に亀裂が生じた。なまじ教団の影響力が大きかっただけに、王家の血筋者には教団側につく者もおり、政争一歩手前にまで発展してしまったのだ。

 それまで王は即位に際して、教団からドリード神の「祝福」を受けるならわしであった。もしこのまま関係が悪化し、次王が「祝福」を受けられないとなれば、民草に王の権威失墜を知らしめることになる。だが教団の意向をそのまま飲むのでは、それこそ傀儡王家の誹りを受けるかもしれなかった。

 そこでノアル王は、外部へ目を向けた。
 翌年、王は、大陸随一とうたわれる帝国、朱瑠アケルへ使者を送った。かの国はすでに周辺国とゆるやかな同盟関係を結んでおり、各国の統治者に称号を与えることで、互いの権力や交易路を共有していた。
 使者は皇帝の前にひざまずき、貢ぎ物とともに親書を奏上した。
 朱瑠アケル皇帝は申し出を受けて、「カミル香国」という国号と「香国王」という称号を与え、ノアル王とその後継者を正当な統治者と認める勅書を授けた。

 ノアル王とて、他国を盟主とする同盟へ加わることへの抵抗は、大いにあったに違いない。しかし、朱瑠アケルの築く諸国連合に加わることは、朱瑠アケルや周辺国から、正式な王としての承認を得られることを意味していた。また新たな交易路を得たことで、経済が発展する一因にもなった。
 ノアル王のもとには、周辺諸国から豪華な祝いの品物が献上され、国庫を潤したという。

 当然、聖ドリード教団は猛然と抗議した。しかし、大帝国と一介の教団では、権威の差は明らかであった。教団は引き下がるしかなかった。
 だが、ノアル王は教団へも一定の配慮を示した。王を選ぶ選王侯は、敬虔なドリード神の信徒であるべしと定めたのである。このことによって、教団は王の選定にある程度の影響力を持つことができ、面目は保たれたといえよう。

「あくまでも噂であるが」

 エヌス司祭長は重々しい口調で語った。

「ベトラ・スーム選王侯は辺境から妻を迎えたのだが、この夫人を改宗させぬばかりか、夫人が奉る異教の神へ、おのれの信仰心を捧げようとしているという」

 司祭長の目が、じっと燭台の炎のゆらぎを見つめている。ミィラスもつられて炎を見たが、どちらかというと膝に置いた竪琴の重さのほうに気を取られていた。

「つまり……」とミィラスは口を開く。

「その噂の真偽を確かめ、必要があれば選王侯の信仰心を呼び戻し、夫人をドリード神の信徒にせよということですね」

 エヌス司祭長は炎を見つめたまま「そうだ」と言った。
 ミィラスは燭台から己の竪琴に視線を移し、じっと考える。そして顔を上げると、司祭長に向かって頷いた。

「分かりました。とにかく、赴いてみましょう」

 その返答を聞いて、司祭長は表情を緩めた。

「ところで、西翼領に向かう前に、父の弔いに行ってもよろしいでしょうか。憂いは払っておきたいのです」

 ミィラスの言葉に、司祭長は「よろしい」と頷いた。

「ひとつ、お尋ねします」
 ミィラスは言う。

「ベトラ・スーム侯のような立派な方にお会いするのに、私のような若輩者をお選びになったのは、なぜでしょうか。他に適任な諸先輩方がいらっしゃるのでは」

「そなたの資質を見込んでのことだ」

 エヌス司祭長は、机の上で指を組んだ。

「我々が受け継いできた〝力ある言葉〟は、清らかな精神と一途な信仰心があって、初めて力を持つもの。そなたが教団へ預けられてから、今日にいたるまで見守ってきたが、そなたは実に謙虚で、ドリード神の教えを忠実に守り、他の若い神職たちの手本となってきた」

「それは、先輩方のご指導あってのものです」とミィラスは言った。

 青年の態度にエヌス司祭長は微笑みつつも、「だがそれだけではない」と続ける。

「ベトラ・スーム候は新進気鋭の政治家で、先進的な考えを持つ。ならば年かさの者より、そなたのほうが彼を理解しやすく、柔軟に対応できるはずだ。そういった者になら、候も心を開き、耳を貸すだろう。そなたは誠実に、ドリード神への信仰を説けばよい」

 ミィラスが遠方に派遣されるのは、実はこれが初めてであった。他の聖典楽師は時折地方に派遣され、小聖堂での務めであったり、遊説などを行ってきた。しかしそれがミィラスになかったのは、単純に若すぎるのが理由であった。聖典楽師が派遣されてくるとなれば、いかに風格のある神職だろうかと、派遣先ではかなり気合いを入れて待ち構えるのが普通である。これが二十歳を幾分過ぎたくらいの若造となれば、相手にとっては肩すかしも良いところだ。そう考えれば、あのサムシィでさえ、実はかなり若い部類なのだ。

 その代わり、ミィラスは貧民への慈善活動や、見習い少年たちへの講義、写本作業などに従事することが多かった。とくに彼は筆記が早く書体も美しかったため、少年たちに支給する教本も自ら作成していた。まさに適材適所と言えよう。
 とはいえ、彼は諸先輩と同様に、外で己の修練を果たしたいと思っていたのも事実である。
 今回の指令は突然だったが、彼の望むものであった。
 エヌス司祭長は穏やかな、しかし厳しい目でミィラスを見る。

「もし、ベトラ・スーム選王侯の異心が明らかになり、改心もできぬとあれば、王に侯への処罰を進言せねばならない。そのときはそなたの証言が肝となる。そのことを心に留めておくように」

「分かりました」

 ミィラスは首肯し、旅支度のため退出の意を告げた。
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